<梅田ガーデンシネマ>
(ひどく一方的な文章だった為、本文を書き直しました) 本作の感想は書いていません。いつにも増してプライベートの自己中心的、それも極めの日記、超私的の為、お腹立ちになるかもしれません。聞き流す程度で読んでもらうと有り難いです。また、あまりにも身勝手な文章だった為、書き直しました。これは、私の恥の記録です。
私は、44年間生きてきて、一人暮らしの独身である。これは、希少ではなく、男も女も、現在では多いだろうと思っている。珍しくはないだろう。大学を卒業した22年前からつい先日まで、私は人生の花火をたくさん上げてきた。そのほとんどが打ち上げ花火で、時には藁棒にさされた線香花火もあったが、たまった火の玉は、小さな撥ねを残すことなく、あっさり落ちた。人生全体を通して言えることだが、それは特に女性との付き合いに関してである。私の場合、仕事よりも、女性に対して重きを置く傾向にある。最後の女性だと確信していたが、今度も、結局は打ち上げ花火だった。大きく見事に上がって広がったが、辺りはすぐに暗闇になった。
浮かれていたのかもしれない。お調子者になっていたのかもしれない。また、安心もしていたのかもしれない。だが、完全に信じきっていた。信じきってしまうと、信じるという言葉は口から出てこないなと、私は思った。まだまだ若い頃、あやうい時などは「信じているから。」などと言ったし、よく言われた。
私は、たまに「死にたくなった」などと口走る。以前、ブログにも書いたことがある。そんなことは滅多に言ってはならないが、自殺未遂で助かったにもかかわらず、言う。傲慢にも、一度自分は、死んだとでも思っているのだろうか。ある時、誹謗中傷で、落ち込み、そのことをブログに書いた。死にたいなどとも書いたことがある。リンクさせていただいているブログ仲間や、読んでいただいている方から、励ましのメールやコメントをいただいた。少なくない数であった。わざわざ記事にしていただいた私の尊敬する女性もいる。文章を書くということは、少なくとも魂を削る作業であるから、あの時は本当に申し訳なかったと思っている。とても力になった。誹謗中傷を回避する心を得た。
26才の時、私には、結婚を約束し、両親にも会って、毎晩のように、家にご飯を食べに行っていた彼女がいた。とっておきの彼女だった。現在でも、友達は「あの女性はよかったなあ。」などと言う。そう言われる度に落ち込む。
彼女も、彼女の両親も、まわりの友達、知り合いすべてが、この二人は結婚すると信じて疑わない女性を、付き合いはじめてから2年7ヵ月後、私は裏切った。別の女性に心を奪われたのである。確かな目がなかった。器用な奴なら、二股かけるのだろうが、私にはとてもできなかった。嫌いになったわけではなく、同時に好きな女性ができたのである。これは、この体験、一回のみである。オーバーラップさせず、別れを彼女に言った。活発で明るく笑顔をふりまき、いつも前向きだった彼女が、私の思いもよらぬことになった。あまりのショックで、眠れず、食べられず、寝込んでしまったのである。それを共の友人から毎日のように聞かされた。一ヶ月、仕事を休み、自宅にひきこもった。二人で語り合った未来への思いが、一瞬でつぶされたのである。逆に私をひっぱるような、いつも元気付けてくれた彼女が、別人になった。それを私は助けることもしなかった。2年7ヶ月、私ははじめて、彼女の涙を見た。それはもう号泣で、人目も顧みず、道路で倒れた。後に私は、人生の中で、もっとも私を愛してくれたたった一人の女性だと知ることになるが、まだ若かった。相手を裏切る行為は知ったが、裏切られる試練をまだ知らなかった。子供も子供、幼稚な考え、甘えの塊が私だった。ぼろぼろになった彼女から、私は別の女性の部屋にころがりこんだ。今でも私は、甘えん坊の身勝手な男のままであるが・・・。
この新しく出会った女性から、私はコテンパンに裏切られることになる。その経緯は省くが、私は生まれてはじめて、裏切られるということを知った。27才の春だった。何を考えていたのかはわからない。考え、心、思いなどの理屈はなく、眠っていなかった私は、ふと気づくと、夜のH駅のホームに立っていた。思考回路がどうなっていたのかはよく思い出せない。次の電車が通り過ぎる時、飛び込もうとだけ思っていた。その時は、彼女がどうの、裏切りがどうのなんて考えはなかった。たくさんの人に迷惑をかける、みんなに後悔させることになると思ったのは後々で、ただ、自分の体と心を消すだけが目的になっていた。アナウンスは耳に入らなかったが、電車がホームに入ってきたのに気づいて、腰をあげ、先頭をみつめた。そのまま線路に飛び込むことだけを狙っていた。その時、私は目が悪くなったのかと前かがみの姿勢を正した。ゆっくりと電車が停まったのである。先頭車両の運転席のドアが目の前にある。ホームの端にいた私は、普通電車だったかと、椅子に座りなおした。ここで、運転手が手動でドアをあけ、私に声をかけた。「最終ですよ。」と。私は慌てた。その声で我にかえり、しっかりと意識を取り戻し、なぜか急に恥ずかしくなった。「すみません。やっぱり乗りません。」そのようなことを言ったと思う。私はその電車を見送り、ホームの階段を駆け下り、「入場料です。」と切符を渡し、改札口を出た。
何日、起きていたのかはわからない。1日だけだったような気もするし、5日くらい起きていたような気もする。一人暮らしのマンションへもどり、そのまま倒れるように寝た。なぜか、ほっとした気持ちもあった。最終電車が出た後だから、午前1時頃に寝たのだろうが、起きたら午後11時だった。22時間の睡眠だった。私の頭は朦朧としていたが、考え、思い、心は取り戻していて、昨夜の自分の行動が自分でも信じられなかった。私は、両親をはじめ、たくさんの友人の顔を思い浮かべた。もう少し早く、ホームに立っていたら、私は死んでいたのだろうが、こうやって生きているということは、なにものかが、まだ生きておけと助けてくれたような気がした。なにかまだ、役目があるに違いない。44年間、唯一の自殺未遂だが、自らを殺すということが、如何に罪の重いものかを思った。裏切られる苦しみを、私ははじめて知った。少々の裏切りならば、約束を破ったで済むが、人生をかけた裏切りは、絶対にいけない。それだけは心得ていて、胸に刻んでいる。
その後、何人かの女性と付き合ってきたが、私は裏切られても、裏切ることはなかったし、これからもないと誓える。この先、私の人生にパートナーはいないだろうと思うが・・・。あれほどの精神の苦しみを相手に与えるのは、この世の大きな罪である。私は、今でも1年に何度か、夢にうなされる。自殺未遂の夢ではない。私が裏切った女性が、楽しく明るく出てくるのである。寝覚めは悪い。私を裏切った女性は出ない。その夢、長くうなされてきた夢を断ち切ってくれたのが、3月から付き合いはじめた彼女だった。わずか4ヶ月だったが、私にとっては、大きく深いものだった。大きな花火を打ち上げ、あっという間にきれいに消えた。星も見えない夜になった。
この別れは、私に大きな非があるのは間違いない。何度もつらい思いをして、二十代の頃よりは人に優しくなっただろう。甘えや我が儘も少なくなっていったはずだった。ところが、彼女と心が打ち解けてくると、どんどん私の我が儘な甘えが芽を出しはじめた。4月の終わりに、私は、2日間にわたって、彼女を我が儘で困らせた。それに加えて、彼女の過去の彼氏の嫉妬までした。彼女は私の過去を認めているのに、私は馬鹿の極みだった。それまで、真面目に紳士的に接していたのに、私は駄々子になってしまった。彼女は180度変わった私に困惑した。驚いていた。二重人格もいいところだった。私は、反省に反省を重ね、短い時間だったが、心を入れかえる努力をした。彼女は、その2日間、私の前でも寂しい顔をして、家族の中でも黙りこくって、つらそうだったという。44才のおっさんが、28才の女性に、我が儘で困らせてはならない。まったく私は甘えている。彼女はそれでも、私と一緒になろうと努力し、家族に、やはり彼氏と結婚したいと打ち明けた。
その翌日。彼女のお父さんとはじめて会う約束をしていた。私は、自分の甘えにどきどきして、待ち合わせの料亭へ向かった。彼女のお母さんとお父さんとお祖母さんの3人の待つ個室へ入った。お母さんは、いったい何が起きたのか、私に問うたが、私は緊張もあり、素直に応えることができなかった。ところが、お父さんは、事情を知っていながら、私を一切、責めなかった。もっとお互いに知った方が良い、まだ(結婚は)早すぎるんじゃないかと、とても冷静に私に語った。自分の娘の心を傷つけた相手でありながら、一言も不満を漏らさず、まったく怒らなかった。一人の人間として認めてくれていた。それ以降、私は誠心誠意、彼女と彼女の家族に接すると、あらためて誓った。
だが、私はまだまだの人間である。その後、私は反省しつつ、またもや彼女を困らせることを言ってしまった。誓ったのに、やってしまっては、軽蔑されるだけである。電話で、言葉で彼女を追い詰めた。大きなことではなかったが、明らかに私の甘えと我が儘が、そこにあった。彼女は、じっとそれを考え、悩み続けていた。私の人格、性格で、彼女を苦しめていた。自分より16才も年上の男が、自分より我が儘で甘えがある・・・私と一緒にいたら、とんでもないことになると、彼女は毎日、苦しんでいた。
命の尊さ、生きているという事、生きていく事をテーマに掲げたドキュメンタリー「ブリッジ」を、私は金曜日の夜に観る予定にしていた。朝一とレイトショーの2回だけの上映になっていた。来週から、朝一の1回のみとなる。ところが、バタバタしているうちに上映時間の21時にはとても間に合わなく、行くことができなくなった。明日からは朝10時10分の一回のみになり、縁がないとあきらめた。その夜、彼女との電話の最中、突然、別れたいと言い出してきた。これを、出来事の前に観るか、後に観るかでは、印象は大きく違うだろう。しかし、朝一の一回のみでは、観ることもないだろうと思った。
先月、先々月と書いてきた「私の最後の女性」だったが、寝耳に水の如く、「別れたい」と告げてきた。「結婚したら、ずっと一緒にいなきゃならないんだよね。」などと、子供のような陳腐なことを言う。しかし、それは、彼女が悩み続けてきて、私を傷つかせないようにしようとする言葉だった。彼女は、重要なことであっても相談することをせず、一方的に決定して告げる性格で、一旦決めたことは、まず曲げない。良くも悪くもあるが、それは私も認めている。私はピンとこない頭で、何度も理由を聞くと、切羽詰った彼女は、「前に付き合っていた彼氏のことが思い出され、縁りを戻す。」と言った。マジに受けたが、それは私のしつこい問いに、追い詰められて答えたのだと、後で知ることになる。昨日まで、いや、電話をはじめた30分間、そんな素振りはなかったから、私は突如、アタマをガツンとやられた気がした。要するに、私は、その寂しさを紛らわせるための、つなぎであったのだったと、これまた、自分勝手な解釈をした。あり得ない44才のおっさんである。年令だけ重ねた子供だと自分で自分がいやになる。
焦った私は、付き合いが終わるにしても、電話やメールで済ませるのは、人としてどうかと思い、会いに千葉まで行くとメールをした。電話は誤解や勘違いを招く。あきらかに誤解や勘違いが重なって起きたことだから、会った方がいいと思ったのだった。3時間、電話で話すより、5分、向かい合って話す方がわかりやすい。誤解も解けるだろう。大阪と千葉の遠距離では、心が通じにくい。せめて、それだけでもと考えていたら、翌朝、彼女の母親から電話があり「来るんですか?無駄ですよ。お金ももったいないし。」と言われ、俺も過保護で甘えん坊で我が儘だが、自分のことは棚に置いて、彼女も過保護だなぁと、馬鹿馬鹿しくなり、挫折した。お金の問題はどうでもいいことだろうと思うが、私の蒔いた種が元凶なのだから仕方がない。
私は同じ年代の者、仲間の中で比較すると、精神的な面が弱い人間で、悪いことがあると、深く心に根をはる。そして、それを抑え込む作業が他の人よりも大変なようである。豚なので、おだてられたら木に上るが、叱られるとマイナス思考からなかなか這い上がれない。不器用でもあるのだろう。しかし、振られたり、裏切られる度に、私は少しは成長していると思う。自分で言うのもおかしいが、神経が図太くなるのではなく、どういうわけか、人に優しく、無理なく気をつかうことができるようになるからである。以前は、こんなところまで気づかなかったところに気づく。
私は、若い頃、一度、自殺未遂をしていて、絶対にあってはならないと思いつづけてきたが、今回の出来事で、私は愚かにも本気で自殺を考えた。自分自身の責任であるのに、である。まだまだ私は子供なのだ。ブログを生き甲斐とし、ブログの仲間と交流してきたが、彼女の登場で、生き甲斐がそちらに傾いてしまっていた。ブログの仲間には申し訳なかったが、疎かにして、薄っぺらな文章が目立つようになった。95%、頭や心を占めていたといってもよい。それが、簡単な言葉で、別れを宣告された。生き甲斐を捨てよと宣告されたと同じで、私は、あってはならない死を思ったのだった。自らを殺すというのは、理屈では、絶対にやってはならないのだが、「考え」や「思い」や「心」や「自分」というものさえ忘れてしまうもので、いかんいかんと口の中で反復しながら、一方ではそれを思っていた。私の頭はパニックになったが、自らを殺した後の彼女、私の両親、彼女の両親、親友たちの後悔が常に頭にあった。彼女に非はなく、私に非があるのだから、尚更、迷惑で後悔させるだろう。
本作「ブリッジ」は、飛び込む自殺の瞬間も捉えているが、映画の内容は、ほぼ、親や親友や仕事仲間のインタビューで構成されている。そして、その誰もが、後悔している。彼ら、彼女らの自殺を引きずって生きている。苦悩の表情と無念の思い。本人は勝手に死んで消えたとしても、まわりの人の人生をまるごと悪く変えてしまった。病や事故ではない。自殺とは、特別であり、絶対に選ぶべきものではない。人に迷惑をかけられなくて死んでいく者もいるが、どんな迷惑だろうが、自殺されることほど迷惑なことはない。他の人生を死ぬまで後悔させてはならないと思っている。
だが、自宅に戻っても死の願望が消えず、私は地下鉄で梅田の街に出た。誠に、私は甘えん坊で、自意識過剰で、自己中心的である。街にはでてみたものの、どういうわけか、より、腐ってくる。一人っきりでいるよりも、孤独なのである。私は実家に電話し、これから新幹線で帰ると告げた。どうしていいかわからなかった。新幹線を待つ間、新幹線に乗ってから、私は破談になったことを、友達を中心に、メールを送った。携帯のメールがわかっているブログ仲間にも送った。後で数えてみると、30人以上だった。この行為は、後でとんでもない後悔となるが、その時は無我夢中だった。ここでも、つまらない自分の性格が出ている。それは、随分経って気づいた。
ブログで何度も書いてきたし、メールも送っていたから、卑怯だが、死をにおわせる私のメールに、次々と返信がきた。それらは、私を懸命に励ますもので、頑張れとは誰も言わなかった。とても有り難く、2時間20分後の小倉駅では、私は少しずつ自分を取り戻していた。窓際に座っていたが、窓の外は一度も見なかったと思う。しかし、本当ならば、そういうことはすべきではない。自分で、一人で精神を抑えつけてしまうのが、大人のやりかたである。
実家に帰り、両親にそのことを話した。年老いた両親に鞭打つようで、とても申し訳なかった。親同士が知り合いなので、まず、親に言うのが筋だと思った。私の親は、寂しい顔をしていたが、私を責めることなく、「また、人生の修行をしたね。」と言った。遠距離なので、交通費や宿泊代やプレゼントなどを含めて、この間、100万円以上使ったが、それも「高い授業料だったけど、しっかり勉強させてもらったね。」と言った。だが、これは精神の修行から逃亡したのであって、すべきではない。今はそう思う。一人で耐える日々が必要だった。彼女が悪いのではなく、元凶は私にあり、それを苦に思い、彼女は苦悩の末、私に別れを告げたのだ。彼女は毅然としていて、私はぼろぼろになっている。悪い方が、ひりっぱなしで、逃げた。
彼女の最後の電話は、悩むでもなく、苦しむでもなく、あっさり、ケロッとしていた。言っていることとやっていることが違うと、私を責めていた彼女が「あの時は、あの時。今は、今。」と、きっぱりつっぱねた。そうとしか言えなかったのだろう。軽蔑というより、私に幻滅してしまったのだろうと思う。
そういうわけで、私はまた一人になった。これを機に、私は故郷の下関に帰ることをはやめた。下関には映画館がなく、ブログの更新も少なくなるかもしれないが、大阪にいる間に、たくさんの映画を観続けたいと思っている。愚の骨頂、自殺願望が消えてくれてよかった。私は弱い。死んだとしたら、たくさんの人に迷惑をかけ、後悔させ、苦しめただろう。27才のあの時の気の狂ったような体験があってよかったと思う。
土曜、日曜、月曜と下関で過ごした。月曜日の夜の新幹線で大阪へもどった。「ブリッジ」のことはすっかり忘れていたが、珍しく、目覚まし時計が鳴る、ずっと前の朝5時に目が覚めた。今日は、まだまともではなく、仕事はしない。何か縁があるのか、私は「ブリッジ」と「それでも生きる子供たちへ」の2作品を観ようと、朝風呂に入り、身支度を整えた。映画館には申し訳ないが、私は梅田ガーデンシネマの招待券を2枚持っていて、その期限が切れそうだと気にしていたのでちょうどいい。2作品とも、「人が生きていること、生きていくこと」が重要な鍵になっている。朝の5時に目が覚め、3時間の睡眠だが、体は元気である。『そんなことがあったのなら、観ておきなさい。』という、なにものかの力が働いたのかもしれない。
はじめはよかったが、途中から、呼吸が苦しくなってきた。画も音もはっきりしているが、もうひとつの頭が、この3日間の出来事、精神的な苦しみ、死への願望、絶望感がぐるぐると回った。己の悪行が跳ね返ったのに、それに傷ついている。救いようのない私だが、精神は尋常ではなく、本作に点数を付けることはできなく、生き甲斐を失って自分の身の置きどころのない人、絶望の中で佇んでいる人が観る映画ではない。敢えて、そういう人に観てもらいたいと考える方もいるだろうが、私の場合は逆効果で、電話で彼女に別れを告げられたあの瞬間に戻った。息苦しさから早く解放されたかった。途中で出ることを由としないので、90分の映画で助かった。ラストの30分は、息苦しさが絶えなかった。
20分おいて、同じ劇場で「それでも生きる子供たちへ」を観る予定だが、時間を置きたい。まだ12時前で、雨の予報が晴れとなり、食事にでかけるサラリーマンやOLで、新梅田シティはごったがえしている。私は、梅田へもどり、喫茶店を探し、一息ついた。朝から何も食べていないが食欲はなく、「あの時の自分の死への願望」と「ブリッジ」を反芻していた。何度、飲み込んでも出てくる場面があった。それとダブらせていた。地と地を結ぶブリッジの真ん中に飛び出た人々。右を向いても左を向いても、自分を受け入れる地はどこにもなかったのかもしれない。しかし、どんな責め苦が自分を襲おうとも、自らを殺す手段は、この世にあってはならないと、私は思うのである。
自殺をしなけばならないほどの試練は、神は与えないともいう。ホームレスのダンボール箱を見ていて思うが、彼らは、間違いなく生きている。どんなにどん底になっても、それでも生きている。破産して、多くの者に迷惑をかけたのかもしれないが、あそこまでいけば、もういいのだと思う。あの中には、すでに許される人もいる。私であれば、絶望のまま、すぐに首をくくるだろう。そう考えると、彼らの精神力は強い。もっともらしい服を着て、もっともらしい顔をして歩いているが、ダンボールやブルーシートで家を作り、明日を待つホームレスの方が、考え方によっては、私よりずっと強く、逞しいのかもしれない。
私は44才だが、まだまだ人生の修行の最中である。人に、本当に、心から優しく接していく為には、今の私の力量では足りない。苦しみがあり、それを乗り越えて、また一歩、心のある人間になれるのだろう。誰かの為に生きようという傲慢な考えはない。自分の為に生きるしかない。しかし、何かがあった時、心の温かい人である為に、傷ついた友を心から助ける為、心を言葉にして口から出す為、私はまた修行をさせてもらっている。考え方を変えれば、ありがたい体験なのだろう。
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