しずおかKさんから「牧之原市・白百合遺跡」のトラックバックをいただいた。
牧之原市というとピントこない。それもそのはず、筆者が知っているのは相良町の時代。2005年に榛原町と合併して牧之原市になった。
相良町の頃には、150号線沿いの手打ちそばや「はしもと」でよく昼食を摂った。特に、大根おろしがたくさん入った「おろしそば」が好物だった。今頃の時期は新芽の出た茶畑が鮮やかだし、6月になると「大鐘家」(国重要文化財)のあじさいがきれいである。 (写真は大鐘家の裏山に咲くあじさいから片浜海岸を観た方向にかけて)
さて、白百合遺跡の出土展は牧之原市長・西原しげき氏もブログで書いている。市には専門の調査員が一人しかいないと。朝日新聞では、市教委の学芸員・松下善和とフルネームで紹介している。
新聞記事を総合すると、
牧之原市静波地区の弥生時代~中世の複合遺跡「白百合遺跡」から出土した土器など30点が、16日から榛原庁舎の2階ラウンジで公開されている。(5月20日まで) 弥生時代に作られたとみられ、乳幼児の遺体を入れたらしい高さ約70cm、直径50cmの大型の珍しい土器(壺)棺も展示している。
同遺跡は市内を流れる勝間田川下流部の東岸にあり、東に標高87.1mの龍眼山、西に標高64.5mの牧ノ原台地から延びる秋葉山丘陵に挟まれた標高3m程の海浜平野の砂堤(さてい)列上に形成されている。市道建設工事で2008年度に約2千㎡の砂地部分を調査し、遺構が見つかった。
弥生時代後期(3世紀)とみられる遺構では、倉庫と考えられる掘っ立て柱建物を中心に4カ所の竪穴住居跡を確認。土器(壺)棺は、同中期の方形周溝墓といわれる墓の周辺部から見つかった。
[参考:静岡新聞、中日新聞、朝日新聞]
次は、牧之原市のホームページ「白百合遺跡の発掘調査報告」を参考にすると、
弥生時代の土器は、東遠江系の形態を示す土器が大半であるが、一部には駿河系の土器も出土している。登呂遺跡に代表される駿河地方の影響を受けた集落であることが伺われるとしている。
奈良時代の竪穴住居跡内からは、8世紀代の土師器壺・甕や須恵器坏蓋・長頸壺が出土している。
中世の遺構では、平安時代末から鎌倉時代までの集落にかかわる掘立柱建物跡や井戸、溝などを確認した。山茶碗と呼ばれる青灰色の器(碗、皿)が出土した。これらは勝間田川上流勝間田城(注1)跡の南斜面に所在した土器谷古窯(どきやこよう)で焼かれた製品が多く見られた。この山茶碗から、当時の人々の勝間田荘園内での生産と消費による物流の一端を伺い知れるとしている。
[参考:、牧之原市のホームページ「白百合遺跡の発掘調査報告」]
(注1) 勝間田城跡: 勝間田城は、応永年間(1394年~1428年)に勝間田定長が築城したとされ、平安時代末期より室町時代中期にかけてこの地方を治めた豪族、勝間田氏の本拠地であったとされる。
『保元物語・上/主上三条殿に行幸の事』に、「(源)義朝に相随手勢の者は、(略)、遠江には横路(横地)、勝間田、井の八郎、(略)を始として、(略)、2百5十余騎にて馳向かう。」とある。この、横地氏は一説に、源義家と相良庄の藤原光頼(相良太郎)の女との間に出来た庶子が横地と名乗り、その一族から勝間田荘を領する勝間田氏が輩出されたとしている。
続いて、『吾妻鏡・寿永二年(1183)二月十七日』に「安田三郎義定相率義盛。(略)、遠江國住人横地太郎長重。勝(間)田平三成長等。(略)」と記され、さらに『同・文治二年(1186)四月大廿一日戊辰』に、遠江守義定朝臣自彼國參上。(略)。二品仰云。遠江國有何事哉。義定朝臣申云。勝(間)田三郎成長去六日任玄番助。是一勝事也。(略)」と出てくる。吾妻鏡に出自するときには、横地氏、勝間田氏とも源頼朝の御家人になっていたようである。
すなわち、白百合遺跡の地は平安時代末頃には、勝間田荘園が開墾され、豪族勝田氏がそこを支配していたと考えられる。
さて、しずおかKさんのブログを拝見させていただくと、榛原庁舎に行かれたようで、白百合遺跡・出土展で撮られた土器の写真などがUPされている。なるほど、山茶碗は無釉の陶器であることがわかるし、牧之原の地でも生産されていたことを知った。
そして、須恵器の長頸壺(古墳時代)は三鷹市・天文台構内古墳(7世紀後半)の副葬品として出土したフラスコ形長頸瓶(下の写真)と形状が似ている。この長頸瓶は、三鷹市教育委員会の方より、浜名湖の西岸に分布する湖西古窯跡群の産であることをご教示いただいている。
同じ、須恵器は東京国立博物館でも見ている。市ヶ尾横穴群(横浜市青葉区)から出土した7世紀のもので、緑色と茶色が混ざったような色の自然釉がいくつも流れていて美術品のごとく見事な美しさであった。さて、白百合遺跡出土品のものは、いつ頃、どこで生産されたのか非常に興味のあるところ。
過去の関連ニュース・情報
2009.1.28白百合遺跡 区画された竪穴住居跡 所有地を区分か?
2008.8.28白百合遺跡 弥生時代後期の海浜集落跡現れる
牧之原市というとピントこない。それもそのはず、筆者が知っているのは相良町の時代。2005年に榛原町と合併して牧之原市になった。
相良町の頃には、150号線沿いの手打ちそばや「はしもと」でよく昼食を摂った。特に、大根おろしがたくさん入った「おろしそば」が好物だった。今頃の時期は新芽の出た茶畑が鮮やかだし、6月になると「大鐘家」(国重要文化財)のあじさいがきれいである。 (写真は大鐘家の裏山に咲くあじさいから片浜海岸を観た方向にかけて)
さて、白百合遺跡の出土展は牧之原市長・西原しげき氏もブログで書いている。市には専門の調査員が一人しかいないと。朝日新聞では、市教委の学芸員・松下善和とフルネームで紹介している。
新聞記事を総合すると、
牧之原市静波地区の弥生時代~中世の複合遺跡「白百合遺跡」から出土した土器など30点が、16日から榛原庁舎の2階ラウンジで公開されている。(5月20日まで) 弥生時代に作られたとみられ、乳幼児の遺体を入れたらしい高さ約70cm、直径50cmの大型の珍しい土器(壺)棺も展示している。
同遺跡は市内を流れる勝間田川下流部の東岸にあり、東に標高87.1mの龍眼山、西に標高64.5mの牧ノ原台地から延びる秋葉山丘陵に挟まれた標高3m程の海浜平野の砂堤(さてい)列上に形成されている。市道建設工事で2008年度に約2千㎡の砂地部分を調査し、遺構が見つかった。
弥生時代後期(3世紀)とみられる遺構では、倉庫と考えられる掘っ立て柱建物を中心に4カ所の竪穴住居跡を確認。土器(壺)棺は、同中期の方形周溝墓といわれる墓の周辺部から見つかった。
[参考:静岡新聞、中日新聞、朝日新聞]
次は、牧之原市のホームページ「白百合遺跡の発掘調査報告」を参考にすると、
弥生時代の土器は、東遠江系の形態を示す土器が大半であるが、一部には駿河系の土器も出土している。登呂遺跡に代表される駿河地方の影響を受けた集落であることが伺われるとしている。
奈良時代の竪穴住居跡内からは、8世紀代の土師器壺・甕や須恵器坏蓋・長頸壺が出土している。
中世の遺構では、平安時代末から鎌倉時代までの集落にかかわる掘立柱建物跡や井戸、溝などを確認した。山茶碗と呼ばれる青灰色の器(碗、皿)が出土した。これらは勝間田川上流勝間田城(注1)跡の南斜面に所在した土器谷古窯(どきやこよう)で焼かれた製品が多く見られた。この山茶碗から、当時の人々の勝間田荘園内での生産と消費による物流の一端を伺い知れるとしている。
[参考:、牧之原市のホームページ「白百合遺跡の発掘調査報告」]
(注1) 勝間田城跡: 勝間田城は、応永年間(1394年~1428年)に勝間田定長が築城したとされ、平安時代末期より室町時代中期にかけてこの地方を治めた豪族、勝間田氏の本拠地であったとされる。
『保元物語・上/主上三条殿に行幸の事』に、「(源)義朝に相随手勢の者は、(略)、遠江には横路(横地)、勝間田、井の八郎、(略)を始として、(略)、2百5十余騎にて馳向かう。」とある。この、横地氏は一説に、源義家と相良庄の藤原光頼(相良太郎)の女との間に出来た庶子が横地と名乗り、その一族から勝間田荘を領する勝間田氏が輩出されたとしている。
続いて、『吾妻鏡・寿永二年(1183)二月十七日』に「安田三郎義定相率義盛。(略)、遠江國住人横地太郎長重。勝(間)田平三成長等。(略)」と記され、さらに『同・文治二年(1186)四月大廿一日戊辰』に、遠江守義定朝臣自彼國參上。(略)。二品仰云。遠江國有何事哉。義定朝臣申云。勝(間)田三郎成長去六日任玄番助。是一勝事也。(略)」と出てくる。吾妻鏡に出自するときには、横地氏、勝間田氏とも源頼朝の御家人になっていたようである。
すなわち、白百合遺跡の地は平安時代末頃には、勝間田荘園が開墾され、豪族勝田氏がそこを支配していたと考えられる。
さて、しずおかKさんのブログを拝見させていただくと、榛原庁舎に行かれたようで、白百合遺跡・出土展で撮られた土器の写真などがUPされている。なるほど、山茶碗は無釉の陶器であることがわかるし、牧之原の地でも生産されていたことを知った。
そして、須恵器の長頸壺(古墳時代)は三鷹市・天文台構内古墳(7世紀後半)の副葬品として出土したフラスコ形長頸瓶(下の写真)と形状が似ている。この長頸瓶は、三鷹市教育委員会の方より、浜名湖の西岸に分布する湖西古窯跡群の産であることをご教示いただいている。
同じ、須恵器は東京国立博物館でも見ている。市ヶ尾横穴群(横浜市青葉区)から出土した7世紀のもので、緑色と茶色が混ざったような色の自然釉がいくつも流れていて美術品のごとく見事な美しさであった。さて、白百合遺跡出土品のものは、いつ頃、どこで生産されたのか非常に興味のあるところ。
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