流山市史跡ガイドウォーキング(浄信寺・西深井富士塚コース)
真夏並みの強烈な陽光が照り付ける5/29の日曜日、流山市公民館の主催による史跡ウォーキングに参加してきました。
午前9時、江戸川台駅西口に集合し、NPO流山市史跡ガイド協会の方々の先導で、33名を3班に分かれて出発しました。
コースは、江戸川台西口→平方観音→美原野馬土手跡→浄信寺→慈眼院→西深井富士塚→深井城跡→八坂神社・ダブルクランク→駒形神社→利根運河ビリケン像→ムルゲル碑(解散)というもので、総歩行距離は約6.5km、所要時間 約3時間でした。
真夏並みの暑さの中、いささかしんどい思いをしましたが、ガイドさんの熱心な説明に、聴くほうも真剣になり、新たな知識を得られたと同時に、格好のウォーキングとなり、実のある体験ができました。
以下に、立ち寄った史跡について記します。
平方観音
出発後、まず最初に訪れたところです。創建は不詳ながら、墓地内に弘安10年(1287)の市内最古の板碑(板石)がある観音堂です。今では卒塔婆として木板を使用しますが、昔は板石が使われていたんですね、本尊は聖観音で、12年ごとの午年に開帳とのこと。境内には、江戸八十八ヶ所の大師堂のほか、如意輪観音像などの石造物があります。可愛い6体のお地蔵様が印象的でした。
美原野馬土手跡
江戸時代に築造、補修された土手。幕府直轄の牧で放牧された馬が、民家や田畑に入りこまないよう柵の役割を果したとか。このような土手跡は市内各所で見られるようです。
浄信寺
ここは浄土宗の寺院で、創建は享徳2年(1453)以前と考えられています。山号は深井山本尊は阿弥陀如来で、聖観音は60年に一度開帳とか。干支の1巡ごとということでしょうか。もともとは古谷地区にあったものを天正6年(1578)に現在地に移された由。境内には如意輪観音などの石造物やイチョウなどの保存樹木があります。
慈眼院
戦国時代創建の真言宗の寺院で、浄信寺のすぐ目の前にあります。山号は観音山。本尊は十一面観音。境内には、六地蔵、十六歳孝養像の聖徳太子塔などの石像物や保存樹木のツバキなどがある。興味深いのは、ここは石田三成の家臣山田上野助の子孫である東深井山田家の菩提寺で、昭和10年同家の土蔵から上野助の孫の山田喜庵が残した「佐和山落城手記」が発見されたとのこと。佐和山から遠く離れた流山の地が明智光秀の関係者との繋がりがあるとは驚きです。
西深井富士塚
江戸時代に富士山を模して築かれた塚で、高さは5メートルの山頂(?)には、明治16年(1883)建立の浅間大神の石塔などがあることから、浅間(せんげん)様と呼ばれています。
安蒜家板石塔婆
板石塔婆(板碑)は鎌倉時代から戦国時代にかけて、全国各地で造られた中世の供養塔で、流山を含めた関東地方には、主に埼玉県の秩父地方で産出される緑泥片岩を扁平に加工した武蔵型板碑と呼ばれるものが多く分布しているそうです。
安蒜家の板石塔婆二基は、鎌倉時代末期に造られた武蔵型板碑で、ともに高さ124センチ、幅31センチと中型の板碑です。板面には仏や経文(阿弥陀如来キリーク・勢至サク・観音サ)を表す梵字や、造立年月日(元亨2年(1322)12月23日・正和3年8月17日*覚*)などが刻まれています。
この二基は東葛地域の代表的な板石塔婆として位置づけられており、最均整のとれた形をしています。昭和55年2月22日に、千葉県有形文化財に指定された由。
深井城跡
戦国時代、小金城主高城氏の支城の一つがあった。城の範囲は西深井及び東深井の一部を含む台地一帯と推定されているそうですが、確たるものではないので、城跡を示す何らの標識もありません。先ほどの浄信寺もこの城内にあったそうですが、天正6年に現在の場所に移転したとのこと。なお、最後の城主は安蒜備前守と言われています。
西深井甲子講大黒像
西深井地区には、道の傍らところどころに、甲子講大黒像(石像)が見られました。 元治元年甲子歳の刻銘があり、五穀豊穣を祈願したものと思われます。
日光東往還道
江戸時代、将軍の日光東照宮参拝の時などに大名たちが使用した日光街道の脇往還です。突き当りにスサノオノミコトを祭神とする八坂神社があり、クランク脇の道六神には、成田山と刻まれた道標があります。
駒形神社
応永6年(1399)に建立された神社で、祭神が誉田別尊(ほんだわけのみこと)です。現在の野田街道沿いにあり、源義家が奥州出陣の際立ち寄った際、鳥居左手の大椋の木の枝に鞍を掛けたという伝説があるとか。なお、境内の一角に小さな富士塚があります。そのほか、商売繁盛を願うためか、馬9頭を描いた石板があり、興味深いものがありました。「うまくいく」との語呂合わせでしょうか。
利根運河公園
利根川と江戸川を結ぶ全長8.5kmの運河です。オランダ人ムルデルの設計により明治21年着工し、同23年完成し、この運河の完成により船運業界は黄金時代を迎えたが、その後の鉄道の発達により、その使命はすでに終わっていますが、今は利根運河個うんとして往時を偲ぶ運河碑、ムルデル碑、ビリケン像(福の神)などがあり、春は流山市でも屈指の桜の名所のひとつになっています。
特筆すべきは、この運河工事は、官業ではなく、民間の事業でなされたこと、まだ掘削機などない時代でしたので、すべて人間の手作業(つるはしなど)で掘られたこと、完成式には、当時の総理大臣である山形有朋が列席したことなどが挙げられます。以来、流山には一人として首相が訪れてないことからみて、この運河完成がいかに画期的なことであったか思い知ることができますね。
ここで、ちょうど12時となり、解散となりました。案内してくださったNPO流山市史跡ガイド協会の会員の方々に感謝申し上げ、この稿を閉じさせていただきます。
以上