風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

演じる以前

2013年07月04日 | 雑感
近頃、柳という木を見ることがありません。
昔は川端に行けばどこにでも見ることのできたありふれた木だったように思います。
風に逆らわず、つまりはどんな逆境にもしなやかにやり過ごす、そんな柔軟な生き方の代名詞が、柳という木だったように思います。

剛直に生きることがもてはやされる時代もあれば、どこまでもしなやかに生きることの方が生きやすい時代もあります。
今はどんな時代なのでしょうか。
この年になりますと、今という時代とかレンド゛とか政治とかに興味が薄くなります。
最終的に、おれはなにをしようとしているのか、どうありたいのか、というところに興味が集中します。
もちろん人によって興味のあり方は様々なのですが。

明治維新というのは、武士としての誇りと自負がバックボーンにあるからこその希有と言うべき奇蹟的な革新でした。
一億総平民の今の世で、少数の誰かがなにかを変革するという時代は期待すべくもありません。

ぼくはなにを言いたいのでしょう。
ある程度自分が生きるという齢を重ねてきたら、自分がどのように生きていくのがふさわしいのかをきちんと考え・・・。

そんなことは死ぬまで分かりません。
死ぬまで分からないからこそ、この世は面白いわけです。

なにが面白いのか。
優劣、有名無名、貧富、そんなどこかの誰かが作った規範に乗っかることが面白いわけではありません。
かといって、そういう規範から外れることが楽しいことでもありません。
なにが面白いのか。

自分というかりそめの存在が、この世というかりそめの舞台で、なにを演じるのか。
ビジネスマンであれ、主婦であれ、作家であれ、演じきるのも虚仮だし、演じきらぬのもまたこれ虚仮。
さてさて、どうしたものか。

柳は自分を人に「ヤナギ」と呼ばれる存在であると思っているわけではありません。
川縁で、自分の特性を最大限に活かし切りながら、風に吹かれてゆらゆらと生きているだけなんでしょう。
「演じる」という過剰な自意識がそこにはありません。

なにも演じない。
そうなれば、そこにはありのままの、自分のようなものがおぼろげに立ち上がります。
ありのまま。
なにがあるのか。
「まま」とは移ろうということ。
あるものが移ろえば、あるものはどこへ行くのか。

本当のところを言えば、こういう言葉遊びはまったく興味がありません。
なにも演じない自分。
演じる以前の自分。
無言の自分。
あとは豊穣な沈黙が、自ずからひたすら沈黙する世界。

まぁ、拙い言葉で言おうとすればそんなことなんでしょうが、
そんなことより、お休みなさい。
明日はおいしい牛タンシチューの完成予定です。

隣の家の軒先のツバメの巣には、4羽の子ツバメが確認できました。
なんかいろいろ心配しましたが、今年も隣の軒先から子ツバメが巣立ちそうです。
親鳥が近づくと、4羽の子ツバメが懸命に首を伸ばして、口を顔より大きく開きます。
なにもかもが愛しいと思える瞬間です。




最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お久しぶりです (ティアン)
2013-07-05 10:28:55
お久しぶりです、ティアンです。


柳のようなしなやかな生き方は理想ですね。

老子の言葉に、つまだつものは立てず・・・・とあります。つま先立ちをしていたら、長くは立てない、という意味です。

無理しないで自然がいいよ、という無為自然の生き方なんですね。

私もそのように生きていきたいです。
ティアンさんへ (torut21)
2013-09-11 23:22:54
返事おくれてごめんなさい。
コメントなど滅多に付かないブログですから気がつきませんでした。

老子はおそらく突き抜けたんでしょうね。
聖徳太子も突き抜けてた人だったように思うんですが、まぁ、抹消されたんでしょうね。
ぼくは突き抜けたいとは思いません。
突き抜けた人がいるってことだけでもなんか安心します。

コメントを投稿