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1988年4月28日に起きた、カフルイ空港の航空機事故のことを記憶している人は多いと思う。
実際の場面が、テレビニュースで世界に報じられたからである。
ハワイ島には、ヒロ空港とコナ空港がある。
自家用の飛行機やヘリコプターが飛び発つ小さな空港は、他にいくつかあるが、ヒロとコナの空港は、サンフランシスコやデンバー、シカゴなどから直通でやって来る定期航空便を持つ大きな空港である。
その日、ヒロを飛び発ったアロハ航空のボーイング737-200型機は、ホノルルに向かっていた。
高度7,200メーターに達した辺りで、機体に強烈なショックがあり、ついで、コックピットの後ろ辺りから後部5.5メーターぐらいまで、機体の上部が吹っ飛んでしまったのである。
乗客は、離陸してまだ間がないこともあって、まだシートベルトサインが点灯していて、ベルトを着用していた。
この飛行機に乗っていたのは、乗客が90人、クルーの機長ロバート・ショーンスタイマー、副機長のマデリーン・ミミ・トムキンズ、客室乗務員の3人、クララベル”CB”ランシング、ジェイン・サトウ・トミタ、ミシェル・ホンダは、すでに乗客のサービスを始めていた。
突然、猛烈な衝撃音に続いて、急激な減圧があり、何がなんだか気がつく前に、ちょうど移動中のシニア・アテンダント(上席客室乗務員) のクラベル・“C.B.”ランシングは、あっという間に空中に吸い出されてしまった。
この人は、その後捜索がなされたが、死体の確認ができないままである。
トミタは、機材に挟まれて、動くことがができなくなり、もう一人のホンダは、通路にしがみつき、へばりついた状態で、乗客が手を差し伸べて、彼女が飛ばされないように固定していたのである。
" As the airplane leveled at 24,000 feet, both pilots heard a loud " clap " or " whooshing " sound...."
( 飛行機が24,000フィートに達した時、二人の操縦士が、大きなカタカタ言う音、また、ヒューという風の音を聞いた…)のが、おそらく始まりだった。
次に、コクピットの後方ドアが吹っ飛んで、猛烈な風圧にさらされていた。
機材の飛び散った破片が舞い込み、後部の引きちぎられたドアの方を振り向いても、青い空だけが見えた。
操縦していたのは、機長ではなく、このときは、偶々訓練のため、副操縦士のトムキンズと言う女性だった。
もちろん、副操縦士が操縦かんを握るのは法律で許されたことで、何ら違法なことはなく、事実飛行機が事故を起こしたのは、あくまで機材の長期使用での金属疲労とメインテナンスの不備によるもので、操縦に問題があったわけではないのである。
機長は、直ちにイマージェンシー・コードの緊急発信を行い、飛行位置から最も近いマウイ島のカフルイ空港に緊急着陸する決断をしたのである。
酸素マスクが使えない状況であり、乗客を守るためには、高度を下げて、できる限り気圧を調整する必要があったのである。飛行機は、高度を下げ続けた。
床下の油圧ケーブルが、切断されていて、そのため左エンジンが動かなくなっていた。
辛うじて飛行を続けることは可能のようだったが、右に左にローリングしたり、上下にピッチングしながら揺れ動く機体をコントロールするのに、二人の操縦士は必死だった。
状況から、飛行機がカフルイにたどり着けるのは不可能に思えたのである。
機長、副操縦士も、この状況を乗り切ることだけに専念していて、この先どうなるかは、まったく思いも及ばないことだった。 ただ飛び続ける飛行機を、無事着地できることに賭けたのである。
カフルイ空港では、着陸する予定の航空機を、すべてキャンセルし、待機中の航空機も脇に避難させ、緊急の配備を敷いた。消防車や救急車が、サイレンを鳴らしながら、滑走路脇に集まり、救急隊も待機した。
すると、間もなく、問題の飛行機が、遠く空の一点に姿を現した。体をゆすりながらも、なんとか飛行する様子が見えたのである。
祈るように見守る人たちの前に、その飛行機が土煙を上げながら着地に成功した。
そこで、信じられない光景を人々は目にするのである。
機体は、天井部分が丸裸で、座席にしがみ着いている乗客は、まるでジェットコースターの座席に座っている人たちのように見えたのである。
これは、まさに「奇跡の着陸」(Miracle Landing)だったのである。
これほどまで、ひどい破損具合から見て、無事着陸できたことの方が不思議だった。しかも、乗務員一人が犠牲になったとはいえ、残りのクルー4人、搭乗者90人が無事だったのである。
重傷者は7人、軽傷者57人、30人が、無事生きて帰ることができた。
左エンジンが停止した状態で、機体をコントロールしながら、無事着地に導いた機長、副操縦士の沈着、冷静な判断、困難な状況に対処した努力に対しては、後になって、航空業界からだけでなく、政府機関からも高く評価され、いくつもの機関から表彰されたのである。
この飛行機は、1969年度製で、19年運航を続けていたもので、古い機材ではあるが、直ちに運航をやめるほどでもなかった。
しかし、金属疲労が進んでいたのは間違いなく、定期点検などで、機材使用が限界であることが指摘されるべきだった。
政府の調査機関からも、十分な定期点検がなされていたか、メインテナンスが充分であったかは、問題のある所として指摘された。
ハワイの場合、それぞれの運行距離が短く、折り返し飛ぶので、飛行頻度が多く、また海風の中を運航しているため、塩害で腐食の進み具合が早いことなどが、指摘された。
カフルイに無事着陸して、ほとんどの乗客は放心の状態で、どうしていいのか、俄かにはわからないようだったが、時間が経つと、自分たちが無事であることを確認できたようだった。
機内から助け出された人たちも、感動のあまり泣き出す人がいて、救急隊員に抱きついたり、気を取り直し、安全に導いてくれた乗務員に握手を求める人もいたリ、乗客同士抱き合ったりしていた。
万が一に備えて、空港で待機していた人たちも胸をなでおろしたのである。
その時、たまたま操縦かんを握っていた女性副操縦士は、後に機長になり、以前と同じように飛行機に乗っていることを、後の新聞だったか、テレビのニュースで知った。
ハワイで飛行機に乗る度に、駐機中の飛行機のコクピットを覗きこむようにしている。
ひょっとすると、彼女が、コクピットの機長の席に座っているのではないかと思ってしまうのである。
このことを再現したテレビドラマができて、アロハ航空とか便名などは架空の名前になっていたが、実写の映像を使いながら、その時のパニック、機内の様子、乗客の様子などが描かれていた。
その題名が、文字通り「奇跡の着陸」(Miracle Landing)だったのである。
次の日、大学で、「ニュースを見た?」とか、「ビックリしたなあ!」、「一人は、気の毒だったが、助かってよかったね!」とかの会話が飛び交った。
犠牲になられた乗務員のかたは気の毒ですが
よくぞご無事で・・・
やっぱり飛行機は怖いです。
運賃の格安を目指すには
コストの削減が必須なのでしょうが
安全性を重視することを怠ることは決してできず
そこのところの力加減が難しいのことなのでしょうね。
日本と違って、アメリカでは、飛行機がバスのように、気軽く利用されていて、特別な乗り物とは思えなくなります。
シカゴのオヘア空港で飛び発つ飛行機を見ていたら、次から次に飛び発っていて、ごく日常の生活の一部に見えます。
本当に、奇跡でしょうね。
なんだか、飛行機が怖くなりました。
私は、体が小さいので、エコノミーでも、困らず、わりと平気で
飛行を楽しめるのですが、怖い事件って、必ず起こるものですね。
今回の原発事故も、いつかは日本にも、絶対におこると、思っていました。
こんな形になる事はとても、予想出来ませんでしたが。
安全の上にも安全に、費用を惜しまず備えていれば、これほどには、ならなかったのではと
残念に思います。
友人のご主人が何十年も機長をされていて一昨年 無事に退職されましたが
現役時代はかなり神経を使われていました。
自宅のご主人のデスクには各国の空港情報が引き出しに
整然とファイルされていたのを見た時は驚きました。
又、自分にもしもの事があった時の手続きも
きちんとファイルしてありました。
命がけのお仕事だと痛感しました。
野球の選手で、飛行機が嫌いな人がいて、遠征先に、他のチームメイトは飛行機で移動するのに、彼だけは、新幹線で目的地まで行っていた選手がいました。
家の人も、心配だろうと思います。
機長ではないですが、昔「パンナム」のスチュアーデスをしていた人がいて、日本とアメリカの間を行き来していました。
もともと東京に住んでいましたが、中間に位置するハワイの方が、勤務上便利がいいとかで、ハワイに移って住んでいました。
何時か何かが起こるのではと覚悟をしていると言っていました。