あび卯月☆ぶろぐ

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讀賣新聞で「涼宮ハルヒの憂鬱」絶賛

2006-06-08 00:47:48 | 漫画・アニメ
今月六日附けの讀賣新聞の文化欄で「涼宮ハルヒの憂鬱」が紹介されていた。
以下、文章を引こう。

既刊8冊で250万部。部数急伸はテレビアニメ化効果も大きいが、小説として結構侮れない。最新刊の『涼宮ハルヒの憤慨』まで一気読みしてしまった。
性格自己中な女子高生が、この世の面白い不思議を求めて「SOS団」なる学内サークルを結成する。適当に集めた団員の正体はそれぞれ宇宙人、未来人、超能力者で、ハルヒ一人がそのことを知らない。団員らの使命はハルヒに愉快で平穏な日々を送らせること。なぜなら、この世界はハルヒが見ている「夢」かもしれないという恐るべき仮説があり、彼女が世界に飽きれば、何が起こるかわからないのだ。
世界の命運が学園の日常に直結するという趣向は、70年代のジュヴナイル(少年向け)SFにもある。が、日常から非日常へ物語が飛躍するのではなく、非日常的な面々が、崩壊ギリギリの現地の中で、「あたりまえの日常」を必死につむいでいくという逆転は、いかにも2000年代的だ。基本的に明るいドタバタコメディだが、10代~20代のライトノベル世代の、世界に対する漠然とした「不安」を映しているようにも感じられる。
ライトノベルとしてはクセのない優等生的な作品。萌えアニメ絵の表紙にひるまず、ぜひ一度手に取ってみてほしい。
(讀賣新聞 平成十八年六月六日)


特に注目したいのは後半の「日常」と「非日常」について述べた箇所。
「ハルヒ」の中で描かれる世界は日常を主体としたものであるが、
実は非日常の連続である。
この論評で「ハルヒ」はほぼ絶賛されているが、私はどうしても「ハルヒ」を好きになれない。
というのも、一見すると巷にあふれる「萌え絵」を使ったライトノベルであり、
アニメの方もドタバタ学園萌えアニメにみえる。
が、内に文学的なものを散りばめており学園や萌えだけではないことが強調される。
あるいはそれは文学ではなく安っぽい「ブンガク」なのかも知れない。
いづれにせよ、不可解で難解な内容・設定はそれだけで文学の匂いを漂わす。
私がハルヒを観つつも一方で不快感を感じるのはこのあざとさがあるからだ。

そして、なにより私は「ハルヒ」の作中で描かれる日常に恐怖を感じる。

少し前、「行け!稲中卓球部」という学園ギャグ漫画が流行った。
「稲中」を御覧になった方に最終巻あたりの日常を描いた箇所を読んで不思議な感覚に襲われた方はいないだろうか。
「ハルヒ」に潜む不思議な感覚とそれは一致する。
じじつ、「稲中」の著者・古谷実はその後、
ギャグを棄て日常に潜む闇や恐ろしさをテーマとして作品に傾倒してゆく。

つまり「ハルヒ」にあるものもそういった日常に潜む闇や恐怖なのである。
いや、だからこそ「ハルヒ」は多くの読者、視聴者を惹きつけてやまないのかもしれない。

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