風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

座頭市

2005年12月02日 | 雑感
昔、新・座頭市シリーズというのをテレビでやってました。
勝新太郎の演技が抜群で、この演技がテレビで一回しか流れないのかと思うと、子供心にももったいないなぁと思うこと仕切りでした。
市はご飯の食い方が汚いです。
犬のように掻きこみます。
一生を放浪の世界に生きた市には、食事作法を覚える余裕も必要もなかったからです。
そして、普段の市は、人様にへらへらして腰が非常に低いです。
腰の低くない座頭などには、お呼びがかかるはずもありませんから。

市は聖人ではありません。
博打もすれば、女郎も買います。
生きるために剣術を身につけ、腰の低い処世術を身に付けただけです。
生きるために人を殺せば、追われる身となり、ひっそりと暮らしたくても、その道を知りません。

そんな市は、いつも風吹きすさぶ裏街道を、頭をすっぽり布で覆って宿場から宿場へと流れていきます。

「どこで 果てよと 誰が泣く 
 知らぬ 他国の 蝉が 蝉が 鳴く」

と、テーマソングが流れます。
そのころカセットテープというのがなく、オープンリールのテープデッキで、マイクをテレビに向けて、
このテーマソングを録音したものです。

それで、すっかり感動したぼくは、冬枯れの原っぱに出て、ススキを相手に棒を振り回したものです。
帰り道は、すっかりなりきってそのテーマソングを口ずさみながら、家に帰るわけです。

で、先日、たまたまタケシの座頭市を見ました。
無愛想で、超人的に強いだけの、気持ちの悪い男が市でした。
生きる哀切さだの、苦しみだのが、なにもありません。
全部見たわけではありませんが、タケシの映画は、無表情に人を殺すという以外に、見所がありません。
無表情に人を殺す裏にあるニヒリズムということを描きたいのは分かりますが、
主人公が強すぎるのが物語の底を浅くします。
その強さにリアリティがなさ過ぎます。

勝新の強さは、盲目に生まれついた故の生きるための必死さでした。
タケシの強さは、下らない人間を叩ききってゆく、下らない人間のぐちゃぐちゃに歪んだ正義感です。
タケシの映画は、殺すほうも殺されるほうも、全く救いがありません。
それを狙っていると言うことも出来ますが、どうかなー。

今日はこれから恵比寿様の縁日に行ってきます。
寒々しい夜、屋台でサザエのつぼ焼きを食ってきます。




最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
座頭市 (かなりや)
2005-12-02 19:24:38
 ディープインパクト!!

            

 ・・・と言っても馬の名前ではありません。

  (深い衝撃・・・?)

座頭市とは人の名前と認識していたからです。



 もちろん、画面で見た事はありません。わたしには全く興味のない世界だったからです。

 toru氏が座頭市よろしくすすきを相手に棒を振り回していた頃、わたしはどうしていたか・・?といえばマリアカラスとかオペラの世界に陶酔しており、・・・。

 そして

同い年、年代の息子は何を考えていたのでしょうかねぇ?今度聞いてみます。



 是非、 勝新の座頭市をみてみたいと思う今宵です。
Unknown (torut21)
2005-12-03 18:37:58
実はぼくも幼いころは名前だと思っていました。

座頭なんて言葉、身の回りで聞くことなんかなかったですから。

コメントを投稿