金瓜石と九イ分という二つの〝黄金双城〟ですが、当時前者が国営の厳格な管理下にあったのに対し、後者は民営という経営形態の違いがあったのだそうです。
固定月給を貰って働いていた金瓜石の坑夫の職員に対し、九イ分の坑夫は抗動を借り受け一攫千金のチャンスもあったとのことで、官営でお堅い金瓜石に対して、歓楽街が形成された九イ分は盛り場としても大いに賑わったとか・・・・
官営区域と民営区域を分けるという台湾総督府の公平な施策が何とも興味深いですが、往時の日本の面影や、山間の自然とが織り成す風景を求めるなら金瓜石に軍配があがろうかと思います。
黄金博物館では、当時の坑道の中を見学することもできます。係員から説明を受け、ヘルメットを被り、〝安全宣言〟をしてから<本山五坑>の入坑口(写真)へ向かいます。係員の中国語の説明は皆目理解できませんでしたが、〝安全歌〟(と言ってました)を歌ってから坑道の中に入っていったようです。
当時の出勤簿の縮刷を見ると、入坑時間、出坑時間の時間管理も厳格になされており、早番は、朝8時30分入坑、14時30分出抗と、戦前でありながら労務管理がきちんとなされていることには少なからず驚きました。
坑道の中は掘削風景等も蝋人形で再現(写真)されており、中々リアルでした。坑内労働など、労働基準法の条文でしか存じませんが、食事等の休憩も暗い坑道の中(写真)で取るわけですし、落盤事故等も当然付き物だったでしょうから、相当しんどい労働だったのだことが拝察されます。
坑道を出てから<黄金神社>跡へと向かいました。場内の一番高い位置にあり、風水等も考慮されているのでしょう。険しい参道(写真)から振り返りますと、曇天の向こうに薄ら寒い海が見えます。ようやくたどりついて灯篭(写真)が視界に入った時は、「よくぞ、こんなところにまぁ・・・・」と感心するやら、呆れるやらといった感慨・・・・そもそも突然気が変わって適当に赴いた先で神社を見ようとは思いもよりませんでしたね。
跡地には台座のみが残り、鳥居が虚空を突き刺すように立っていました。
山間に眠っていた鳥居や灯篭が日本人の私と邂逅したのも、金瓜石の観光地化の賜物ですが、パラオ共和国の南洋神社のように<黄金神社>も復元させて、〝宝くじのご利益〟として大々的に売り出すのも一興かもしれませんね!
※写真・・・・黄金神社の鳥居
佐賀県唐津市の宝刀神社が宝くじで全国的に有名になりましたが、行ってみたら何もない島でした。
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