週末つれづれ草子(2007年10月28日)
昨日、町の老人会の運動会に参加しました。
準備体操をして、愕然としました。
体がかたくなっているのです。
毎日、何かの運動をせねばならないと思いました。
できるかどうかは別問題。
そういえば、ウォーキングをしている人を多く見かけます。
以前は、ジョキングでしたが、いまはウォーキングが主流です。
さらに、犬に散歩をさせている人が多いのには驚きです。
ウォーキングを兼ねているのでしょう。
犬の散歩をしている人には高齢者が圧倒的に多いのです。
核家族になり、高齢者家庭が子供代わりに犬を飼っているということでしょう。
最近、ウォーキングに換えて、自転車に乗ってそこここを回っているカップルを見かけます。
自転車こぎがよいという情報があります。情報に過敏な夫婦がウォーキングに換えてやりだしたようです。はたして、ウォーキングに代わって自転車乗りが主流になるでしょうか?
人は情報に弱いですね。
これがいいとの情報が流れればこれに殺到し、あれがいいとの情報が流れれば、あれに殺到する始末です。
報道やコマーシャルメッセージに簡単になびく人々。
情報氾濫の世の中にいるわれわれは、情報に対して本当かしら?と思い、よく考えてみるようにならないと、とんでもない世の中になっていくのではないでしょうか。特にメディアの情報には、見極めがひつようでしょう。
今のマスメディアは鈍刀になっていますね。もっと鋭いメスを入れてもらいたいものです。今週、本来メディアがあぶりだすべきことが、一般人の働きによってあぶりだされたことがありましたね。
肝炎騒動。
一般人(被害者)が困難な秘匿情報をよくあぶりだしたものだと、その必死な思いが伝わってきます。メディアが秘匿情報を捉えずに、一般人が捉えた秘匿情報をマスメディアが追っているのですから、話はあべこべですよね。メディアが問題意識と嗅覚を麻痺させているのでしょうかね。記者クラブだ、番記者だとか本来追及すべき相手に馴らされているから?
かきたててちょうだい。闘争心。
夏の間の活動を終えた動物たちの証を見かけます。
我が家の玄関先の石垣には蛇の成長の証を示す抜け殻がありました(写真添付)。財布に入れておけば金が貯まるよ、とい言った人がいますが、ちょっとやる気にはなりませんね。
植木の陰に作られたスズメバチの空になった巣(写真添付)。これはだいぶ小型です。大きいものは、ラグビーボールほどあります。蜂には、刺されてショック死するケースがありますので、注意しないといけません。もうだいぶ前ですが、我が家の斜め前の家のおばあさんが墓掃除をしていて蜂に刺され命を落されたことがありました。
お釈迦様の掌
~1868年(慶応4年明治元年)その14~
ロシアは、近代の日本外交にとっては最重要国のひとつでした。
いや、今でもそうです。
ロシアは早くから北方領土に何回となくきていますし、日本への関心を強めています。ロシアが日本に接近しだしたのは、記録の上では1730年代で、本格的に日本にアプローチをかけてきたのは、1770年代にはいってからのようです。ロシア船の漂着とか蝦夷への接近などがあったのですが、日本への関心は、なんと言っても、日本人のロシア漂着が引き金になったといえましょう。
サンクト・ペテルブルク。
ソ連時代レニングラードと称されましたが、ロシアとなって旧名に復しました。
今をときめく、ロシアの古都にして産業都市、そしてプーチン大統領の育った都市。トヨタを初めとする少なからぬ日本企業がこの都市で活動を始めています。この都市の大学内で日本語学科がある、と聞きました。創設は、なんと1705年の日本人学習所とのこと。日本人漂流民がその開祖。1760年代にはイルクーツクに日本語学校が開設されました。あの伊勢の神昌丸が漂流して船頭の大黒屋光太夫らがロシアに保護されたのは天明2年(1783)のことでした。船乗りの一部(庄蔵や新蔵)はそのまま帰化して、この日本語学校で教えたということです。ドイツ人ハインリヒ・ユリウス・クラプロートはここで日本語を学び、「日独辞書」を編んだり、林子平の「三国通覧図会」を仏訳したといいます。ドイツ人がなぜ仏訳したのですかね。
寛政4年( )、アダム・キロリヴィチ・ラクスマンがエカテリーナ号で根室に来航しました。大黒屋光太夫らを送り返しに来たのですが、それをきっかけに通商を求めたといいます。
このようなロシアの接近に対し、江戸幕府は北方におけるロシアの脅威を意識し、北方探索と北方防備を急ぎました。間宮林蔵が北方を巡視し、最上徳内などに蝦夷地探索を行わせています。
そして、長らく国後・択捉や樺太、はては千島列島を巡ってロシアとのせめぎあいを続けたのです。
ロシアが交易を求めてきたのは、このように欧米列強の中ではずば抜けて早かったのですが、腰をすえて取り組んだのも早かったのです。嘉永6年6月3日(1853年7月8日)にアメリカのペリーが4隻の軍艦で浦賀に来航した2ヵ月後の嘉永6年8月17日にロシアのプチャーチン率いる4隻の艦船が長崎に来航しました。プチャーチンが浦賀や江戸前に来航せず長崎に来たのは、プチャーチンがペリーとの差別化を図ったからです。当時日本の唯一の開港が長崎であったので、プチャーチンがペリーと違い、日本にそれなりの礼を示した、ということなのです。ペリーはアメリカ大統領の親書を携えて来ました。プチャーチンはロシア皇帝の親書を携えてきました。
アメリカとロシアの交易要求が同時期にきて、幕府は対応に右往左往しました。なにせ、国是である「鎖国」を揺るがす一大事だったからです。「欧米列強に武力で勝つことはできないし、いつまでも鎖国を続けることも難しい。開国は朝廷の攘夷の態度に背くし、幕府長年の国策にかかわる。どうしましょう」
幕府は、決断しかねて朝廷に伺いを出しました。
このことが、天皇(朝廷)を1000年の眠りから目覚めさせたのです。
天皇の政治関与、そして王政復古に道を開いたのです。
かくて明治維新への本格的な幕がきって落とされたのです。
<王政復古・明治維新>のきっかけとなったのがこのようにアメリカとロシアの時期を同じくした来航なのです。
なお、ロシアの圧力は、明治となってからますます大きくなったのです。
ロシアは、明治になってから清国の満州に進出し、朝鮮をも窺いだしました。徳川幕府時代から一貫してロシアの脅威に神経を尖らせて来た日本にとって、朝鮮へのロシアの進出は大変な脅威となったのでした。そして、このロシアの進出を食い止めるための必死の一戦を覚悟しました。
日露戦争。
その後、紆余曲折を得て、今の日露関係に立ち至りました。
日本にとって、ロシアは、中国・朝鮮とともにきっても切れない関係の国なのです。シベリアの港湾都市からシベリア鉄道を使ってサンクト・ペテルブルクへの物流は、その地に進出している日本企業にとってはぜひ実現したいことでしょう。なにせ、今の物流日数を半減できるのですから。
週末つれづれ草子(2005年6月5日)でいいました。
日本海こそ昔から日本の表日本なのだ、と。太平洋側が表日本となったのは、先の戦争後のせいぜい50~60年間であり、今また日本海が、中国・朝鮮それにロシアに面して、表日本に返り咲いている、と。
次のように言っております。
「津軽海峡を東に西に行き来する船をよく目にするでしょう。
そうなのです。いまや物流は日本海が大動脈の一部を担っているのです。
南シナ海―東シナ海―日本海―津軽海峡―太平洋
(南シナ海・日本海)―東シナ海―太平洋
物流の大動脈です。
そして、
竹島も尖閣も沖ノ鳥島もこの大動脈の中にあるのです。
中韓のこれら諸島の非日本化は資源の面からだけではないのです。
物流の大動脈の要所を管理下におくことに通ずるのです。
われわれは、鳥瞰・広角の視野をもって事象を見て、
その意味や意図を見通すことが要請されています。
さもないと子や孫の代にはふるい落とされていることでしょう。
尖閣:沖ノ鳥島:竹島:択捉国後」
週末つれづれ草子(2007年10月28日) おわり。
昨日、町の老人会の運動会に参加しました。
準備体操をして、愕然としました。
体がかたくなっているのです。
毎日、何かの運動をせねばならないと思いました。
できるかどうかは別問題。
そういえば、ウォーキングをしている人を多く見かけます。
以前は、ジョキングでしたが、いまはウォーキングが主流です。
さらに、犬に散歩をさせている人が多いのには驚きです。
ウォーキングを兼ねているのでしょう。
犬の散歩をしている人には高齢者が圧倒的に多いのです。
核家族になり、高齢者家庭が子供代わりに犬を飼っているということでしょう。
最近、ウォーキングに換えて、自転車に乗ってそこここを回っているカップルを見かけます。
自転車こぎがよいという情報があります。情報に過敏な夫婦がウォーキングに換えてやりだしたようです。はたして、ウォーキングに代わって自転車乗りが主流になるでしょうか?
人は情報に弱いですね。
これがいいとの情報が流れればこれに殺到し、あれがいいとの情報が流れれば、あれに殺到する始末です。
報道やコマーシャルメッセージに簡単になびく人々。
情報氾濫の世の中にいるわれわれは、情報に対して本当かしら?と思い、よく考えてみるようにならないと、とんでもない世の中になっていくのではないでしょうか。特にメディアの情報には、見極めがひつようでしょう。
今のマスメディアは鈍刀になっていますね。もっと鋭いメスを入れてもらいたいものです。今週、本来メディアがあぶりだすべきことが、一般人の働きによってあぶりだされたことがありましたね。
肝炎騒動。
一般人(被害者)が困難な秘匿情報をよくあぶりだしたものだと、その必死な思いが伝わってきます。メディアが秘匿情報を捉えずに、一般人が捉えた秘匿情報をマスメディアが追っているのですから、話はあべこべですよね。メディアが問題意識と嗅覚を麻痺させているのでしょうかね。記者クラブだ、番記者だとか本来追及すべき相手に馴らされているから?
かきたててちょうだい。闘争心。
夏の間の活動を終えた動物たちの証を見かけます。
我が家の玄関先の石垣には蛇の成長の証を示す抜け殻がありました(写真添付)。財布に入れておけば金が貯まるよ、とい言った人がいますが、ちょっとやる気にはなりませんね。
植木の陰に作られたスズメバチの空になった巣(写真添付)。これはだいぶ小型です。大きいものは、ラグビーボールほどあります。蜂には、刺されてショック死するケースがありますので、注意しないといけません。もうだいぶ前ですが、我が家の斜め前の家のおばあさんが墓掃除をしていて蜂に刺され命を落されたことがありました。
お釈迦様の掌
~1868年(慶応4年明治元年)その14~
ロシアは、近代の日本外交にとっては最重要国のひとつでした。
いや、今でもそうです。
ロシアは早くから北方領土に何回となくきていますし、日本への関心を強めています。ロシアが日本に接近しだしたのは、記録の上では1730年代で、本格的に日本にアプローチをかけてきたのは、1770年代にはいってからのようです。ロシア船の漂着とか蝦夷への接近などがあったのですが、日本への関心は、なんと言っても、日本人のロシア漂着が引き金になったといえましょう。
サンクト・ペテルブルク。
ソ連時代レニングラードと称されましたが、ロシアとなって旧名に復しました。
今をときめく、ロシアの古都にして産業都市、そしてプーチン大統領の育った都市。トヨタを初めとする少なからぬ日本企業がこの都市で活動を始めています。この都市の大学内で日本語学科がある、と聞きました。創設は、なんと1705年の日本人学習所とのこと。日本人漂流民がその開祖。1760年代にはイルクーツクに日本語学校が開設されました。あの伊勢の神昌丸が漂流して船頭の大黒屋光太夫らがロシアに保護されたのは天明2年(1783)のことでした。船乗りの一部(庄蔵や新蔵)はそのまま帰化して、この日本語学校で教えたということです。ドイツ人ハインリヒ・ユリウス・クラプロートはここで日本語を学び、「日独辞書」を編んだり、林子平の「三国通覧図会」を仏訳したといいます。ドイツ人がなぜ仏訳したのですかね。
寛政4年( )、アダム・キロリヴィチ・ラクスマンがエカテリーナ号で根室に来航しました。大黒屋光太夫らを送り返しに来たのですが、それをきっかけに通商を求めたといいます。
このようなロシアの接近に対し、江戸幕府は北方におけるロシアの脅威を意識し、北方探索と北方防備を急ぎました。間宮林蔵が北方を巡視し、最上徳内などに蝦夷地探索を行わせています。
そして、長らく国後・択捉や樺太、はては千島列島を巡ってロシアとのせめぎあいを続けたのです。
ロシアが交易を求めてきたのは、このように欧米列強の中ではずば抜けて早かったのですが、腰をすえて取り組んだのも早かったのです。嘉永6年6月3日(1853年7月8日)にアメリカのペリーが4隻の軍艦で浦賀に来航した2ヵ月後の嘉永6年8月17日にロシアのプチャーチン率いる4隻の艦船が長崎に来航しました。プチャーチンが浦賀や江戸前に来航せず長崎に来たのは、プチャーチンがペリーとの差別化を図ったからです。当時日本の唯一の開港が長崎であったので、プチャーチンがペリーと違い、日本にそれなりの礼を示した、ということなのです。ペリーはアメリカ大統領の親書を携えて来ました。プチャーチンはロシア皇帝の親書を携えてきました。
アメリカとロシアの交易要求が同時期にきて、幕府は対応に右往左往しました。なにせ、国是である「鎖国」を揺るがす一大事だったからです。「欧米列強に武力で勝つことはできないし、いつまでも鎖国を続けることも難しい。開国は朝廷の攘夷の態度に背くし、幕府長年の国策にかかわる。どうしましょう」
幕府は、決断しかねて朝廷に伺いを出しました。
このことが、天皇(朝廷)を1000年の眠りから目覚めさせたのです。
天皇の政治関与、そして王政復古に道を開いたのです。
かくて明治維新への本格的な幕がきって落とされたのです。
<王政復古・明治維新>のきっかけとなったのがこのようにアメリカとロシアの時期を同じくした来航なのです。
なお、ロシアの圧力は、明治となってからますます大きくなったのです。
ロシアは、明治になってから清国の満州に進出し、朝鮮をも窺いだしました。徳川幕府時代から一貫してロシアの脅威に神経を尖らせて来た日本にとって、朝鮮へのロシアの進出は大変な脅威となったのでした。そして、このロシアの進出を食い止めるための必死の一戦を覚悟しました。
日露戦争。
その後、紆余曲折を得て、今の日露関係に立ち至りました。
日本にとって、ロシアは、中国・朝鮮とともにきっても切れない関係の国なのです。シベリアの港湾都市からシベリア鉄道を使ってサンクト・ペテルブルクへの物流は、その地に進出している日本企業にとってはぜひ実現したいことでしょう。なにせ、今の物流日数を半減できるのですから。
週末つれづれ草子(2005年6月5日)でいいました。
日本海こそ昔から日本の表日本なのだ、と。太平洋側が表日本となったのは、先の戦争後のせいぜい50~60年間であり、今また日本海が、中国・朝鮮それにロシアに面して、表日本に返り咲いている、と。
次のように言っております。
「津軽海峡を東に西に行き来する船をよく目にするでしょう。
そうなのです。いまや物流は日本海が大動脈の一部を担っているのです。
南シナ海―東シナ海―日本海―津軽海峡―太平洋
(南シナ海・日本海)―東シナ海―太平洋
物流の大動脈です。
そして、
竹島も尖閣も沖ノ鳥島もこの大動脈の中にあるのです。
中韓のこれら諸島の非日本化は資源の面からだけではないのです。
物流の大動脈の要所を管理下におくことに通ずるのです。
われわれは、鳥瞰・広角の視野をもって事象を見て、
その意味や意図を見通すことが要請されています。
さもないと子や孫の代にはふるい落とされていることでしょう。
尖閣:沖ノ鳥島:竹島:択捉国後」
週末つれづれ草子(2007年10月28日) おわり。