風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

浄化

2012年11月24日 | 雑感

寒々しい曇天です。
再来週には師走になります。
なんてこったです。
いつまでたってもボヤボヤ太郎です。

なんだか寂しい気がするのは今日の昼食のせいです、たぶん。
手持ちのお金がなかったので、店にあった豆の缶詰を、これまた缶詰のトマトソースを絡めて、
レンジでチンしたのを食べました。
全然満足感がありません。
南米のどっかの国の刑務所の食事のような気がします。

炊きたての白いご飯においしい味噌汁と漬け物が食べたいです。
そんなものいつだって食べられるじゃないかと言われても、そうも行かないのが人生です。
なんだか物足りないので、コーヒーをがぶがぶ飲んだら、気分が悪いです。
負けるなボヤボヤ太郎!

下らないことを書いてます。

話は変わりますが、「浄化」ということがよく言われます。
地球の天災もある意味での自然の自浄作用であり、人が時折高熱を出すのもがん細胞やらなんやらをやっつける
浄化のプロセスだと言われます。

修験道などでも浄化、つまりはお祓いや清めということを大切にしますが、
その際には「火」か「水」の力を借ります。
「火」を使う場合には、「護摩炊き」という手法をとります。
燃えさかる炎の前ですべての業璋を焼き尽くします。
「水」を使う場合には、滝行などを含めて「禊ぎ」という手法をとります。
来れもまたすべての汚れや業璋を水に流してしてしまうということになります。

地震や火山の噴火は「火」による浄化、台風や洪水は「水」による浄化ということになるでしょうか。
人が災難を受ける天災を浄化作用と捉えるとは何事かと怒る人もいるでしょうが、
今の有様のような人類の存在は、地球にとってのがん細胞だというような考え方もありますので、
その辺りはいろいろな考え方があるのだなぁということで、ご承知おき下さい。

「火」と「水」を合わせて、火(カ)水(ミ)、つまり「カミ」と呼ぶという考え方が神道にはあります。
神道においては、何よりも清明さを尊びます。
神道の儀式のほとんどは汚れを「祓う」ことだと言っても過言ではありません。

それでは「汚れ」とはなにかということになります。
端的に言ってしまえば、行き過ぎた我欲ということになるのではないかと思っています。
自分の欲のために、人を策略にはめ、利用し、自利を貪る心。
己の利便さのためだけに、自然の豊かさを蕩尽し、大地を荒廃させても顧みない心。
そういう心を持った人が増えれば、当然社会はぎすぎすしたものになり、人心は荒廃します。
そういう清明さとは反対の状況を生み出すすべてのエネルギーを祓い飛ばす道が、
神道なのだということができるかもしれません。

言い方を変えれば、神道は人間の幸福追求だけに焦点を絞ってはいません。
あくまでも、自然と人間の調和に在るべき姿を追求します。
太陽の前に、畏怖と感謝の頭を垂れます。

神道のカミは、キリスト教の神とはまったく別な存在に思えます。
カミに神という字を当て、キリスト教の神と同じ字を使ったことから、その辺りの誤解が根深いように思います。
キリスト教、特に旧約聖書の神は命令し、罰する神であり、
神道のカミは見守り、指導し、祭りの日には、歌って踊って共に喜ぶカミです。

そして大切なことは、そのカミガミ様はどこにおわすのかかということです。
雲の上にいるのでしょうか。
太陽の中に住んでいるのでしょうか。
銀河の果てに輝いているのでしょうか。

神道における祭壇の中央には鏡が安置されています。
その鏡に映るのは誰でしょうか?

下らない話から、どうやらちょっといい話ができたように思います(笑)。

 

 


ルーティング

2012年11月17日 | 雑感

今日は娘のお楽しみ会でした。
安室奈美恵の曲に合わせて、先生が作ってくれた紫色の派手なドレスを着て、ステッキを振り回して踊ってました。
2年前の年少さんの頃からみると、ずいぶんと成長したものです。
赤ちゃんに毛が生えたようなものから、少女への仲間入りの前段階という感じでしょうか。
曲のせいか涙は出ませんでしたが、まぁ、楽しみました。
隣にいた嫁の母親はポロポロ泣いていましたが。
ビデオにも撮りました。
大人になったら娘のいい宝物になればいいなと思っています。

仕事でも生き方でも、やってみて駄目だったら、あるいは間違っていたら、違う選択肢を選ぶということができます。
ただ例外もあります。
それは結婚です(笑)。
離婚という方法もありますが、あまりにも犠牲と負担が大きい選択です。

ですから、結婚以外は、なんでもやりたいと思ったらどんどん自由にやったらいいのかもしれません。
いやむしろやった方がいいでしょう。
もちろん、これは良くないことだと思ったり、失敗だと思ったら、さらりと道を替える、
あるいはキッパリと引き返す素直さと勇気が必用条件ですが。

大方、人は失敗やら痛い目から教訓を得るものです。
でもチャレンジのないところに失敗も痛い目もありませんから、学ぶ機会もうんと少なくなります。
生の体験と机上の学問から得る学びの質量の落差は埋めようがありません。
生身でチャレンジして、生身でひっかき傷を作ったり、なんかして心身共に成長していくしか、
生の現実世界を渡っていく技量は身につきません。

ぼくも、曲がりなりにも自分で店を出したりしていますから、やることなすこと初めてのことばかりです。
誰に聞くわけも行きませんから、自分でやってみて、間違ったり、人に迷惑かけたり、怒鳴られたりしながら、
パンチドランカーのようにふらふらと前に歩いて行くわけです。
そんな状態でなにが楽しいのかと問われれば、自分で切り開いた道を一歩一歩歩いていく喜び、
その道すがら出会う人々や風景との出会いの喜び、まぁ、精神的な登山ですね。
転んだらたちまち滑り落ちるというのも、登山と一緒です。
そういうスリルを味わうというのも喜びの一つです。

で、それもやはり登山と一緒なのですが、道選びを間違ったと知ったら、即座に引き返すか
別のルートを探さなければなりません。
そうしないと遭難します。
また、自分の体力や装備の力量を超えた山を登り始めたてしまった悟ったなら、一旦とっとと下山して、
体勢を立て直して再チャレンジするという判断も的確でなければならないでしょう。

そういう意味では、今ぼくは二つのまったく違ったベクトルを持つ店の二股をかけています。
これは、ただでさえ難しいルート判断を誤ってしまう可能性が非常に高いなと実感しているところです。
一つを仕上げてから次に行くというのはそれほど困難ではないように思いますが、
二つ同時に立ち上げていくというのは、なんだか無謀です。
無謀さを克服するおれってカッコイイというような感傷が通用するような甘い世界ではむろんありません。
ボヤボヤしてると、いつの間にか天候は崩れ、暴風雨が襲ってきます。
引くに引かれず、選ぶに選ばれずという、立ち往生という状態にはまります。
二つの山を登っていると、引き返すとか、道を選び直すとかいう行為が、なかなか判断しづらくなります。
両方の山の自分の立ち位置を、もう一度しっかりと地図で確認し、装備を点検し、ルートを弾き直す必用があります。
ここで強引に行くと、二つの山から同時に転げ落ちてしましそうです。

まぁ、といっても二股をかけるというのも、また一つの選択肢なわけです。
誰もがお勧めしないルーティングなわけです。
真っ先に回避すべき遭難者続出の危険なルートなわけです。
それを敢えてチャレンジするというのも、なんというか、自分的にはありかなと思っているわけです。
ルートに足を踏み入れて以来、一年も経たずに10キロも痩せるような、そんなルートではあるんですが(笑)。
 


こもる

2012年11月13日 | 雑感

日々冬らしくなっていきます。
冬は嫌いではありません。
「こもる」というが嫌いではないからでしょう。

学生時代もよくこもりました。
連日飲み明かしたりなんだりして、ふと疲れを感じて、数日自分の部屋にこもり、一歩も外に出ないというようなことを、
よくしてました。
部屋にいて何をしているかと言えば、まぁ本何冊も読んだり、借りたレコード聞いたりしてました。
十分にこもったら、また外に出かけました。
バイトをしないと食えませんでしたから、適当にバイトを探して数日働き、お金を作って山に行ったり、
旅行に行ったり、まぁ好きかってしてました。

まだ若かったですから、他人との出会いも楽しいのですが、楽しいことだけではなく、その出会う他人とのズレや、
違和感やらなんやらに疲れもしました。
その疲れが溜るとこもっていたように思います。
独りこもって自分の世界観を再構築し、再確認するわけです。
今考えてみれば、とてもお粗末な世界観でしかなかったわけですけれども、自分の心のバランスを保つためには
必用な行為だったんだと思います。

今は求めて人と出会うというようなことはとんとしなくなりました。
出会う人には出会えばいいし、縁のない人とは袖もふれあわないでそのままでいいという感じです。
別に達観しているとかそういうのではありません。
己の都合で縁をコントロールしようと思うと、とてつもなく疲弊することを体験で知ったからです。
さらにいえば、何を経験するのかもコントロールしようとはあまり思わなくなりました。
なにかの機会があれば、それを体験するかどうかを直感で決めているだけです。
直感が当てになるのかどうか、それは分かりません。
ただ、直感以外の計算やら思惑やらがさらに当てにならないことは知っています。

要は、無駄に疲れることに耐えられる体力やら精力やらが減退したのです。
だから、流れに任すという態度が通常になってきたのです。
流れに抗ったり、流れを変えたりする気力がもうありません。
ですから、これが今の流れだと判断した流れに関しては、粘り強くその流れを大切にしようとはします。
今このときの流れさえ見失ったら、もう世間を流れる術さえありませんから。

そういう感じで、流れに乗るということを主流の生き方にしますと、人との出会いや体験する出来事というものに、
あまりストレスを感じなくなります。
拒みもせず、追いかけもせずです。
ですから、こもるという必要性を今はあまり感じなくなって来ているのでしょう。

こう言葉にしてみますと、ずいぶんと爺臭い生き方だなと思わないでもありませんが、まぁ、そんなものでしょう。
爺には爺の喜びと楽しみがあるものです。
爺の好ましい心のあり方として上げてみると、「愛しくなる」というのがあるかもしれません。
自分がどうしたいこうしたいということを手放し、周囲の出来事やら人々やら事象などが愛しくなる。
プラスマイナス、悲喜こもごもひっくるめた愛しさです。
こうでなければいけない、ああでなければいけないも脇に追いやって、にこりと周囲を見回す。
そんな感じです。
まぁ、そんな感じも、自分に火の粉が降りかかってくればたちまち、霧散するのも常なんですが。

若いうちは何にでもぶつかって、疲れたら部屋にこもる。
年取ったら、ぶらぶら世間に出て、行雲を眺めて、ニヤニヤする。
う~ん、全然うらやましくも美しくもない姿ですね(笑)
これからいよいよどんな爺になるのか。
具体的なイメージ作りに取り組みます。

 


情報

2012年11月07日 | 雑感

今日も初冬の薄暗い1日です。
風邪を引いたので、例によって昼過ぎまでぐっすり寝て、どうやら治った感じです。
ちょっと油断して薄着でソファの上で転た寝なんかしますと、風邪を引きやすいと思います。

アメリカでは大統領選です。
いかにも投票という行為が有効で、民主主義が機能しているかのような印象作りのための選挙でしょう。
選挙というのは、民主主義が機能しているかのように錯覚させるための茶番でしかないと言ったら、
頭がおかしいと笑われます。
メディアには報道する権利と報道しない自由があるのだそうです。
報道しない、報道されない情報の中にいかにおびただしい真実が隠されていることか。
明らかに情報は操作され、フィルタリングされ、脚色されて、報道されます。
そのような歪曲された情報を素に判断される投票という行為を、どう考えたらいいでしょうか。

一般の人々が加工される以前の生の情報に触れるというのは、物理的に不可能な話です。
そもそもどのレベルの生の情報なのかという、情報の質的・量的な問題もあります。
ですから、本来ジャーナリズムというのは、いろいろな角度から現象を分析する上で、
できるだけ操作されない、フィルタリングされない、脚色されない情報を人々に提供する役割があるわけですが、
テレビのご用コメンテーターが垂れ流す無責任な意見というか、思いつきというか、
そういうレベルの言説が世の中に流布します。
それ以上の情報ももちろん今ではネットで探し出し、検証することは可能ですが、それをするだけの時間と
余裕と情報分析能力があればの話です。

情報というのは巷に溢れれば溢れるほど、それを取捨選択する能力が求められます。
それを取捨選択する基準はなんなのでしょうか?
自分の直感?
好き嫌い?
お気に入りのコメンテーターの意見を参考に?

なかなか難しい話です。
毎日毎日膨大な情報が人々の生活空間にたれ流されます。
新聞もテレビも見ない生活をしばらく続けますと気がつくことがあります。
そのほとんどの情報が無駄で、退屈で、どうでもいい情報だったと。

何かを判断するには、判断するための正確な情報が必用です。
でも、流布される情報のほとんどが、操作され、歪曲され、脚色された情報だとしたら、
とても厄介な状況に置かれてしまいます。
責任を持った判断をするというのが極めて難しくなるからです。

まぁ、自分なりの情報ネットワークというのをもう一度洗い直し、構築し直す必要があるかもしれません。
う~ん、どうかな。
もはや、それほど情報というものをがつがつと集めなくてもいいような気もするのですが。

写真は数日前の空です。

 

 

 

 

 


生死

2012年11月05日 | 雑感

分厚い雲に覆われ、なんだか薄暗い1日でした。
秋と言うよりは初冬という感じです。
そろそろコートが必要となりそうです。

このところ新聞・テレビをまったくといっていいほど見ていませんので、世の中の動きがよく分かりません。
それでも、ニューヨークでハリケーンの被害が大きかったことや、中国の万里の長城で日本人観光客が雪嵐に
見舞われたことなどはネットの情報で知ることができます。
どちらも死者を出す惨事になったようです。

ここでも何度も紹介した良寛さんの言葉です。良寛が文政十一年越後・三条の大地震の際に、
与板の山田杜皐あて書いた手紙からの抜粋です。

「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事なく、親類中、死人もなく、めでたく存じ候。

うちつけにしなばしなずてながらえて かかるうきめを見るがわびしさ  

しかし災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候。かしこ」

現代語ふうに言えば、

「地震は本当に大変でしたね。自分のところの草案は無事で、親類も死人も出ず、何よりでした。

流れに任せて死ねば死ねば良いと思っていたが生き長らえて このような有様を見ることのわびしさよ

しかしながら、災難に遭うときには災難をそのまま受け止めるのがよいでしょう(災難から逃れよう、
逃れようとしないこと)。死ぬときにはしんだらいいでしょう(そうする以外にどうしようがありましょうか)。
こういう態度が、災難を災難として身に降りかかることから身をかわすことのできる心の態度です。」

災難にあい、不幸な事態に陥ることを軽視したり、どうでもよいと思っているわけでは全然ありません。
いろいろな出来事に遭い、一喜一憂する「憂き目(うきめ)」を超越する仏の道をすらりと説いているだけです。
大変さを大変でないと妙な解釈をするのではありません。
大変さを大変と全身で受け止めながらも、起き来ること起き来るがままに、受け流していくこと。
これは決して受け身的な心の態度ではありません。
積極的に出来事の裏に流れる真の流れに身をゆだねるという極めて能動的・積極的なあり方です。
真の流れとはなにかと言えば、正法、仏法、如是法、言い方は様々ですが、仏の説いた教えです。
生死を超越した大生命の流れのあり方です。
今風に言えば、宇宙のエネルギーシステムとか、そんな風な言い方に敷衍できるかもしれません。

まぁ、仏教の一端を知っていますと、何か災害が起こったときに、慌てふためいたり、怒ったり、悲しんだりという
一辺倒から抜け出すことは確かにできます。
生死に囚われず、日々の生死をとことん大切にしていく。
そんな感じです。

 

 

 


2012年11月02日 | 雑感

今週は牛タン屋の方が慌ただしかったです。
急にテレビの取材が入ったり、東北会(トーホグカイと発音)という東北人の親睦会をしたり、
宇宙構造がこれからダイナミックに変換するというような講座をしたり、
そんな感じでバタバタしてました。
東北会は参加した東北人は結局ぼく一人でしたが、まぁ盛り上がりましたので結果オーライです。
テレビの放映日は11月19日、「めんたいワイド」です。
取材模様やなんやらは仙臺屋のブログを読んでみてください。

先週一杯は禅の摂心もありました。
朝5時に起きて自転車で数回行きました。
ここ半年ほど道場には行けませんでしたが、やはり道場に坐るといいものです。

ちょっと前に一緒に一週間の滝行に行ったS君が今回の摂心にも参加しました。
なんと初関を通りました。
初関を通過するということは、最初に老師から頂いた公案をぶち破ることです。
悟りの一歩内側に入り込んだと言うことです。
普通なら数年から、早い人でも数ヶ月かかると言われているのですが、若いS君は一躍道場の期待の星となりました。

なんやかんやと、ことは起こって、うねって、過ぎていきます。
怠けたり、慢心したり、恐れや不安に囚われたりしなければ、起きることはいよいよ大きくなり、
うねりも大きくなり、さらに波は大きくなっていくのでしょう。
その波に乗ればヒャッホーとなるのでしょうが、波に呑み込まれたらアイヤーとなるのでしょう(笑)

いつも波は起きかけるのですが、途中でいつの間にか波が収まるのがパターンです。
エネルギーが持続しません。
ぼくの意識のどこかに波を信じ切れていないブラックホールがある感じです。
まぁそんな屁理屈もぶち破って、波乗りの練習です。