週末つれづれ草子:お釈迦様の掌

2003年4月以来週末(日曜日)に、身辺事象・時事などについての観察・感想・見解をつづっているエッセイ。

週末つれづれ草子(2007年10月28日)

2007-10-28 19:23:35 | 感想・見解
週末つれづれ草子(2007年10月28日)


昨日、町の老人会の運動会に参加しました。
準備体操をして、愕然としました。
体がかたくなっているのです。
毎日、何かの運動をせねばならないと思いました。
できるかどうかは別問題。

そういえば、ウォーキングをしている人を多く見かけます。
以前は、ジョキングでしたが、いまはウォーキングが主流です。
さらに、犬に散歩をさせている人が多いのには驚きです。
ウォーキングを兼ねているのでしょう。
犬の散歩をしている人には高齢者が圧倒的に多いのです。
核家族になり、高齢者家庭が子供代わりに犬を飼っているということでしょう。

最近、ウォーキングに換えて、自転車に乗ってそこここを回っているカップルを見かけます。
自転車こぎがよいという情報があります。情報に過敏な夫婦がウォーキングに換えてやりだしたようです。はたして、ウォーキングに代わって自転車乗りが主流になるでしょうか?

人は情報に弱いですね。
これがいいとの情報が流れればこれに殺到し、あれがいいとの情報が流れれば、あれに殺到する始末です。
報道やコマーシャルメッセージに簡単になびく人々。
情報氾濫の世の中にいるわれわれは、情報に対して本当かしら?と思い、よく考えてみるようにならないと、とんでもない世の中になっていくのではないでしょうか。特にメディアの情報には、見極めがひつようでしょう。

今のマスメディアは鈍刀になっていますね。もっと鋭いメスを入れてもらいたいものです。今週、本来メディアがあぶりだすべきことが、一般人の働きによってあぶりだされたことがありましたね。
肝炎騒動。
一般人(被害者)が困難な秘匿情報をよくあぶりだしたものだと、その必死な思いが伝わってきます。メディアが秘匿情報を捉えずに、一般人が捉えた秘匿情報をマスメディアが追っているのですから、話はあべこべですよね。メディアが問題意識と嗅覚を麻痺させているのでしょうかね。記者クラブだ、番記者だとか本来追及すべき相手に馴らされているから?
かきたててちょうだい。闘争心。

夏の間の活動を終えた動物たちの証を見かけます。
我が家の玄関先の石垣には蛇の成長の証を示す抜け殻がありました(写真添付)。財布に入れておけば金が貯まるよ、とい言った人がいますが、ちょっとやる気にはなりませんね。
植木の陰に作られたスズメバチの空になった巣(写真添付)。これはだいぶ小型です。大きいものは、ラグビーボールほどあります。蜂には、刺されてショック死するケースがありますので、注意しないといけません。もうだいぶ前ですが、我が家の斜め前の家のおばあさんが墓掃除をしていて蜂に刺され命を落されたことがありました。


お釈迦様の掌
~1868年(慶応4年明治元年)その14~

ロシアは、近代の日本外交にとっては最重要国のひとつでした。
いや、今でもそうです。
ロシアは早くから北方領土に何回となくきていますし、日本への関心を強めています。ロシアが日本に接近しだしたのは、記録の上では1730年代で、本格的に日本にアプローチをかけてきたのは、1770年代にはいってからのようです。ロシア船の漂着とか蝦夷への接近などがあったのですが、日本への関心は、なんと言っても、日本人のロシア漂着が引き金になったといえましょう。
サンクト・ペテルブルク。
ソ連時代レニングラードと称されましたが、ロシアとなって旧名に復しました。
今をときめく、ロシアの古都にして産業都市、そしてプーチン大統領の育った都市。トヨタを初めとする少なからぬ日本企業がこの都市で活動を始めています。この都市の大学内で日本語学科がある、と聞きました。創設は、なんと1705年の日本人学習所とのこと。日本人漂流民がその開祖。1760年代にはイルクーツクに日本語学校が開設されました。あの伊勢の神昌丸が漂流して船頭の大黒屋光太夫らがロシアに保護されたのは天明2年(1783)のことでした。船乗りの一部(庄蔵や新蔵)はそのまま帰化して、この日本語学校で教えたということです。ドイツ人ハインリヒ・ユリウス・クラプロートはここで日本語を学び、「日独辞書」を編んだり、林子平の「三国通覧図会」を仏訳したといいます。ドイツ人がなぜ仏訳したのですかね。
寛政4年( )、アダム・キロリヴィチ・ラクスマンがエカテリーナ号で根室に来航しました。大黒屋光太夫らを送り返しに来たのですが、それをきっかけに通商を求めたといいます。

このようなロシアの接近に対し、江戸幕府は北方におけるロシアの脅威を意識し、北方探索と北方防備を急ぎました。間宮林蔵が北方を巡視し、最上徳内などに蝦夷地探索を行わせています。
そして、長らく国後・択捉や樺太、はては千島列島を巡ってロシアとのせめぎあいを続けたのです。

ロシアが交易を求めてきたのは、このように欧米列強の中ではずば抜けて早かったのですが、腰をすえて取り組んだのも早かったのです。嘉永6年6月3日(1853年7月8日)にアメリカのペリーが4隻の軍艦で浦賀に来航した2ヵ月後の嘉永6年8月17日にロシアのプチャーチン率いる4隻の艦船が長崎に来航しました。プチャーチンが浦賀や江戸前に来航せず長崎に来たのは、プチャーチンがペリーとの差別化を図ったからです。当時日本の唯一の開港が長崎であったので、プチャーチンがペリーと違い、日本にそれなりの礼を示した、ということなのです。ペリーはアメリカ大統領の親書を携えて来ました。プチャーチンはロシア皇帝の親書を携えてきました。
アメリカとロシアの交易要求が同時期にきて、幕府は対応に右往左往しました。なにせ、国是である「鎖国」を揺るがす一大事だったからです。「欧米列強に武力で勝つことはできないし、いつまでも鎖国を続けることも難しい。開国は朝廷の攘夷の態度に背くし、幕府長年の国策にかかわる。どうしましょう」
幕府は、決断しかねて朝廷に伺いを出しました。
このことが、天皇(朝廷)を1000年の眠りから目覚めさせたのです。
天皇の政治関与、そして王政復古に道を開いたのです。
かくて明治維新への本格的な幕がきって落とされたのです。
<王政復古・明治維新>のきっかけとなったのがこのようにアメリカとロシアの時期を同じくした来航なのです。

なお、ロシアの圧力は、明治となってからますます大きくなったのです。
ロシアは、明治になってから清国の満州に進出し、朝鮮をも窺いだしました。徳川幕府時代から一貫してロシアの脅威に神経を尖らせて来た日本にとって、朝鮮へのロシアの進出は大変な脅威となったのでした。そして、このロシアの進出を食い止めるための必死の一戦を覚悟しました。
日露戦争。
その後、紆余曲折を得て、今の日露関係に立ち至りました。
日本にとって、ロシアは、中国・朝鮮とともにきっても切れない関係の国なのです。シベリアの港湾都市からシベリア鉄道を使ってサンクト・ペテルブルクへの物流は、その地に進出している日本企業にとってはぜひ実現したいことでしょう。なにせ、今の物流日数を半減できるのですから。

週末つれづれ草子(2005年6月5日)でいいました。

日本海こそ昔から日本の表日本なのだ、と。太平洋側が表日本となったのは、先の戦争後のせいぜい50~60年間であり、今また日本海が、中国・朝鮮それにロシアに面して、表日本に返り咲いている、と。
次のように言っております。

「津軽海峡を東に西に行き来する船をよく目にするでしょう。
そうなのです。いまや物流は日本海が大動脈の一部を担っているのです。
南シナ海―東シナ海―日本海―津軽海峡―太平洋
(南シナ海・日本海)―東シナ海―太平洋
物流の大動脈です。
そして、
竹島も尖閣も沖ノ鳥島もこの大動脈の中にあるのです。
中韓のこれら諸島の非日本化は資源の面からだけではないのです。
物流の大動脈の要所を管理下におくことに通ずるのです。
われわれは、鳥瞰・広角の視野をもって事象を見て、
その意味や意図を見通すことが要請されています。
さもないと子や孫の代にはふるい落とされていることでしょう。

尖閣:沖ノ鳥島:竹島:択捉国後」

週末つれづれ草子(2007年10月28日) おわり。

週末つれづれ草子(2007年10月21日)

2007-10-21 20:24:36 | 感想・見解
週末つれづれ草子(2007年10月21日)


今朝、10度でした。
一気に寒くなりました。明け方、寒くて眠れませんでした。冬布団に変えねばならないようです。路上に蛇を見かけることが多くなりました。冬眠の前の暖を陽光で暖まったアスハルトの路面で取っているのでしょうか。そのためでしょう、車に引かれる不運に遭う蛇をたまに見かけます。
夏から一気に冬になったようです。
夏の鎮魂歌を野菜に託して歌います。夏の野菜というと、数年前から人気の出だした「ゴーヤ・苦瓜」。そして、ツウに根強く支持を得ている「オクラ」。
その「オクラ」の花と実の写真を添付します。わが畑に咲き生ったものです。花と実が一緒に写っています。初めて見る方には、立派な花が印象的でしょう。

地元出身の子孫であるアメリカの婦人がこの地を訪れました。母方の曽祖父がこの地の出身なのです。昨晩は、我が家を宿に提供しました。古い写真を持ってきており、この地の故人や古老の在りし日の姿が蘇りました。写真を見た近隣の古老は、涙を流しながら当時のことを語りました。聞きながら、このような先人の生活は、何かの形で記録に残しておくべきだ、ということを痛く感じたことでした。
その人のルーツの墓所に案内しました。1805年(文化年間)の記録が刻まれた墓石が、記録のある最も古いものでした。記録の刻まれていない墓石が数基あります。きっと、もっと古いものでしょう。その人は、ルーツすべての墓石に線香と花とを供えました。私も妻と一緒にそれを手伝いました。その人は、ルーツの土地の写真を沢山撮りました。帰ってから親族に見せて、報告するということです。
ふるさと。祖先。親。
そして、
今の私があるのですね。


お釈迦様の掌
~1868年(慶応4年明治元年)その13~

ここ3回、薩摩・長州・土佐の動きを語りました。そして、これらの藩に大きく影響を与えたのが諸列強、とりわけイギリスであった、と語りました。確かにイギリスは明治維新の実現に大きな影響力を及ぼしました。
慶応3年10月14日(1867年11月9日)将軍慶喜が大政奉還を奏し、12月9日(1868年1月3日)天皇が王政復古を宣しました。
しかし、その後も旧幕府側と新政府側との衝突は、鳥羽・伏見の戦いや会津での戦いなど、改元の明治になっても続きました。このようなとき、6列強(英米仏蘭伊普)は局外中立を布告したのです。この布告が発せられたのは、イギリスのパークス公使の働きかけがあったからでしょう。フランスのロッシュ公使は、慶喜に再挙を勧めたりして、かねがね幕府側についていたのですが、ついにはイギリスのパークス公使の強い中立論の軍門にくだり、局外中立に立つことにしたのでした。もっとも、慶喜がロッシュ公使の再挙の勧めを断ったことも、フランスを中立布告に加わらせることに繋がったともいえましょう。
このようにイギリスの明治維新の実現に与えた影響が大きかったことは、多くが認めるところでしょう。ところが、明治維新の実現に根本的に影響を与えた外国は、ロシアとアメリカだった、と言えるのではなかと思えるのです。ロシアは最も早く交易を求めてきた国、早くからの北方の領土を窺う脅威国、として。そして、何よりもアメリカとロシアは、列藩と天皇を政治の舞台に登場させた功労者?として。
なにせ、列藩と天皇(朝廷)の政治参加、特に天皇の政治参加こそが明治維新の最大の推進力になったのですから。
薩長土肥といった討幕諸藩の行動が維新を実現させた直接の原動力でしょう。しかし、この直接の原動力が発揮されたのも、天皇の政治参加あってのことなのです。

次回は、天皇の政治参加を促した一国であるロシアとの関わりを語ります。

週末つれづれ草子(2007年10月21日) おわり。


<余談>
“「フルベッキと塾生たち」写真の一考察”
倉持基(くらもちモトイ)(東京大学大学院学際情報学府博士課程)
<上野彦馬歴史写真集成>より

その9
以上より、『Verbeck of Japan』掲載写真および長崎歴史文化博物館所蔵写真といわゆる「フルベッキ写真」がほぼ同じ時期(明治元年頃)に撮られた写真である可能性は高い。そして、『Verbeck of Japan』掲載写真および長崎歴史文化博物館所蔵写真はフルベッキが済美館の学生とともに撮った写真であり、「フルベッキ写真」は致遠館の学生とともに撮った写真であるという可能性も高いのである。
・・・略・・・
その9 おわり

週末つれづれ草子(2007年10月14日)

2007-10-14 19:45:07 | 感想・見解
週末つれづれ草子(2007年10月14日)


今週、全国地域安全運動なるキャンペーンが展開され、地域の青色回転灯パトロール隊の発進式が開催されました。
所轄警察署長や区長が出席しました。
このパトロールは、地域の防犯組合が実施しています。
防犯組合は、防犯組合長とその推薦で任命された地域安全推進員で組織されています。この組合の活動経費の調達を巡ってすったもんだが起きています。
内容はこうです。

・組合が、活動費に見合う収入を確保するため、地域の各世帯から負担金を取ろうとした。
・そのため、地域住民の理解と賛同を得ようと、組合長が組合の活動などの内容を紹介した。
・地域住民の了解は十分得られなかった。
・しかし、今回は拡声器のアンプ代などの設備経費がかさんだこともあるので、臨時特別措置として1世帯あたり一定額を負担した。
・組合としては、来年度以降も負担の継続を希望している。

問題を次のように見ています。
<与件>
1:組合は上部団体の指名による「組合長」と組合長の指名により承認された「地域安全推進員」で構成される。
2:経費を賄う収入を地域各世帯からの一定額の負担金と助成金に求めている。
<問題点>
1:本来、会の必要収入は、その構成員の会費を主とし、不足分を助成金や寄付金などで賄うが、この組合は、本来負担すべき組合員(会員)が組合費(会費)を払っていない。
2:指名制である上、指名構成員(組合員)の数を絞っているため、パトロール回数が少ない。
3:このような状態の中で、地域各世帯に負担金を求めている。
4:負担金とは、強制的に払わせる性格のもので税金のようなものである。税金は、権利が行使できる場合にその対価(義務)として払うものである。だが、この場合は、組合員が地域住民の代表でもなく、地域住民が承認したものでもない。したがって、組合が負担金を地域住民に強制すのは民主主義のルールーに反する。
5:組合員が組合費を払わず地域住民に負担金を求めるのは、「自分たちの活動が、地域住民に「安全安心を提供している」ので、地域住民がその活動経費を負担するのは当然だ」という考えが根底にあるものと推量される。しかし、これは組合が善意を押し売りしているわけである。その活動を評価するのは、あくまで地域住民である。
6:組合員は「ボランティアでやっているのだ」という意識が根底にあることも推量される。しかし、今のような指名制の閉ざされたやり方は広く参加者を募るボランティア活動とはかけ離れているわけで、住民の賛同を得られない。
<解決法>
1:組合の経費は、組合の目的とする活動をするために必要とするものであるから、組合員が負担することを基本とする。その上で、不足分を助成金なり、寄付金なりに求める。
2:指名による少数の構成員にせず、地域からの代表を構成員にする。または、ボランティアとして組合員を公募する。
3:地域代表を構成員(組合員)とした場合は組合費収入が増える。地域世帯からの負担金を求める場合も、地域の代表が組合員に出ているのであるから民主主義のルールに適っており、反発は回避できる。
4:構成員をボランティア公募とした場合は、助成金や寄付金が多く期待できる。また、地域住民の負担金求める場合も反発が少ないことが予想される。
5: 2の方法をとれば組合員を増やせ、パトロール回数も増やすことができるので、活動が少ないという地域住民の不平も解消できる。
6:今の構成でいく場合は、負担金といった強制的なものとせず、地域各世帯の評価に任せた自由な寄付金として支援を仰ぐ。

以上がこの案件に関するつれづれほうしの見解であり、問題解決に望むほうしの方針・姿勢です。

今週は、毎朝玄関を出ると、なんともかぐわしい香りに心が癒されました。
モクセイのかおりです。我が家には、数本の木犀が植えてあります。この植木の花が芳香を送ってくれるのです。我が家のはすべて金木犀ですが、周辺には銀木犀が結構あるのです。近辺は各種植物に白い花を付けるのが多いのは、どうしてでしょうか?前回紹介した彼岸花をはじめサルスベリ・タンポポなど。
なにか、土地とか気候とかに関係があるのでしょうか?そういえば、広島から30キロほど西方の山口県の岩国市は白蛇の産地(?)で名を知られています。アーチ型の木の橋である錦帯橋なら知っているが、白蛇のことは知らなかったという方が多いかもしれませんね。
なにはともあれ、金と銀との木犀の写真を添付します。


お釈迦様の掌
~1868年(慶応4年明治元年)その12~

前2回で薩長の攘夷から開国への転向を追いました。
転向には欧米列強の力が働いたのでしたね。
この両藩は開国論に転じた当初は対峙していました。
長州は一部公卿と謀り天皇を抱え込もうとしました。会津藩と薩摩藩とが協力してこれを阻止しました。長州藩は敗北し、京の守護を免ぜられ、藩主謹慎の沙汰となったこと(蛤門事変)は前回語りました。
この時点では薩長は対峙していたのです。
その後、討幕で手を握らせたのが、土佐の坂本龍馬といわれます。慶応2年1月(1866年3月)のことでした。龍馬の薩長連合の仲立ちについては別途語ります。

お客人、幕末で活躍した藩というと?
なんといったって、長州藩と薩摩藩でしょうな。
!!!・・どこか、忘れてやしませんか?胸に手をあてて思いなおしてよ。
どういわれようが、薩摩と長州だよ。さっちょうど???薩長土。だんな、すまない、肝心なのを忘れていたよ。
そうこなくちゃー。で、その、肝心の藩とは?
土佐藩。これを忘れちゃーいけないね。
酒飲みねー。寿司食いねー。江戸っ子だってねー。
神田の生まれよ。
そうだってねー。

明治維新に向け、土佐藩はどのように立ち回ったのでしょうか?
土佐藩というと坂本龍馬の名が挙がりますが、キーマンは後藤象二郎でしょう。
後藤象二郎は、義兄・吉田東洋の塾で学び、江戸の開成所に学びました。薩長の志士たちは攘夷論者であったが、象二郎は開国論者でした。土佐藩の攘夷論者・武市瑞山らを一掃しております。山内容堂の信を得て懐刀となりました。容堂は隠居していたが、藩政への影響力は絶大でした。
山内容堂・後藤象二郎の二人三脚の下、土佐藩は討幕に向かう薩長とは違う独自の路線を模索しました。土佐藩アイデンティティー確立に腐心したのでした。
慶応3年8月6日(1867年9月3日)、あることからイギリスのパークス公使がバジリスク号で土佐にきました。あることとは、同年7月に長崎でイギリス軍艦イカルス号の水兵2名が殺害され、土佐人犯人説が浮上したことでした。殺害直後に土佐藩の南海丸が長崎を出港したというのが、土佐人犯人説の根拠となったのです。土佐藩は土佐人が犯人ではないことを主張していたが、幕府の見解や周辺の情報からイギリスは土佐人犯人説に固執していました。後日、犯人は築前藩の者であることが判明したのですが・・・。
このとき、後藤はパークス公使を艦に訪ねました。話題は政治問題でした。後藤は、イギリスを模範にして憲法と国会を作ろうとしている、という考えを述べました。会談を通してハリー公使は後藤の物分りによさに感嘆した、とサトウ書記官が述べています。ハリー公使は、大層後藤を気に入り、その後の誼を誓った、ということです。公使が土佐を離れた後も、居残ったサトウ書記官が前藩主の山内容堂と腹心後藤象二郎とを相手に土佐人犯人説のやり取りをしました。この機会を捉え、容堂と象二郎は憲法や国会の権能とか選挙制度についてサトウ書記官からいろいろ聴きだしたのでした。後日、その実現に協力してほしい旨をも申し出たのでした。驚くべきは、このとき二人はルクセンブルク問題にも言及したのです。ルクセンブルク問題とは、ナポレンオン3世がオランダからルクセンブルクを買収しようとしたのに対し、プロシャが反対したため、ルクセンブルクは列国保障の下で永世中立国になった、というできごとです。1867年5月、ロンドン条約。二人とサトウ書記官のこの会見が1867年9月初め。われわれの想像を超えて、情報は迅速に世界を駆け巡っていたのです。
その後、土佐と薩長の主導権を握る駆け引きがあわただしく展開されました。

慶応3年9月7日(1867年10月4日)
後藤象二郎は京都の薩摩屋敷に小松帯刀と西郷吉之助(隆盛)を訪ね、大政奉還の建議を説く。討幕に走り出していた小松らはこれを聞き入れず、討幕を主張する。
9月20日
薩長は芸州を加え、討幕に向けての三藩連盟を立ち上げる。
10月3日
山内容堂は、後藤象二郎と福岡藤次をして、幕府に大政奉還を建議させる。
10月8日
  薩長芸三藩は岩倉具視らと「討幕の勅命」を謀る。
10月13日
  岩倉具視、薩摩の大久保一蔵(利通)と長州の広沢兵助を引見し、天皇睦仁の外祖父中山忠能に代わって、大久保に薩摩藩主への討幕の勅書を、広沢に長州藩主の官位復旧の宣旨をそれぞれ授ける。
10月14日
  将軍慶喜、大政奉還を奏す。

こうしてあわただしい駆け引きは一日の差で薩長の討幕に凱歌があがったのでした。その後、土佐藩も討幕軍に加わったのでした。

こう見てくると、薩長に遅れを取った土佐藩にとっては、坂本龍馬の薩長同盟仲介がなんとも恨めしいものであったことが想像できます。
「龍馬がおせっかいな仲介をしなかったらこの時期の薩長同盟は実現しなかったであろう。そうすれば、わが藩が主導権を握れたのに」
「痴れ者、龍馬メ!」
坂本龍馬が中岡慎太郎とともに殺害されたのは、土佐と薩長の主導権争いが決着したほぼ一ヵ月後の慶応3年11月15日(1867年12月10日)のことでした。彼らの殺害が謎とされ、諸犯人説があるます。しかし、土佐藩犯人説は聞かないですね。このシリーズの初めに「下克上の下克上」とともに「内ゲバ」ということをいいました。ひょっとして坂本龍馬は内ゲバ被害者?
ひょっとして、ひょっとするかも・・・。

明治新政の進む中、テロとともに内ゲバは激しさを増していきましたね。
西郷隆盛・江藤新平・前原一誠など・・・内ゲバで抹殺された者がなんと多かったことでしょう。
つい30年ほど前には赤軍の内ゲバ殺傷が多発しましたが、いつの世も変わりないのですかね。路線対立の激しさ、権力闘争での疑心暗鬼。おおっ、さむー。

週末つれづれ草子(2007年10月14日) おわり。

<余談>
“「フルベッキと塾生たち」写真の一考察”
倉持基(くらもちモトイ)(東京大学大学院学際情報学府博士課程)
<上野彦馬歴史写真集成>より

その8
フルベッキは(前回のように)書いており、明治元年の時点で長崎を離れることは決まっていたと思われる。したがって、フルベッキとその教え子たちが明治元年に記念写真を撮影してもおかしくない。

「フルベッキ写真」に写る人物の詳細な人物比定は別の機会に譲ることにするが、「フルベッキ写真」に確実に写っていると思われる人物が2人いる。岩倉具視の次男・具定(1851-1910)と三男・具経(1853-1890)である。
(写真比較は略)
種々の記録や文献で具定・具経兄弟が致遠館で学んでいたことは明白だが、前掲『日本のフルベッキ』に依ると、佐賀藩の教育に感心していた岩倉具視は、明治元年10月(1868年12月)、二人の息子を佐賀に送り、その後間もなくして二人は致遠館で学ぶために長崎に入っていいたことがわかる。明治元年頃に長崎で撮られた致遠館の学生たちの写真に岩倉兄弟が写っている可能性は極めて高い。
その8 おわり

週末つれづれ草子(2007年10月7日)

2007-10-07 19:11:53 | 感想・見解
前々回、彼岸花の話をしました。
彼岸花は赤です。
でも、これにも白が増加しつつあります。
近所に結構咲いています。白花曼珠沙華というようです。
写真4葉を添付します。
「田に咲いた彼岸花」
「刈り入れと畦にさいた彼岸花」
「畦の彼岸花」
「白花彼岸花」

60~70年前、曼珠沙華(マンジュシャゲ)。

紅い花ならマンジュシャゲ
オランダ屋敷に雨が降る
・・・・・

30年ほど前、曼珠沙華(マンジュシャカ)。
・・・・
マンジュシャカ恋する女は
マンジュシャカ罪作り
白い花さえ真紅に染める
・・・・

30年ほど前に「阿木耀子」「宇崎竜童」夫妻の作詞作曲「山口百恵」歌が曼珠沙華を「マンジュシャカ」と歌いました。当時、ざわつきました。「阿木耀子」は梵語の「マンジュシャカ」を取った、とのことでした。意図的だったわけです。以来結構「マンジュシャカ」が通用しているようです。

ちなみに、「華」は「カ」が普通で「ゲ」や「ケ」と読むほうが少ないでしょう。
「ゲ」「ケ」は呉音でしょう。
ですから仏教や経典では「ゲ」「ケ」と読むのですね。
「法華経」「華厳宗」「蓮華」・・・なんと読みますか?


お釈迦様の掌
~1868年(慶応4年明治元年)その11~

前回、薩英戦争について触れました。そのときこういいました。
「薩摩藩はコテンパンにイギリス軍に叩きのめされました。この交戦で薩摩藩は、攘夷なんてできっこない、と身にしみて感じたのでした。この後薩摩藩は尊王攘夷から討幕開国に変節したのです。そして薩摩藩はイギリスと仲良しになったのです。昨日の敵は今日の友。さらに、このことは長州藩にも当てはまるのです。かくして、明治の夜明けを早めるきっかけになったのです」
今回は、尊皇攘夷のもうひとつの雄藩であった長州藩の転向のいきさつを簡単に語ります。

朝廷はずっと攘夷を堅持していました。伝統的に、朝廷には京都中華思想が浸透していたのです。京から外は夷荻との考えを持っていたのです。この考えを強く打ち出したのがかの大覚寺党(いわゆる南朝)の後醍醐天皇でした。朝廷は京以外を夷荻としたのですから、海のかなたの異国の者は夷荻中の夷荻と思ったことでしょう。朝廷の伝統を引き継ぐ当時の天皇・孝明帝にとっては外国の開国要求に攘夷を唱えたのは当たり前のことだったでしょう。だから、徳川幕府が結んだ諸外国との条約を批准しなかったわけですね。
天皇の攘夷の考えとその圧力に幕府も揺れました。文久3年(1863)には、5月10日を攘夷の時限としたり、長崎・横浜・箱館の三港閉鎖を諸外国に通知したりしました。

かような情勢の中で長州藩は二重苦を経て、討幕開国論に辿りついたのでした。
<苦、その一>
当時、朝廷内は路線を巡って争っていました。長州藩は討幕派の公家達と組んで、天皇を抱きこみ討幕路線を確立しようとしました。朝議はこれを排し、長州藩に任せていた京都一角の守衛の任を免じ、長州藩と図った7人の公卿の朝廷参内を禁止しました。参朝まかりならぬとされた7公卿は長州兵に守られて長州に落ち、長州藩も藩主謹慎の憂き目にあったのです。長州藩士の気持ちは収まりませんでした。藩主の赦免を得ようと、大挙して上京しました。幕府軍との交戦は避けられませんでした。結果は長州藩の敗北でした。世に言う「蛤御門の変」です。追っかけ長州征伐の朝命が発せられ、これを受け幕府は諸藩から征長軍を出させました。ことこれまでと、長州藩主は服罪して「蛤門事変」の主要関係者を断罪しました(藩主は関係者ではなかったの?)。これを潮に幕府は各藩からなる長州征討軍を解きました。高杉晋作らは藩の対応を不服として、クーデターを起こしました。下関に挙兵して幕府恭順派の藩指導者を追放し、藩論を再び幕府対抗論に戻したのでした。
時、文久3年(1863)から元治2年(1865)の初頭にかけてのことでした。
<苦、その2>
長州藩が国内面で上述<苦、その1>の苦に見舞われていたまさにその時期に、対外面でも苦に見舞われたのでした。
朝廷の攘夷圧力に開港開市を続けた幕府の態度が揺れだし、ついに3開港の閉鎖や文久3年5月10日をもって攘夷期限を設けたことは冒頭で言いました。
当時、攘夷論で固まっていた長州藩はわが意を得たり、と、文久3年(1863)5月10日の攘夷期限の到来と同時におりよく(おり悪く?)下関沖合いを通過していたアメリカ商船を砲撃しました。その後、フランスやオランダの艦船を立て続けに砲撃しました。アメリカやフランスが報復したが、砲台を壊滅するまでには至りませんでした。長崎から瀬戸内海を通って横浜へ向かうことができなくなった欧米列強はその損失を看過できませんでした。それよりも欧米の威信が失墜すること、面子を潰されること、には我慢ができなかったのです。通商を続けることが条約を守ることだということを日本人に知らしめるためには、長州藩を徹底的に叩きのめす他はない、として欧米列強は動きだしました。その中心となったのはイギリスでした。幕府に対して、20日以内に下関海峡を通過するようにすることを保証するよう要求しました。さもなければ、外国艦隊が長州藩をたたきのめす、と通告したのです。このとき、イギリスに渡っていた長州藩の5名の若者のうち井上聞太(馨)と伊藤俊輔(博文)の2名が藩の一大事を聞いて帰国したことは前に語りました。横浜に着いた二人は、外国側と接触しました。そして、藩に外国との交戦の無益を説得するのだと訴えました。イギリスのオールコック公使は、軍艦二隻を下関へ向かわせ、二人を長州に送りました。このとき藩主あての一通の覚書を二人に託したということです。だが、二人の説得は聞き入れられませんでした。
元治元年(1864)に戦端が開かれました。戦闘はあっけなく終わりました。
4国連合艦隊砲撃開始、  8月5日(1864年9月5日)
長州藩白旗(和議申し出) 8月8日
3日間のドンパチでした。
長州藩の精鋭が京に向かった(蛤門事変)ので、手薄の長州藩にとっては無理からぬことでした。精兵がいても敗戦は必至だったでしょうが・・・。
伊藤俊輔が連合軍に和議には家老が来る旨を知らせました。来たのは、家老宍戸備前の養子という宍戸刑馬。宍戸刑馬=高杉晋作。まだ20歳代の和議交渉者でした。

かくして長州藩も討幕開国論に傾いたのでした。
その後、協定を守った長州藩をイギリスはいたく信頼し好意を持った、ということです。

週末つれづれ草子(2007年10月7日) おわり。


<余談>
“「フルベッキと塾生たち」写真の一考察”
倉持基(くらもちモトイ)(東京大学大学院学際情報学府博士課程)
<上野彦馬歴史写真集成>より

その7
『Verbeck of Japan』に掲載された写真と同じものが、現在長崎歴史文化博物館に残されている(以前は長崎県立長崎図書館に保管されていた)。長崎歴史文化博物館所蔵写真は『Verbeck of Japan』掲載写真と比べると、トリミングが施されて画角が多少狭くなっているが、被写体の人数やポーズから、同じ写真であることは明らかである。この写真には「附記」とペン書きされた添付資料が残されており、自体や文体などから明治の終わり頃に書かれた記録(つまり被写体となった人物の何人かがまだ存命中の時期に書かれた記録)であると推測される。この「附記」には次のような記述がある。

慶応元年八月長崎府新町ニ済義館  ヲ設立シ後廣運館ト改称ス明治初年同館担任教師「フルベッキ」氏東京出発ノ時重ナル門人記念トシテ新大工町上野彦馬写真館ニ於テ撮影セリ
*「長崎府」は慶応4年5月(1868年6月)から翌明治2年6月(1869年7月)までの期間だけ使用された名称

すなわち、東京へ行くことになったフルベッキとその教え子である「済義館」の学生たちが彦馬の写真館で撮った記念写真ということであり、図3(省略)のように3名を除いてほぼ全員の身元が確認されている。尚、『明治百話』に依れば、三十名ばかりが写る写真は幕府のお侍だということなので、「附記」にある「済義館」は済美館の誤りだと思われる(「済義館」という名称の学校は存在しない)。フルベッキが東京へ向けて長崎を発つのは実際には明治2年2月(1869年3月23日)であった。しかし、『フルベッキ書簡集』(高谷道男訳編、新教出版社)に依ると、1868年12月19日(明治元年11月6日)付書簡でフルベッキは、
スタウト氏に、この前の船便で来日されるようにお願いしました。来春、多分、帝国大学の責任を負うために大阪に向かわねばならぬでしょう。そうするとスタウト氏が、ここで私の地位を引き受け、誰か外の人が、肥前の藩に招請されることになりましょう。

その7 おわり