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意思による楽観のための読書日記

古代朝鮮と倭族 鳥越憲三郎 ***

本書は2016年にも一読している。「弥生時代」とされる時期に、日本列島に渡来してきた人たちは、大陸華南地方やタイ、カンボジア、ラオスあたりの水稲稲作高床式住居の人たちで、多くは大陸沿い、朝鮮半島経由、琉球列島沿いなどの経路で移住してきたとされる。様々なバリエーションが有り、時期的にも幅がありそうだが、本書ではそうした人々のことを「倭族」と称し、彼らが日本列島にもたらした文化の痕跡を、神話や宗教、習俗、儀式、神社などの切り口から解き明かす。

弥生から古墳時代にあたる時期の大陸では、周、春秋・戦国時代から秦、前漢、後漢を経て、魏・呉・蜀の三国時代へと変遷している。戦いに疲弊した人たちの中には、一族を挙げて新地開拓を目指す集団も多かった。日本列島に渡来してきた人たちのなかにも、途中の大陸沿岸地域や朝鮮半島に一時住み着いた人たち、そしてさらなる新天地を求めて日本列島に移り住んだ集団もいた。当時の日本列島には、狩猟・採集や焼き畑を生活の糧とする人たちが先住していたと考えられるが、紀元前1000年から千年以上をかけて稲作や灌漑、集団農業の技術などとともに、列島を東漸浸透していったと考えられる。そうした中で、数々の習俗や儀式、神話、宗教も混淆しながら、列島に広がっていった。

後漢時代の朝鮮半島は、現在の北朝鮮の場所には扶余、中国の楽浪郡、高句麗、沃沮などが分立し、38度線以南には濊・貊勢力や辰国があった。後漢勢力の衰退時期に辰国は馬韓、辰韓、弁韓に分立していたが、滅亡した扶余の残存勢力により馬韓は滅ぼされ、百済が建国された。中国は帯方郡、楽浪郡強化を図るため、馬韓滅亡を手助けした可能性もある。辰国の歴史は不透明であるが、江上波夫は騎馬民族説のなかで、渡来人勢力のサポートを受けた辰国王が、南部朝鮮を根拠地とし、その後北九州に侵攻し、書紀の崇神となったとする。その後の大和政権は、末裔である応神が東進して打ち立てた、と主張した。江上波夫は北方系の騎馬民族が渡来人の中心だったというが、本書では、それは南方からの倭族だったという主張である。

本書主張の根拠は、様々な水稲稲作にまつわる習俗や儀式が、中国雲南省やタイ、ラオス、カンボジアなどに現在も残るものと共通するという現地調査結果から来ている。それらの習俗は長江を経由し、朝鮮半島南部を通り日本列島にもたらされたとする。呉の国は周公の長子の太伯が継承問題から逃れ、この地に立国したもので、文身(入れ墨)、断髪の習俗をもつ。その後、春秋戦国時代末に滅びた際に、遺民たちが稲作文化を持ちながら、移住を重ねて朝鮮半島経由で日本列島にたどり着いたとする、これが弥生人の本体だという。朝鮮半島南部にも、韓人とは別の倭人が住んでいたと解釈できるのは、後漢書や三国志の「馬韓は南は倭と接する」である。伽倻、加羅などと呼ばれ、魏志倭人伝には狗邪韓国と呼ばれた地域でもある。倭人、倭族は朝鮮半島南部から九州に至る地域に海をまたいで広がっていた、というのが本書の主張。

朝鮮半島に残された神話では、高句麗、百済、加羅、新羅でそれぞれの卵生神話がある。狩猟民から農耕民になった高句麗、百済と、もともと農耕民だったものが伝えたという加羅、新羅のものである。倭族に伝わる神話は農耕民系列である。これらの検証は今後も必要であるが、倭族というコンセプトにより、古代史を見直すことが可能、というのが本書の主張である。本書内容は以上。

倭族の痕跡は、その後の中世における倭寇勢力の分布とも重なり、かなり長期間にわたり、倭族の生活圏は残っていたとも考えられる。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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