萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第85話 暮春 act.20-side story「陽はまた昇る」

2017-03-22 22:40:02 | 陽はまた昇るside story
Only Thou art above
英二24歳3月下旬


第85話 暮春 act.20-side story「陽はまた昇る」

そんな朝、国村光一は警視庁を辞した。


ざあっ、

蛇口ひねって水奔る。
水音まっすぐ脳天を突く、冷さ迸って醒まされる。
髪から肌から沁みて透って、飛沫はじく肩に英二は息吐いた。

「はぁっ…」

ため息ざっと流される、滴る水に濯がれる。
誰もいない朝食時の大浴場、静謐に水音と自分の呼吸が響きだす。
皮膚たたく冷感が徹る、脳髄うずくまる熱じわり流れて、透らす意識が呼ぶ。

『それでも英二、俺はおまえと山に登るよ?』

15分前、笑ってくれた。

「なんでだよ…光一?」

名前こぼれて冷水にとける。
水滴ふらすシャワー直下、醒まされる皮膚から思考めぐる。

『おまえの理想や夢で煮詰めるんじゃない、そのまんまをキッチリ見て聴くんだよ?』

ザイルパートナーの言葉が呼ぶ、それから今までの時間。
いつも諫めてくれた声、いつも前を指して、そうして三千峰を超えて昇る。

ほら、最初の秋が今も。

「…光一っ、どうして俺を見捨てないんだよっ?」

シャワー水飛沫に呼んで、かすかなカルキふくむ。
こんなふう水を浴びても奥多摩とここは違う、違うからこそ記憶まぶしい。

まぶしくて、だから憧れて今も信じたくて揺すられる。

“それでも英二、俺はおまえと山に登るよ?”

ほんとうに、本当に自分に向けられた言葉だろうか?
そう信じたくて揺すられる、もう離れる夢が飛沫に掴む。

「こういちっ…俺だって山に生きていたい」

ざあっ、

轟く水音が川になる、滝になる。
共に生きた山の時間、そこに水は輝いていた。
あの場所であの男は医者として生きる、その選択肢ただ眩しくて、残された言葉が響く。

『いいかい英二、つかまえたいんなら今日だよ?』

あの言葉なんだよ光一、山のことか、それとも、

「…周太のこと今日限りになるってことかよ、」

声こぼれた唇に飛沫ふれる。
濡れて冷えて水音が敲く、聴覚ごと皮膚を弾いて澄む。
流される昨日の残滓にアルコール抜けて、クリアになる。

“それでも英二、俺はおまえと山に登るよ?”

あの言葉ほんとうに信じていい?
それなら自分は、まだ赦されるのだろうか?

―佐伯に言われる程度なんだ俺は、それでもかよ光一?

山の峻厳を擬人化したような貌、あの男はどこかザイルパートナーと似ていた。

『僕に営業しても無意味だ、そんなやつザイルの信頼できないだろ?』

昨日、雪山に言われた声。
あれから狂わされる、もう覚悟を決めたはずなのに?

『君に覚悟があるなら聴こう、ただ交換条件をいいかな?』

祖父ゆかりの声が訊く、あの声に自分は肯いた。
そうして選んだ道は「山」じゃない、それでも後悔しないと決めている。
唯ひとり護りたい願いたい、この想い殉ずるのなら夢すら諦められる、それなのに、

『山は嘘吐き通せるトコじゃねえ、んだがら言ってっちゃ、』

星空くったくない笑顔、山を選んだ同期の山ヤ。
あの貌に言われた昨夜が疼く、稜線めぐらす屋上の夜、缶ビールと凍える風。
それでも笑顔まっすぐな言葉が温かすぎて、どうしても愉しくて、決めたはずの覚悟が軋む。

「…藤岡、おまえは俺を知っても笑ってくれるのかよっ…」

低い叫びに飛沫あふれる、噛んだ唇を雫が敲く。
冷えてゆく奔流の真中、白銀の森が笑った。

『ここは山だからなあ…おまえのまんまでいい、おまえで良いんだ、』

なつかしい、あの声。

「ごとうさんっ…」

呼んで鼓動ひっぱたかれる。
タイル弾く水滴ゆるく滲みだす、流れる冷たさ熱こぼす。
頬ぬれる冷水と熱とけて流れて、意識の底から浚われる。

“それでも英二、俺はおまえと山に登るよ?”

本当に、本当に信じていいのだろうか?

「ほんとかよこういち…俺ひどかったろ?」

ザイルパートナーに自分がしたこと。
その罪きっと忘れられない、だからこそ覚悟も決めた。
この罪悪感ずっと背負って登る時間、そんな未来が違う道へ自分を押す。

けれど昨夜、懐かしい雪の街角なつかしい声。

『でも、それがあったから光一は自分の道に戻れたのは確かだろう?罪悪感の分だけ君は光一が大事なんだよ、』

穏やかな深い声、同じ眼ざしが雪に微笑んだ。
あの瞳そっくりな写真を見つめた時間、そのデスクに座る声が言う。

『それだけの時間を共有したんだ、命までザイルに繋いで向きあった時間は本物だろう?』

だから光一、本当に言ってくれる?

“それでも英二、俺はおまえと山に登るよ?”

あの言葉あの想いは変わらないだろうか、もし自分が今日を選んでも。

“いいかい英二、つかまえたいんなら今日だよ?”

今日つかまえたら多分、自分はまた約束ひとつ違える。
そうして負う罪悪感は軽くない。

『赤いパンジーの前でそれを言われたら、何も言えないよ?』

鎌倉の夜、真紅のパンジー活けた座敷の席。
あそこは祖父の「特別」だ、それを知る人に結んだ約束は祖父も見たろう。
誰よりも家族でいちばん等身大を見てくれた祖父、その愛弟子を裏切って今日を選ぶ?

それに、もう一人の祖父も裏切るのだろうか?

『克憲様はやり直しをされたいと想っています、家庭人として素直になれませんでしたから、』

落ち着いた静かな訴え、あの声は祖父も自分も真直ぐ見る。
あの言葉にある「やり直し」は何を指す?想い、もうひとつ声が呼んだ。

『無事でいろ英二、山でもどこでも、』

休養明け別れの言葉、もうひとりの祖父が告げた。
あれは何を言いたかった?

「あの祖父が…」

タイルそっと声こぼれる。
誰もいない風呂場の奔流、冷たい飛沫に蛇口とめた。

そして見あげた窓、空が青い。



今朝の扉、独りノックする。
もう返事はない、それでも握ったドアノブ動かない。

「は…施錠されてるよな?」

ひとり笑って肚そっと落ちる。
ついさっきまでこの部屋にいた、でも今もういない。

『次ドコに登ろっかねえ、おまえ希望ある?』

澄んだ深いテノールが笑う、いつも明るい雪白の笑顔。
底抜けに明るい瞳は聡くて、なんでも気づいて笑い飛ばしてくれた。
そうして救われた自分がいる、初めて出逢った秋から何度も救われて、笑わされて。

それなのに言えなかった最後、顔も背けたまま。

「ごめん…ありがとな?」

声にして、でも、もういない。
もう届かない言葉、このあといつ言えるのだろう?
こんな別れ望んでなんかいない、静かに咬まれる鼓動に呼ばれる。

“それでも英二、俺はおまえと山に登るよ?”

最後の言葉、あの「それでも」を今すぐ追いかけたい。
けれどもう一つにすぐ掴まれる。

“いいかい英二、つかまえたいんなら今日だよ?”

今日つかまえたなら、どうなる?

いくつもの声また記憶ゆらす、その先に自分が望むのは?
今ここを去った笑顔はなに望むのだろう、そして明日どうなる?
めぐらす想いドアノブ見つめて無人の扉、ほっと息吐き笑った。

「は…ここに佐伯か?」

誰もいない部屋、でも次が来る。
そして前と違う空気が住むのだろう、それが少し重たい。
いつも寛いでいた場所、こんなふう立ち止まる場所、そこにあの男が来る。

こんなこと笑ってしまう?そんな廊下、窓の青空につぶやいた。

「…行くか、」

(to be continued)
【引用詩文:John Donne「HOLY SONNETS:DIVINE MEDITATIONS」】

第85話 暮春act.19
にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へにほんブログ村 blogramランキング参加中! 人気ブログランキングへ 
著作権法より無断利用転載ほか禁じます

PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山岳点景:早春花園 | トップ | 第85話 春鎮 act.22-anothe... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

陽はまた昇るside story」カテゴリの最新記事