我が家の周辺では、切干大根を作っている家が何軒かあります。
大根を細い帯状に剥き、干して作るのです。
我が家でも作りました(写真添付)。
ひも状のまま保存する家もあれば、細かく切って保存する家もあります。
醤油味の煮付けなど、いいですね。
今年は暖冬で、寒風での乾燥がかなわず、できばえはいまいち、です。
でも、今年も我が家の食卓を助けてくれるでしょう。
お釈迦様の掌
因果・予定・天命 その12
植民地獲得で忍び寄る欧米列強。
これをしのぐ手立ては?
日本を欧米列強に並ぶ体制・制度の国にすること。
明治維新を果たして、国を思う志士たちは新しい国(体制制度)の構築にまい進しました。
新しいことを始めれば、いろいろと反発・批判・非難・摩擦・抵抗が起こるのは世の常です。
維新後の国の体制制度の新構築も例外ではありませんでした。
藩閥非難。民権運動・国粋思潮。・・・・。
殺傷事件、今で言うテロも少なくなかったようです。
こういう情勢の中では、新しい国体つくりは命がけの仕事であったに違いありません。
しかし、欧米列強から国を守るという志を強くする維新回天の志士たちはいささかのひるみを見せませんでした。
行政・法制・兵制・学制・・・精力的に新制度を作っていきました。
そして、国の姿をかたどる憲法の公布に到ったのです。
明治15年(1882) 伊藤博文ら憲法調査のため渡欧
明治22年(1889) 大日本帝国憲法公布
衆議院議員選挙法・貴族院令公布
<大日本帝国憲法>
国体・・・天皇が統治する(天皇を国の元首、統治権の総攬者とする)。
とはいっても、運用上は、内閣(内閣総理大臣)が天皇の了解を得て権限を行使する。
立憲・・・「議会制」を布くが、その権限は国体(天皇大権)により制限された。
平等・・・維新後も華族・士族・平民の身分を残したが、すべてを「臣民」とした(西欧の神の下の平等に比する天皇の下の平等)。
などなど。
<大日本帝国憲法>から伊藤博文ら起草者の意図が窺えます。
伊藤博文らは思ったことでしょう。
「欧米列強の国に日本が同じ社会の国と見てもらうのには、「議会制」は欠かせない。議会制・民主民権に重きをおけば、この国は勝手に振舞う民の集団になってしまうだろう」
彼らは学び取っていたでしょう。
「欧米の国の民主・民権は、国民が権力との血を流す闘争の末に手に入れたものだ。だから、民主・民権が混乱なく機能する」
さらに、
「かの国々では、平等・公平の概念がキリスト教のいう<神の下での平等>の影響をうけている」
しかるに、
「わが国では、平等・公平といえば新しい概念で、一人ひとり勝手な思いを描き、収拾のつかないことになってしまうだろう」
どうすればよい?
このような混乱の起こることを避けるためには<天皇統治>と<天皇神権化>を図るしかない、と思い到ったに違いありません。
維新推進者は維新を「錦の御旗(天皇のご意思として)」の下で進めました。
戦国時代以後、武家が支配を手中にしても、天皇という権威は威力を持っていたのです。長い伝統からくる威力なのですね。
天皇の権威を端的に示したのが、「大政奉還」「版籍奉還」「廃藩置県」などです。
藩の領地も民も進んで天皇にお返しするという驚天動地の事態。
当時、日本にいたヨーロッパの人たちがその驚きを本国の人たちに伝えたとのことです。
まさに、昨年秋に札幌から発信された言葉<シンジラレナ~イ>です。
天皇の伝統に根付いた権威威光。
伊藤博文らが「天皇統治の国体以外にない」としたのは、欧米列強の社会と日本の社会を比肩して行き着いた必然の結果だったと思われます。
王権神授だとかいろいろの批判・負の評価がありますが、それは今の視点によるものに過ぎず、死者に鞭打つ類でしょう。
当時の情勢・状況を鑑みれば、いかに優れた労作であったかが窺われましょう。
日本を西欧列強の国と同じ立憲・議会制の社会とし、列強国の植民地となることを防いだ面を評価すべきでしょう。
その後、他の要素も絡むが、日本は江戸末期に締結された欧米各国との不平等条約を改訂、言い換えれば、半植民地状態を改善していきました。
週末つれづれ草子(2007年2月25日) おわり。
大根を細い帯状に剥き、干して作るのです。
我が家でも作りました(写真添付)。
ひも状のまま保存する家もあれば、細かく切って保存する家もあります。
醤油味の煮付けなど、いいですね。
今年は暖冬で、寒風での乾燥がかなわず、できばえはいまいち、です。
でも、今年も我が家の食卓を助けてくれるでしょう。
お釈迦様の掌
因果・予定・天命 その12
植民地獲得で忍び寄る欧米列強。
これをしのぐ手立ては?
日本を欧米列強に並ぶ体制・制度の国にすること。
明治維新を果たして、国を思う志士たちは新しい国(体制制度)の構築にまい進しました。
新しいことを始めれば、いろいろと反発・批判・非難・摩擦・抵抗が起こるのは世の常です。
維新後の国の体制制度の新構築も例外ではありませんでした。
藩閥非難。民権運動・国粋思潮。・・・・。
殺傷事件、今で言うテロも少なくなかったようです。
こういう情勢の中では、新しい国体つくりは命がけの仕事であったに違いありません。
しかし、欧米列強から国を守るという志を強くする維新回天の志士たちはいささかのひるみを見せませんでした。
行政・法制・兵制・学制・・・精力的に新制度を作っていきました。
そして、国の姿をかたどる憲法の公布に到ったのです。
明治15年(1882) 伊藤博文ら憲法調査のため渡欧
明治22年(1889) 大日本帝国憲法公布
衆議院議員選挙法・貴族院令公布
<大日本帝国憲法>
国体・・・天皇が統治する(天皇を国の元首、統治権の総攬者とする)。
とはいっても、運用上は、内閣(内閣総理大臣)が天皇の了解を得て権限を行使する。
立憲・・・「議会制」を布くが、その権限は国体(天皇大権)により制限された。
平等・・・維新後も華族・士族・平民の身分を残したが、すべてを「臣民」とした(西欧の神の下の平等に比する天皇の下の平等)。
などなど。
<大日本帝国憲法>から伊藤博文ら起草者の意図が窺えます。
伊藤博文らは思ったことでしょう。
「欧米列強の国に日本が同じ社会の国と見てもらうのには、「議会制」は欠かせない。議会制・民主民権に重きをおけば、この国は勝手に振舞う民の集団になってしまうだろう」
彼らは学び取っていたでしょう。
「欧米の国の民主・民権は、国民が権力との血を流す闘争の末に手に入れたものだ。だから、民主・民権が混乱なく機能する」
さらに、
「かの国々では、平等・公平の概念がキリスト教のいう<神の下での平等>の影響をうけている」
しかるに、
「わが国では、平等・公平といえば新しい概念で、一人ひとり勝手な思いを描き、収拾のつかないことになってしまうだろう」
どうすればよい?
このような混乱の起こることを避けるためには<天皇統治>と<天皇神権化>を図るしかない、と思い到ったに違いありません。
維新推進者は維新を「錦の御旗(天皇のご意思として)」の下で進めました。
戦国時代以後、武家が支配を手中にしても、天皇という権威は威力を持っていたのです。長い伝統からくる威力なのですね。
天皇の権威を端的に示したのが、「大政奉還」「版籍奉還」「廃藩置県」などです。
藩の領地も民も進んで天皇にお返しするという驚天動地の事態。
当時、日本にいたヨーロッパの人たちがその驚きを本国の人たちに伝えたとのことです。
まさに、昨年秋に札幌から発信された言葉<シンジラレナ~イ>です。
天皇の伝統に根付いた権威威光。
伊藤博文らが「天皇統治の国体以外にない」としたのは、欧米列強の社会と日本の社会を比肩して行き着いた必然の結果だったと思われます。
王権神授だとかいろいろの批判・負の評価がありますが、それは今の視点によるものに過ぎず、死者に鞭打つ類でしょう。
当時の情勢・状況を鑑みれば、いかに優れた労作であったかが窺われましょう。
日本を西欧列強の国と同じ立憲・議会制の社会とし、列強国の植民地となることを防いだ面を評価すべきでしょう。
その後、他の要素も絡むが、日本は江戸末期に締結された欧米各国との不平等条約を改訂、言い換えれば、半植民地状態を改善していきました。
週末つれづれ草子(2007年2月25日) おわり。