〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

講座「『摂大乗論』全講義」第三回目 その1

2017-12-18 | サングラハ教育・心理研究所関係
12/17日曜日開催の岡野守也先生の『摂大乗論』講座について、復習を兼ねてシェアリングのためご報告したい。

 年末とあって受講者に欠席が多かったのは残念だあったが、きわめて充実した内容であったと感じた。講師はいつものように謙虚に語っておられるが、こうした仏教講座はまず他にないのではないかと思う。
 言うまでもないが、こう書いている筆者は、聞いたことのメモをもとに書いているだけで、全くその境地にあるわけではない。その目線からではあるものの、ぜひ多くの人に参加していただきたい内容だと今回も思った。

 今回は『摂大乗論』第一章冒頭の、マナ識の洞察を述べた、今後語られる全体の根幹にかかわる部分として、唯識のエッセンス理解に欠かせない箇所であるとのこと。
 ここでは、まだ唯識を勉強されている方にはおなじみの「マナ識」が、概念としてはアーラヤ識から分離していない段階の「意=マナス」と捉えたアサンガの思想が語られているが、マナ識の問題性への洞察としてはすでに極めて深いことが『摂大乗論』では語られている。

 また、マナ識と同じことが「独行無明」、つまり常時意思とは独立して働いている自他実体視という言葉で表現されており、それが私たちの心に存在することを、論拠を挙げて証明していく。
 この用語には、マナ識というのとも違う、われわれの存在の根底にある無明というどうにもならないと見える問題性を鋭く抉り出しているようで迫力がある。

 なお、こうしたいわばマナ識の存在証明のため、ある種苦しい説明も見受けられる個所だが、おそらくアサンガが思索をそのまま文章にしたというテキストの性格による粗削りであることが読み取れるとのこと。

 現在愚かな指導者(彼の言動はまさに自我にこだわるマナ識そのものだ)が再燃させたエルサレム問題に典型が見られるように、人のアイデンティティ形成にはこうした根本的な問題点がある。
 人が強く生きるためには確固として揺るぐことのないアイデンティティが必要だが、しかし神話を信じ込む形の硬直したアイデンティティは争いをもたらす。ここに難問がある。

 こうしてアサンガがマナスの問題として明らかにしているように、現代にこそ、確固としていながら、開かれて柔軟性のあるアイデンティティ形成の必要となっている、とのことである。実際そのとおりであると思う。
 そのことは、同じ研究所の土曜のコスモロジーセラピーで取り上げられている内容である。この視点からすれば、現代科学のコスモロジーとは、現代の方便=最先端の実用思想と言うべきものとなるであろう。

 なお、これは講義の内容ではないが、日本語特有の主語・目的語の省略によって、西洋語と比べて日本人には分別の緩さがあり、それは単純に省略が生じる頻度から考えて、相当なものではないかと思われる。
 私たちも自他をはっきり分別しているのは間違いない。日本語の省略の文法をみると、それは正確には省略というよりも、文脈・関係による「暗示」という形を取っていることが分かる。つまり、分別の様態が西欧近代の基準とかなり異なっている可能性がある。
 これはマナ識形成ということで筆者が連想したことにすぎない。その点については本講座とは別に書いていきたいと思う。

(続く)

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