意志による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意志に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

古代史の謎を解明するためにも宮内庁管理の陵墓を科学的に発掘したらどうか

2016年12月10日 | 本の読後感

以前読んだ「謎の豪族 蘇我氏」を読み直してみた。

本書で水谷千秋氏は次のように記述する。『5世紀から6世紀にかけては大王の勢力が弱体化、蘇我稲目が大臣に登用されてからは馬子、蝦夷、入鹿と4代続いてヤマト政権を支え、蘇我氏あっての王権であった。蘇我氏は仏教の取り入れに積極的で、隋からの官僚制度や租税の管理方法、屯倉で導入された戸籍などの先進的な仕組みを取り入れた。飛鳥という町と飛鳥寺も蘇我氏が築き上げたといっても過言ではない。乙巳の変はここまで築き上げた蘇我氏による王権の果実を横取りし、蘇我氏が招来した渡来人や仏教徒、僧旻などのブレーンも含めて引き継いだのが中大兄皇子と中臣鎌足であった。日本書紀の記述は天命思想で乙巳の変の流血によるクーデターを正当化し、蘇我氏の専横を強調することで天智、天武、持統の政権の権威付けを図った。当時の人々にとっては記憶に残る蘇我氏はそれほどまでに強大だったとも考えられる。』

また、「蘇我氏の正体」で関裕二氏は次のように推測している。『魏志倭人伝によれば卑弥呼の死を受けて男王が立ったが収まらずトヨが女王として君臨し国はおさまった。トヨがヤマトに裏切られ九州筑後川から鹿児島の野間岬を目指した、これが出雲の国譲りであり、天孫降臨であるという。日本書紀がこれを隠したのは、トヨの夫とされる仲哀天皇、実際には武内宿禰であり、蘇我氏の祖先であった。この二人の子が応神天皇であり神武天皇と同一人物であった。そして出雲神の正体がトヨと武内宿禰である。日本書紀で天の日槍(あめのひぼこ)とされるのはツヌガアラシトであり、新羅の王子であった。船で播磨の国にきて宇治川から近江、若狭、但馬の地を選んだ。そこには鉄があったから、という推測である。そしてその末裔が蘇我氏であったというのである。なぜ日本書紀が蘇我氏は渡来人だと書かなかったのか、これは今ひとつハッキリしない。蘇我氏の祖が武内宿禰であり天の日槍であればスサノオの境遇とそっくりである。蘇我氏の祖は新羅に渡った倭人であり、脱解王の末裔であった、蘇我氏は一度ヤマト建国にのち没落していたが、6-7世紀に「我蘇り」と曾我から蘇我に書き換えた。ツノガアラシトは日本に鉄をもたらし、ヤマト建国の機運を一気に高めた功労者であった、これを藤原氏は書きたくなかった。』

また、今まで読んできたDNA分析言語学比較文化論考古学古墳分析などなどを総合すると、素人考えながら、次のようなことが言えるのではないか。

都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラヒト)と天之日矛(アメノヒボコ)に象徴される渡来人達が製鉄技術を日本にもたらしたとされる逸話や武内宿禰の日本書紀における記述とその子孫とされるのが蘇我氏であること、なども踏まえると、大和朝廷が倭国を統一するために製鉄技術は必須であり、当時九州や吉備、出雲、近江、越、尾張などの諸豪族を統一する戦いでは、鉄製の武器が大いに活躍したのではないか。また、稲作の豊穣を祈る神道に加え、鎮魂や成仏の概念を強く意識した仏教受容も倭国統一に大きな役割を果たしたのではないかと考えられる。武烈で断絶したとされる大王家を越の国から継体を呼び寄せたのは大伴氏と物部氏だったが、それを大和朝廷に組み込めた最終的な勢力は蘇我氏であった。蘇我氏は山城の秦氏とも強いつながりを持ち、朝鮮半島とのつながりも相当深かったと考えられる。日本書紀を取りまとめた天武天皇と藤原不比等は、大和朝廷の成り立ちに深い関わりと貢献をした蘇我氏の痕跡を消し去るために様々な工夫をこらしたが、事実は天皇家の祖先には新羅、百済の王族の血が濃く、渡来人とされる朝鮮半島由来の人たちが稲作を始め、青銅文化、鉄器文化を持ち込んだのであれば、倭国の中枢は、日本列島古来の縄文人をあとから来た弥生人が圧倒し、倭国の統一まで大いなる貢献をしたと考えてもおかしくはない。歴史的にキーとなる継体陵や仁徳陵など、本格的に発掘分析研究してみたいと感じる。

宮内庁が継体陵と認定する太田茶臼山古墳は、はたして本当に継体陵なのか。実は多くの学者が指摘するのは、高槻にある今城塚古墳である。宮内庁認定の継体陵の発掘できないが、今城塚古墳は発掘(盗掘も)されている。古代史に登場するような古墳の多くは盗掘されていると言われるが、科学的に発掘・分析してみればさまざまな歴史の謎に関するヒントが見つかるかもしれない。天皇陵でもない古墳をお祀りし、本当の天皇陵は保護されないまま盗掘されているとしたら、これこそ不尊、不作為の罪ではないか。「陵墓」と言われる歴代天皇や皇后、皇族を葬った陵(みささぎ)と墓(ぼ)、被葬者の特定はできないが陵墓の可能性がある場合などで、古墳以外に石塔などもある。場所や被葬者は幕末から明治初期に文献や伝承を手掛かりに指定されたが、天皇陵の見直しは1889年以降はないという。発掘しても何も出てこない古墳もあるだろうし、掘れば何か分かるわけでもないだろうが、日本列島に896あると言われる天皇家の墓とされる古墳の発掘分析を積極的に進める必要があるのではないかと思う。

 


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

継体天皇と朝鮮半島の謎 水谷千秋 ****

2016年12月07日 | 本の読後感

筆者2013年の著作、結論としては継体天皇(大王)は近江に生まれ、若狭で57歳まで過ごしたとされているが、その途中では朝鮮半島に渡り、百済の武寧王との親交があり、日本に百済経由で当時の進んだ文化であった中国の制度や考え方を五経博士を招聘することにより大和王朝(倭国)に取り入れた人物であったとする。

継体王朝の前まで政治の中心は大和・河内地方であったが、継体天皇の出身は近江湖北、基盤とするのは若狭、越前、そして美濃、尾張である。継体を支援した母体は大和地方の豪族で、主に大和盆地の東側に基盤を持っていた物部氏、大伴氏、和邇氏、阿部氏ら中央の非葛城系であった。当時はまだ九州の豪族も力を持ち、特に魏志倭人伝に出てくる松浦国や伊都国などの次の世代である有明海沿岸の諸豪族とは、当初は友好関係、その後微妙な関係であった。磐井の乱は継体即位直後に起こっているが、それを鎮めに行ったのは大伴金村、物部荒甲(アラカイ)、継体王朝で統一できた大和政権が、かねてより九州で独立する動きを見せていた磐井に攻撃を仕掛けたと見る。継体が若狭より即位した当初は、大和盆地の西に本拠地を置く葛城氏や南部の蘇我氏など反対勢力が強く、樟葉の宮(枚方市)、綴喜の宮(京田辺市)、弟国宮(向日市)、と大和盆地に入れなかったが、その後、葛城氏の権益を継承した蘇我氏と手を結び、即位後20年をかけて磐余玉穂宮(大和盆地の櫻井)に定着することができた。

継体王朝で実行された親百済政策(五経博士招聘と引き換えにした朝鮮半島四県割譲、部の民制度と氏姓制度導入、その後の仏教導入など)や当時の中国や朝鮮半島の先進的文化を取り入れる努力などの国際的開明性は、先代の雄略の政策を引き継いでいる。さらに、秦氏など渡来人を重用し、朝鮮半島で活躍し帰国した各地の首長に百済式冠や太刀を与えて評価した。生まれ故郷の近江高島の地には多くの渡来人たちが製鉄などの技術を持ってすでに生活していた。若狭にも秦氏一族がいて、当時の若狭は日本海を経由する朝鮮半島からの入口でもあった。日本書紀には生まれた近江から母とともに越前に移住し、57歳までそこにいた、と記述されるが、その間、近江と若狭、越前を行き来していたことと推測できる。

継体の墓は今城塚古墳だと言われているが、それと同型の古墳が宇治にある二子塚古墳である。現在ではその大部分が線路や住宅地になっているが、元は全長112メートルの二重の濠を持つ大きな前方後円墳であり、京都府でこの時期最大の古墳である。筆者の推測ではあるが、和邇氏が宇治には居たことから、継体后の和邇臣河内の女ハエ媛、もしくは秦氏関連の王族関連の人物を被葬者と想定できるという。

本書では氏の成立についても考察されている。倭人の名前は魏志倭人伝などでは卑弥呼、壹與、難升米など個人名、埼玉稲荷山古墳の辛亥銘鉄剣でも意冨比(オホヒコ)、江田船山古墳太刀銘文にも牟利弖(ムリテ)など個人名のみ。最古の確実な氏の存在を示す資料は、6世紀後半と見られる岡田山古墳の「額田部(ヌカタベ)」で日本書紀などによれば、継体から欽明朝には氏姓制度が成立していたと考えられる。物部、蘇我、大伴などはその時期からの呼び名で、権力者がその一族に呼び名を与える形で継承されたとしている。この頃の氏は二文字、中国は一文字が多く、古代百済の影響を受けていたと考えられるとしている。

武烈で途絶えてしまった大王一族の血脈を応神の5世代孫であるとされる若狭の継体を呼び寄せることで大伴氏、物部氏は朝廷に勢力を伸ばすことができた。大和朝廷内での葛城氏、蘇我氏と物部氏、大伴氏の勢力争い、倭国と百済を始めとした朝鮮半島等の関係や九州に残る勢力とのバランス、大陸や朝鮮半島に比べた時の文化的遅れとなど、こうしなければならなかった背景が解明できそうな一冊である。筆者はあとがきで述べているが、考古学的アプローチと歴史文献アプローチの協同が重要であると。ここにDNAや言語学、古代朝鮮史、中国古代史などを加え、古代史発掘ではぜひ学際的アプローチをお願いしたいと考えている。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

狡猾の人 防衛省を喰い物にした小物高級官僚の大罪 森功 ****

2016年12月05日 | 本の読後感

守屋武昌元防衛次官の収賄事件についてのインタビューによるドキュメンタリー。こんな小物がなぜ中央官庁のトップにアサインされたのか、呆れると同時に、バレなければ任期を全うして悠々自適な老後を送っていたかと思うと腹が立つ。背景にはアメリカ政府とアメリカ防衛産業界にいいように喰い物にされている日本の実態がある。防衛省の武器や防衛備品については市場価格があるわけではなく、個別見積もりと国家間交渉があるのみで、その実態は国民からはうかがい知れない。はたして国民税金によりなりたっている防衛費が正しく見積もられているのか、備品は正当な価格で取引されているのかさえわからない。そこにアメリカ側にはロビイストの存在があり、日本側には防衛商社の存在がある。本件で問題になった山田洋行という会社が三井や三菱ならばこんなに表沙汰になっていただろうかとも勘ぐってしまう。

守屋武昌は、情報獲得のために貿易商社の宮崎常務に接近し、本来は禁止されている接待を受け、料金を払わないゴルフを夫婦で5年以上にも渡り続けていた。商社の人間がなぜ中央官庁の官僚に接近してくるのか、考えればわかりそうなものだ。その清潔感の欠片もない守屋武昌という人間については、本来は中央官庁のトップになるほどの人ならば備えるべき知見や見識が感じられず、その人間臭さや家族も含めたどこにでもいそうなサラリーマン的「ご近所感」にかえって嫌気が差すというもの。

森功のドキュメント著作は何冊か読んできたが、いずれも核心に迫っている部分と、やや食いたらない部分があると感じる。「同和と銀行」「許永中」は相当な食い込み方だったが、本ドキュメントの裏側には、歴代防衛庁(今は防衛省)の次官だけではなく大臣も含めたトップの汚さや腐臭が漂ってくる。そういえば小池東京都知事も防衛庁長官経験者、このような防衛疑惑、実態と真実を語る日は来るのだろうか。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造 篠田謙一 ****

2016年12月01日 | 本の読後感

現代人と遺跡などから発掘された骨などからDNAを取り出し分析、世界の人類のルーツを解明しようとする取り組み。2007年の著作であり、その後の分析にも興味が持たれるが、アフリカ大陸から出た人類の祖先が、中東から欧州、そしてアジアを通って北米、そして南米に広がっていったルート仮説を解説。そしてその中でも分析されたDNAのサンプル数が最も多いという日本人のルーツについて分析、先行して日本列島にたどり着いた縄文人は北と南から日本列島に住み着いて、その後稲作文化をもった弥生人が何回にも分けて移り住んできたことをDNA分析から解析、説明している。

DNA分析と言っても、ミトコンドリアDNAの分析は女系祖先をたどることになる。男系祖先はY染色体の分析であり、本書では最後に触れられていて、殆どはミトコンドリアDNA分析の結果である。アルコール分解酵素を持つ遺伝子は、極東アジアに住む人類の中に分解が苦手だという変異型が多く、欧州、アフリカ、豪州では皆無、日本では23.9%、中国南部では23.1%と多くなっている。アジアでもインドネシアから太平洋諸島では2.9-0.4%、中国北部では15.1%、インドシナでは5.0%、北米では2.2%、中米では6.1%となっている。日本の中での分析をすると、変異型を持つのは関東、中部、近畿に多く、分解酵素を持つ正常型は東北、南九州、四国太平洋側に多いという、まさによく語られる通りの結果である。これは従来日本列島に住んでいた縄文人には分解酵素が備わり、後からやってきた弥生人には変異型が多いと考えれば納得がいく。

現代の人類をDNA分類で大きく分けると、白人、黄色、黒人などという分類とは全く異なり、アフリカで3クラスター(L0,L1,L2)、その他で1クラスターとなる。その他の中にアフリカ以外の全人類が入り、そのクラスターを更に分類するとN、M、L3と3つの型に分けられるという。これから分かるのは各クラスターの持つ歴史的時間の長さであり、人類は最初にアフリカ大陸で発生して、その後非常に長い時間をかけてアフリカ大陸内で進化を遂げてきた。L2からL3への分化は8.5万年前と推定、そのタイミングで出アフリカを果たしたと推定される。その先は6万年前に中東、5万年前に東南アジア、4.7万年前にオーストラリア、4万年前に欧州と日本も含む東アジア、3万年前にシベリアに北上、1.5万年前に当時は陸だったベーリング海を渡り北米へ、1.2万年前に南米へ到達した。太平洋地域には海伝いに3000年前に拡散して1500年前にはハワイと太平洋経由で南米に、NZには1000年前に到達したという。

人類を4つのクラスターに分けたが、それを細分化すると、Lグループのアフリカ集団、M,N、そしてNから派生したRからなるアジア集団、Rから派生したUとT、J、H、V、そしてNから分派したW、Iからなる欧州集団に分類できる。有名な「イブの7人の娘達」(サイクス著)はこの欧州の7グループを指す。MからはアジアでさらにC、D、G、Qが派生、NからもA、Y、Xが派生、RからはアジアでF、B、Pが派生している。アジアを細かく見ると、東北地区はA、C、D、G、M8a、Y、そしてCから派生したZが分布、東南アジアにはB、Mから派生したE、そしてF、M7、M9、R9が分布、インドネシアにはP、Qが分布する。それぞれの分布状況と分岐年代を分析することで、本土日本は北方漢民族、韓国との距離が近く、やや離れてモンゴル、雲南漢民族があり、さらに少し離れたところに沖縄、アイヌが分布している。

この本が書かれた時点で国際的DNAバンクに登録されたミトコンドリアDNA配列データは3000、そのうち4分の1は日本人、その日本人は大きくは16にわかれそれぞれが別の由来を持つ。32.6%がD4、4.8%がD5でDグループが多く、B4が9.0%、B5が4.3%、AとGがそれぞれ6.8%、ついでMのサブグループでM7a、M7b、M7c、M8b、M10が7、4、1、1、1%となり、Fが5.3%、N9aが4.6%、N9bが2.1%、Cが0.5%、Zが1%、その他が6.6%となっている。D4,D5は東アジア最大のグループで現在の中国北部、朝鮮半島から日本列島に多く分布。Aはシベリアから北米、中米、Bは太平洋諸島から南米に広がる。

M7aは沖縄と日本に最も多く見られ日本列島の北に行くほど少なく、フィリピン諸島でも多く見られる。M7bは雲南から中国沿海地方、台湾に多く、M7cは東南アジア島しょ部で多く見られる。M7が生まれたのは4万年前、M7aは2.5万年前に琉球列島を経由して日本列島に流入、日本列島と朝鮮半島にしか存在しない。日本本土に5.3%あるFは東南アジアでは最大のグループ、中でもタイ・カンボジアでは37%、ベトナムでは16%、台湾では19%となり、沖縄は2%、朝鮮半島が5%であることから朝鮮半島経由で日本列島には移り住んできた集団と見られる。その他N9は北方ルート、M8aは北方漢民族、Cは中央アジア平原、Zはアジアと欧州を結ぶ人たち、M10は北方アジアにつながる系譜と考えられるという。出現率は1%以下のH,Vは日本の中では欧州の系譜で、女系ミトコンドリア分析だと考えると明治以降の流入の可能性が高い。沖縄の分析をするとほとんどは本土日本と共通で、貝塚時代以降もルーツは南九州だと考えられるという。また北海道先住民と沖縄が縄文人の形質を残しているという考え方もDNA分析で肯定されるという。

DNA分析は科学的な分析である一方で、流入経路はあくまで分布から見た推測の域を出ることはなく、発掘、出土した骨や遺跡などを分析した結果と照合しながらの検証が重要となる。しかし、DNA分析技術が進歩し、分析サンプル数が世界的に増加してくればさらなる仮説の検証も可能となる。今後10年で歴史が大きく解明される可能性は大きと期待したい。

https://first-genetic-testing.com/gene/haplo.html

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神社の起源と古代朝鮮 岡谷公二 ****

2016年11月28日 | 本の読後感

「神社と神道は日本古来の宗教」という考え方と「神社と神道は稲作とともに弥生人によりもたらされた」という考え方がある。本書は神社は渡来人、それも新羅からもたらされたという仮説に基づき、現場である神社がある近江、敦賀、但馬、出雲、三輪、豊前そして南朝鮮の慶尚南道各地をめぐる。読み手のスタンスによって、少しでも名前が似ていれば朝鮮半島由来という我田引水的とも読めるし、はたまたやはり天皇家の先祖も含めて弥生人であり渡来人なのか、とも読める。私は「神社、八幡社、稲荷社などは稲作をもたらした弥生人が、持てる技術である銅器、製鉄、医術なども含めて豊かな生活と収穫を願った形」というスタンスで本書を読んだ。

本書は「フィールドワーク実践編」との副題のように、上記筆者仮説を検証しながらの旅行記という形を取りながら、各種学説の引用を踏まえながら仮説の補強をしている。近江では白鬚神社、水尾神社、余呉湖の北野神社、伊香具神社、近江八幡の苗村神社、鏡神社、安羅神社などをめぐり各地の新羅、伽耶の痕跡を探す。まず全国に400社あるという白鬚神社は新羅系神社であり、近江の白鬚、比良はシラ、ヒラという音から新羅、シーラ由来であるとする。白山信仰も新羅由来であるという学説も紹介する。近江に勢力を張った水尾氏(三尾)は元は越前に由来し、製鉄技術を近江にもたらしたという。琵琶湖の湖西地域には磁鉄鉱が産出、多くの製鉄遺跡がある。継体天皇は越前出身で、7-9人の后妃を迎えたが三尾氏出身の女性が数人いるとし、湖東の息長氏とも関連していずれも新羅系ではないかと推測している。湖西の和邇あたりにいた豪族和邇氏も製鉄に携わり、こうした多くの豪族は弥生時代に朝鮮半島から製鉄技術と稲作技術をもって日本列島に移り住んできた勢力であるとする。移住経路は北九州経由、出雲経由、越前経由、但馬経由など多くの経路があったと考えられる。筆者は魏志や三国史などの書物や関連各諸説からそのように推測しているようだ。

琵琶湖の北にある余呉湖、ここには新羅崎神社があり新羅の王子とされる天之日矛(アメノヒボコ)が祀られている。日本書紀には「天之日矛が宇治川から遡って北近江を経由、若狭から但馬に至って住居を定めた」という記述がある。この天之日矛は諸説あるが、一人ではなく朝鮮半島より製鉄技術をもたらした人たちのことを指すのではないかと筆者は考えている。また、ここ余呉にも伝わる羽衣伝説は世界中に見られるが、特に朝鮮半島と日本列島には多い。北野神社と言う名前にはなっているが、明治維新の神社合祀令で新羅崎神社も合祀された。近江の神社には天之日矛を含め新羅の痕跡が数多く見られる。しかし古代の一時期より新羅蕃国視があり、明治以降も朝鮮蔑視傾向から、新羅を白木、白城、白姫、白岐、白鬚、白井などと名を変えてきた地名が多いというが、ここ新羅崎神社近辺には新羅の名を地名に残す場所が多い。神社に新羅の影響が多いのは、仏教公認が高句麗、百済に比べて1世紀半以上遅れていて、古来信仰がより深く根付いていたためという。日本で最も多いという八幡神社、稲荷神社も新羅系の秦氏が祀った神社であったという。

日本では祠堂や神社が古来より国家の庇護を受けてきたのに対し、朝鮮では仏教、その後儒教を国教とし国家の庇護を受けられず、さらに太平洋戦争後は生活改善(セマウル)運動やキリスト教の広がりもあり、朝鮮半島では祠堂はほとんどその存在を見られなくなっている。筆者はそれでもその痕跡を探しに慶尚南道に幾つかの祠堂跡を見つけるが、その形は日本に見られる神社の原型で、社殿などの建物はなく、神社の原型である森や岩石が残されている。日本でも沖縄のせいふぁ御嶽や若狭のニソの杜、対馬の天道山、薩摩のモイドンなどが残っていて韓国の学者から注目されているという。これらは原始的な太陽信仰や穀霊信仰などに密教なども習合していて、韓国には残っていない古代信仰の形が見られる。

敦賀の気比神宮の祭神は伊奢沙別(イササワケ伊讃別)命、仲哀天皇、神功皇后、大和武尊、応神天皇、玉姫命、武内宿禰命の7座、筆者は伊讃別命こそが祭神であり仲哀天皇以下は後からの合祀であるとする。さらにこの伊讃別命が天之日矛であり都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラヒト)であるという学説を支持している。

出雲では素戔嗚尊に関し、新羅系の帰化人の象徴であり、出雲地方に製鉄技術をもたらした一団であるという学説を支持。日本中に点在する素戔嗚尊を祭神とする神社は新羅系だと考えられるという。一方、古事記・日本書紀には多くの記述があるこの素戔嗚尊、出雲国風土記には簡単なそっけない記述があるだけで、かえって不自然、出雲国の風土記を編纂した国造が意図的に大和朝廷の記紀の記述に反抗したと考えられるとする。意図的に新羅の痕跡を消そうとする試みはこの頃すでに見られるという考え方である。これは出雲地方には3つの勢力があり、一つは古くから住み着いていた杵築神社を祀った海人部の人たち、その後朝鮮半島から製鉄技術をもたらした素戔嗚尊を奉ずる韓鍛冶の人々、三つ目は東出雲を根城とした熊野神社を奉ずるひとたちであった。3-4世紀頃に吉備方面から大和勢力が入り込み、当地の意宇氏と協力して須佐氏を排除、意宇氏は国造を命じられる。意宇氏が編集した出雲国風土記に素戔嗚尊の記述がそっけないのはこのせいだという。また、出雲には十六(うっぷるい)湾、七類(しちるい)湾、加夜里(かやり)、安良波(あらは)比、辛(から)川、加賀羅、加安羅など朝鮮語由来、朝鮮地名由来の地名が多く見られることから、朝鮮半島とのつながりが深かった地域であるという。

三輪神社では、出雲、若狭一帯から琵琶湖沿岸を通って南下し大和に入った辰韓、新羅の勢力は三輪地方の都祁(つげ)に定着、三輪地方を本拠地とした。三輪山は朝鮮式山城であり神奈比山であるという学説を支持。三輪遺跡には多数のふいごや鉄の溶滓が発見されており、この地方の鉄鉱石をもとめてのことだったとする。出雲人はこのあと、東国へも進出、製鉄の技術と出雲特有の前方後方墳古墳をもたらした。東国の大己貴命、素戔嗚尊を祀る神社、氷川神社の多くは出雲系であり、つまり新羅系だと主張する。埼玉の金鑚(かなさな)神社はその名前に製鉄の痕跡を持つ。祭神は素戔嗚尊、東進は鉄鉱石を求めての旅だったとも言う。東進のルートには2つあり、信濃から東山道を経て上野、下野へと向かうルート、そして信濃路から甲州路入る線である。建御名方(タケミナカタ)神を祀る諏訪神社、古事記に記されているのは建御名方神が建御雷(タケミカヅチ)神に力比べに破れ諏訪に逃れたと。諏訪神社の御柱は踏鑪炉(たたら)の高殿4本柱の押し建て柱に起源があり、その柱のうち南の柱を神聖視、梁塵秘抄から南宮の本山は諏訪神社、中津宮は大垣の仲山金山毘古神社、稚き宮は上野市の敢国神社であると。タケミナカタのミナカタは南方だとして、鉄の神だという。

豊前、大分の宇佐八幡宮は「多くの幡を立てた祭祀様式に名付けられた」という学説を支持、鍛冶集団である辛嶋氏が奉る守護神だと主張。この集団には医術に長けた人々もいたため、のちに大和朝廷の庇護も得て、その後京都の石清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮と分祀され、全国の八幡神社の総元締めになっている。宇佐八幡宮がいつ神仏習合したかは明確ではないが日本の中では神仏習合の魁であった。崇仏派の蘇我氏は排仏派の物部氏と争うため、大神比義という人物を宇佐八幡宮に送り込み勢力を拡大しようとした。神社も神宮も朝鮮半島から日本列島にもたらされたもの、というのが本書の全体的な主張である。

これは前に読んだ「古代朝鮮と倭族」の記述とも合致するし、稲作の豊穣を祈るという神社の役割とも矛盾なく考えられる。神社と神道が日本古来、と考えると稲作をもたらした弥生人以前に日本に住んでいた縄文人の信仰に由来することになり、神社や神道の多くのしきたりと矛盾することが多い。いずれにしても純粋に弥生人がもたらしたというよりも、従来からあるアミニズム的な信仰、その後の仏教なども交わり合っている神仏習合も考えられるので、100%これ、と言うものでもないかと考えられるが、神社・神道は稲作文化と古代朝鮮由来というこの説、有力だと思う。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

古代朝鮮と倭族 鳥越健三郎 ***

2016年11月27日 | 本の読後感

中国雲南省あたりで水稲栽培に成功し、その後東南アジアに移住していった人々の子孫のうち、その後朝鮮半島を経由して日本列島に到着、定着した人々が弥生人の本体であるとするのが本書の主張。

今までにも何冊もの関連書籍を読んできた。「魏志倭人伝の謎を解く」、「日本民族の誕生」、「日本語のルーツは古代朝鮮語だった」、「列島創世記」、「白村江 古代アジア大戦の謎」、「日本書紀の謎を解く」などなど。多くの書籍名には「謎を解く」が付く。それほどにわからないことが多いということ。

中国北部の黄河流域で粟などを中心に畑作農業を営んいでた漢族や苗(メオ)族は、土間式住居でくらしていたが、雲南省の稲作文化を持った人たちは高床式住居を考案、炉を床上に持ち、屋内に履物を脱いで暮らしていた。本書ではこうした雲南省稲作文化を営んでいた人たちを「倭族」と呼び、「史記」の記述から「百越」ともいわれる多様な民族が同様の生活様式だったと推測する。越(wo)は「倭(wo)」に通じ類音異字であるとする。於越(浙江)、ビン(門構えの中に虫)越、揚越(江西)、南越(広東)、駱越(安南)などが百越である。倭族はこうした人達と稲作に関連する文化を共有するというもの。

こうした倭人達は朝鮮半島が辰国時代(前漢時代)から後漢時代には馬韓、辰韓、弁韓と三国に分かれていた南部に住み着き現在の済州島を経由しながら日本列島に稲作や鉄器技術とともに移り住んだ。本書では高句麗、百済、そしてその二国の源流である扶余国に共通する卵生神話を比較分析している。扶余は黒竜江上流域にいたモンゴル種の遊牧狩猟民であるが、紀元前2世紀頃に狩猟と農耕を行う扶余国を建てた。高句麗はツングース系と言われるが、その神話はいずれも卵生神話で共通している。稲作民族中心の百済に卵生神話があるのはこうした2つの文化の融合の結果であるという。

本書では済州島と朝鮮半島南部、そして日本に共通する文化としての注連縄、石塔、鳥居の原型である鳥を上に載せる木の棒などを紹介、これらを中国雲南省からタイ、ミャンマー、ラオスに住むアカ族にその原型を認められるとする。また聖なる鳥としてのカラス、神として祀るヘビ、道祖神とトリ、上棟式におけるトリの血の儀式などを分析、共通点をあぶり出している。現地調査に重きをおいた分析が本書の特徴、古代史に関心がある向きには価値のある書。

本書で言う「倭族」の日本列島への移住は紀元前から数十回に渡り、移住は一方向ではなく双方向に複数回に亘った。当時は縄文時代から弥生時代へ、そして邪馬台国から大和朝廷への移行の頃とも重なっていて、本来、日本側の書物、中国の書物、言語学、DNA分析、文化人類学、習俗比較、人類学、化石分析など複合的な分析と研究が日中韓の複眼的学問的検証が必要である。無理な注文だが、全体を網羅した横断的、学際的分析ができる人はいないのだろうか。本書でも紹介されている鳥居や神社の由来は、稲作とその豊穣を願うために、こうした「倭人」や弥生文明とともに形を変えながら日本列島に入ってきたとする考えもある。この際、神社の由来も探ってみたい。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

人類は絶滅する 化石が明かす「残された時間」 マイケル・ボールダー ****

2016年11月26日 | 本の読後感

地球上に生命が誕生して以来、大きくは5回の大絶滅があったとされる。直接的な原因は火山の大爆発もしくは巨大隕石落下に伴う気候の大変動であった。それでも少しの生物は生き残り、死に絶えた以前の生物が生きていたスペースを埋める以上の進化を遂げながら以前以上の繁栄を謳歌してきている。本書によれば、生物分類上の、門・綱・目・科・属・種で言えば「科」のレベルの数の増減で、繁栄と絶滅を評価できるという。この分類は、人で言えば脊椎動物門、哺乳類、霊長目(二足歩行ができる)、ヒト科(ゴリラ、オランウータン、チンパンジー、ヒト)、ヒト族(原人、ネアンデルタール人、現生人類)、ヒト(現生人類)となる。

生物の絶滅は火山や地球外からの大きな環境変化で受けた大打撃で決定打を受けるが、実はそれ以前に小さな環境変化圧力を受けながら「科」レベルでその数を一気に増加させ、ある一定数を超えると「科」の数は漸減するのが化石分析などで明らかになっているという。一定量というのはこの地球環境上で生息するのに十分すぎる数に達したときということ。

人類はその一定量を越えようとしているというのが本書の主張。環境変動をCO2が原因とするのがIPCCの主張であるが、本書はその主張に賛否を表明することなく、大きな地球寒冷化温暖化の波は宇宙からの影響、太陽、地球海洋温度変化、地軸の傾きなどが複雑に関係しあって起きるもので、地質学的時間スケールでは一概に言えないとする。それでもここ数百年で起きている地球環境変化は地球上のある一種類の生物、人類によって引き起こされていることは明確であると。しかし、もはや人類が自分の力ですでに起こしてきた地球環境変化をもとに戻すことは、その変化が大きすぎて不可能であり、人類が絶滅を逃れることも不可能である。筆者が考える絶滅モデルによれば、隕石などの外的要因がなければ、現在の哺乳類が絶滅するのは9億年以内、現生人類は数百年以内であると主張、それは6度目の大絶滅に至る一つのきっかけになるかもしれないとする。

本書の主張は明確で単純で救いがないようにも思うが、その結論を導き出す過程の記述が実に筆者の知性と教養を垣間見せていて、このような領域に関心がある読者の一読に値する。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

昭和史探索1 1926-1929 半藤一利 *****

2016年11月23日 | 本の読後感

太平洋戦争突入への要因はこの4年間にその多くが生まれ育っていたのではないかと感じる。司馬遼太郎は、「統帥権の独立を定めた明治憲法にその原因あり」と書いていたが、この頃の軍人の考え方と行動を改めて見てみると、文民統制は明治憲法に文民優位の定めがあっても破綻していたのではないかと思わせる。またこうした動きを政府の弱腰と捉え、国民の戦争高揚気分を煽ったマスコミの責任は重い。

1926年12月に大正天皇が没した。時の政権は軍縮を進める若槻礼次郎内閣。東京渡辺銀行、鈴木商店破綻などの金融恐慌から政府の信頼失墜で若槻内閣は総辞職、対外強行派で陸軍の田中義一が総理となる。関東軍が傀儡勢力としたかった満州の張作霖は南部からの蒋介石軍と対抗していたが、張作霖が関東軍の言うことを聞かなくなり、蒋介石が勝っても、張作霖が勝っても関東軍としては満州を意のままに操れないと感じていた。そこで邦人保護を目的として山東出兵、田中義一は東方会議を主催して対中国強行方針を決定した。この際作成された「田中メモ」が満州事変勃発の原因とされ、戦後の東京裁判でも中国侵略の証拠とされた。この田中義一首相、軍部からの突き上げと、国際関係、政府良識派からの抵抗の間でその言動は揺れに揺れた。1928年6月の張作霖爆殺事件の首謀者は明確には発表されていなかったが、それは陸軍大佐河本大作、陸軍士官学校15期から25期メンバーで構成されていた一夕会メンバーであり、田中は身内をかばい軽い処罰で済ましてしまう。一夕会の主なメンバーには河本の他に、山岡重厚、磯貝廉介、東条英機、山下奉文、板垣征四郎、石原莞爾、鈴木貞一など後のリーダーや政府・軍部ブレーンとなる面々がいた。その結果、国際社会から日本は軍部の暴走を止められない政府との評価を受けてしまう。(おそらく、太平洋戦争にまで進んでしまった「ポイント・オブ・ノーリターン」はここだったのではないかと感じる。)

一夕会の母体は1921年バーデン・バーデンの会合で日本陸軍の将来を語り合った当時スイス駐在武官の永田鉄山少佐、後の軍務局長とソ連駐在の小畑敏四郎少佐、そして岡村寧次少佐であり陸軍士官学校16期の仲間。彼らがバーデン・バーデンで語った内容は、「政府や陸軍内部の薩長支配打破、ドイツ敗戦の反省としての国家総動員体制確立の重要性、ロシア革命後のソ連への対抗措置と満蒙既得権益確保」であった。そして一夕会の会議では、満州問題(蒋介石軍対抗、満州傀儡支配のための道筋をつける)解決、薩長閥排除と仲間のポスト確保、もり立てるのは林銑十郎、荒木貞夫、真崎甚三郎で国策推進にあたる、ことが議論された。

田中義一内閣は、張作霖爆殺事件の責任者を明らかにすると国会では答弁しながら、陸軍からの突き上げには対抗できず責任者不明確なまま事件を終わらせようとしたため、結局昭和天皇から叱責を受けて1929年7月に総辞職してしまう。その時、天皇に唯一人アドバイスできる立場であった西園寺公望は、天皇に「内閣辞職を直接指示することになるのは、天皇としてすべきことではない」とコメント、その後昭和天皇は内閣の総意として上げてこられる内容に異を唱えないことを心に決めたという。ここで満州事変以降、太平洋戦争に向う道筋の中で、軍部の暴走を止める可能性があった唯一のパワーが封じられてしまう。そして1929年10月NYの株式大暴落に始まる世界恐慌が始まる。

「なぜ日本は無謀な戦争に突入してしまったのか」、この問には多くの学者や政治家、評論家、作家もがその答えを求めている。明治維新以降の「列強に追いつき追い越せ」という勢い、日清日露戦争で獲得した満蒙権益の維持、三国干渉の臥薪嘗胆の悔しさ、その後の国力強化を経済力ではなく軍事力に依存したこと、国際政治力学への無理解、そして昭和時代に文民統制ができなかったこと。きっかけとなるのは、経済的困窮や身の回りの不満などに端を発する庶民の怒りである。その怒りの矛先をどこに向けるのか、その道標的役割をはたすのがマスコミではないか。欧州での右翼勢力台頭や韓国大統領退陣問題、アメリカ大統領選挙もマスコミの報道が大きな役割を果たしてきたと感じる。その流れはどのようにして作られるのかが問題である。現代社会に世界的に生じてきている貧富格差、中東情勢などに原因するテロへの恐怖、中国の勢力拡大、90年前と同じ歴史は繰り返さないはずだが、歴史から教訓を学ぶことは私達現代人の責務ではないか。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

わたしたちの体は寄生虫を欲している ロブ・ダン ****

2016年11月21日 | 本の読後感

人類は、地球上に誕生して以来、狩猟、農耕、産業化、文明化とその歴史上すべての局面において、生活環境から生物的、地球環境的な多様性を排除し、その結果様々な感染症や免疫異常、はたまた他の種族との戦争の頻発をも生むことになっている、という仮説。

まずは寄生虫。人類はその発生以来数百万年をかけて病気に対応する手段を身に着けてきた。それは自らの免疫力と自然界とその他の生物を利用すること。ミトコンドリアを細胞の中に取り込んだ話は有名だが、ほんの百年前まではすべての人の体の中にいた回虫、蟯虫、絛虫などの寄生虫や腸内にすみつく菌が、人類の健康維持にどのような役割を果たしてきたかの研究はまだ始まったばかり。現代の都会では、開発途上国にはない新たな病気が多数存在する。多くは自己免疫疾患とアレルギー疾患である。本書では具体的には免疫システムが自分の消化器官を攻撃するクローン病をあげている。その結果、腹痛、発疹、関節炎が引き起こされる。その治療法として本書が上げるのが回虫である。実験的に回虫を体内に取り込む治療をすると、クローン病の患者が寛解するという。寄生虫が人類の免疫機能に重要な働きをしているのではないかという。数百万年かけて人類が手に入れた健康維持の仕組みを、抗生物質や法毒液で台無しにしてはいないかという問いかけである。

寄生虫は人類が排除した自然多様性の一部、象徴的な指摘にすぎない。虫垂の役割は腸内に住む菌の一次避難場所である、というのがもう一つの説。腸内の細菌がいなくなると人は消化活動を果たせなくなる危機に陥るため、何らかの理由で腸内菌がいなくなる際には、虫垂が避難所となるというもの。腸内に多数存在する菌、生物は他の生物との相利共生状態にあり、無菌環境では多くの生命体は生きてはいけない。

牛乳を人間が飲むことは、自然ではないためもともと人類としては牛乳の成分ラクターゼを乳児期間が終わると消化できなかった。しかし、欧州人を中心として飢饉時に牛の乳を飲むことで飢餓を逃れた遺伝子が生き残り、現代では多くのヨーロッパ人、アメリカ人はラクトースによる牛乳成分分解能力を持つ。(アジア人の多くはこの能力が弱いため現代でも牛乳を飲むとお腹の具合が悪くなる人が多い)これは農業にも当てはまり、もともとは狩猟生活で定住していなかった人類が、農耕開始にともなう定住生活により、芋やキャッサバ、稲、小麦など一定の農作物を消化する能力に長けてくる。これは多様な木の実を食べる生活から僅かな種に依存することになり、一見農耕により多くの人口を養えるが、一方で、食生活が変化し消化器官疾患が増え、狩猟時代よりも短命になったという。ではなぜ狩猟生活を離れたかというと、人口が徐々に増えてくると狩猟でまかなえていた食料が不足し、一定面積あたりで獲得できるカロリー数がより多い農耕生活を選ばざるを得なかったからだという。定住生活により、同時にノミやシラミ、蝙蝠など寄生動物に悩まされるようになる。

人類が体毛を失ったのは、体毛に巣食うシラミやダニなどの寄生生物によってもたらされる感染症と体温の保持とを天秤にかけた結果であった。一定の場所で生活するとシラミなどの寄生生物に狙われる確率が高まる。そして感染症にかかる確率も高まる。体毛を失うと、紫外線に晒され肌にはメラニンが生成され、肌の色は黒くなった。しかしその結果、黒色は日光を遮り、さらに居住地域が赤道から北に移動するにつれて日光が弱くなり、結果ビタミンDが欠乏するため再度肌の色を白くした。それと同時に人類は衣服を発明した。シラミは再び衣服に住み着くようになる。第2次大戦以前の戦争で戦士した軍人は弾丸よりも感染症などの病気でより多く戦死した。感染症とは赤痢やシラミによって広がった紅斑熱である。

霊長類や人、特に人の子供は動物の中では狼、ヒョウ、トラ、熊、サメ、蛇などの捕食者から見れば獲得しやすい動物である。サバンナザルは「ヒョウ」「ワシ」「ヘビ」という3つの言葉を持っているという。人がヘビを怖がるのは人類歴史を通して最も捕食されてきた結果なのかもしれない。人類の祖先も最初の言葉はこの3つ、そして「走れ、逃げろ」だったのではないかと推察する。霊長類(人も含む)の出産が夜中に多いのは、昼間は狩りに出払っていない家族が身近にいてこうした捕食者から守られる可能性が高いからだそうだ。

外人恐怖症(Xenophobiaキセノフォビア)も他所の国の人間によりもたらされる新たな感染症を防止する本能から来ているのではないかと筆者は考える。グルーミングをする動物にはさる、牛、レイヨウ、鳩などがいるが、それば互いの体から病気の原因となる寄生生物を取り除くため。また、病気が蔓延する地域の人々ほど排他的な行動を取るのではないかとまで筆者は考える。H1N1が世界的に蔓延した時に人々は旅行を控え、握手やキスをしなくなった。病気の人の写真を見せただけで、人は体内の免疫システムであるサイトカインを多く生成するようになるという。私達の文化的行動と呼ばれるものの多くは、広い意味での免疫的行動なのではないかと。

味覚には美味しいと感じる甘さと旨味、まずいと感じる酸っぱさと苦味、そして中立なのは塩辛いである。これは人類が生き残る上で重要だったはず。また人類歴史では不足してきた脂肪分やタンパク質も多くの場合には人は欲する。排泄物の匂いは遠ざけるし果物の匂いは大好きである。甘みはサトウキビやとうもろこしからいくらでも作り出せる現代において、こうした味覚はどのように作用するのだろうか。人が自然の風景、特に青い空や海、広い草原などを見て気持ちが良くなるのは決して湿地帯や薄暗い森ではないこと、物陰からトラが飛び出てきそうな景色ではないことをよく噛みしめる必要がある。地球環境の多様性回復は、人類が生き残る上で必要なこと、これは理解しているつもりであったが、実は人は自分の周りから他生物多様性を排除してきた歴史があったこと、これには気づかなかった。今後、人類はこの矛盾とどう折り合っていけば良いのだろうか。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

記憶はウソを付く 榎本博明 ***

2016年11月16日 | 本の読後感

人間の記憶というものはあてにならない、それも相当に他人の影響を受けることがある。アメリカで一時ブームになった幼児の虐待記憶を呼び覚まして両親を訴えるという話、カウンセラーに乗せられてカウンセラーに聞かされた話を本当に経験したと思いこんでしまい、両親を訴えてしまう話にはゾッとする。それもニセの心理療法を施されて。記憶の植え付けはこのようにしてできるという実験もあり、記憶と想像の境界線は曖昧だということが実証されている。

犯罪を犯したとされて警察に勾留されて尋問されるうちに、実際には犯してもいない犯罪の、本当に自分が犯人であると自白してしまうケースが有る。何回も同じストーリーを聞かされるうちに、この状況から逃れたいという心の弱さとともに、自分に自信が持てなくなり本当にあったことだと思いこんでしまうことはあるという。

裁判などで採用される目撃者証言にも危うさがあるという。事件の目撃者でも、実際に自分の目で見たことと、その後のニュースなどで見聞きしたことは時間とともに混じり合い、報道されたことも自分が見たことと錯覚するケースはママあるという。その結果、犯人とされた容疑者を見てもいないのに自分も実際に見たと思い込んでしまうこともある。

質問の仕方や、外からの情報で記憶は容易に書き換えられ、そのことに本人も気が付かない事が多い。情報源は信頼できるのかどうかが、記憶の確かさに関係していて、情報源を忘れてしまうと、その記憶が確かなものか曖昧なのかもわからなくことが多い。そして記憶は辻褄が合う方向に変化していくことが多い。記憶を確かなものにするためには、いつ、どこで、誰から、などという付帯情報をしっかりと記録しておくことが重要だという。

また、強烈な犯罪の目撃者の証言は、その犯罪の残虐さや凶暴度合いが高いほどあてにならないことが多いという。なぜならば、目撃者の意識がその凶暴さや残虐性に向かっていて記憶がいがんでしまうことが多いからだと。

また集団で一つのことを議論して結論を出す場合、その結論はリスキーな方向に行きやすいという。三人よれば文殊の知恵、というが、人数が多いと気が大きくなり、成功したプラス面に気が行きやすい。その結果リスクに対する慎重さが減少し冒険的な決断に走りやすいと。

どこかの国の大統領選を思い浮かべてしまうのは私だけだろうか。裁判員裁判で、市民が判断に参画するケースや証人尋問をする場合もあると思うが、こうした記憶の曖昧さに関しても十分留意することが重要。しかし、この歳になり、小中高大時代の同窓会に参加していつも思うこと、それは、忘れることは人生の幸福に大いに貢献していると、思うのだが。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

クラウド・コレクター クラフト・エヴィング商会 ***

2016年11月15日 | 本の読後感

ファンタジーの物語、まさにおとぎ話のような。

昭和9年に曾祖父から祖父が引き継いで開業したクラウドエヴィング商会は、西洋舶来商品輸入商社、その三代目が回顧する祖父による1943年の「不思議な国アゾット」旅行記について。モチーフになるのが祖父の愛した酒、音楽、タロット、そして数字のマジック。

7つの地区に分かれた3つの国を旅した祖父、その旅行記では各国を通るたびにパスポートを受け取り、番号をもらう。その番号が142857、次が285714、次が428571、571428、714285、857142ときて最後は999999。これらは最初の142857の倍数で最後の999999は7倍であると。この7つというレトリック、虹色の赤橙黄緑青藍紫、音階のドレミファソラシ、タロットカードの3X7=21枚などと物語の中で繰り返される。

いずれも他愛のないものばかりだが、旅行記を読んでいると「なるほどな」と思わされるから面白い。人々の記憶は忘却の中にあり、人々の知識さえも忘却の彼方にある。人生は繰り返し、人生は人々の記憶の中にあるもの、などなど、多くの示唆を含む科白が繰り返される。

タイトルのクラウドコレクター、クラウドは人々の記憶が空に昇って忘却されると雲になる、その雲を壜に詰めて集める人、というほどの意味。壜は雲が中にある、なんていう話もある。挿絵が楽しくて、それを見るのも楽しみ。東急ハンズによく売っているようなお部屋に飾り付ける小物が好きな人は、きっと好きになる物語。興味があればどうぞ。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

今そこに迫る「地球寒冷化」人類の危機 丸山茂徳 ***

2016年11月14日 | 本の読後感

最近数百年の動向を分析して「地球はこのままでは破滅的温暖化に向かう」と主張するIPCCに真っ向から反対、地球の歴史を分析すれば宇宙からの宇宙線や太陽の働きのほうが強い影響をあたえ、数億年の地球環境変化を捉えてみると、今後は寒冷化に向かうと考えるべき、というのが筆者の主張。

太陽黒点が減少すると太陽風が減少して、地球に降り注ぐ宇宙線を跳ね飛ばす機能が低下、地球への宇宙線量が増加する。その結果地球上では雲の発生が増えて太陽熱を反射、寒冷化する。宇宙線の増加は、火山活動活性化、浅発地震増加にもプラスの影響を与え、飢餓や社会不安増加も危惧されるという。地球気温の最大影響要素は二酸化炭素ではなく雲の発生であり、その原因となる太陽活動こそが地球気温を左右しているという主張。

地球は過去、氷河期を経験し、全球凍結も2回経験、全球凍結の際には地球上の生命の多くが壊滅的な影響をうけてきている。氷河期の到来に関しては、地球軌道の太陽からの離心率と地軸の傾きから数十万年単位で発生、現在は間氷期だが過去40万年を見れば約10万年単位で同様のパターンで氷河期と間氷期を繰り返している。約41万年前には5万年かけて平均気温は摂氏8度低下、その後気温は上昇し、再び10万年かけて低下するというパターンを3度繰り返している。最近では約15000年前に気温が急上昇、14000年前には一度7度も低下するが、12000年前に再び上昇、現在まで温暖な気候が継続している。このサイクルをミランコビッチサイクルと呼ぶ。

このミランコビッチサイクルを詳細に分析すると、間氷期は2万年程度継続するので、寒冷化までにはまだ5000年程度の猶予があるが、寒冷化は一度起きると50年程度で7度の下降が起きてもおかしくないという。

人類は人口増加による飢餓と石油資源枯渇によるエネルギー危機という大きな資源問題をどのように解決していくのかを真剣に考える必要があるという警告である。

温暖化によるCO2削減だけではないのだよ、という筆者の指摘、極めてまっとうな指摘だと思う。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

彗星衝突による縄文超々巨大津波 岩渕国人 ***

2016年11月01日 | 本の読後感

荒唐無稽とも思える仮説であるが、読むに従って筆者の仮説にかける熱意と意気込みを感じて、読み終わった今は「ひょっとしたら本当かもしれない」と考えるに至る。本書の仮説は次の通り。

紀元前2001年12月、イースター島上空に直径50Kmの彗星が現れた、エンケ彗星の母彗星である。その後地球をくるりと回ってスウィングバイ、本体は地球外へ、一部は周回時に何百万個ものかけらに分裂、日本には北海道の西北から近づいて最終落下地点は三陸沖だった。その彗星落下に伴い、十和田湖や田沢湖ができて、高さ250mもの津波が発生、当時の日本の縄文時代人の6割が死亡した。同時にその時発生した巨大津波は太平洋の反対側のみならず世界中の海にも伝播し、中国、インド、メソポタミア、ペルーに発生していた多くの文明を破壊した。破壊された文明は、三内丸山、中国長江沿岸の良渚、黄河沿岸の山東竜山、インドのモヘンジョダロ、メソポタミアのシュメール、ペルーのシクラス・カラルである。

日本での津波では、巨大すぎる津波のために三陸海岸沿いの地方に加え、仙台湾から北上川沿いを津波は遡上し花巻あたりまで到達、同時に釜石から遠野を経由して現在の胆沢扇状地まで駆け上り、扇状地に6段にもなる今までは「河岸段丘」と考えられていた大量の土砂をもたらした。三陸リアス式海岸も、落下した彗星により形成されたクレーターが隆起したあとであると。

当時の彗星の明るい光と衝突は、津波や光の記憶となり、地名や古墳、土偶にも残っているという。空が血で染まった「空知」、龍が飛んだ「龍飛」、大きな槌で叩かれたような音がしたことで「大槌」、津波がその地点までは来たことを表す「津」「戸」という多くの地名、特に一戸から九戸はその標高から何回津波が押し寄せたかを示す地名だと。九戸は現在は移転して高台にあるが元は八戸よりも低い地点にあったとのこと。東北地方に多く残る遮光器土偶は明るい光を遮るための土偶であり、全国に残る前方後円墳は彗星の形を模した形であるという主張である。以上が本書の内容。

このくらいぶっ飛んだ仮説だと、真実かどうか、ということより、こういう説があることを知っていることが自慢にもなるし、想像するだけでも楽しいし、本当だったとしたらもっと面白いことになる。今度の同窓会ではみんなに話してみようと思う。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

魏志倭人伝の謎を解く(三国志から見る邪馬台国) 渡邉義浩 *****

2016年10月29日 | 本の読後感

魏志倭人伝の謎解きは数多いが、邪馬台国の位置、記述内容の解説に関する本書の仮説は、三国志が書かれた時代の中国の政治的背景から解説されていて、一番真実に近いと思わせる。その仮説は、三国に分かれて争っていた魏、呉、蜀、場所的には今の揚子江の北側の東シナ海側に位置する魏とその南に位置する呉、内陸部の蜀、という位置関係が重要になる。魏にとっては三国以外の近隣諸国との協力関係を示すことが重要であった。

その魏の視点と立場から、三国の周囲には魏との友好国であり有力な国があることを示すために、西には今のインドの位置にあったクシャーナ朝である大月氏国と東に位置する倭国に親魏XX王と記述する。全30巻である魏志の中で周辺国についての記述は1巻のみ、その中で親魏XX王と記述されたのは大月氏と倭だけであった。魏からみて東には朝鮮半島があり、そこには楽浪郡があり、その先には帯方郡があった。倭はそのさらに東にあることは魏としても認識していたのだが、その場所はもっと南にあってほしかった。なぜなら海洋支配を強めようとしていた呉の東に位置する場所に魏の友好国で有力な国である倭があってほしかった。魏志倭人伝を記述する際に倭国からの報告を聞いていた倭人伝の筆者は、嘘はかけないが、その位置を少し南にずらすことは政治的に必要なことだったのではないか、という仮説である。また、魏は当時の朝鮮半島の支配者公孫淵の討伐を行い、ちょうど卑弥呼の最初の使者が帯方郡に至った頃には公孫淵が魏の司馬懿に滅ぼされた頃であり、帯方郡、楽浪郡という2つの郡として朝鮮半島を支配下にいれたちょうどその頃であった。

三国志の魏志倭人伝とは魏書30巻、蜀書15巻、呉書20巻の中の魏にとっての夷狄伝が魏書の第30巻、烏桓・鮮卑・東夷伝の東夷の中の倭に関する記述約2000文字である。この文字数は東夷の中では最も多い記述であるが、筆者の陳寿は倭国に思い入れがあったのではなく、卑弥呼に親魏倭王に封建したことを詳しく書きたかった。そのためには、帯方郡から邪馬台国に至る道程と倭の諸国の記述、倭国の地誌と政治体制、朝貢の回数と親魏倭王に封建する制書が他の東夷に比べて極めて好意的に記述された。卑弥呼は最初の使者を帯方郡に送った景初三年(西暦239年)以来、240年、243年、245年と2-3年に一度という絶妙のタイミングで朝貢の使者を魏の洛陽に送っている。これは楽浪郡の太守からの適切なアドバイスがあったのではないかと本書の筆者は推察する。

当時、邪馬台国は倭人伝の道程として記述されている伊都(イト)国、奴(ナ)国、不弥(フミ)国、投馬(トウマ)国を始め30国程度の国家を支配していたが、現在の熊本県菊池に位置する狗奴(クナ)国とは敵対していた。そのことを伝え聞いた帯方郡の太守は、卑弥呼からの使者である難升米に魏の色を示す黄色の旗を下賜した。この意味するところは、狗奴国の人間はその黄色の旗を見て、魏の後ろ盾があることを知るはずだという考えがあったから。つまり、狗奴国は呉の支援を受けていたのではないかと推察する。倭人伝の筆者陳寿としては、帯方郡の制定という司馬懿の功績をたたえ、同時に呉の東方海上に重要な友好国である倭が位置することを表現しておきたかったという。

倭人伝にはその習俗を示す記述として、顔面と身体の入れ墨が紹介されている。これは中国にとっての北狄、東夷、南蛮、西戎の東夷は身体に入れ墨し、南蛮は額に入れ墨する、という礼記の記述があるからだという。この記述からも、倭国が魏の東南方向にあることを強調しているとする。

邪馬台国に至る道程の記述で、不弥国までは里数で記述されているのに、そこから先は水行、陸行で書かれているのは、「史記」の記述に周辺国を開拓した禹の苦労話があり、陸行、水行はその苦労を際立たせる書き方として採用されているからと推測する。未開の国を進むのは大変な苦労であるさまを表しているのである。帯方郡から邪馬台国までの距離は一万二千里とする「魏略」からの数値と、倭国を帯方郡の東南海上に記述したい陳寿の苦労の作であるというのだ。また、洛陽からクシャーナ朝までの距離とのバランスもあったという。バランスには倭人伝に書かれた倭国の大きさや戸数にも現れている。倭国は方五千里、高句麗は二千里、韓は四千里であり、東夷の中で最大である。また戸数は邪馬台国が7万余戸、投馬国は5万余戸、奴国が2万余戸その他を合計すると15万戸、人口にすると80万人程度の大国となる。大月氏国は戸数10万であり、東西の友好国として大きな国であることを示している。

倭人伝からみて邪馬台国が大和であるとする従来からの説の弱点は次のとおりである。

1.方位が実際とは異なる。

2.倭人伝の習俗が南方系である。

3.近畿以西に存在したはずの吉備(岡山)、出雲の記述が道程にない。

本書の仮説では、1は呉の背後に倭国という大国の存在を示したかった、2は魏の東南に位置することを示すための記述、3は「史記」からの辺境国開拓の苦労の記述である、としていて弱点とはならない、というのが本書筆者の主張である。邪馬台国の具体的な場所としては、桜井市の纏向遺跡が考えられるという。理由は、農機具の発掘はなく、全国に広がる土器や、日本には当時まだないはずの、鐙(あぶみ)や乗馬に必要な製品、日本に自生しない染め物の染料なども発掘されているからだとする。

最後に倭人伝の現代語訳が付録されていて、全容を確認できる。邪馬台国に関する様々な仮説を検証した上での本書の筆者による仮説であるが、真実に非常に近いという感想を持った。古代史、邪馬台国に関心がある人には必読書である。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

迷走する民主主義 森政稔 ****

2016年10月23日 | 本の読後感

世界の民主主義が行き詰っているのではないかと感じ、この本を読んでみることにした。日本での政権交代は1990年代に一度、そして2009年には当時の民主党によりなされたが、いずれの政権交代でも大いなる期待への反動があった。自民党による一党支配政治は、金権、派閥支配、腐敗など長期政権に伴う嫌悪感から当時の野党勢力に政権奪取を許したが、国会運営や官僚との関係の稚拙さ、そして予算見直しのパフォーマンスに終わってしまった事業仕分けなどがあり、沖縄普天間基地の「最低でも県外」発言の底の浅さ、大震災対応の未熟さも相まって、一気に有権者から見放される結果となってしまった。一方、欧州では極右政党が正当な選挙でも勢力を伸ばし、アメリカでの大統領選挙、フィリピンでの新大統領と、国内向けのパフォーマンスとも思える政策、主張、ナショナリスト的な発言が支持を得る現状がある。これは日本での安倍政権の長期政権とも共通する基盤がありそうだと感じる。欧州では難民問題、日本では中国脅威論、と異なる背景ではあるものの、ソ連からロシアへの移行、アメリカの勢力減退に伴う世界的パワーバランスの変化と大いなる関連がありそうである。そこで、戦後の日本における民主政治の変遷を振り返り、民主党政権はいったい何を間違ったのか、現代の世界の民主主義に共通する問題点はあるのかを考えてみたいと本書を手に取った。ここからが本書の内容である。

世界規模でみれば、普通選挙や議会制の達成など民主主義的だと思われる国々では、1980年代の東欧諸国の民主化に始まり、アジアでの軍事政権から民主主義政権への移行、アラブの春に至るまで民主主義国家は増加してきている。この流れが逆行するとは考えにくい。また先進諸国で民主主義に反対する主張は大勢ではない。それでも日本をはじめとした諸外国でも、格差拡大や巨大企業活動へのコントロール不足などから、民主主義への期待感が薄れてきているのは現実である。しかし、独裁主義やイスラム原理主義に移行したいと皆が思っているわけではない。新自由主義によって市場原理主義に変質してきた資本主義への反発こそが民主主義の内部の敵なのではないか。つまり民主主義が新自由主義の資本主義に従属してしまっているのではないかという懸念である。

では現在の日本での自民党と民進党の対立軸は何だろうか。「新自由主義」「保守主義」「社会民主主義」と書いてみると、現在の自民党と民進党の主張と重なる部分と交雑する部分があることに気が付く。アメリカ合衆国でいえば、リベラル側の民主党が市場経済を放置するのではなく、政府が景気刺激策を施し、再配分、福祉などによって介入するタイプの改良主義的な自由主義を主張する。反対勢力からは「大きな政府」と批判される。一方の共和党に代表される保守勢力は、政府の介入を最小限に抑え、自由な市場競争にゆだねる立場である。欧州で保守といえば、キリスト教政党に担われることが多く、経済的には市場中心的な考えよりも、政府による保護を中心に据え、一方の社会民主主義との対立が一般的である。アメリカとの違いは、欧州では社会民主主義政党が労働者階級に支持されてきたのに対し、アメリカではリベラルはマイノリティ集団による支持が大きかった。日本では戦後の自民党政権に対する社会党は労働者階級に支持されてきたが、近年では、その対立構造は大いに変化してきたといえる。

日本での戦後55年体制後最初の政権交代であった1993年は、1989年の東欧革命、共産主義の崩壊、その年に自民党により発表された消費税導入にたいする反発があり、日本新党、新生党などの新勢力が非自民、非共産8党政権を誕生させた。総評、同盟が統一した連合誕生も一つのきっかけとなった。しかし、政権内の主張は左右で大きく異なっていたため、社会党は離脱、自民党との連立を組む際に、安保賛成、自衛隊容認を唱え、歴史的に社会党を支持してきた有権者から見放され、結局は党の消滅にまで至った。しかしこの1993年の政権交代は2009年の政権交代の設計図となっていた。縦割り行政刷新、事業改革、規制緩和など、総理大臣を中心とした総合調整による大きな改革を目指すという方向性に、国民は期待を持ったのである。

この後に登場するのが、新自由主義を標榜する小泉政権誕生であり、「自民党をぶっ壊す」として人気を得た。郵政改革、道路公団や住宅金融公庫など特殊法人の民営化、など構造改革、規制改革を実行した。また、文化的主張はナショナリズムであり、当時のアメリカのネオコン勢力に協力する形で対テロ戦争、対イラク戦争にも協力した。しかしその後に続いた安倍、福田、麻生の政権は方向性が明確でなく、新自由主義政策で切り捨てられたと感じていた若者や地方の有権者の支持を得られず、2009年の民主党政権誕生へとつながっていく。

政権奪取時の民主党は「国民の生活が第一」「コンクリートから人へ」をキャッチフレーズにして政策を進めようとして、当初は国民からの期待を集めた。しかし実際には、子供手当や高速道路の無償化政策などの所得再配布的政策だけでは、経済のデフレ化は一向に収まらず、賃金の下降傾向や共働き世帯の子育ては、むしろ保育施設の充実や経済刺激策のほうが有効という皮肉な結果をもたらすこととなる。2011年3月に起きた大震災は民主党菅政権の時であった。災害時の人員輸送に最も役立つのは大型の船であるが、高速道路無償化で打撃を受けていたフェリー業界は震災時への対応が難しく、自衛隊が大活躍した。また鳩山政権が国際的に約束したCO2の25%削減の約束は、高速道路無償化による自動車排気ガス増加と裏腹の関係になった。このように民主党が進めようとした政策は、個別でみるとその効果を期待できるかに見えたが、その他の政策やマクロ経済がその結果どう動くのか、国際的な評価をどのように受け止まるのか、など、総合的視点が薄かったため、期待したような成果は得られないことがわかり、民主党政権は多くの政策分野で再考を迫られた。そして社会保障と税の一体改革では、自民党等の違いが見いだせなくなり、再度の政権交代を余儀なくされた。

現在の政権は長期政権となっている。大震災を契機として国土を守ることの重要性が認識され、中国、韓国との領土紛争が重なって、国家防衛に話がスライドしていったことも事実である。しかし、戦後の自民党政権が、党是に憲法改正を掲げながらも、平和憲法を変えずに来た背景には、アメリカとの安保条約の存在、社会公共インフラ整備を基盤とした日本経済の発展、という政治モデルの成功があったからである。しかし、世界情勢は変化し、現政権は憲法改正を図っている。安倍首相は2013年、靖国神社参拝で中国の反発だけではなく、アメリカ政府からの苦言をも得ることになり、その後の参拝をひかえている。価値観が異なる相手の言い分にも耳を傾ける必要性を感じたからに他ならない。現在世界ではグローバル化が進展する中で、各国のナショナリズムが力を得てきているという皮肉な状況になっている。TPPへの参画はそうした中での一つの決断であるが、今後の方向は不透明である。

ここまでが本書の内容。有限な地球資源、国家資源のなかでは、資本主義の拡大的な一方向だけの発展は難しくなってきている。こうした中で、巨大企業が国家の支配をかいくぐって、税金を逃れたり、政府規制を逃れたりする実例を見せられた国民は、自国政府にこうした状況への対応を迫るが、一国の政府だけでは対処できない事態でもある。関税撤廃やグローバル市場自由化を図るTPPはその一例のはずなのだが、反対派はナショナリズム的対応を唱え、一方でパナマ文書などが公開され、世界の目は国を超えた規制にも期待が集まる。国の政治と経済の体制である、資本主義を基本とした民主主義で、こうした状況を乗り切れるのか、日本で進められようとしている憲法改正が、こうした流れの中で正しい方向性を見いだせるのか、重大な分岐点に私たちは立っていると考える必要がある。「目指したい国の形」を定めるのが憲法である。平和主義、基本的人権の保障、言論の自由を定めている日本国憲法、一体どこを見直すべきなのか。太平洋戦争における日本の敗戦、サンフランシスコ条約と日米安保条約締結後の制定という歴史的経緯を踏まえ、アメリカとの安保関係は維持するのか、国連との関係に変化はあるべきか、政府と国民との関係のあるべき姿はどうか、今後の民主主義の進むべき方向など多様な視点から議論を進めるべきである。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加