週末つれづれ草子:お釈迦様の掌

2003年4月以来週末(日曜日)に、身辺事象・時事などについての観察・感想・見解をつづっているエッセイ。

週末つれづれ草子(2007年2月25日)

2007-02-25 20:00:41 | 感想・見解
我が家の周辺では、切干大根を作っている家が何軒かあります。
大根を細い帯状に剥き、干して作るのです。
我が家でも作りました(写真添付)。
ひも状のまま保存する家もあれば、細かく切って保存する家もあります。
醤油味の煮付けなど、いいですね。
今年は暖冬で、寒風での乾燥がかなわず、できばえはいまいち、です。
でも、今年も我が家の食卓を助けてくれるでしょう。


お釈迦様の掌
因果・予定・天命 その12

植民地獲得で忍び寄る欧米列強。
これをしのぐ手立ては?
日本を欧米列強に並ぶ体制・制度の国にすること。
明治維新を果たして、国を思う志士たちは新しい国(体制制度)の構築にまい進しました。
新しいことを始めれば、いろいろと反発・批判・非難・摩擦・抵抗が起こるのは世の常です。
維新後の国の体制制度の新構築も例外ではありませんでした。
藩閥非難。民権運動・国粋思潮。・・・・。
殺傷事件、今で言うテロも少なくなかったようです。
こういう情勢の中では、新しい国体つくりは命がけの仕事であったに違いありません。
しかし、欧米列強から国を守るという志を強くする維新回天の志士たちはいささかのひるみを見せませんでした。
行政・法制・兵制・学制・・・精力的に新制度を作っていきました。
そして、国の姿をかたどる憲法の公布に到ったのです。

明治15年(1882) 伊藤博文ら憲法調査のため渡欧
明治22年(1889) 大日本帝国憲法公布
            衆議院議員選挙法・貴族院令公布

<大日本帝国憲法>
国体・・・天皇が統治する(天皇を国の元首、統治権の総攬者とする)。
とはいっても、運用上は、内閣(内閣総理大臣)が天皇の了解を得て権限を行使する。
立憲・・・「議会制」を布くが、その権限は国体(天皇大権)により制限された。
平等・・・維新後も華族・士族・平民の身分を残したが、すべてを「臣民」とした(西欧の神の下の平等に比する天皇の下の平等)。
などなど。

<大日本帝国憲法>から伊藤博文ら起草者の意図が窺えます。
伊藤博文らは思ったことでしょう。
「欧米列強の国に日本が同じ社会の国と見てもらうのには、「議会制」は欠かせない。議会制・民主民権に重きをおけば、この国は勝手に振舞う民の集団になってしまうだろう」
彼らは学び取っていたでしょう。
「欧米の国の民主・民権は、国民が権力との血を流す闘争の末に手に入れたものだ。だから、民主・民権が混乱なく機能する」
さらに、
「かの国々では、平等・公平の概念がキリスト教のいう<神の下での平等>の影響をうけている」
しかるに、
「わが国では、平等・公平といえば新しい概念で、一人ひとり勝手な思いを描き、収拾のつかないことになってしまうだろう」
どうすればよい?
このような混乱の起こることを避けるためには<天皇統治>と<天皇神権化>を図るしかない、と思い到ったに違いありません。

維新推進者は維新を「錦の御旗(天皇のご意思として)」の下で進めました。
戦国時代以後、武家が支配を手中にしても、天皇という権威は威力を持っていたのです。長い伝統からくる威力なのですね。
天皇の権威を端的に示したのが、「大政奉還」「版籍奉還」「廃藩置県」などです。
藩の領地も民も進んで天皇にお返しするという驚天動地の事態。
当時、日本にいたヨーロッパの人たちがその驚きを本国の人たちに伝えたとのことです。
まさに、昨年秋に札幌から発信された言葉<シンジラレナ~イ>です。
天皇の伝統に根付いた権威威光。
伊藤博文らが「天皇統治の国体以外にない」としたのは、欧米列強の社会と日本の社会を比肩して行き着いた必然の結果だったと思われます。

王権神授だとかいろいろの批判・負の評価がありますが、それは今の視点によるものに過ぎず、死者に鞭打つ類でしょう。
当時の情勢・状況を鑑みれば、いかに優れた労作であったかが窺われましょう。
日本を西欧列強の国と同じ立憲・議会制の社会とし、列強国の植民地となることを防いだ面を評価すべきでしょう。
その後、他の要素も絡むが、日本は江戸末期に締結された欧米各国との不平等条約を改訂、言い換えれば、半植民地状態を改善していきました。

週末つれづれ草子(2007年2月25日) おわり。

週末つれづれ草子(2007年2月11日)

2007-02-18 20:35:07 | 感想・見解
この近辺は、鹿だけではなく猪の被害にも悩まされていることは述べました。
前に鹿の通る道の写真を添付しました。
猪の痕跡も示さないと片手落ちですので、写真を添付します。
写真は、我が家のすぐ裏にある隣家の休耕田を猪が掘り返した跡です。
古老曰く、ミミズを掘った跡だ。
そろそろ、地中に小さく膨らみだしたタケノコを掘り起こしにかかる頃です。
河原の竹林の整理をして地下茎を掘ったら、すでに小さいタケノコが伸びだしていました。
土を掘り返して、地中の小さいタケノコを残さず平らげます。見事です。
近所の孟宗の竹林には新しい竹が生えていません。
タケノコがみな猪に食べられてしまうからです。
新しい竹がないのがどうして分かるのでしょうか?
新しい竹は茎の色の緑が深く、年を経るほどに茎に白味や黄色味を帯び、節の色が黒味を帯びます。
素人目にもすぐに見分けが付きます。
竹林に入って、見分けてみてはいかがでしょうか?
竹林欲をかねて。


お釈迦様の掌
因果・予定・天命 その10

今週、法制審議会刑事法部会が「犯罪被害者の法廷参加制度」の要綱を発表しました。犯罪被害者または遺族が法廷に立って、被告人への尋問とか求刑意見を述べられるようにしよう、というものです。
賛否両論が渦巻きました。
被害者や遺族が法廷で被告人や証人に直接尋問することができないという被害者や遺族にとっての不条理をなくすことになる。
近々導入される裁判員裁判における判断が影響されることになる。
などなど。
でも、根本の問題点を指摘した意見に出あっていません。
すべての意見に接しているわけではないので、恐らくこの指摘は誰かがしていると思いますが・・・。

刑事被告人は、有罪の判定が下されるまでは、犯人ではないですよね。
あくまで、この時点では容疑者であり、被告人なのです。
それなのに、有罪か無罪かを決める法廷に被害者や遺族を立たせるということは、有罪前提の裁判といえないでしょうか?
検察を有利にする制度といえないでしょうか?
被害者や遺族の立場は理解できます。
こうしたらどうでしょうか。

1:被告人の有罪無罪を判断する。
2:有罪判決の場合に、被害者または遺族に直接被告人(犯人)に尋問したり、量刑などの意見をのべたりする機会を与える。
3:その上で量刑を下す。

われわれは、“容疑者”を<犯人>と思う傾向が強いですね。
とくにメディアにその傾向が強く、われわれはその報道振りに影響されているようです。
キモに命じましょう。
「有罪の確定判決が下されるまでは、被告人は犯人ではない」

今回言いたいのは、先ほど「検察を有利にする制度」といいましたことに関連することです。
「刑法」は、
1:誰に適用するのか?
2:誰を制約するのか?

<誰に適用するのか?>
細かいことはさておき、
「日本国内で罪を犯したもの」「国外で罪を犯した日本国民」

<誰を制約するのか?>
裁判官
たとえば、
第204条:人の身体を傷害した者は、十年以下の懲役又は三十万円以下の罰金若しくは科料に処する。
このように裁判官に量刑の枠を嵌めているのです。
裁判官は、これ以上の刑も以下の刑も下してはならないのですね。

裁判官は、誰を裁くのか?
「被告人」
違いますね。
<検事>
そうです。
判事は検事の論告や求刑が是か非かを判断するのです。
まさに裁かれるのは検事なのです。
検事の論告求刑否認=被告人無罪
検事の論告求刑是認=被告人有罪
すなわち、検事(の論告求刑)が裁かれるのです。

刑法=判事を縛る。
刑事裁判=検事を裁く。
裁判官とか検察官が対象となっていること。ここが、味噌なのですね。
権力へのタガ。
民主主義の原点。
権力の最たるもの=国家権力。
権力は放っておけば強大化します。
国家権力の暴走をいかに防ぐか。
古人腐心の末、権力にタガを掛ける手段として憲法が編み出されたのですね。
闘争と知恵の結晶=憲法=国家権力の規制

日本国憲法前文の一部
「・・・・そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。・・・」
たとえば、
第31条:何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない

明らかに<国家は勝手にできないぞ>といっているのです。

週末つれづれ草子(2007年2月11日) おわり。

週末つれづれ草子(2007年2月18日)

2007-02-18 20:23:15 | 感想・見解
1月末から鼻水が垂れ始めました。
時々マスクをかけます。
よもや?と思ったのですが、やはりそうでした。
1月末からスギ花粉が舞いだした、と報道されました。
今年は何週間か早いとのこと。

花粉症に悩まされだしたのは、5年前です。
鼻水が垂れだし、目がショボショボしだしました。
おかしいな、と思いながら過ごしました。
翌年も同じ症状が出て、これが花粉症か、と思い到った次第です。
その後、早春に症状は律儀に出ます。
それどころか、症状は秋にもでるのです。
きっと、この秋にも症状を誘発する何かが舞うのでしょう。

学童見守りに出たときに道の傍らに杉の木が何本かありました。
花粉症を誘発するものがわんさと咲いていました。
写真を添付します。
手前の黄色い米粒より少々大きめなのが犯人の<雄花>で、花粉の塊です。
奥の褐色の梅の実ぐらいの大きさなのが(雌花)で、犯人ではありません。


お釈迦様の掌
因果・予定・天命 その11

<太平の 眠りを覚ます 上喜撰(蒸気船) たった四杯で 夜も眠れず>

4隻の黒船の来航に慌てふためく光景を鮮やかに歌っていますね。
<上喜撰(蒸気船)>の引っ掛けが見事です。
(上喜撰=上等な茶)・・・4杯飲めば・・・・カフェイン効果で眠れない
(蒸気船=鋼鉄の黒船)・・4杯(隻)来航で・・国難を思い眠れない

前々回、欧米列強の植民地となることを防ぐために、明治の回天を行ったのが20歳代の若者たちであったのには驚嘆する、といいました。
日本の植民地化を防ぐには、日本を列強と同じ社会としなければならないことを彼らは間違いなく学び取っていたのです。
江戸時代が鎖国していたといっても、海外の情報はちゃんと入っていたのです。
オランダ・清国・密航者などによって。
産業革命で産業社会となった欧米各国が、資源原材料の供給地や製品の市場を必要とし、植民地獲得に血道をあげていることを。
植民地化は、インド・東南アジアの国々・そして清国に及んでいることを。
欧米の国々は、社会システムを同じくする国とは対等に付き合うが、違う国は対等に扱う国とは見ず、植民地としても憚りない、としていることを。

1868(慶応4)年・・・明治改元
1871(明治4)年・・・岩倉具視欧米視察団

明治維新を果たして、多くの若者たちが公私を問わず欧米の国々を観て回りました。
若い感性は政治・経済・軍事・情報・・・すべてのことを貪欲に吸収しました。
そして、日本改造に着手したのです。
欧米と同じ社会の国とすることに。

1874(明治7)年・・・板垣退助ら「愛国公党」「民選議院設立建白」

この建白書や党が改元後6年という早い時期にでたのです。
1865(慶応1)年・・・海外新聞(外国の新聞の翻訳)
1866(慶応2)年・・・「西洋事情(福沢諭吉)」「万国公法訳稿(西周)」など
1867(慶応3)年・・・西洋雑誌
1868(明治1)年・・・「立憲政体略(加藤弘之)」
1870(明治3)年・・・「西国立志篇訳(中村正直)」横浜毎日新聞
1872(明治5)年・・・「ミル「自由之理」訳(中村正直)」
            「学問ノススメ(福沢諭吉)」
            「東京日日新聞」以後新聞の発刊が続く
背景には、早くから欧米の思想や体制を紹介したり論じたりした著作やメディアの立ち上げがあったのですね。

内閣制度・憲法公布はこのような思潮にも後押しされたのですね。
1885(明治18)年・・伊藤博文内閣
1889(明治22)年・・大日本帝国憲法公布・衆議院議員選挙法

明治の歴史を語るのではありません。
あくまでも、GHQの日本改造やその後のアメリカの改造圧力に反し、わが国の「民主」「自由」「公平平等」「資本経済」などが、なぜアメリカなどの思うものとならなかったのかを追究しよう、としているのです。
前にいいました。
「民衆による強大化する王権への血を流した闘争・キリスト教における宗教改革・第1次エネルギー(産業)革命などがヨーロッパの国やアメリカを「民主・自由・公平平等・資本経済」の国にした。そのような闘争経験や経済活動や契約精神のない国には、「民主・自由・・・」を押し着せても基盤がないのであるから定着しないのではないか」
そこで、徒労に終わるかもしれないが、先の戦争後のGHQ(アメリカ)による日本大改造のはるか前に実施された大改造<明治維新>とはどんな改造であったのか、GHQ主導の改造とどう違うのかを観てみようとしているのです。

週末つれづれ草子(2007年2月11日) おわり。

週末つれづれ草子(2007年2月4日)

2007-02-11 19:58:44 | 感想・見解
前回キジバトが電線に引っかかり絶命した話をしました。
そのときに、飛んでいる鳥がガラスに突っ込むことがままあるといいました。こういうことだそうです。
飛んでいて、たまたま目に入ったガラスに映る自分の姿をテリトリーに侵入してきた他の鳥と間違えて、追い払おうとガラスに映っている己が影に一直線に向かって行く。
相手(ガラスに映った自分)も一直線に向かってくる。
相手に体当たりした、やったぞ!と思うか思わないうちに絶命しているか気絶しているということです。体当たりした相手はガラスに映った己の幻で、体当たりした本当の相手はガラスだった、というわけです。
この場合、気絶するよりも絶命するケースのほうがおおいですね。
激突振りがわかります。
テリトリー死守を果たさんとして、死んだのです。


お釈迦様の掌
因果・予定・天命 その9

ご隠居、今日はキリスト教が民主主義を根付かせたという話ですね。

そうだったな。
民主主義・資本主義・平等公平主義などの精神面での支柱になっているのではないか、と思うよ。
キリスト教の「聖書」は知っているだろう。

あるのは知っていますが、読んだことはないですね。
キリスト教徒ではないので。

でも、<十戒><サムソンとデリラ><ノアの箱舟>というのは聞いたことがあるだろう。

知っていますよ。映画で観ました。
迫力がありましたね。

これら映画は<聖書>に書かれた物語をもとに作られたのだ。

そのことは、なんとなく知っていますがね。
それが、「民主」「平等」などとどういう関係があるのですか?

大雑把に言うとこういうことだろう。

キリスト教の「THE BIBLE(聖書)」=<NEW TESTAMENT(新約)>と<OLD TESTAMENT(旧約)>。
聖書=新(約)・旧(約)とあるごとく<(約)束・契(約)>を収めた書。
誰と誰との約束・契約?
預言者を介しているが、
<旧約>=(神)と(全イスラエル人)との契約
<新約>=(神)と(個人)との契約
預言者イエス・キリスト以後、(神)と(個人=信者)との契約として収められたのが<新約>。
<旧約>は、それ以前のイスラエル人と神との契約。
先ほどの<十戒>などの話は、<旧約>に収められた有名な話です。
<十戒>というのも、10の約束ごと。
約束を破ったとき・・・神は懲らしめをくだすのです。
アダムとイヴの楽園追放、ソドムの滅亡、ノアのみ救った大洪水などなど。
預言者モーセ以後10戒を守り、約束の地カナン(イスラエル)をえてイスラエルは栄えていきました。
ダビデ王からソロモン王のときには栄華を極めました。
栄華の中でソロモン王は神との契約を破ったのです。
ソロモン王は多くの妻を持ち、その中に他宗の信者がいました。
その影響で、ソロモン王は他宗の神を信じた(敬った?)のでした。
神には、これは絶対に許せなかったのですね。

十戒の1:われを唯一の神とすること。

神の怒りに触れてイスラエルは衰退滅亡し、
その民はバビロンに幽閉されました。
その後、イスラエル人は20世紀まで流浪を余儀なくされたのです。

キリスト教徒は子供のころから聖書に接し、約束・契約を守ることを身につけてきているといえます。
それが、<民主>の根付く精神的支柱となっていることは確かでしょう。
<民主主義>も、その社会の人たちが打ち立てた契約・約束によって成り立っていますね。
要は、契約を守るという精神基盤がないと民主主義は成り立たないわけです。
契約の書=聖書を奉ずるキリスト教国の人たちにはこれがあるといえましょう。

キリスト教国でもなぜヨーロッパの国やアメリカになのでしょうか?
宗教革命によって新教徒が生まれたからといえましょう。
宗教革命=儀式化権威化した協会宗教から原点の聖書に返れ運動
聖書に返れば、当然約束・契約は守るべきものという精神が培われたでしょう。

ということだよ、はっつぁン。
宗教革命によって新教徒が出たヨーロッパの国や新教徒が多く渡って作ったアメリカに民主主義が根付いたということではないのかな。

分かるような気もしますが・・・。
でも、わが国でも古くから結構約束ごとをしているでしょう。

どういう約束ごとがあるのか見当がつかないがね。
約束といっても口約束ではないのだ。
聖書のようにチャンと記録に残した約束ごと・契約なのだよ。
わが国にはそういう契約の風習は人々の中に浸透していなかったのではないのかね。明治以後、グローバル化が進み国同士とか企業間での契約は交わすようになったが、一般国民にはまだまだ“契約を交わす”という行為が血肉となっていないといえるだろう。
頻発している保険でのトラブルや不払いなどが起こるのも、契約が身についていないことに一因があるからではないのかな。

民主主義社会とは窮屈な社会に感じるなー。

そう思うだろう。
それこそが契約を守るということが身についていないという証だ。
議員や官僚で、口では民主主義を言いながら、それを成り立たせる契約を平気で破る者が多いのもうなずけようというものだろう。
民主主義が窮屈だといって、他にいいやり方があるのか・・・。
偉人が出て、日本人にとって心地よいやり方を編み出してくれればよいのだが。
昔は、暗黙のうちに了解ごとがあった。
やっちゃいかんこととか、なすべきこととか、規律などがコミュニティーの中に不文律の決まりとしてまもられていた。
しかし、これは大まかのものであり、契約のようにがんじがらめのものではなかった。
江戸末期、契約というものを身につけたアメリカやヨーロッパの国と付き合わざるを得なくなった。
植民地にされるのを防ぐためには、これらの国と対等に取り組めるように、言い換えれば、日本も同じ社会制度の国だということを示さなければならなかった。社会の変革をせざるを得ない、ということで、志ある先人たちが明治の回天を起こし、ついで文明開化(アメリカ・ヨーロッパ化)を進めた。この推進役になったのが、20歳代の若者であったのには、ただ驚嘆するのみだ。

なーるほどね。
その後、いろいろのことをやりながら、とくに先の戦争後はアメリカの影響のもとで今に来たということですか。

そういうことだ。
わが国としてはこの動きを戻すことは不可能に近いことだろうよ。
ならば、覚悟を決めて民主主義・自由主義・平等公平主義・資本主義を徹底することではないのかな。

「週末つれづれ草子(2007年2月4日)」 おわり。