活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

カンナさん大成功です!(字幕版)

2007年12月16日 22時30分00秒 | か 行 (2006.2007)

Photo_2  <梅田ブルク7>

 この作品がネックになり、3本のハシゴのスケジュールが難しかった。本作は、なんばでも上映していて、なんばで観ることができれば、すべてをなんばにして、難しくないスケジュールを立てられた。一度、スケジュールを立てたのだが、私はそれを崩し、梅田へと場所を変えた。なんばでは、日本語吹き替え版のみの上映だと、後で気づいたのである。よほどのことがない限り、吹き替え版なんぞではなく、そのまま観たい。お子ちゃまの為か、アメリカ人のように日本人も字幕と画を一緒にみられなくなったのか、この頃、吹き替え版が多くなってきた。

 今日は3作品とも、犬が出てきた。「マリと子犬の物語」は、犬そのものの話。「アイ・アム・レジォンド」は、犬がキーになって、私たちはこの世に何が起こったかを知ることとなる。もちろん、すべて愛犬である。本作も愛犬だが、小道具しとして扱っているのみ。前の2本を観ずに本作を観たならば、何も思わなかったろうが、犬に対する扱いに不満だった。整形をして別人になっても、犬にはわかる・・・このヒネリは面白いのだが、それだけに使われて、犬がかわいそう。本作は、日本のコミックをヒントに、韓国が映画化したのだという。

 よほどの自信がなければ、本作に主演することに疑問を感じるだろう。鏡を見て、自分の美しさに唖然とし、感動のあまり涙するなんて芝居、シラフではできそうにない。主演女優賞を獲得しただけあって、この女優、うまいし、肝もすわっているように思えた。手術前のメイクは、ちょっとやりすぎで不自然だが、「痩せゆく男」以降、この手のメイクは、進んでないのかしれない。でも、太って裏方に入っている彼女は、形が変わったことで、表に出て、性格まで変わることが出来た。整形して、よい方に変わったのらば、それでもいいんじゃない?と、思うけれど、男というものはいい加減なもので、もし彼女だったら、一重を二重にするだけでもイヤだろうと思う。そのままがいい。惚れた男は、どいつもこいつも、その女の前では腑抜けになる。だから、男は女より強いと踏ん張っているところがある。

 女性を商品みたいに扱ったドラマは、世の中にはいろんな人がいるので、キーキーと叫ばれるかもしれない。ぶっ細工な女性が、とんでもない美人になって、「人は見た目ではなく心だ」としたいようだが、私は、見た目がいかに大切かをまた、認識させられた。顔の出来具合、体の出来具合で、人生って別物になる。その通りで、ひとつの人生でふたつの顔、体を持ったのだから、この映画の中の主人公の人生も変わる。やっぱり、不細工より美人に生まれて生きていきたいはずだ。男も女も。幸せをつかむ第一の基本みたいなものかもしれないとまで思う。しかし、「美しくも醜くも、ただただ、骨と皮の技なり」と思っている節が私にはある。そりゃあ私も、美男になりたいかと言われれば、もちろんなりたい。不細工だと言われても苦笑いするだけの男衆.。イケメンという言葉は、男のためにある。女が男に言う言葉だ。

 ぼーっとして楽しめるコメディ映画だが、ちょっと上映時間が長すぎる。コメディ、ホラー、スプラッターの類は、90分くらいがちょうどいい。「自分自身を認めること」・・・そんな大きなテーマをぶつけられてしまうので、観るこちら側はたじろいでしまう。難しいテーマで理解を求めようとしているけれど、見た目が変わることによって、人生が変わってしまうという爆笑映画でいい。ただ、私の場合、整形がOKかどうかは、他人ならばOKで、身内ならばNGというだけ。他に深く掘り下げるものは私にはない。

 夜11時を過ぎて、梅田から地下鉄に乗る。師走の日曜日の夜は、地下鉄もガランとしていて、珍しく座って帰ることができた。それにしても疲れた。3本のハシゴよりも、映画と映画の間があきすぎたせいだ。時間があくと、体も頭もたるんでくるのでいけない。今年の3本のハシゴは、これで終わり。荷物をまとめ、帰郷の準備を進めなければならない。  <70点>

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君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956

2007年12月10日 23時00分00秒 | か 行 (2006.2007)

Photo_4  <シネ・リーブル梅田>

 ちょっと、愚痴を書かせてもらう。本作とは何の関係もない。あるバラエティ番組を見ての愚痴なので、聞き逃がしてほしい。本作の感想は、ブルーの色からはじまる。

 昨日の深夜、映画を3本観おえて帰宅し、久しぶりにテレビをつけていたら、たまたま、陣内智則司会のトーク番組をやっていて、ぼーっと見ながら、聞きながら、気分が悪くなってきた。『あーっとの陣!其の四BACA-JA2007「陣内智則、大いに語る」』というタイトルらしい。ゲストの漫画家江川達也と、もう一人、見覚えはあるけれど、誰だかよくわからないクリエーターらしきオッサン。陣内智則は司会でいいけれど、大阪芸大で大学生を教えているという、そのオッサン(ネットで検索してみたけれど、名前がわからない)のはく言葉がいちいち気に入らない。とても自己愛が強く、押し付けがましい。

 自信満々で、「映画を観に行っても、たいていは15分くらいで出ますよ。」と、天狗顔になった。「もったいないですやん!」「時間のほうがもったいない。」・・・はじまって15分経っても私を満足させないような映画は、時間がもったいないなどという。自分が最高であって、自分の感性と合わないものは認めたくないということを回りくどく言う。自意識過剰な芸術家で、自分を誉めて、こんな奴が私の通った大阪芸大を出入りしているかと思うと、気分が悪くなってきた。貧乏顔なので余計に腹が立つ。私はテレビを見ていて腹の立ったことはあまりないと思うけれど、なぜだか腹が立ち、オエッとなった。頭がいいのだろうが、馬鹿だ。

 最後まで観た映画は何ですか?という陣内智則の質問に「最近では、続・三丁目の夕日かな。あれは最後まで観ましたよ。」「その前に最後まで観た映画は?」なにを答えたか忘れたけれど、数年前のミーハー映画を取り上げて、「そんなん、随分前じゃないですか!」と陣内智則を驚かしていた。江川達也も、あの興奮した金きり声で、笑いながらはしゃぐ。口から声が出ているとは思えないような高い男の声だ。江川達也という漫画家は、頭のてっぺんにもうひとつ金きり用の口があるようだ。あまりにもあんまりな自作の漫画を映画化した「東京大学物語」を監督しただけに、気に入らない。二人とも、自分の世界がいかに素晴らしいかをキャーキャー喋っていた。

 映画を観に行っても、たいていは15分くらいで出る・・・それでも行くのかと思う。映画を、はじめの15分でわかったような顔をして出るのが本当ならば、映画を最後まで観る人に対して、とてもひどいことを言っている。自惚れの塊で、自分をとても愛しているのだろう。「続・三丁目の夕日」のあの程度で最後まで観たのなら、他の作品はもっと観ることができるだろうとムッとする。要するに、自分がいかに偉人であるか、他とは違うかを誇らしげに語っているだけなのである。「ゆれる」「めがね」なんていう映画は知らないだろう。このオッサンが最後まで観ることができたのは、2作品とも、全国一斉封切の話題作であった。知らないのに、鼻高々と喋るのは気に入らない。結局、映画をたくさん観ている者には、とても浅はかな芸術家であった。・・・・・つまらない文句を書いてしまったが、こういう者が母校の講師となって教壇に立っていると思うと情けない。はけ口がなく、一日中、じくじくしていたので、ここに書いてしまった。最後まで読まれた方、申し訳ない。

 新梅田シティへ行くと、ちょっと遠いせいか、2本はハシゴをする。最も多い日は、シネ・リーブル梅田と梅田ガーデンシネマの2館だけで、4本のハシゴをした記憶がある。映画がいくら好きでも、馬鹿じゃないかしらん。だが、今日は1本だけ。ブログのお友達のお勧め「エヴァンゲリオン」も観てみたい気がするけれど、時間がかぶっている。

 ハンガリーの映画である。ソビエトの統治下にあるハンガリー。その首都、ブタペスト。これは、ハンガリーの大学生がデモを起こし、ソ連の支配下におかれた厳しい状況の中、大学生が立ち上がり、市民運動に広がり、共産国家を覆そうという激動のそのときを描いた作品である。その革命の中に、オリンピックという世界競技、自由な恋愛を溶け込ませ、時代が変わるのだと物語は進む。沿岸の火事であっても、「民主主義国家に生まれた者は、自由という言葉に力がない」ということを思いっきり教えられる。

 私は、ソ連という国が子供の頃から嫌いだった。今でもあまり好きではない。第二次世界大戦でソ連が実質参戦したのは、日本に原爆が落とされてからだ。一週間しか戦っていない。それなのに、ソ連は北方四島を取り、いまだに返そうとしない。日ソ不可侵条約を無視して、日本人を虐殺していったのも嫌な事実だ。戦争が終わっても、ソ連軍は、面白がって日本人を殺しまくっている。ソ連が崩壊し、現在のロシアとなっても、政府や軍隊の気質は変わらず、チェチェン紛争で民間人、女、子供まで、大殺戮を繰り返しているし、プーチェン政権になってからは、独裁国家のような体を成してきた。ロシアになったからといって、G8に入れるのは間違っていると私は思う。北朝鮮と仲の良い先進国はない。G7の中にロシアを入れたのは、あきらかな間違いであって、事実、その日がくるまで待つべきだった。ロシアは発展途上の過程にある。政治的気質も昔のままだ。媚びることはないのだ。共産主義に翻ることはないと思うけれど、おかしな潜伏的独裁が今、明日でもはじまってもおかしくない国家だ。

 本作も、ロシアの冷酷な騙しの作戦が描かれている。駐留していたロシアの戦車の撤退に、ハンガリーの市民は、民衆の力で勝ったのだと信じるが、深夜のうちにその何倍、何十倍もの戦車をハンガリーに投入する。ラジオに流れる「我々は勝ったのだ」も、ウソである。機関銃で滅多打ちにし、大砲を民衆の群の中にはなつ様子は、戦争でも内乱でもなく、ただの虐殺である。ソ連の言うことをきかないと、デモであっても容赦はない。もう、民衆は、武器を持つしかない。本作は、ソ連の冷酷さを描写し、カメラはすべて、ハンガリー側から撮られている。

 そんな両国の中でも、メルボルンオリンピックは開催される。競技は水球。「立ち上がったオリンピック選手の恋人、女学生の拷問」「オリンピックでソ連と戦う彼とチーム」「街に砲弾を撃ち込む戦車軍団」が交差する。この編集効果は抜群で、息を呑む。ハンガリーの国旗があがる中、彼女は処刑場へと引っ張られていくが、その目は自分は間違ってはいない、自由へ道を切り拓いているという信念の力が伺える。最後の最後まで、目の前に死があったとしても、自分を忘れることはないという心は、私たちのように平和国家に育ったものには、実際にはわからないと思う。こういう人たちの心の上に、国は変わる。それを忘れるなというメッセージが、彼女の表情が訴えた。

 本作がもっとも言いたかったことは、映像にしていない。エンディングで字幕ロールとして説明される。これを読んで、ピンッとこないほど、私は平和ボケしてはいなかった。胸の苦しい字幕ロールだった。  <75点>

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クローズ ZERO

2007年11月24日 23時00分00秒 | か 行 (2006.2007)

Zero3 Zero2

<TOHOシネマズなんば>

 「ゾンビ3D」が終わったのが21時。21時20分から本作がはじまる。歩いて3分の「TOHOシネマズなんば」は、満員電車のような人ごみだ。「敷島シネポップ」の劇場内は、観客10人ちょっとだった。同じ東宝系で、こんなに違うのか。いや、Zero1なんばはまだマシで、梅田は先日書いたように、気分が悪くなるほど、人が虫のように蠢いている。この何ヶ月、特にひどくなった気がする。三番街シネマが消えたせいだろうが・・・。新しく建てかえられる大阪駅に、でっかいシネコンが入るというから、また、梅田の人の流れが変わるのだろう。

 コミックを映画化したというが、監督はお馴染みの三池崇。この監督、精力的というか、かけもちで撮っているのではなかと思うほど、次々と新作が公開される。みんな、べた褒めの観があるけれど、私はあまり三池崇の監督作品を好きではない。何本かに1本、これは!と思う作品に会う。Vシネマを撮っていた頃の三池崇が私は好きだった。Vシネマだから何でもありで、R指定なんて無視して、とても惨酷な描写をフィルムに焼き付けていた。私は、Vシネマ用として撮った三池監督の作品を天神橋筋六丁目の「ホクテンザ1」で何本も観た。連続ものなので、途中で終わったりして、後はビデオで・・・なんていうのもあった。すっごく緊迫して、どうなるか!と、ワクワクしたところで、エンドロールが流れたりして、びといなと思った。1本目は映画館で、2本目、3本目はビデオでという仕掛けなのだろうけれど、私はあまり続きものをレンタルして見なかった。2作目から、いきなりつまんないなという作品になって、あの1作目の完成度の高さからズシンと、質が落ちたものが多かったからだ。監督も途中で変わって、どんどん低予算になっていくのがわかる作品も少なくなかった。だから、途中で終わる1作目を劇場で観ても、レンタルはしなくなった。物語がピークになったところでほとんど終わるけれども、ビデオになった2作目は、そのピークから、いきなりダウンさせるものが多かった。というより、ほとんどすべてがそうだったように思う。

 今回、三池崇監督を観るにあたり、私の中で、どちらに転ぶか、期待半分以下で劇場内へ入った。「スキヤキ・ウエスタン」も、みんな楽しんだみたいだけれど、私としては不発だった。私の映画の観かたというのは、正否があるなら、否なのかもしれない。深作欣二の「仁義の墓場」をリメイクした「新・仁義の墓場」は、大好きである。三池監督は、狂気と静寂をいったりきたりしている気がしている。真ん中がない。角川映画が「大魔神」を三池監督でリメイクすると聞いたとき、それだけはやめてくれと思った。これは企画段階で消えていった。あのオリジナル3部作は、いま観ても、素晴らしい。三池監督が「大魔神」を作ったら、大魔人が走ったり、機敏だったりするのではないかと危惧していた。

 コミックはまったく知らない。が、これはまさしく、三池ワールドである。それも私の好きな方の三池映画だ。高校生だけれども、これは高校生という形をかりたヤクザ映画だと思った。激しい、烈しい!人間がいっぱい出てきて入り乱れても、混乱することはないように脚本化、映像化、編集されていて、狂気の中の整然とした作品だった。頭から最後まで、観ていてとても痛いけれど、ヴィスタサイズながら、大迫力の映像と音響で、高校生ヤクザ世界を堪能できる。人気男優がこぞって出ているからだというが、大ヒットしている。映画を観るために映画を観るのではなく、イケメンを見るために映画を観にいく女性が多いらしい。映画よ、どこへ行くだが、それもアリだろう。

 私は、観終えて「東映」の映画を観たとばかり思っていた。ロビーに出て、あっそうか、東宝だったんだと。東映っぽい作品だ。それにしても、この作品、PG-12なんだね。前に観た「ゾンビ3D」のR-15よりも、ずっと過激で、気持は興奮するぞ。グロも、死体が生き返る以上だ。きっと、東映で公開されたとしたら、R-15を付けられていたろう。裏の何かが、PGで落ち着かせたような気がする。日本で一番の東宝だもの。R-15では、ン億円も興行収入が違う。ちょっと上映時間は長い気はしたけれど、楽しめた。遠藤憲一が抜群にいい。先日、「自虐の詩」を観たばかりだから、そのギャップがまたいい。やっぱり、俳優だなぁと、当たり前のことだけれども、感心する。上手すぎる。

 本作の終わりは、映画館で上映したけれど、Vシネマ扱いの三池監督「不動」の終わりに似ている。似ているというか、再現したようなラストカットだ。「不動」の1本目は、人知れず劇場でかかったが、R-15の指定を受けた。とても、エロくて、グロい。血しぶきの連続だ。「不動」は、これからだ!というところで、いきなりカットアウトし、途中で終わる。その途中で終わるやり方が、本作とそっくりだった。本作もフェードではなく、カットアウト。もしかしたら、次も作る余裕をもたせているのかもしれない。

 久しぶりに、三池監督の狂気の映画を観させてもらった。これが、三池監督の世界だ。しかしまだ、Vシネマを背負っていて、映画という大きなスクリーンにびびっている観がある。Vシネマは、ほとんど面白いので、私などはそう感じる。本作は、高校生を主役にして、惨酷で救いようのない世界ではあるけれど、すべての者が、ちょっした隙を与えてくれていて、人間らしいエピソードを散りばめてある。救いようのない世界だけれども、さりげなく、すべてに救いようはある。こんなにひどい場面の連続でありながら、観終えてもイヤな気分にならないのは、心の奥の奥の、人間の魂を感じることができるからだろう。その魂は、まったく腐っていない。大袈裟かもしれないが、生きる力ももらえた気がした。  <75点>

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恋空

2007年11月11日 23時00分00秒 | か 行 (2006.2007)

Photo_2  <TOHOシネマズ梅田>

 日曜日の21時のレイトショー。もっとも客入りの悪い日時だが、700席のスクリーン1は、半分以上の若い男女が埋まっている。先週、チケットを買って、あまりの人の多さに逃げ出したが、今日は半分・・・私の指定された座席は、女子大生に囲まれた真ん中だったが、誰もいない後の角に座った。大劇場だし、ヴィスタサイズなので遠いけれど、あの群集に囲まれて観たくない。もしかしたら、内容によっては、女の子たちの間に挟まれて、オッサンがおいおい涙を流すかもしれぬ。

 携帯サイトの小説で、大ヒットしたという。こういう原作を映画化するのも増えてきた。小説のヒット、コミックのヒット、携帯サイトのヒット、視聴率のよいテレビドラマ・・・これらを映画化すると、もとがヒットしているので、観客は確保でき、それなりの収益が得られる。オリジナル脚本の映画がなかなか登場してくれないのは、「あの○○が映画化!」と、謳えないからだろう。『それでもボクはやってない』は、監督の名があってこそのオリジナル脚本だ。それなりにオリジナル脚本はあるけれど、映画化されても、ミニシアターで人知れず上映されることが多い。現在、映画界は、そんなことになってしまっている。ヒットした何がしかがあって、映画になる。私としては、とても残念なことで、10年、20年前では、思ってもみなかったことだ。原作と映画を比較したくないけれど、どうしても、比較する評論が多く、今ではそれはそれで仕方ないと思う。

 ただ、原作を脚本化するというのは、オリジナル脚本を書くよりも実は大変な作業で、まずは、原作の解体からはじめなければならない。先日、お会いしたKeiさんとも話したが、以前の映画の世界では、原作を超える作品がみられた。その代表とも言えるのが松本清張の「砂の器」で、松本清張は、映画を観終えて、私の小説より面白いと言ったそうだが、私も実はそう思っている。松本清張が大好きで、本を読みあさったけれど、小説以上だと思ったのは「砂の器」だけである(あるサラリーマンの証言もいい)。あの映画は、小説を基盤にしつつ、まったく違う映画としている。映画を観てしまうと、後に小説を読んでも、のらりくらりと関係のないことばかり読まされて、退屈だと思うだろう。脚本の橋本忍、山田洋次は、小説を解体し、そして自分たちの砂の器を原稿用紙に書いた。女性を道具のように扱って、人知れず死んでいく島田洋子は、山田洋次監督の「霧の旗」「武士の一分」を思わせるとKeiさんは言った。橋本忍であれば、原作があっても、それと同等か、上をいく脚本を書かせた。昨年、たくさんの昔の日本映画を観る機会に恵まれたが、脚本、橋本忍と出ると、まず良作だと頭から安心した。そして、そのすべてが印象の残る映画であった。原作を解体し、バラバラになったエピソードを柱をそのままに組み上げていく。これが、原作のある映画の脚本だと私は思っていて、信じている。原作がありながら、それは、脚本家のものとなり、映画監督のものとなるのだ。

 今の原作のある映画は、解体することをほとんどしていないらしい。以前からあるけれど、それは「なぞる」と言って、脚本にするのは楽ではあるし、原作を読んだものをある意味、納得させるだろうけれど、映画にする意味はほとんどない。ほとんどと書いたのは、儲けるためだけの映画化としては意味があるということだ。せめてもの解体に、後の出来事をオープニングにもってきて、再度、同じシーンをみせるという方法をとる。これが多い。多すぎてイヤになるが、バラバラにして組み合わせて新たな一本を作るということを、現在の脚本家は、ほとんどしなくなった。これは、護りに入ったプロデューサーの存在が原因だろうと思う。「何も言うな!すべて俺の責任だ!」というプロデューサーがいなくなった。昔のプロデューサーの名前は映画史に燦然と輝いていて、エピソードも多く残っているけれど、現在のプロデューサーの名前は、みんな知らないだろう。よくみる名前はあるけれど、私も知らない。作りたい映画を作らせてもらえない現実はあるが、テレビ局や映画会社の力がそれよりも大きくなっているのだろう。プロデューサーは、以前のように、金を握っていない。あの頃だからこそ、「男はつらいよ」は、映画化されたけれど、現在ではどうだろうか。松竹の幹部たちの大反対を経て、紆余曲折を経て制作が決まったのは、プロデューサーが生きるか死ぬかの賭けを自分に課したからだ。こけたならば、プロデューサーの名を消されたかもしれない。

 本作は、とても平凡な高校生たちの恋愛ドラマであった。映画としては1時間30分で十分の物語だけれども、一本立とするために2時間に無理やりに引きのばしている。最近の日本映画は、上映時間が長い。以前であれば、1時間半ものだなと思う作品でも、2時間近く、または2時間越えをする。長すぎても映画館は嫌がるが、短すぎても嫌がる。この映画を平凡だとしたのは、私の頭でも先が読めるからである。先の読める居心地のよさという映画もあるけれど、そんなことも主人公は読めないのかという気分で観てしまう類の作品であった。子供が出来たときの反応と行動。相手の親への行動、あることがきっかけで別れてしまう理由、クリスマスイヴの二人の行動、これらがみんな透明でみえてしまう。私の頭の中の考え、その通りになっていくのは、平凡である前に、映画としての意外性を欠いているからだろう。

 大人で、気丈な高校生だなと思う反面、まだ人生の入り口に立っている高校生が、ここまで立派になれるだろうかと思う。きれいなドラマだが、恋によって、犠牲者もある。隙間につきあった大学生の存在は、寂しさを紛らわせるためだけだったのかと、あの男の心情を思うと、つらくなる。たったさっき、指輪をもらい、誓いの言葉を出したのに、それらは何もなかったかのようだ。純粋で罪なき者のように思っていたけれど、ラストに近い、あの部分はどうもきつい。新垣結衣が、清純、純潔のような容姿であるだけに、きつい。若い頃というのは、自分が知らず知らずのうちに、人を傷つけてしまうものである。そこを描いているのだろう。それでなければ、あのシーンはいらない。物語に立体感をもたせるだけにしては、残酷である。

 父である高橋ジョージの存在がいいと思った。頑固でもなく、柔らかでもなく、自分の気持を抑え、娘の考えを尊重してやりたいという苦渋の顔がいい。高校生で子供ができたことを、責めることはしない。その中で、新垣結衣はさらに自由になれた気がする。流産した時の両親の落胆は、我が子の考え、行動を信じているからだろう。ここは、平凡なメロドラマと言いながら、意外であった。とはいえ、集客力の望める映画ではないと思う。集客しているのは、やっぱり、東宝の上手さだ。  

 私の携帯のメルアドは、abc7777という単純なもので、それでも迷惑メールは来なかったが、この一週間ばかり、いきなり迷惑メールを受信しはじめた。数件ではなく、昼夜関係なしに、20も30も受信される。多い日は50以上ある。すべて英文だが、放送禁止用語のような英語は読める。外国からのメールらしく、夜中がもっとも多い。どういう仕掛けか、送信者が私で、受信者が私というメールまでくる。本作を観ている間、携帯を切っていたが、終わってつけてみると、バタバタと7件の迷惑メールが入ってくる。どこでこれを知るのだろうか。夜中にピーピー鳴るのはかなわないので、そろそろメールアドレスを変えよう。今年はもう5回もアドレスを変えている。映画が終わったのが23時30分。疲れてしまったので、ぐっすり眠りたい。私は帰りの電車の中で、さっそくメールアドレスを変更した。その日の夜は、まったく鳴らなかった。  <60点>

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クワイエットルームにようこそ

2007年11月01日 22時30分00秒 | か 行 (2006.2007)

Photo_3  <なんばパークスシネマ>

 なんばパークスシネマはシネコンで、完全入れ替え、全席指定だ。私はレイトショーの本作を観る為に、最後列の端のチケットを買い求めた。ところが、劇場内に入ると、そこに女性が座っている。私の確保した席だ。ただ、ちょこんと座っているのならば、声をかけるが、荷物を足元に置き、ドリンクホルダーを使い、ジャケットを脱いで膝にかけている。つまり、デーンと居座っている。隣は彼氏らしく、二人で椅子に住んでいるように見えた。ここまでぬけぬけ堂々とされると、声もかけたくなく、私は女性の前に立ち、どこに座ろうかとあたりを見渡した。二人の目の前で、空席を探すので、下を向いたり、列をのぞいたりしていると、女性は、身動きひとつせず、ただ、私を不審者のような目で見る。奥へ入るのかと、カップル二人で、足をずらしたりする。不審者でもなく、奥へ入るつもりもない。あなたの座っている席は、私の席だ。ちょっとムカッときたので、半券をポケットから取り出し、頭を傾げてみせた。だが、身じろぎはない。ン十万人をさばくJRの指定席ではないし、ダブルブッキングなんてことはないだろう。そこに住んでしまっている二人を追い払うのも、これからの映画の気分に大きくかかわるので、少々、観づらいけれど、最後列から移動し、私は前から2番目の端っこに座った。身体を沈めてスクリーンを見上げる。日本映画だし、ここも悪くないなと思う。十代、二十代の頃は、よく、前の方に座ったものだ。前から4番目が好きだった。いつごろから後ろに座るようになったのだろうか、記憶がない。

 原作、脚本、監督・・・松尾スズキ・・・舞台劇、室内劇である。舞台人の客本だなと思うけれど、この人、本当に多才で、舞台を観ない私は、出演映画がやってくると、気づいた時は観ているようにしている。この頃、ほとんど観ているのではないだろうか。20分前に観終えた「自虐の詩」にもチョイ役で出演していた。いつまでも垢抜けない中途半端なひげ面オッサンの顔である。その垢抜けない顔立ちにどういうわけか魅力がある。

 舞台の人が、映画でカット割をするとき、フィックスの広画になることがよくあるけれど、それもにおわせ、ドアップで表情を狙うカットも多用する。カメラマンとの相談でカット割を決める場合が多いけれど、広画と狭画が交互に編集され、カメラ位置の意識を観る者に思わせない。カメラのバックを想像させない。これでいいのだが、想像させる映画が多い中、よくできていると思った。90%がスタジオ撮りで、空間よりも小道具に頼る演出が面白い。台詞も細かいとは思うが、それでも気が利いていて、舞台と映像の中間をいくような脚本なのだろうと想像した。なんということはない話なのに、2時間、観客をひきつける。これは、演出の魅力なのだろうと思う。そして、女優の魅力もある。

 内田有紀・・・アイドル時代を経て、女優になって、とびっきりのいい女になってしまった。「北の国から2002-遺言-」の内田有紀に、私はみとれてしまい、これは共演なんぞをしてしまったら恋をするだろうと思った。あの目でみつめられたら、メロメロになるだろう。清楚な顔立ちで、目に力があり、笑うと純真さが出て、それでいて知的。この顔がドアップになる。背も高く、スタイルもいい。北の国からの最後がもっとも華だと感じていたが、結婚して離婚後もなんら変わっていない。女性病棟の中で、個性派女優やタレントに囲まれても、紛れることなくそこにいる。ほめまくっているけれど、彼女をいまさら主演に?という理由を松尾スズキが教えてくれた。本作を観た監督や脚本家は、これから先、主演として使ってみたい一人になるだろうと思う。

 感想にも評論にもなっていないが、狭い空間の中で、こまごまと起こる現在と過去の交差をどう説明していいかわからない。ストーリーを説明しても、ストーリーはひとつであるので意味はない。気分の良い精神科病棟をのぞかせてもらったと言うしかない。だけなのだが、とても魅力のある世界で、嬉しいひとときをすごさせてもらった。  <80点>

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キングダム 見えざる敵

2007年09月25日 23時30分00秒 | か 行 (2006.2007)

__9  <試写>

 テロ、自爆テロというそこにあるものは、その者が死をもって訴えるだけではなく、何の関係も無い人らを巻き込む。一瞬のうちに巻き込まれた者の運命を終焉させ、その者のまわりの何百という人の心、運命までも変える。心、運命を変えられた、その何百という人の周りの何千、何万という人の心、運命をも変える。人類はすべて、運命共同体なのではないかとさえ思う。ニュースでも驚かなくなったが、驚かなくなってしまってはいけないのだと、この映画は叫ぶ。

2_36  元々、何がはじまりで、9.11を起こす者が現れたのか。テロという手段を取る見えざる敵を作ったのは何か。その後の見えざる敵が世界で恐れられている根源は、遡れば、米ソの冷戦が挙げられるだろうが、第二次1_23 世界大戦で神風特攻隊まで出さざるを得なかった日本国もかかわる。植民地、戦争、武器輸出を繰り返してきたのは、現在の先進諸国である。彼らの持つ武器は、戦争を繰り返してきた旧ソ連、アメリカ製だ。テロ、自爆テロはとても赦されざるものではないが、先進国が空に唾を吐いて、自分の顔に降りかかってきた形になっている。宗教の結束は、私のような凡人にはわからないが、部族は同じでも、他人であっても、兄弟姉妹と変わらない。これは恐ろしいことだ。ここに描かれているのは、21世紀の新しい戦争の形である。だが、これはこれまでの概念をそのままあてはめられるような戦争ではない。宣戦布告なき、無差別の殺戮である。

 これほどうまくいくとは思えないが、ハリウッド映画らしく、テロをくわだてる組織に入り込み、最高指導者までをも正面に構えるところまでいく。アメリカは正義ではないが、正義をもって活躍する姿が迫力をもって描かれる。少年兵を撃つまでに至ると、目を覆うばかりだが、洗脳教育、日本の学徒動員を私は思い出した。しかし、国家と国家の戦争も同じことだが、いつまで経ってもどうどう巡り・・・目には目をでは、永遠と続く。これを食い止める策はあるのだろうか。戦争からテロの時代へ。恨みつらみを繰り返している間は、解決の糸口さえ掴めない。ある部分、アメリカをヒーローのように描いているが、仲間の恨みを晴らす為に、どれだけの犠牲が必要かが、彼らにはわかっていない。日本も対岸の火事ではないテロの脅威は、ラストのお互いの台詞の中にある。 <75点>

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恋するマドリ

2007年08月26日 23時00分00秒 | か 行 (2006.2007)

Photo_322  <シネ・リーブル梅田>

 片づけをほったらかしにして、ちょっと遠い新梅田シティまでやってきたからには、もう1本、観ておきたい。1時間後にはじまるレイトショー、20時30分からの「恋するマドリ」と決め、外の空気を吸いにいく。ここにも外国人が多い。ツインの梅田スカイビルを見上げて、写真を撮ったりしている。その他は、暗闇で、カップルがいちゃつく。先ほど観た映画の余韻を楽しみながら、それらをぼーっと見ていると、コンクリートの上で、バリバリッという音がする。聞き覚えのある音で、虫の羽とコンクリートが擦れているのである。その音の方に近づいていくと、小さなセミが最後の命を振り絞ってバタついていた。しゃがんで、セミをつかむと、力強く足を踏ん張り、私の手にしがみつく。手のひらが痛いほどに力がある。蛍光灯にすかしてみると、透明の羽である。私の子供のころはミンミンゼミと言ったが、正式名称はなんだったっけ?すでに一週間後の命。うまくパートナーをみつけ、交尾して、子孫を残すことに成功したのかな?しがみつくセミを持って、ビルの横の人工的に作られた小さな森の方へと歩く。最期の時、コンクリートではなく、せめて、土の上でと思う。公園の道からそれ、柵で囲った、入ってはならない土の上に踏み入る。辺りは真っ暗だ。薮の中に入れようとすると、力を振り絞って、オシッコを私の手のひらにかけ、しばらく飛んで、落ちていった。セミのオシッコなんて、もう何十年もかけられていなかった。小学生の頃の夏休みがふと、鮮明に頭に浮かんだ。飛んでいった方を見送って、虫の声を聞く。まだ残暑は厳しいが、鈴虫が勢いよく鳴いている。

 久しぶりに地下一階の石焼ビピンバを食べたくなった。石焼ビピンバを食べると、顔がちょっと脂っぽくなるが、おこげが好きなので、迷わず入る。どこでも石焼ビピンバのメニューがあると、好きなので入って食べるが、まずいと思ったことがない。麺類も好きだが、これには賭けがある。石焼ビピンバは安心して食べられる。私は、カレーに似ているなと思った。なにを注文してもまずいかな?と思わせる(たとえば、高速道路のサービスエリア)店に入った時は、カレーを頼むと、まず間違いはないという。

 日曜日のレイトショーの客入りは、一週間の中でもっとも悪い。それでも、10人ばかりの観客を入れ、上映がはじまった。なんとも心地よい空気感を漂わせてくれる映画だと思う。飛び跳ねたくなるような作品を観たばかりだが、私はこの作品の空気感を楽しんだ。監督の演出があってか、俳優陣は、とても控えめな芝居をする。それにしても、この主演の女優、新垣結衣。子供のように若いが、とても美人で、しかも愛らしい笑顔をつくる。目がとてもきれいで、吸い込まれそうだ。大げさでもなく、素人臭さもなく、作品の「風」に溶け込む、ほどよい動きと台詞だ。恋をして、はにかむ笑顔も、観ている方がニコッとするくらい、控えめで抑えた演技だ。沖縄出身のモデルで、グラビアアイドルらしい。テレビドラマや映画出演作もあるらしいが、私は初めて見たと思う。この女優、出会う監督によっては、どんどん出てきそうな感じがする。

 短い出会い、短い不思議な縁・・・それだけの物語で、何が起こるということはない。何が起こるわけでもないのに、カメラアングルも基本的である。それがなぜか新鮮に思うことができる。観る者は、主演、準主演の2人の気持をそれぞれ客観的に知り、わかるようになっていて、ちょっとじれったいが、この三者のまわりをカメラは淡々と撮り続ける。私は男だが、主演の女子大生演ずる新垣結衣のどうしていいかわからない気持ちもわからないことはないので、後がちょっと恐い(ストーリーを思わせて、実はストーリーを書かないので、ご覧になられた方しかわからない書き方になっているが、これがすべての柱となっているので、あえて書けない)。この心地よさ・・・菊池凛子が旅立つのを追いかけるところから、急にガクンと気持が下がる。「大切な人が飛行機で外国へ」「それを追いかける」「間に合うのか間に合わないのか」「外国へ旅立とうとするショット」「空港に着いた!会えるか?」・・・こういう、あまりにも使い古してきて、テレビでもベタな展開を真面目に演出している。ひねりをつけたいようだが、そのひねりが無茶で、私はあららっと、急に気持が沈んでしまった。空港のシーンが終わると、もとに戻る。成田のシーン以外は、確実に心地よい風が吹いているので、そこだけが残念である。

 日常会話の何気ない台詞も気が利いている。「引越ししたら、イヤでもいろんなものを捨てなきゃならないでしょ」「あんな歳になって、恋愛沙汰でまわりに迷惑かけてどういう神経してんだか」・・・こういう言葉は、今の私に響いた。日本の純愛映画なので、ややナルシスト的な台詞もあるが、かなり練っている。原作ではなく、原案で、こういうオリジナルの佳作をもっと作ってほしい。興行的な安心感はないだろうが、比較されないオリジナル脚本に、私は惹かれる。

 昨日は、映画って楽しいなと思いながら帰ったが、今日は、映画っていいなと思いながら帰った。23時15分に長居駅に着いたが、世界陸上が終わったばかりらしく、構内整理で乗客はホームにも入れず、改札口で次の電車が客を乗せてホームの空くのを待っていた。みんな汗だくで、私は酸っぱいにおいを嗅ぎながら、駅を後にした。  <70点>

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怪談

2007年08月19日 23時00分00秒 | か 行 (2006.2007)

Photo_304  <アポロシネマ8>

 この頃の私のドタバタ劇をお読みになり、軽蔑されている方も多いと思う。映画のことだけを書いていて、いつしかプライベートと映画のブログになってしまい、ある記事などはプライベートそのままだけで映画を無視していたりする。自己愛のような記事もあり、読み返してみて、よくも恥じることなくこんなことを書いているなと思う。ハンドルネームならブツクサ呟いていてもまだマシだが、私は珍しく本名ではじめた。いろんな人を巻き込むことになったのは、本名のままプライベートブログを続け、それに傾いていったせいだろう。いつまでも私は私で、子供の頭のままだ。

 でも、やはり、少しでもプラス思考で生きていかねばならないので、私は今年中に今の仕事を辞し、故郷へ帰ることとした。そうなると、やることが多い。27年も居たので、変更しなければならないこと、仕上げておかねばならないことが山のようにある。あと4ヶ月とちょっと。仕事をしながら、これらを片付けて、故郷の地を再度、踏む。生まれたところだ。来年になってからも、今の仕事と半々の生活で、シナリオを書いたり、編集作業を手伝ったりする予定で、1ヶ月から2ヶ月に一度、一週間から10日くらいは、大阪に出ることになる。徐々に減ってくるだろうが、しばらは、半々の生活となる。

 さて、実につまらないことだが、私は、たくさんの映画館の会員となっていて、たまったポイントは中途半端ではない。ちょっと頭で計算してみても、無料で観ることができる映画が30本ある。これを消化してしまおう。貧乏臭い話だが、何を隠そう、私は貧乏である。今年の12月で会員期限の切れるアポロシネマ(どこの直営でもないシネコン)に久しぶりにやってきた。あと2本の無料ポイントが残っている。TOHOシネマズの一ヶ月フリーパスポートを頂戴したので、ここでは東宝以外の作品を選んで観るようにしよう。そこで目にとまったのが、「怪談」だった。中田秀夫監督を知ったのは、「リング」で有名になるもっと前、「女優霊」で、ミニシアターで観た。この映画、私はとてもゾッとした。演出がうまいな、霊の出し方がうまいな、恐がらせるテクニックがうまいな・・・これまでとはちょっと違うホラー映画で、私はこの監督の名を覚えた。「リング」以降の活躍は、もう大変なものだが、最近の監督作をそれほど面白くないなと思っていた。ヒットを飛ばしてきて、自信がついたからだろうか、スクリーンに風格は出てきたが、もっと粗かった頃の中田監督が、私は好きだった。「怪談」も観ようとは思っていたが、なかなか足が向かなかった。

 時代劇の恐怖映画は、私の生まれた頃の60年だから70年代、大映を中心に、たくさん作られた。なかなか観る機会がないが、知られざる安物の作品でも、とても面白い。「怪猫シリーズ」なんて、私は大好きである。日本独特のおどろおどろしい恐怖映画は、時代劇を舞台にすると、ますます恐さが増す。本作は、まさに、それである。

 脚本がうまいのだと思うし、それに惹きこまれる。中田監督は、どんと落ち着いた画を撮るようになった。どの画もきれいで、構図もしっかりしていて、観ていて、巨匠の風格さえ思う。脚本のうまさと、監督の技により、見事な時代劇恐怖映画が平成の世に誕生した。だが、難を言えば、少々長すぎる。落ち着いてじっくりみせていくのが狙いなのだろうが、全体を通してじっくりで、私は、後半に近づくに従ってピッチをあげていけば、もっと楽しい作品になったのではないかと思った。前半はあのままで楽しめるが、後半がゆるゆるしている。2時間じゃなく、恐怖映画は1時間半くらいが、観るものとしては満足である。恐い恐いと2時間も観ていられない。キレイで終わってほしくないが、黒木瞳のためか、美しく終わる。以前、中田監督と黒木瞳が組んだときも、なぜか黒木瞳をきれいにみせることにこだわっていた。「リング」のように、これからどうなるのだ!というどん底で終わった方が、恐怖映画は、もっと後味の悪さを楽しめる。

 この映画、タイトルが悪い。「怪談」と、あのポスターでは、なんのことだか・・・。そのまま「真景累ヶ淵」または「怪談・真景累ヶ淵」の方が、若い人たちも食指が動くのではないかと感じる。「この映画のタイトル、どう読むの?」と、疑問をもたせるだけでも違う。

 観終えて、外へ出ると、雨が降っていた。毎日、炎天下で、体にまとわりつくような暑さだったが、久しぶりに雨を観た。明日からしばらく仕事で、朝早く、夜遅くなる。しばし、映画は休憩となるのだろうか。新しい人生のスタートから4日目。映画ばかり観てきた。以前も、以降も、映画を観ていることに変わりはないが、浮き沈みはまだあるにせよ、気持は前向きだ。少しだけでも、人に優しい、人に温かい生きかたをしたい。人生の教訓をいっぱい拾い集めたのだから。  <70点>

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GOAL!2(字幕版)

2007年06月23日 23時45分00秒 | か 行 (2006.2007)

Goal2  <なんばパークスシネマ>

 金曜の夜は映画と決めていたが、仕事終わりとともになぜか観る気を失い、ついでに自宅に帰る気も失った。街をぶらぶらして無駄なような有意義なような時間を過ごすうち、道頓堀と千日前筋の角で、ハタと立ち止まった。長い間、行っていなかったが、カプセルサウナに泊まってみよう・・・私の財布の中には、回数券がまだ2枚あるはずである。2月からバタバタして、カプセルホテルなんて忘れていたが、先日の渋谷の温泉施設の爆発で、私は回数券のことを思い出していたのだった。最後に行ったのは1月だったろうか。だとしたら、5ヶ月もご無沙汰している。ハタと立ち止まったのは、あの悲惨な事故で、街の温泉施設は、最も人が多い金曜でも、すいているだろうと思ったからでもある。人というのは、こういうことにとても敏感なようで、不謹慎かもしれないが、ここが狙い目である。あの事故は、あそこで起きたのであって、ここで起きたわけではない。天然ガス田は関東にはたくさんあるが、大阪にはない。私は、飛行機事故があると、しばらくは、新幹線よりも飛行機を選ぶ。きまって、ガラガラだ。不謹慎極まる考えだが、昔からそういうことをしていて、そんな頭がずっとある。

Hi380037 22時半に梅田へ出て、予約の電話をかけ、小雨の中、東梅田方面へ歩く。5ヶ月も、わずか5ヶ月・・・懐かしい建物が眼前に現れた。こうなったHi380024_2 ら、気分を入れかえ、温泉につかって、ぐっすり眠って、明日は映画三昧としよう。 靴箱に靴を入れ、財布から回数券を取り出してみて驚いた。2枚だと思っていたのに、まHi380032 だ5枚もある。温泉の回数券ではなく、宿泊の回数券で、一泊3,200円だ。どこにそんなお金の余裕があって買い求めたのかと、半年前の自分に驚いた。 買った時は、カプセルホテルにたくさん泊まって、映画をたくさん観ようと熱い鼻息をはいていたのかもしれない。

Hi380027_1 高度経済成長の狭くて長い日本。時代がこんなものを生み、今はあたりHi380028まえのように都市にいけば一軒はあるが、なにが哀しくて、棺桶のような ほら穴にもぐりこんで、一夜を過ごすのだろうか。いろんな仕事を抱え抱えず、家に帰らず帰られず・・・できるなら、なぜと一人一人に聞いていきたい。興味をひいたらメモったりしたい。

 65度の低温サウナに15分間。18度の冷水風呂に5分間。90度の高温サウナに10分間。18度の冷水風呂に5分間。これを5回、くりかえした。18度は水風呂なんてものではなく、少々、痛いくらいの冷Hi380021たさである。しかし、これをくりかえすと気持ちよくなってクセになり、まだまHi380034だと思う。10回くらいくりかえしたいが、5回の時点ですでに1時間半近く サウナと冷水を往復しているので、もう夜中の2時になる。朝までやるのも いいが、徹夜のきついHi380033身体になってきたので、天然露天風呂へ。身体と頭を洗い、最後にもう一度、冷水風呂に 浸かって出る。涼しくて気持ちがいい。後で水分を摂るから、サウナで体重など減るはずもないが、体重計にのると、1.5㎏おちていた。

  館内には、レストランや休憩所がいくつもあるが、金曜日の夜中にしては、それほど人がいない。遅すぎるのかとも思うが、いつもよりずっと少ないように感じた。腹がHi380017 減ったので、日替わり定食を注文する。私はここへ泊まると、いつも日替Hi380018 わり定食を注文する。日替わりだから、毎日やってきている人の為へのはからいだろうが、日替わりと名がついてHi380019 いる割には、いつもよく似ている。しかしこれが、サウナのなかのレストランとは思えないくらい、けっこう美味しい。のんびりゆっくり噛みながら、明日の計画をたてる。観るなら3本。久しぶりに3本。この頃は2本で帰ってしまうことが多いので、頑張って3本としよう。頑張るといっても苦痛の頑張りではなく、楽しい頑張りである。泊まったカプセルホテルは梅田だが、明日は難波で観ることにした。梅田ガーデンシネマやシネ・リーブル梅田にも心を奪われるが、どうも時間的にうまくいかない。オタクなようだが、これはオタクに間違いない。わからない人には、あほらしさ極まる行為だろう。百も承知で、おかしな楽しみを抱えているなと思う。

Hi380035  計画を立てるのは楽しいのだが、あれこれひねくっているうちに、もう午前4時。タイムリミットと決めて、カプセルへもぐりこむ。薄い敷布団に、薄Hi380036 い掛け布団だが、寝心地は悪くない。ぐっすり寝ることが多い。こんな小さな空間に、テレビや有線や目覚ましや空調や・・・よく整えてある。日本人が考えたならではの設計で、いつ入っても、見事と思う。サウナと冷水を何度も往復したので、心地よい眠気が襲っている。扉を閉めて、電気を消して、私は30秒も経たないうちに眠りについた。

 「GOAL!2」「ダイ・ハード4.0」「冥土」の3本と決めて、なんばパークスを歩く。映画館まで遠い。南海電車でやってきた人たちには便利だろうが、高島屋側から行く人にはとても遠い。昔の大阪球場のもっとも奥にあり、かなり歩く。とても贅沢な造りになっているけれど、エスカレーターをあがったり、階段をあがったり、映画館まで直通のエレベーターにたどり着くには、難波の繁華街から10分以上は歩かされる。不便だなと思うが、チケット売り場に人は多い。よく流行っている。

 総じて、楽しめた。が、第一作目のような興奮はなかった。こういう類の作品は、前の興奮の冷めやらぬ前、間をおかずに公開するのが最もよいはずだ。間がありすぎて、地味な公開になっている。メンバーのスケジュールで、制作が遅れたのだろうか。3作品を同時に作ることはできなかったか・・・それが残念である。サッカー人気は上がっているとはいえ、去年と今年では状況がまるで違う。一日一回の上映で、ここは難波。土曜日の昼間であるにもかかわらず、観客はわずかだった。

 はじめの1時間が、私は退屈で退屈でならなかった。もっとスピーディに、走る展開を期待していたので、のんびり散歩するような映像と、ドキュメンタリーの合体に、愕然とした。ところが、半ばから違う映画がはじまったのではないかと思うほど、スピード感を増す。ラストの試合のシーンは圧巻だが、あれほど、のんびりしていたのに、ちょっと端折りすぎているんじゃないの?と、物足りない。だからだろう、できすぎている。ここで、スピード感を増したまま、のばすべきだ。ロッキーの試合のように。

 3部作という映画では、パイレーツ・オブ・カリビアンのパート2は冴えている。あれは、楽しませるだけの中抜きだ。同じように、インディアナ・ジョーンズのパート2も冴えていて、ありえない世界をすべて、パート2に閉じ込めた。バック・トゥ・ザ・フューチャーのパート2もなかなかいい。ぐちゃぐちゃにしてしまう。次への期待が膨らむように仕込んであり、さらに間が短い。はじめから3部作とするならば、パート2で観客を楽しませなければならない。理屈ぬきに。サッカーを知らない人が存分に楽しめる工夫をしてあるからこそ、尚更、残念だと思う。  <65点>

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監督・ばんざい!

2007年06月06日 23時00分00秒 | か 行 (2006.2007)

Photo_265   <敷島シネポップ>

 水曜日のレディースデーというのに、観客は私を含めて18人だった。テレビや新聞では、同じコメディアンとして、大日本人となにかと比較されているが、観客の入りが違う。昨日観た大日本人は、平日の夕方にもかかわらず、大劇場はとても混んでいた。公開する映画館数もまったく違うようで、実績のあるビートたけしより、未知数の新人の初監督作品に人気が集中している。何かと比較するのもなんだかなと思うが、そういう私も、比較するかのように翌日、やってきた。映画館数もそうだが、観客の入りがこんなに悪いとは思わなかった。奇しくも、同じ日に公開され、同じコメディである。比較対象はここまででいいが、長年、裏切らなかった北野武監督作品を松竹は配給せず、あちらをとったのは、どうも情がない。大日本人は、大ヒット御礼らしいから、次回作は、東宝がしゃしゃり出てきそうだ。ここ10年ばかり、東宝というところはそうなっていて、私は現在の日本映画の大手配給会社が嫌いだ。儲けることばかりで、ギラギラ脂ぎっている。

 北野武監督作品は、「座頭市」のみヒットしたらしいが、初監督作品の「その男、凶暴につき」もある程度はヒットしたと思う。私はこの初監督作品が大好きで、今でも北野武監督の最高峰だと思っている。後に、パンフレットや監督日記を買って、あの世界に浸った記憶がある。ビデオでも何度も見た。自分の首筋にかみそりをあてながら鑑賞しているような鬼気迫る映像世界に触れた。これまでにない映画だった。今は、あの世界は定着しているが、初監督作品の頃の北野武は、テレビでのコントが主流であったので、あの面白いコメディアンが撮ったものであることに驚愕した。こんなことを頭の中で考えている人だったのかと思った。後の作品も好きで、「HANABI」は、数々の作品賞に輝いたが、私が観たのは、梅田のミニシアターだった。賞を獲得し、再上映されたが、それでもミニシアターだった。初監督作品が松竹だったから、北野武は、浮気せず、松竹にフィルムを委ねているが、扱いがよろしくない傾向になっている

 私は、ここ何年かの北野武監督作品をあまり好きではない。「TAKESHI’S」も「座頭市」も、私としては退屈だった。スクリーンを観ているだけで嬉しい映画好きを退屈にさせてはならないのではないかしらん?などと勝手に思った。勝新太郎が自分で監督した遺作の「座頭市」は見事で、いま、公開したらR-18指定にされるのではないかと思われるくらいの残酷なストーリー、描写だ。殺しの芸術、殺しの残酷の集大成のような描写は、手に汗にぎる。一人対何十人に、珍しく無理がない。とても許せない連中を的確にばたばたと斬り倒す。曲芸のような殺し方もあって、のけぞってしまうが、よく考えている。ドラマ部分でもまったく手を抜くことはない。ところが、北野武監督の座頭市は、それを抜くかと思いきや、まったく違った手法で展開された。あれは、座頭市ではなく、別の人物の別のお話である。何にこだわっているのか、ラストの踊りは、もうやめて!などと観ていてだらけた。目が開いてはいかんだろう。これは、新しい解釈の座頭市で、そして失敗していると、私は思った。だが、その作品が、もっともヒットし、儲かったのだという。

 と、くそみそに思ったことを書いているが、封切されると行きたくなる。「HANABI」までの北野武監督作品を、まだまだ観たいからである。本作は、またやってしまったかというほど、私としてはさんざんな出来栄えだと思う。ラストの今までのごちゃごちゃを一気にふっとばす様は、圧巻だが、それまで、どうでもいいエピソードと、ピクリとも笑えない笑いが続く。長くもない作品だが、私には3時間くらいに感じた。北野武監督が本当に作りたいのは、喜劇らしい。自分でも何度もそう言っているが、テレビの笑いをそのまま映画にもってきても、私は笑うことはできない。テレビドラマだったら、面白かったと言えたかもしれない。映画とテレビはまったく違う。北野監督もそれは百も承知だろうが、結果はそうなっていなかった。前衛的だと言えば、そうかもしれないが、私にはよくわからない。これならば、以前にもどって、ヤクザや警察がどろどろ、バンバンッやっている作品の方がいいのではないかしらん?映画の中でも言うが、監督はそれが得意のはずである。

 それより、本作上映前の3分間のカンヌ映画祭の為のショートフィルムがなんともいい。あのショートフィルムを、2時間にしてもらうわけにはいかないだろうか。フィルムがフリーズして、セルロイドのように焼けただれるなんて、世代的には知らない人が多いだろうけど、映写技師と観客一人との対話のない対話、妙な間が、心地いい。あのオープンセットも、一幅の画を観るようで、もっと観ていたかった。  <40点>

 

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ゲゲゲの鬼太郎

2007年05月06日 23時00分00秒 | か 行 (2006.2007)

Photo_257  <ワーナーマイカルシネマズ千葉ニュータウン>

 千葉ニュータウンの街にやってきて、11日目。今夜は、駅近くのホテルに泊まるが、明日の朝早く、大阪へ戻る。三度目の街だが、今回がもっとも長かった。最後の日は、映画と決めているわけではないが、三度目の最後の日も、映画だ。映画を観なきゃ精神衛生上、よろしくないと思い続けてきたが、3月からほとんど観ていない。私も騒がしいし、私のまわりも騒がしくなっている。実際は、これが精神衛生上、よいのであって、狂ったように映画を観続けていた日々の方が、おかしかった気もしてくる。でも、それでは、あまりにも一貫性がなく生きてきた気がする。まあ、それでもいいが、自分の生きてきた道を自分の手で潰していっているようで、一縷の存在を確保するために、この地でも映画に頼るのだろう。

 朝、いつものようにホテルを出て、駅前をぶらぶらする。駅前は、マンション建設がピークで、あたりを一往復しただけで、モデルルームのちらしや、ティッシュをいっぱい手にする。毎朝の行事みたいになった。明日で、ちらし、ティッシュもらいは終わる。同じ営業マンの顔なのに、私が歩くと近づいてきて、笑顔で渡してくれる。そう毎日渡して、営業になるのかと思う。毎朝、ちゃんと受け取るからだろうか。そう思うと、関東と関西の人間の違いをよく考えることがある。大阪を歩くと、チラシやティッシュをみんなよく受け取る。受け取らない方が少ない。ところが、東京ではほとんどの人が受け取らない。受け取る人の方が少ない。これは昔からそうで、今も変わらない。私は学生の頃、ボランティアをしていて、チラシをよく配った。受け取ってくれると嬉しく、無視して歩くとなぜか寂しかった。その想いが今でもあり、必要のないコンタクトレンズのチラシまで受け取る。結局は捨てるわけで、これはこれでもったいないが、完全に無視して通り過ぎるのに勇気がいるほど、弱い。そういうわけで、千葉ニュータウン中央駅前を歩く私の両手は、毎朝、大きなチラシとティッシュがいっぱいになった。ベンチに座って、配っている営業マンを背に、どこまで小さく折りたためるか試したりして、我ながらあまりにも馬鹿馬鹿しい。

 正直に書くと、とりたてて言うほどではない、目の前をただ通り過ぎるだけの映画だった。子供の頃、私は漫画を読んでいたが、人間社会に出てからの物語はあまり好きではなかった。妖怪の世界だけで展開する話が好きだった。人間社会に出て、ねずみ小僧は、とんでもなく恐ろしい野郎になってしまった。以前はそうではなく、卑怯でイヤミだが、憎めない存在だった。それが、人間とつるむと、もはや、犯罪者の何者でもなく、どうしてここまでやられて、鬼太郎は、ねずみ小僧を赦すのか、私にはわかりかねた。本作も、赦すべきではないねずみ小僧がそこにある。こんなことをしても、友情さえあれば赦されるのかしらん?と、子供が勘違いしやしまいかと思う。今の子供は、映画もテレビもゲームも現実も同じ空間の中にあって、別とはしないらしい。

 面白いような、面白くないような・・・殺風景な平坦な道をゆっくり歩いている心持ちでスクリーンを観ていた。ロールスーパーが上がっている最中、やっと終わってくれたなんて思ったものだから、私としてはとても退屈だったのだ。実写とするならば、封切日が決まっている東宝などより、ミニシアター系で挑戦した方が、練ることができたのではないかと残念だ。駄作だと言われるが、私は「ラブコン」も「テニスの王子様」も好きである。安上がりだが、練っている。大雑把ではない。・・・あっそうか。大雑把だと、見終えたときにまず思ったんだった。

 あと5年もすれば、駅前は高層マンションが建ち並び、地価は倍増し、前を走る北総線は成田空港と羽田空港を一本で結ぶ。そんなことに疎い私でも、駅前を見ているだけでそれが感じられる。今はがらがらのワーナーマイカルシネマズ千葉ニュータウンだが、ここに建てた目論見は、あたっているはずである。品川まで1時間20分。大阪ではとても考えられないあきれた遠さだが、関東では標準の通勤距離である。  <40点>

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女性映画傑作選13-6

2007年03月19日 23時30分00秒 | か 行 (2006.2007)

2_26  <高槻松竹セントラル>

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 雲がちぎれる時(1961) - <50点>

Photo_250

                        

                         

                    日も月も(1969) - <35点>

 幸せとは何だろうか。その前に、幸せなんてこの世にあるのだろうか。私が山田洋次監督作品に影響を受け、今も刺激を受けているのは、そこにある。山田洋次監督だけではなく、この時代の日本映画の多くは、そう思わせる作品が多い。幸せの基準は人それぞれだろうが、「あー、幸せだ。」と心から思える時間は、人生の中でどのくらいあるだろうか。つらいことばかりが重なって生きてきたならば、なんの変哲もないことで思えるだろう。満ち足りた生活をしてきた者は、大きな人生の転機で思うかもしれない。私は心の底から幸せだと思ったことがない。このまま人生は終わるのかとも思うが、そう思いたい、そう思える日があるだろうという期待があり、毎日、生きている。そんな気がする。

 3組に1組が10年以内に離婚するという。私が幼かった頃は、離婚というものは珍しかった。昔の男たちは、結婚相手に対して、「幸せにするよ。」などと傲慢なことは言わなかった。どう言ったか。「お前となら苦労していける。」と思った。妻になる女性達も「この人ととなら苦労してもいい。」と思った。そんな思いで結婚したから、苦労するのは日常で、ちょっとでも楽しいことがあると、幸せだと瞬間でも感じた。人生は苦労の連続であり、一人では耐え切れない。もともと苦労を共にする為に結婚をしたのだから、つらいことがあっても離婚とはならなかった。

 今の男は、「お前を幸せにする。」のだという。しかし、考えてみると、結婚式、披露宴のその日が最も幸せである。二人が主役で、二人の為に、親戚、友人、知人が集まってくれる晴れの日である。そして、定年まで最も長い新婚旅行が待っている。人生最高の瞬間だ。それ以降、二人が主役になることはない。二人の為に多くの者が集まって笑顔で近寄ってくることはない。人生最も幸せな時間は、結婚式、披露宴の、その日なのである。これから上向きに幸せだと思えることは、よほどのことがないかぎり、無いだろう。「幸せになろうね。」なんて誓い合うからいけないのだと、偏見だが、私はそう思っている。

 「共に苦労していこう」という結婚と「共に幸せになろう」という結婚では、第一歩が180度、違う。幸せにするって言ったのに、式の日に幸せは味わったので、話が違うじゃないかということになる。毎日が楽しい日々を送ることができると思っていたのに???。幸せはそんじょそこらにあるものではなく、そんじょそこらにあるものでもある。どう感じるか???それが人の心を左右させるのだろう。

 たった一人の女性を幸せにできないのに、たった一人の女性を「幸せだ」と瞬間でも思わせてあげられないのに、浮気、本気、二股なんて???なんて男どもは浅はかな生き物なのだろう。私はこの2作品を観て、それを強く思った。私が生まれる前の古い映画だが、男の女々しさに目を覆いたくなる。男の身勝手さに目を覆いたくなる。とにかく、目を覆いたくなる男達が次々と出てくる。男なんて、生涯、子供なのかもしれない。私は自分を思った。私はガキすぎる。この2本の映画に出てくる男どもと変わりはない。気まぐれで、不都合なことがあると自暴自棄になる。相手を困らせてしまう。

 しかし、そんなことは私はすでにわかっていて、今更、このような作品を観るのではなかったと後悔した。自分の浅はかな生き方をあらためて確認するだけだった。確認しなくてもわかっている。 幸せとはなんだろうか。私の人生の中で、人に接することで、瞬間でも、心の底から幸せだと思える日はあるだろうか。一度、そう思いたい。もし、思えたら、私にも創造する力が身につくかもしれない。

 (明日20日から27日まで東京へ行きます。28日から更新します。トラックバック、コメントをいただいている方、遅くなり、ごめんなさい。)

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ゴーストライダー

2007年03月08日 23時00分00秒 | か 行 (2006.2007)

Photo_235  <TOHOシネマズ高槻>

 「TOHOシネマズ高槻」で新作を観て、「高槻松竹セントラル」で古い映画を2本観る・・・その逆でもいい。私はこのコースが好きで、これまで何度も同じことを繰り返した。電車や道は同じでも、観る作品は違う。そこにもうひとつプラスして、映画館と映画館の間を歩く道をいつも変えている。何度もきているので、もう尽きたが、それでも昼間と夕方と夜の違いは同じ風景をガラリとかえる。夏の日差しと秋風と襟をたてて歩く冬と・・・私の住むマンションからは遠いが、好きな映画館が二つある。建ち並ぶお店の間に豪華な民家もあり、新旧入り混じった商店街も魅力的だ。

 高槻松竹セントラルで2本の秀作を観た私は、ぐるぐる商店街をまわりながら、自分で方向を狂わせながら、JR高槻駅までやってきた。すんなり歩くと3分ちょっとだが、20分ばかりかかった。このまま帰るかと思うが、JRまで歩いたからには、TOHOシネマズをのぞいていきたい。2階のコンコースの高架から歩道橋を渡り、駅の反対に出る。毎日、レイトショーをやっていて、土曜日はオールナイトまでやっているのに、人の少ない劇場である。チケット売り場で時間表のビジョンを見ると、どの映画でもレイトショーに間に合う。選び方によっては最終電車に乗り遅れてしまうが、21時15分からの本作がちょうどいいと思った。考え込んだ2本を観て、重い映画は観たくない。軽い映画なら大丈夫だと、私の頭、身体が言っている。

 私は2階の喫茶店でアイス珈琲を飲み、50分の時間をつぶす。こうやって、映画までゆっとりと時間を待つのは、見た目はどうあれ、私の中では心地よく、贅沢だ。誕生日から煙草を完全にやめてしまったので、禁煙席に座る。26年間、毎日2箱喫っていたので、まだまだ身体が煙草を欲しがる。でも、我慢できないほどの苦しみではない。少しだけ身体が楽になった気もする。肩こりがない。

 CGと実写を合成して、話も単純明快で面白いなあ~・・・ピーター・フォンダがいいなあ・・・イージーライダー、わかる人にはわかる。歳をとって、いい顔になっている。若い頃にはなかったオーラが出てきた。CGと実写の合成はここまで進化したのか・・・スパイダーマンを観ても思ったが、CGを想定した実写撮りのカメラも大変だろうと思う。音響も凄まじい。壁や椅子が揺れんばかりに轟く。のんびり構えたシーンはほとんどない上、展開が頗る速いので、どきどきわくわく感は最初から最後まで消えない。ロールスーパーが上がりはじめ、私は肩パットを入れているように両腕を上げて力を観ていたことに気づいた。徹底したA級の娯楽映画もいいねっ。満足満足の一日。3本観たが、3本とも良かったなんて・・・ここ何年もなかったろう。

 ニコラス・ケイジのスタントはいても、ライダーのスタントは少ないのか、明らかに別人だと思えるカットがいくつかある。顔を見て、バレるなんて珍しい。あんなに精巧にCGと実写を組み合わせ、炎も見事なのに・・・。でもまあいいや。面白くて面白くて時間を忘れてしまったくらいだったから。台詞も少ないスーパーアクション。楽しみました・・・。雑踏でごった返していた高槻駅には、もう人が少ない。空いた電車を待ち、これから3本の余韻を楽しみながら1時間の道のりを帰る。  <75点>

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女性映画傑作選13-1

2007年03月03日 23時00分00秒 | か 行 (2006.2007)

1_14  <高槻松竹セントラル>Photo_229

   河口(1961)-<45点>

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   燈台(1959)-<60点>

 ブログの中で、43才、43才と何度も書いてきたみたいだが、今日で44才になった。ひな祭りが誕生日である。5月5日は祝日だが、3月3日は平日で学校があるので、私は子供の頃、毎年、からかわれた。からかわれても何とも思わないで楽しくしているので、級友はがっくりしていたが、私は要領のよいこそくな子供だったのだろう。孤独を楽しむ子供でありながら、団体で生きる術を知っていた。子供である、子供らしく過ごしていた。それを自覚していた。自分で子供の頃のことを思うと、憎たらしい。大人の顔色をうかがいながら、子供を演じていた節がある。

 その子供も、映画を観ながら育ち、良いのか悪いのかわからない知識を頭に入れながら成長した。20才で成長の頂点を迎え、その後は老いていくのみだが、大学を卒業し、仕事も変わり、とっかえひっかえ付き合う女性は変わっていったが、一人暮らしということ、映画を観ることだけは変わらなかった。私の人生は、日本人の平均で考えると、すべてにおいて、そんなに良い方ではない。映画に出合って学ぶことも多いが、それを自分の中に吸収できたかというと、それは別のようである。学んでも吸収できていないのではないか・・・よく、そう思う。思いながら、観続ける必要はあるのかとも思う。思いながら観る。観ながら思う。

 自分の人生と進行形で公開される映画を観る。その方がずっと多い。あたりまえのことだが・・・私は自分の生まれる前の映画、60年代までの映画に、現在の映画の何十本以上の影響を受けるようだ。映画全盛期もいいが、日本映画が斜陽に入った頃の映画が最も好きだ。テレビの台頭に負けたくない意識がみてとれる。

 その実感を知ったのは大学生の頃で、黒澤明や岡本喜八らの映画を貪るように観た。当時、まだレンタルビデオなどはなく、映画館での特集を待つしかなかった。社会人になってすぐにレンタルビデオ店があちらこちらにできたが、ビデオを借りてテレビの画面を見ても、私の心にはあまり響いてこなかった。映画館とテレビの違いは何なのか・・・説明はできるけれど、うまくは話せない。今でもよくわからずに、人に説明している。というわけで、また、高槻の特集へやってきた。私は今回の特集をすべて観ようと思っている。駄作であっても、現在の映画には無い空気が心地よい。

 2作品とも、私がまだ空気だった頃の映画である。どちらもメロドラマの作りになっていて、いまの日本映画では、いまの日本人では考えない台詞を喋る、行動をする。この頃の映画を観ると心に響くなどと書いたが、今日はどちらも伝わるものがなかった。無味乾燥としたメロドラマをだらだらと観た気持ちだった。1時間28分と1時間03分という上映時間が長く感じた。映画というより、私はメロドラマが好きではないのだろうと思っている。ラヴ・ストーリーとメロドラマはまったく違うもので、ラヴ・ストーリーは運びによって好き嫌いがあるが、メロドラマは総じて好きではない。観るまで何も読まない、見ないので、今日は失敗だったと思う。思うが、スクリーンに流れる空気感は悪くはなかった。

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かぞくのひけつ

2007年02月02日 23時30分00秒 | か 行 (2006.2007)

2_22 3_13 Photo_213  4_6<第七藝術劇場>                 

 私が大学の頃、ありえない組み合わせで2本立、3本立を楽しませてくれた「サンポード・アップルシアター」が、単館として十数年前に「第七藝術劇場」となった。単館の出はじめだった。この映画館ととてもよく似た造りをしている「九条シネ・ヌーヴォ」。私はこの2つのミニシアターが大好きである。暇をみつけては、みつけなくても、よく通った。ここ数ヶ月、足が遠のいているが、行きはじめると毎週のように通う。新鮮で興味をひく予告を観てしまうからだ。どちらの映画館も最高にご機嫌な作品をかけてくれる。大阪でのみ上映なんてのもある。配給の仕組みはどうなっているのだろう。

 私の住むガラクタ部屋からは九条の方が近く、仕事の帰りにも気軽に立ち寄れるので、九条シネ・ヌーヴォの特集に偏ってしまうが、10年前から5年前までは、毎週2回は「第七藝術劇場」のある十三駅を降りた。毎週行っても、いつも違った作品が入り乱れ飛ぶので、楽しくて楽しくてたまらなかった。一日中いれば、5作品を観ることもできる。場所も悪く、経営が苦しいようで、2度、閉館したが、十三商店街の協力を得て、頑張っている。私は少なくとも200回はこの劇場にきている。ヒョロッとした眼鏡の支配人の顔もよく知っているが、声はかけたことかがない。何十回も目があったが、支配人は私の顔など覚えていないだろう。私の顔は何度見ても忘れる平凡面である。人はよくそう言う。

 久方ぶりに地下鉄、堺筋線の天神橋筋六丁目駅を通り越し、阪急の淡路駅まで乗る。梅田行きの普通電車に乗り換え、十三で下車。このコースは懐かしい。三十代前半、私はいつもこのコースで十三を降り、第七藝術劇場へと歩いた。この辺り、私はロケーションでやってくる機会が多い。昼下がりの似合うごったがえした商店街、立小便をしたくなる高架下、浅草ロック通りと錯覚するような風俗街、そして淀川の対岸に高く建ち並ぶ梅田の街。逆光が画になる。夕日の中を赤い阪急電車が、擦り切った声をあげながら鉄橋を走る。本作は、この街の魅力、この街に住む人の魅力を存分に撮って映画化した作品である。

 HDで撮り、編集されていて、スタンダードサイズ。劇場ではDVDで投影されているようだった。しかし、これほど映画の中に「第七藝術劇場」そのものが登場するとは思わなかった。いくら配給に携わっているとはいえ、かなり劇場内で撮っている。何度も出てくる。深夜の劇場で撮ったのだろうが、自分が観ている映画館で、映画の中に客席が出てくるなんて、どこかで覗かれているようでむず痒い。「どこの映画館や!」「第七藝術劇場や!」「近すぎるがな!」なんて台詞も出てくる。

 本作は、この劇場で封切となった。この劇場と周辺が舞台だから、もちろんロングランとなっているが、ロードしていくらしい。西から東へロードする映画は珍しい。出演者の顔ぶれをみると、コメディだとわかるが、コメディというより、コテコテの大阪人情喜劇・・・こういう呼び方が正しい。大阪を舞台にした場合、ほとんどの作品が道頓堀、通天閣のある新世界だが、本作はそれらを完全に無視している。大阪で「ミナミ」と呼ばれる道頓堀、通天閣は、もっとも大阪らしい土地だが、「キタ」と呼ばれる梅田を飛び越えて十三としたのは面白い試みだ。大阪に住む人はわかるだろう。梅田から北は、大阪らしさが薄れ、とても上品な街となる。だが、その隙間に、とてもコテコテな街がある。十三、淡路界隈だ。ベタベタの天王寺から難波に至り、上品な梅田を越え、またコテコテに戻り、そして最後は上品になっていく。上品と上品の間に埋れた街である。

 故、桂枝雀の弟子、桂雀々が映画初出演で主演を張る。関西以外の方は知らないのではないだろうか・・・私は10年ばかり前、桂雀々の落語を一門会で聞いたことがある。とても上手いとは言えない噺家で、それ以降、雀々の落語を聞く事はなかったが、昨年、たまたま生で聞く場に出くわした。また、つまんない落語かと思いきや、10年前とはまったく違っていて、その成長ぶりに驚いた。雀々は、枝雀亡き後、師匠の語り口を真似て、爆笑させる噺家になっていた。芸がのり、磨きがかかると、多芸になる人は多い。私は、本作を観て、何でもこなせる大きな芸人になったと感じた。

 軽いタッチで描かれているが、緻密な構成と意外な台詞に、後味が良い。このコテコテの大阪の味が、どのようなロードを続けていくのかはわからないが、どこまで大阪の雰囲気が伝わるだろうか。何も考えず、気楽に気楽に観てほしい。青春モノを取り入れた喜劇映画がなくなった。大阪だけではなく、全国でたくさんの人が観てくれたら・・・大阪発の作品がこれからも増えるに違いない。  <70点>

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