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浜松市・浜松城跡  天守門跡と富士見櫓跡から礎石などの遺構 12/5現地説明会

2009年12月08日 | Weblog
 今川領の制圧を開始した徳川家康が、武田信玄の侵攻に備えるために築城したとされる浜松城。市が再整備のために11月16日に着手した発掘調査で、天守門跡と富士見櫓(やぐら)跡から、それぞれ建物の礎石とみられる遺構などが確認された。
 天守門と富士見櫓は17世紀後半の「遠州浜松城絵図」に描かれ、それ以降の絵図にも登場する。
 これまでの発掘で、天守門跡から4基の礎石、富士見櫓跡からは2基の礎石が確認されていた。
 天守門跡からは土台部分となる4個の礎石と、2つの抜き取り穴が発見された。礎石と礎石の間隔は約4・5mで、周囲には丸瓦と平瓦を組み合わせた排水溝も見つかった。礎石の幅から観音開きの扉の幅と高さは約4mで、門の上に櫓が乗る2層式だったとみられる。出土した大量の瓦の中には安土桃山時代の物もあり、建築にかかわったのは徳川家康以後の城主だったとみられる。
 天守閣北東の富士見櫓跡では、3個の礎石とその間に床板を乗せる地覆石が見つかった。間隔が京間(六尺五寸=197cm)を用いた構造と判明。北側の石垣までのスペースでは庭園装飾に用いる玉砂利も多数見つかった。一般的な櫓は土蔵作りだが、基礎の特徴から、邸宅風の部屋があったことをうかがわせる。造営は16世紀後半か17世紀初めで、宴会や茶の湯などを催す風雅な場だった可能性がある。江戸時代初期のものとみられる細桔梗紋の瓦も見つかった。
 5日、発掘調査地説明会があり400人余が参集した。
 市は詳しく成果を検証した上、天守門と富士見櫓を忠実に復元する計画。2012年度にも復元に取りかかりたいとする。

浜松城の前身は曳(引)馬城で、築城時期は永正年間(1504-1520)とも云われる。
浜松城城主一覧(家康以降17世紀中まで)
 徳川家康 1570 (56万石)
 菅沼定政 1586 ( ? )
 堀尾吉晴 1590 (12万石)
 堀尾忠氏 1599 (17万石)
 松平忠頼 1601 (5万石)
 水野重仲 1609 (2.5~3.5万石)
 高力忠房 1619 (3.2万石)
 松平乗寿 1638 (3.6万石)
 太田資宗 1644 (3.5万石)
[参考:中日新聞、静岡新聞、読売新聞、浜松市HP]

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