意志による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意志に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

カラー図解進化の教科書第ニ巻 カール・ジンマー、ダグラス・エムレン ****

2017年02月14日 | 本の読後感

第二巻では「進化のメカニズム」から。進化には4つのパターンがある。「突然変異」は、遺伝子の幾つかに新たなタイプが生まれ、それが環境に馴染んで生き残る場合。「遺伝子交流」は移動や合流などで新たな遺伝子が加わる場合。「自然淘汰」は環境制約や変化などで特定の遺伝子が減少、消滅する場合。「遺伝子浮動」は孤立や疫病などによる大量死滅などで特定の遺伝子が失われる場合。これを遺伝進化におけるハーディー・ワインベルグの定理という。マラリアが流行する地域では、マラリアに耐性を持つ赤血球である鎌形赤血球の遺伝子を持つ人の数が増えるが、鎌形赤血球は重篤な貧血を伴う。両親から受け継いだ2つの遺伝子ともが鎌形である場合には成人まで生き延びることができないが、片方が鎌型である場合にはマラリア耐性を持つ。両方共が耐性を持たないとマラリアに罹りやすいので、マラリア感染による致死率は高まる。そこで、マラリア流行地域では片方が鎌型である成人ばかりが増えることになる。それでもその子の中には必ず耐性を持たない子、鎌形貧血になる子が出て来る。マラリアがなくならない限りはその流行地域での遺伝子比率は特定の平衡状態を保つことになる。

人の手による進化の最も手近な例が野菜、そして犬である。ヤセイカンランというキャベツの原種から人為的に淘汰されて、ブロッコリー、芽キャベツ、カリフラワー、ケール、コラードグリーン、キャベツなどが作られてきた。野生種のテオシントからとうもろこしが作られ、トマトやひまわりも野生種から人の手で作られた。犬は約15000年前にタイリクオオカミを人が飼育し始めて、狩猟、牧畜、食用、愛玩と人間にとっての利便性を高めてきた。人による遺伝操作により、遺伝子の多様性は低下してきたため犬には遺伝的疾患が多いという。化学物質による害虫駆除は害虫とされる虫類の化学物質耐性を高める結果となてきている。そのため害虫駆除のためのメーカーでは毎年新薬開発に追われているが新しい殺虫剤への耐性獲得には数年しかかからないという。除草剤にも同様の状況が現れているため、殺虫剤や害虫駆除の除草剤使用の際には、それらを使わない一定面積を残すことにより、耐性を持たない遺伝子も残し、完全耐性の遺伝子を生み出さない工夫が重要となっているという。

生殖のために2つの性を持つ有性生殖種と無性生殖により子孫を残せる種がある。一概にどちらが有利だとは言えないらしいが、有性生殖には、オスとメスの出会いが必要であり、感染症を広げる可能性も高まる。生殖のためのコストは無性生殖よりも遥かに高いはずだが、地球上には多くの有性生殖生物がいる、というより目に見える世界では殆どが有性生殖である。それは突然変異による進化のスピードアップが見込まれ、新たな遺伝子誕生の可能性による進化も見込める。無性生殖よりも多様性の高い増殖が可能となり、環境変化に対応しやすい。寄生虫への対応や有害な突然変異も除去できる。このようなメリットから大きなコストを支払っても有性生殖する生物が地球上には多い。しかし有性生殖では、オスにとっては多数のメスと交わって子孫を残すことが有利となり、メスにとっては我が子を無事に育て上げることが子孫を残す上では重要である。そのためオスとメスは対立関係にあるとも言える。オスは自分の遺伝子を子孫に伝えるため、別のオスが交尾済みのメスと交尾をするのを防ぐための交尾栓をメスに埋め込んだり、新たな交尾を妨害する様々な行動を取る。メスは少しでも優秀な遺伝子を獲得するために、交尾済みのオスにさとられないように新たなオスと交尾しようとする。こうした組み合わせの中で一夫多妻や多夫一妻、多夫多妻、一夫一妻など多様なツガイのタイプが存在するという。

進化はなんとも奥深い。

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カラー図解進化の教科書第一巻 カール・ジンマー、ダグラス・エムレン ****

2017年02月05日 | 本の読後感

本屋さんで立ち読みしていて、あまりに挿絵がキレイなのでちょっと高い気がしたけれども買ってしまった本。本というやつは読んだその時には「すごい、分かった」などと感想を持つのだが、すぐに忘れてしまうことが多い。しかし、映像として頭に入った内容は長く記憶に残ることがある。本書は読むに際して、「絵や図を記憶に残そう」と意識して読み始めたという珍しいケース。2016年11月に発刊されたというブルーバックスシリーズ、「カラー図解 38億年の生命の痕跡から生命の進化を繙く」んだって書いてあるので勢いで第二巻も買ってしまった。

第一巻は岩石から分かる進化の痕跡、種の起源というが「種」とは何か、大量絶滅は5回、しかしその後は大進化、そして人類の進化、それは脳の進化。第二巻は進化理論についてで、自然淘汰のメカニズム、性選択、進化における表現型、第三巻は系統樹から見た進化、種間関係の進化行動の進化。

ということで記憶に残った図、種はどのようにして新しく生まれるのか、異なる交配相手とどのように生殖をおこなうのか、その障壁はなにか、という図。接合前と接合時には交配相手を選択する時、魅力を感じない障壁、生態が違う障壁、生殖器官の違いの障壁、生息地障壁、発情時期が違うなどの時間的障壁、媒介者が違う、交尾行動が違う、卵子が精子を受け付けないなどがある。接合後にも生まれた子が育たないという雑種致死、生まれた子が障害を持つことによる不生育という雑種不稔があり、また環境がととなわないという生存力不足、そして子が新たな配偶者を見つけられないという行動的不稔がある、というもの。新しい種を生むための遺伝子交流にはこんなに障壁があるという図である。それでもこれだけの障壁を乗り越えても新たな種が生まれるので進化は起きるということ。国際結婚には障壁はあるが、それを乗り越える人も多い。

大絶滅の後には必ず大進化が起きていて、過去5回の大絶滅があった、という図。4.43億年前オルドビス紀末の大絶滅、アパラチア山脈の隆起と風化が大気と海洋の化学組成に影響、全地球的に気温低下、86%の種が絶滅。3.59億年前、デボン紀末の大絶滅、陸上植物の過剰な多様化によりCO2濃度が低下、全地球的な温暖化、深層水の無酸素化などで75%の種が絶滅。2.52億年前ペルム紀末の大絶滅、シベリアの火山活動で温暖化、大気中の硫化水素濃度とCO2が増加、96%の種が絶滅。2億年前の三畳紀末の大絶滅、中央大西洋マグマ分布域活動によりCO2増加、地球全体の気温が上昇、80%の種が絶滅。6600万年前の白亜紀末の大絶滅、ユカタン半島付近に大隕石、その前からインドの火山活動で寒冷化していたという説もある、これらにより種の76%が絶滅、恐竜も死滅した。温暖化や大規模噴火を人類は乗り越えられるか、というお題。かなり難しそうだ。

人と遺伝子的に最も近い霊長類であるチンパンジーとオランウータン、それぞれの幼児に物理的な問題を解かせるとその正答率に大きな差はないが、社会的な問題を解かせると明確な違いがある。社会的な問題とは、他者の行動から学習する能力、他人が何を知っていて何を知らないかを理解する能力。成人の人はもちろん物理的能力も伸長するがそれは社会的能力を使ってのこと。これを補強するのが言語能力である。そうか、社会で出世したり成功する人は、物理的能力が高い人ではなく、社会的能力が高い人、よく分かる気がする。

異なる霊長類に同じ実験を二種類する。結果は同じだそうだ。実験とは経済的にプラスのリスクテイクをするかどうか、それと経済的にマイナスのリスクテイクをするか、というもの。最初に実験は、りんごを無条件にまずひとつもらい、コインを投げて表ならもう一つもらえるが、裏ならなにももらえない。もう一つの選択肢は、コインを投げずにりんごをあと半分もらえる、という選択。ほとんどの霊長類はコインを投げずにりんごを半分もらう方を選ぶ。二番目の実験はりんごを二個まずもらえる。コインを投げて表ならりんごを一つ失うが裏なら何も失わない。もう一つの選択肢は賭けをしないでりんごを半分だけ黙って返す。この場合、多くの霊長類は賭けをすることを選ぶというのである。つまり損失を非常に嫌う、すでに手に入れたものを守るためならリスクを厭わないということ。この行動決定の実験は、人類がなぜ戦争を避けられなかったのかを示してはいないだろうか。明治維新以降の日本の行動はこの実験どおりだと思うのだがどうだろう。

 

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カラー京都の魅力(洛中) 中村直勝、岩宮武二 ****

2017年01月30日 | 本の読後感

1972年頃に発刊された京都紹介本なのだが、解説をしているのは、大津三井寺社家に生まれたという中村さん、京都愛がハンパない。本編は秀吉の御土居の内側をほぼ時代に沿って紹介。

まずは東寺、時代背景から。奈良時代は天平時代とも言われ輝かしいイメージだが、東大寺建立は国内銅山からの鉱石調達と人足駆り出し、銭貨の鋳造もままならないほどになった。藤原氏の権力集中は寺、仏教という形式を取ったので、国民は僧侶と寺院を恨んだ。道鏡失脚は世論の反映もあったことを悟った藤原氏は平城京を捨てることを決意、仏教のサポートを受けずに平安京建設を推進しようとしたという。伝教大師が叡山に、弘法大師が高野山に引きこもったというのは藤原氏からのプレッシャーが強かったためという筆者推測である。そこで弘法大師は資金獲得のために紀南から四国にかけての水銀、朱の採取で実績を上げ、伝教大師は比叡山の材木を切り出して平安京造営の手助けをして宮廷に接近したのではないかと考えた。その後、材木は丹波から保津川経由で千本三条まで運ばれ、千本通の名に材木運搬の歴史が残った。平安京造営時に朱雀通りに鴻臚館を置き、通りの東西に東寺西寺をおいた。鴻臚館は唐の長安形式の来賓対応施設、奈良の東大寺西大寺にように宮城近くにはおかず、八条の南に東寺西寺を置いたのは寺院の軽視であった。その後、嵯峨天皇時代の824年になって空海を東寺の別当とし、その後東寺のなかに綜藝種智院を創立、子弟の教育施設とするにいたり、空海はようやく都に拠点を持てた。京都の洛南高校のルーツはこの綜藝種智院、東寺では現在でも毎月21日は「弘法さん」としてフリーマーケット、骨董市が開催され市民の楽しみになっている。

浄土宗の法然上人は専修念仏とはいえ念仏を唱えるだけではなく、月に何度かの精進日を定め、お盆には精霊迎えの法事を営むこと、僧侶の妻帯は認めないなどの条件を付けた。親鸞は仏教をさらに分かり易く行いやすいものにするために、肉食妻帯を認め精進も不要、南無阿弥陀仏と念仏すれば往生極楽ができると言い切った、これが浄土真宗。その第八世蓮如は加賀北越に信徒を獲得、そして山科、大坂石山に本願寺を設立し、対明貿易で利潤を獲得、1559年には門跡寺院格として認められた。しかし、織田信長は一向宗と対立、石山本願寺も矢面に立った。本願寺は毛利、三好と手を結び抵抗、その後秀吉に現在の六条堀川に寺地を与えられた、西本願寺である。幕末から維新にかけては維新動乱と廃仏毀釈の打撃を受けたが、その後龍谷大学を創設、明治仏教界のリーダーとなった。西本願寺の多くは伏見桃山城の遺構、飛雲閣は聚楽第のもので、秀吉色を消し去りたい家康の意向を受けたものであった。

関が原の戦いで東西に分かれた教如と准如、後に家康は教如に烏丸七条の寺地を与え、江戸幕府は正式に公認、東本願寺が設立された。信長以来、本願寺の勢力に手を焼いてきた幕府勢力は南北朝時代の大覚寺統持明院統両立を思い出し、東西本願寺を設立せしめてその力を少しでも削ごうと務めた。秀忠は東本願寺に寺領安堵の朱印状を与え、家光は渉成園の土地を与えた。渉成園が源融の河原院の跡地との説があるが、少し場所が違うらしい。同時に、比叡山延暦寺に対応して東叡山寛永寺を、華頂山知恩院に敬意を示し増上寺を建てたが、それは一向宗に苦労させられた過去から、各宗戦力の分散を図った、というのが本音だったという。現在は京都駅前からまっすぐのところにあるので、観光客には東本願寺が知られており、明治18年以降は大谷派本願寺と名乗っている。

大文字の起源には諸説ある。将軍婦人日野富子に見せるため、室町幕府所在地の正面に「大」の字を書いた、とか江戸時代後水尾天皇の中宮東福門院に見せるため、京都御所の東方の植え込みの梢が切り込まれている、などという。筆者としては、「大」の字は京都市民一人ひとりの思いを燃やす、という意味が込められているとして、一人の字を「大」に込めたと信じているという。

このような調子で、この他、相国寺、下鴨神社、大徳寺、今宮神社、金閣寺、龍安寺、仁和寺、妙心寺、北野天満宮、千本釈迦堂、二条城と解説される。大徳寺の項では、禅寺の構成について述べられる。寺内に塔頭寺院ができると、院、庵、軒を寺号とし、「寺」を付することはないとのこと。寺とは特別の建物を指すのではなく、境内に存在する仏殿、法堂、方丈、塔頭寺院などの全体を指す。院とは住職の住居で、院主が後嗣に席を譲ると院内に小さな建物を建て、そこに隠居、「庵」と呼ぶ。さらに新たな住職が来ればさらに新たな建物を立て、そこを「軒」とし軒主となる。大徳寺や妙心寺の中ににたくさん存在する塔頭寺院や庵、軒などはこのような関係にある。

足利尊氏は足利庄出身で鳥羽天皇皇女八条院の領地の生まれ、その伝領者の後醍醐には逆らえないが、武士の頭領としては後醍醐の貨幣政策と文官政治には従えない。そこで、天皇死後は天龍寺を建て菩提を弔い、さらに天龍寺船貿易である対中国貿易で巨万の富を得た。南北朝時代を経て、足利三代義満は持明院統に接近、57年にわたる南北朝紛争にケリを付けた。義満は足利家の経済力と政治力で西園寺家から北山殿の土地を獲得、大改造を加えて鹿苑寺を建設した。禅宗寺院ではあるが、金閣の三層楼閣は権力と金力の象徴となった。禅宗では釈迦を崇拝する、阿弥陀ではない釈迦の浄土を表し、人間の浄土であるので金閣は寝殿造りとなる。妻の日野康子を後小松天皇の准母とし、自らも天皇の父となろうとした義満の心中には聖徳太子の摂政の影があった、と筆者は言う。

歴史を知って京都を訪れるとまた一味違う。

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日本列島100万年史 山崎晴雄、久保純子 ****

2017年01月26日 | 本の読後感

日本列島は4つのプレートが沈み込む狭間にある地震列島。太平洋プレート、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、北アメリカプレートである。東日本大震災は太平洋プレートの三陸沖にある日本海溝に沿った前弧海盆付近を震源にしていた。今後起きると言われる東南海地震はフィリピン海プレート沿いの四国海盆に沿った南海トラフを震源とする。日本には大きく言うと4つの火山山脈があり、太平洋プレートが沈み込んで深度が100kmに到達した地点にある火山弧、これが北海道では大雪山系、そして東北六県を縦に貫く6つの山地(恐山、八甲田、仙岩火山、栗駒鬼首、蔵王、磐梯安達太良、会津)、四国海盆の先には近畿から中国山地にかけての山々、そしてフィリピン海プレートもう一つの海溝は琉球列島に沿った南西諸島海溝で北は九州、南は台湾にまで連なる。これらを火山フロントと呼ぶ。沈み込んだ太平洋プレートなどが水分を含んだ地殻を地中に巻き込むため、ユーラシアプレートのマントルと混ざり合い、粘度のあるマグマが発生する、ちょうどその距離と深度が100kmだそうだ。列島を東西に引き裂くフォッサマグナは、フィリピン海プレートがユーラシアプレートと衝突してできている伊豆半島との衝突現場に縦に発生している歪み。地球という球面上で2つのプレートが真正面から衝突すると、そのプレート状に浮かぶ形となる日本列島の形は弧状になる。他にも千島列島、アリューシャン列島なども同じ理由で弧状列島となっている。

今から100万年ほど前にヒマラヤ山脈の高さがある閾値を超えたため、北半球の大気循環が影響を受けて、地球全体の温度循環に大きな影響を与えた。それ以前は4万年周期で寒暖を繰り返していたのが、それ以降は10-12万年周期となった。現在は2万年前から始まった間氷期で、その直前まではヴェルム氷期、極地の氷結のため海水準は現在より120メートルも低かった。その為東京湾大阪湾だけではなく瀬戸内海も陸地となり、宗谷海峡、間宮海峡も陸続き、朝鮮半島からも干潮時には20メートルほどの深さの海峡となっていた。これが縄文時代の7000年前頃になると温暖化により逆に氷が溶けて海の高さが高くなり、東京湾は埼玉の川越から更に北側までは海となっていた。12.5万年前の間氷期には更に海水準が高く、関東平野はすべて海の下だったという。

火山活動も地形に大きな影響を与える。北海道にある支笏湖、元は支笏火山で大噴火でできたカルデラが湖になった。4万年前の大噴火で今は千歳空港になっている台地が火砕流により形成され、それより以前には今は日本海にそそぐ石狩川も河口は太平洋側にあった。

三内丸山遺跡のある青森も、集落が形成され始めた5900年前頃には海辺に流れ込む川沿いの場所だった。その時点では現在の青森市内は殆どが海の下。5000年前ころに今の青森県庁あたりに砂州が形成され始め、三内丸山遺跡も陸地内部になっていった。

東海道も古代には足柄路が使われていたのが、西暦800年ころの富士山延暦噴火により埋没、箱根路が開発された。しかしあまりに急峻だったためその後足柄路は復旧された。更級日記の書かれた11世紀ころには藤原孝標の娘が京都に帰る際に、昼でも暗い足柄路を越えていく不安な様子が描かれる。その富士山、10万年前に姿を表した。最初は古富士と呼ばれるダラダラ噴火の溶岩ドームを形成していたのが、11000年前ころにプリニー式噴火と呼ばれる大噴火で溶岩が円頂を為すドームが形成され、その後何回もの噴火を繰り返し現在の円錐型の美しい成層火山と呼ばれる形になった。有史以降では1083年、1707年と大噴火、1707年の噴火では、その4年前に関東地方で元禄地震があり、1707年10月には九州から静岡までの宝永地震が発生、その49日後に富士山が噴火している。東海地震がもし起きれば、それが引き金になって300年を経て大噴火する可能性もあるということ。

もう一つの大きな大噴火は縄文時代前半の7300年前に九州南部で発生した大噴火、鬼界アカホヤ噴火。この噴火で九州と四国の大部分の縄文人は全滅したとされる。鬼界カルデラは薩摩半島の50km南にある薩摩硫黄島で、海の中から噴出した数百度の火砕流は海上を時速100kmで渡り、南九州を襲った。この時の地層が黒土層に30cmから1mほどのオレンジ層で、その地層の下は、南方海洋系の石器などが出土、その上には北方系の縄文土器が出土する。同等の大噴火が現在に起きると、どうなるのだろう。

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日本を知る小事典1(冠婚、葬祭) ***

2017年01月24日 | 本の読後感

本書は全六巻の第一巻、家族、地域、一生、地方、交際、礼儀が記述されている。北から南まで様々な家族のしきたりや親族の考え方がある。共通しているものもあって、農家では子供は赤子から6歳までは神の子、死ぬことも多かったので、その間に亡くなった子の正式な墓は作らず、家の近くに葬り生まれ変わりを願った。7歳からは子供組に入り、子供同士のルールやしきたりを守るが、親も大いに関わる。男性は13歳、女性は初潮を迎えた頃から若者組、娘組に入り、若者たちによるルールと取り決めに従う。男女の出会いは若者組と娘組の集団的交際から始まり、好きなもの同士が名前を教えあい、「呼ばい」という名前を呼び合うことから、多くの場合男性が女性の家を訪問する。その際、男性は女性の家の前に印となる笹や木のお札などを立てておき、女性側が気に入ればその札を家に入れることで受け入れ表明となる。男女は見合いを必要とせずに知り合うことが普通であった。

女性が受け入れても家族が受け入れない場合もあり、その場合には若者組が女性側の家族と交渉したり、地方によっては女性を拐う場合もあった。歴史的に言うと、婿入りが古く、これは「呼ばい」により男性が女性の家に通ううちに婚姻し、長男の場合には家を継ぐので、数年の訪問と家への奉仕の後にこの誕生などを契機に男性の家に入る。武家では家の継続が第一になるので、嫁取りがメインとなり、その習慣が大きな農家には取り入れられるようになる。また、同じ村同士の婚姻から離れた村同士の婚姻が必要となる場合には、お見合いが必要となり、徐々に婿入りから嫁入りへと移行していったとも考えられる。

若者が婚姻を経て家を継承すると戸主となる。それまで戸主だった男性は隠居する場合もあるし、戸主を譲らない場合もあった。村では神社の祭りや村の冠婚葬祭を取り仕切る役割の一年神主が必要で、持ち回りで神主役が各戸主には回ってきた。この役回りをするのは男性が42歳、女性が33歳であり、この歳を役歳と言った。現在では厄年はなにかの不具合が生じる年回りとされているが、もともとはこのような役回りの歳であった。42歳を越えると年寄りとなり、61歳を越えると男性は庚申講、女性は念仏講に入り、村の中でのクラブ活動的グループを形成した。講組織には宗教的な参詣講や氏子講、経済的な頼母子講、無尽講、総合扶助の人足講などもあった。女性同士では、嫁同士の地蔵講とよばれるヨメ講、42歳を越えると観音講と呼ばれるカカ講、還暦をすぎるとババ講、念仏講があった。

若者組が村の活動の中心であり、村の行事、神社寺院の祭礼執行、警備、農作物の見回り、共有地漁場林野管理、道普請、屋根替え、橋梁建設、神社改築、共有林植え付け、難破船救助、婚姻統制などを司った。年寄り組は若者組OBとしてのアドバイザーであり、メインは各家庭の生活を担った。61歳以上の老年組は村の宗教的行事や神の司祭者、調停役となった。

厄年は役回りの歳を中心に、男女7と13、女性の19、男女の25、女性の33、男性の42、そして還暦の61と古希の70、77の喜寿、米寿の88となり、歳祝いである。つまり一定の年齢に到達した者は神事に参加できることを祝った。3・5・7歳の子供が稚児に選ばれる、13と25歳で御輿を担ぎ、42と61で宮座と呼ばれる祭祀組織の正式構成員となる。村落における宗教的生活のなかで一定の役割を果たす年回りが役歳である。神に仕える際には心身の清浄を保ち、言動を慎み、村人からの信頼を維持することが重要であったが、村と祭祀の結びつきが薄れるに従って、役回りの年齢と責任のみが強調されるようになり、厄年と認識されるようになった。

人の一生を考えると、出生儀礼、帯祝、成長過程では7歳祝、成人式、婚姻儀礼、役歳祝、歳祝い、葬儀、年忌供養などがあり、それぞれ地方ごとに異なるしきたりがあるが、共通するのはムラを一つの単位とする相互扶助を伴い、協同で農作物や漁業を営むための絆の確認作業が儀式化、儀礼化したものがあること。神仏習合であること。鎌倉以降は武家のしきたりも加わってきたことなどがあるが、武士ももとは農民であり、1月に行う左義長、どんと焼きは蹴鞠などを行う宮廷の儀式がもとになっているとも言われているらしい。日本の年中行事は農村のしきたりをベースに、宮廷、武家のしきたりがミックスされて今に至っている。

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日本人の知恵 林屋辰三郎、加藤秀俊、梅棹忠夫、多田道太郎 ***

2017年01月20日 | 本の読後感

なんと、昭和37年に発行された本で、その前年朝日新聞に連載された「日本人の知恵」を再編集したもの。現代で言えば「和風総本家」「スゴ~イ、日本の習慣に隠された先人の知恵(空想上の番組)」みたいなトーク集だが、トークしているメンバーがすごいと感じる。

明治維新以来の日本は西欧に追いつけとの号令のもと、旧来の日本的なものを「時代遅れ」として西欧の制度や近代的な手法、技術を積極的に取り入れ、日本的と考えられたものを「自己批判」してきた。しかし、日清日露の戦争後、第二次世界大戦前には戦意高揚のため日本文化や日本思想に対する「自己礼賛」がはびこった。敗戦後はその反動もあってか再び自己批判が横溢、欧米の文化を理想とし、特にアメリカ文明への憧れが、テレビ番組にも溢れていた。私が小学生になる前に、貧乏だったアパート住まいの我が家にも、これからはテレビだ、ということだったのか昭和35年ころにテレビジョンが購入された。近所の人達も見に来たくらいだったからまだまだ珍しかった。その頃に見ていた記憶にある番組は、ララミー牧場、ローハイド、アニーよ銃をとれ、名犬ラッシー、ちょっとあとにはじゃじゃ馬億万長者、かわいい魔女ジニーなどアメリカのドラマばかりで、こんな広いうちに住みたい、家に車があったら便利だろう、西部劇のところに行ってみたい、などと幼稚園から小学生だった私でもアメリカに憧れを抱くようにになった。「ローレンローレンローレン...ローハーイド!」と主題歌を歌っていたことも覚えている。一方で、安保反対、ハガチー帰れなどとアメリカとの条約締結には大反対の空気が溢れていて、アパートの廊下を「安保反対ごっこ」をして遊んでいたのも事実。科学や近代的制度を理想と考えながらも米に反発する気持ちもある、そんな空気の中で書かれた一冊である。

取り上げられているのは50ほどのテーマであるが、例えば「番付」、東西に横綱から大関、関脇とランキングがあり、誰が強いのかがひと目で分かるが、先場所の勝敗で上下するので、気が抜けない。真ん中には勧進元と行司がいて、第三者の存在が東西のバランスをとるという、京都と鎌倉、江戸幕府と朝廷のような一極集中でない形態であると評価する。日本独自である「じゃんけん」も三者鼎立で西洋の弁証法的論理形式とは異なるという。

「習合」というテーマでは、欧米のデパートとは異なる形での日本のデパートは呉服屋から発展して、屋上には遊園地があり、階上に食堂、地下には食品売り場もあって欧米のデパートとは全くことなる概念として繁栄しているという。クリスマスのサンタクロースも大国主神がモデルとなり、デパートも実は縁日が下敷きになっているとのこと。受け止める母体があるから習合できるのであって、ヌーディストやベジタリアンは土着しないだろうと予言している。アンパンは饅頭という母体があって西欧のパンをうまく習合させた。「学習雑誌」は子供向けの雑誌だが学年ごとの細分化され、付録もついて定着していることが習合している証拠であると。

「平等性」も特徴的で、「おみやげ」は西欧でもあるが、日本のようにご近所や職場の皆さんに買って帰ることはない。それは旅行という特別でラッキーな物語を共有したい、という考えがあるから。また「なべ」という食べ物は西欧にはない。みんなで一つの器から食べる、という物語の共有が連帯感を育む。

ちょうど特急こだまが開通した時で、東京大阪間を6時間30分で結ぶ今までにない特急なので、公募で「こだま」というツバメやハトより早そうな名前となった。今後予定される弾丸列車(新幹線)の名前はどうなるのだろうか、と心配しているのが面白い。この時点では「ひかり」「のぞみ」などという洒落たアイデアは思いつかなったのかもしれないが、考えてみればまことにうまく名付けたものだと思う。

その他、取り上げられたテーマは、「予備校」「駅弁」「花見」「漫才」「風呂」「折り紙」「出前」「ノーチップ」「万国旗」「バスガイド」「お守り」「実物模型」「家計簿」「どうも」などなど、バラエティーに飛んでいる。いずれも今でも日本的特徴を持ったものばかり、「和風総本家」「プロフェッショナル」「72Hours」などでも取り上げられてもおかしくない。

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外国特派員の目 ニッポン見たまま 週刊朝日編 ***

2017年01月17日 | 本の読後感

先日読んだのは1975年ころにイギリスに短期滞在した女性から見た英国事情だったが、こちらはほぼ同じ頃日本に駐在していた外国人駐在記者による日本事情。その後の40年で日本は経済的な発展があり、日本への留学生、旅行者、滞在者も増えたので、今は日本礼賛番組や記事が横行しているが、当時は辛口の日本評論や外からどう見られているのかを気にする感覚がよく分かる一冊。日本ポジティブ面とネガティブ面と分類して列記してみよう。

ポジティブ面 大相撲の歴史やしきたり、横綱の威厳。ヒロシマを保存することの重要さ。房総半島に当時でも残る海女の姿。若い女性のファッションセンスはパリ以上。日本の自然は世界一、人がいないことが一番。寺社仏閣や茶の湯、日本美術の洗練された美しさ。日本のお肉の切り方は薄くて素晴らしい。総じて日本の食べ物と飲み物は美味しい。日本女性は魅力的。社会のダイナミズムは欧米以上、今後の経済発展は約束されている。チップがいらない。列車電車のシステム。

ネガティブ面 大相撲の放映時間をゴールデンタイムにすれば猛烈に働くお父さんも早帰りするかも。一家心中は子供の人権無視。結構披露宴は時間とお金の無駄、呼ばれた方には拷問だ。来日するモナリザに一億総狂乱はいかがなものか。ピル解禁はリスクが有ると解禁せず、堕胎はできる、この矛盾。神風タクシーと乗車拒否。戦争を引き起こした歴史を忘れる速さ。交通信号を律儀に守るのは日本帝国が戦争に邁進した方向性に盲信したこととつながる、ルバング島から帰還した小野田さんを見よ。今では美しかった房総半島が高速道路で破壊された、美しい磯にマリンパークは不要。日本では観光地になぜリゾート施設を作りたがるのか、消費者もそれを求めるのが疑問。日本の都市計画は無計画、都市景観の醜悪さは世界最低レベル、都市景観に対する美醜感覚がないのか。公共交通機関でのアナウンスメントは拷問的騒音。地下鉄はサウナ状態できれいな景色もない残念な移送手段。日本の雑誌は低劣なポルノ、平気で電車の中で読む神経を疑う。国際感覚がないと自らを嘆く島国根性、日本文化は独特と言うより海外との共通部分をアピーするべき。専業主婦として団地の狭い一室で子育てしている教養ある女性は本当に幸せなのか。日本の英語教師は日本の子供たちに英語嫌いを植え付けている。ゴミ捨てマナーはひどい。日本人はエコノミックアニマルだと信じ込んでいること。日本が第2次大戦で中国と朝鮮に与えた損害について多くの日本人が罪の意識を持っていないこと。自動車の使用制限ができていない、もっと自転車と自転車専用道路を。警察がヤクザを真面目に取り締まらない。選挙制度が保守政党に有利なのにこれを改革しない。進学試験制度や医師養成システムの複雑さ。民主主義の形態は欧米並みなのに実際の政治は三流。

こうして分類してみるとネガティブ面が目立っているが気がつくのは、その後の40年でネガティブ面も少しは解消できていることと、そしてまだまだ日本人の心と頭の中身は変わっていないこと。ということは、表面的には日本礼賛をする外国人は増えているが、外国人も心と頭のなかではまだまだネガティブ面の日本を感じている人も多いということか。旅行者や留学生がこの40年でどれだけ増えたのかを考えると、一つの国が変化するというのは時間がかかるということ。イギリスもこの40年で随分変わったが、日本の40年の変化はどの程度だろうか、一度誰かと話をしてみたい気がする。

各国駐日記者による外人特派員の目―ニッポン見たまま (1975年)

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黄昏のロンドンから 木村治美 ****

2017年01月15日 | 本の読後感

40年ほど前に発刊された本、1974年8月から翌年3月まで、大学教授だったご主人に同行した女性のエッセイ。40年の違いで変わっているところと変わらない所、日本を見る目が違うところと同じところなど、読んでいて面白い。当時は旅行でイギリスに行ったことがある人も少なかっただろうし、日本から来た、といえば向こうも珍しいので歓迎されたと思う。1990年ころのバブル期には大勢の日本人観光客がロンドンのフォットナム&メーソンに行って、日本語ができるという店員に向かって、千円札を握りしめ関西弁で「もうちょっとマケテーナ!」と言いながら、きっといつも飲んでいるというのではないと思われるアールグレイの高級紅茶を買っているのを見たことがあるが、そうなる前のまだ日本が経済成長期で、そんなには経済的に豊かにはなっていない時代のエッセイ。

ロンドンには移民が多い話。借りた2階建て住居の一階に住む家主さんがユダヤ人で、日本人はきれいに生活してくれるので日本人ばかりを店子にしたがる話。バスの車掌が黒人で、中華料理店は中国人、インド料理点や百貨店の店員はインド人、ロンドン繁華街は多民族、しかし郊外電車に乗ると乗客はアングロサクソンばかりと。移民が増えた町中から郊外に移動しているのだという。これはアメリカでもそう。移民に対する施策は次の通り。民族や宗教の違いで法律上の差別はしない、自国民と同等の権利を扶余、雇用、賃金、社会保障も平等。しかしロンドンでは職業別に階級がはっきりしているのも事実。黒人は地下鉄バスなど、食堂には黒人は働いていない。ハロッズは白人ばかり、大学教授となるとアングロサクソンかユダヤ人。しかしその後イギリスでも人種差別が表面化して問題となる。パブも労働者向けの「パブリック」とホワイトカラー向けも「サロン」では入口が違うが中は共通、真ん中に仕切り板がある。これはその後なくなったのではないか。著者夫婦は知らずにパブリックの入口から入ろうとして、お前らは向こうだ、と言われたとか。なぜ分かるのだろう。

ロンドン地下鉄のエスカレーターで右側によって一列に立っていることに感心している著者、今では日本の都会では当たり前になった景色だが、その頃はそうではなかったのである。その他、夫婦はかならずダブルベッドで寝ているが、日本人は大体がツインベッドを好むので、ユダヤ人の家主はツインを用意してくれている話。「オーカルカッタ!」というミュージカル、一糸まとわぬ裸で踊り回る演劇に驚く。それでも日本から来ていた「東京キッドブラザーズ」が当地でも人気になっていて、その舞台で日本人ダンサーが上半身裸になるのを見て現地の人達も驚きの声を上げるのだそうだ。オーカルカッタを見ても興奮しない人たちが、なぜ上半身の裸体を見て驚くのかが不思議だと。エロティシズムの感じ方の違いだと。

ロンドンの服飾店には化繊のチープなセータか高級なウールのセーターが売られていて、その価格差が大きくてびっくり。日本から時々訪れて一緒に買い物に付き合うと、ボンドストリートで高級なセーターを買って帰るのでまたまた驚く。日本のウール製品のほうが安くて品質もいいのにと。イギリスには日本のように切れ味の良い包丁がない、あってもテーブルナイフで、じゃがいもの芽をほじくるのに使える直角な部分がない。ご飯をすくうオシャモがない、汁物をすくうオタマはレードルといって取っ手が直角についていて使いにくい。魔法瓶がない、あっても日本のようにきれいな花柄なんてついていない、アラジン社製のポットがあって、これが「魔法瓶」の名前の由来だと気がつく。イギリスでの紅茶は沸かしたてのお湯で淹れるので、魔法瓶ではだめ、というのが製品が普及していない理由だとも知ることになる。八百屋では積まれているトマトやかぼちゃを手にとることができず、店の人が後ろの方で勝手に袋詰してくれるので、自分が気に入ったものが買えない。

それでも町中でも自然がいっぱいあって、桜も咲いてすぐには散らず、道も広くて、学校では子供たちに平等に公平に教育機会を与えてくれる。規律と自由、プライバシーの考え方、フレンドリーな社会的微笑など良い面にも気がつく。

とにかく、半年の滞在なのに小学生の二人の子供を連れて行って、観劇やネス湖などへの小旅行もして、現地の人達ともそこそこ触れ合って、プラスとマイナス両方をフェアに観察する、これが大宅賞受賞理由だろう。この本を読んでロンドンに行ってみたくなった人は多いのではないかと思う。

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日本アイヌ地名散歩 大友幸男 ****

2017年01月14日 | 本の読後感

著者の思い入れがつよーい本。前提となるのは、日本列島における縄文人と弥生人の分布と順序の仮説。日本列島にはまず1万年以上前から約1万年もの間、縄文人が北から南は沖縄まで住み着いて、ある程度共通した言語を使っていたので、地名もその時代から数千年を経ても残っているものがある。その後弥生人が稲作や銅器、鉄器製造技術とともに大陸から日本海側から移住、九州から本州全土にかけて縄文人を追いやるように拡大していった。その為、本州には現在の日本語を使った地名が広がっているが、北海道や東北北部、沖縄列島には縄文人が使っていた言葉と共通する古いアイヌ語による解釈ができる地名が多く残る。「別」や「内」が付く地名だけではなく、本州や九州にもアイヌ語で解釈可能な地名がある、というもの。この仮説には、従来からの歴史文献やDNA分析からも納得できるので、「なんでもかんでもアイヌ語関係付け」と思える主張でも、「こういう解釈も可能」と思いながら読める。

岬はアイヌ語で鼻を意味する「イト」「エト」または顎を意味する「ノッ」、糸崎や江戸、伊豆、井戸、野付、能登、能戸、野登などがこの候補となる。「サンナイ、サンペツ」は「前に開けた沢」なので、地形から見て三内丸山遺跡や山内、山辺内、三平、山根などは可能性大。稚内は飲水の川を意味する「ワクカナイ」、幌別は大きな川の「ポロペツ」、笑内(おかしない)は沢尻に猟小屋がある沢の「オカシウンナイ」、尾去別は川尻に草地ある川の「オサルウンペツ」、茂別は静かな川の「モペツ」。別や内だけではなく、辺、戸、部も川や沢があればこうしたアイヌ語由来である地名候補になるという。浜の地名は「オタ、ウタ」なので小田、大田、歌が付く地名なら候補となる。伊勢も古名は伊蘇であり磯を意味する同じ音の「イソ」から、須磨、志摩も岩礁を意味する「スマ」からという。

山は野の高みを意味する「ヌプリ」、日本語の登るの元は「ノポル」であり同根。「シリ」は大地、「モシリ」は小さな大地で島を、「キリ」は高い立った山を、「キム」は低い山を、「モイ」は森、「タイ」は林を、「ヌプ」は野、「ピラ」は崖を意味する。候補となる地名は「X登、X尻、X切、X野、X平」などでたくさん考えられる。

東京近辺では、小田原は浜の「オタ」から、木更津は耳の形の海の「キサルト」から、世田谷の野毛や横浜の野毛山公園は顎状に突き出た頭の「ノッケイ」から、幕張は奥の原の「マクンパル」、浦和は縄文時代は海辺だったため砂浜の渉り場である「ウラワ」、渋谷は泉の岸で「シンプイヤ」、あくまで候補であるということで解釈可能だということ。

近畿では伊賀は越える道で「イカル」、丹波はこちら側の岸の「タンパ」、有馬は元は播磨の有馬郡であちら側の浜で「アリルルムイ」、「クス、クシ」は越えたところや山の向こうを意味し、三重県の久豆、楠、樟、櫛田川など、越の国と言われた北陸も山の向こうである。

万葉集に出てくる地名では、足柄は夜明けの早い所もしくは初めての土地で古朝鮮語の「アシガラ」、相模は峠の女神で「ジャガム」、「イカポロ」は越える大きいで伊香保、峰が横に繋がった山で「ツクマネシリ」から筑波嶺。

日本古語では「タ・ナ・ラ」はそれぞれが入れ替わること多いという説があり、「ヒラ、ヒタ、ヒナ」は注意が必要。船は古語ではフィナ、古い人名でよくある比羅夫はフィラフと考えられ船夫、つまり船頭、すまり水軍を率いる武将となる。倭人伝にでてくる卑奴母離(ヒナモリ)は船守で水軍の頭となり、うまく話が合う。日田、比良、日名などの地名はこうした意味をもう一度考えて見る必要があるという指摘。

沖縄の地名で川を「ナイ」、崖を「ピラ」、海を「トー」、人を「チュウ」、山や森を「モイ、ムイ」、広がるを「パル」と呼ぶのはアイヌ語と共通。那覇は水の岸の「ナパ」、糸満は岬のある場所で「イトオマイ」、日本人をヤマトンチュウと呼ぶのは「ヤマトウンチュウ」ヤマトにいる人となる。その他、東北の方言にはアイヌ語の痕跡が見られ、古朝鮮語との共通点も多いという。

本書以外でも日本列島には多くの新羅、百済文化の影響があり、地名や神社、習慣にも多くの痕跡が見られるという記述は多い。著者の信念は強いようで我田引水的解釈も多いかもしれないが、そこにこうした縄文人の痕跡であるアイヌ語地名の解釈を加えることは、古文献や歴史分析の一つの見方だと感じる。

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使者と果実 梶村啓二 ****

2017年01月10日 | 本の読後感

1939年のハルビンで独身の高級官僚で満州国国務局に勤める百済タダシが実業家の妻である倉橋奈津と、趣味である音楽を通して知り合い、不倫の仲になる。それを知ったのはタダシの京都の大学時代からの友人でこちらも外務官僚である孫江。タダシがこのままではいけないと、外務省の特別任務を与えようとする。特別任務とは、さる侯爵家の所蔵品であった名品チェロのドメニコ・モンターニャを関東軍が買い取ったものを、日本の同盟国であったドイツ軍ゲッペルス博士に世の中には伏せて極秘でプレゼントしようというもの。趣味でチェロを弾いていたタダシにそのチェロを満州から日本を経由してドイツまで運んでもらいたい、という任務である。チェリストのタダシが最適任者だというのは孫江のストーリーで、なんとか不倫相手の奈津から引き離そうという作戦であった。

日本の特務機関は独自の調査で奈津の夫である倉橋雅之がソ連に機密情報を漏洩していることを突き止める。決定的な証拠を握るため倉橋は特務機関の監視下に置かれ、その妻である奈津とタダシの不倫も特務機関に知られることとなる。それを知ってか倉橋雅之は奈津をベルリンへの出張に同行することを提案、不倫相手だったタダシの身の安全を念じていた奈津はタダシと会わないようにしながら数ヶ月を経て夫とともにベルリンに旅立つ。ほぼ同時に孫江からのチェロ運搬という使命を帯びたタダシもベルリンへと向かう。

ベルリンでは、その留守中に決定的なスパイ活動の証拠を握られた倉橋夫妻とタダシにも特務機関の目が光る。タダシと奈津は表立っては会えないし、奈津は警戒してタダシを避けている。このままでは倉橋も奈津も逮捕され処刑されると考えたタダシは、ダンスパーティの会場で奈津に接近、当時は戦争の外にあった平和な国アルゼンチンのブエノスアイレスへの逃避行を奈津に密かに提案、奈津は迷いながらも了解したかに見える。逃避行はスイスのルツェルンでの待ち合わせ、そしてニューヨークを経由してブエノスアイレスへと船で逃げるという計画。運んでいる名器を売れれば二人で暮らせるくらいのお金にはなる、という読みであった。

こうのタダシと奈津の逃避行の一部始終を聞き取るのはタダシがブエノスアイレスで臨終間際に知り合った日本人の平悠一。悠一は日本に輸出できるワインを開拓している貿易商、なかなか最適なワイナリーが見つけられずにいた。ふと入ったバーにいたのがタダシ老人、すでに90歳を超えていたタダシは、悠一と顔見知りになる。ある日、花を買ってきた悠一に、自分と奈津の話を聞かせる。話し終えたあとに悠一にチェロの曲を弾いて聞かせた。一緒にいたのが17歳のアルゼンチン女性ペネロペ、まるで実の孫のような親密さであった。一晩かかって奈津とタダシの逃避行の話を聞き出した悠一、次の朝、ペネロペからタダシ老人が死んだことを伝えられる。逃避行は本当にあったことなのか、それともタダシ老人の夢を聞かされたのか。残された遺品の後始末を任された悠一、ほとんど唯一の財産であったチェロは、名品ドメニコ・モンターニャであった。

悠一はドメニコ・モンターニャを財団に委託してクロアチア人チェリストに貸し出すことにする。そして孫江も後日コンサート会場でそのクロアチア人チェリストに出会うことになるのだが、まさか孫江も、そのチェロがタダシが持ち逃げした名品だとは気づかない。その後、悠一はロンドンでペネロペと一緒にドメニコ・モンターニャの音色を聞く機会に恵まれる。

純愛の物語にスパイと戦争の味付けがあり、題材の割に後味はとてもいい作品。現代の不倫物語のようなドロドロ感は全く無いので安心して読める。使者はタダシであり悠一、果実はタダシが悠一に語ることができた夢物語と残されたドメニコ・モンターニャ、そしてひょっとして果実がペネロペだとしたらと夢は広がる。

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昭和のエートス 内田樹 ***

2017年01月09日 | 本の読後感

内田樹と高橋源一郎の言っていることにはいつも気をつけている。自分より5-6歳上だと思うのだが、いちいち自分と重なる部分とすれ違う部分があるので、考えるヒントになりやすいためである。反感や嫌悪感に創造性は伴わないことが多いが、同感や違和感はいずれも参考になるからだ。

昭和の40年ころまでは、「日本は戦争に負けたんだから」という共通認識があったように思う。東京五輪と大阪万博以降の昭和の後半はGDP経済成長論からバブル経済論で「日本も混沌の時代を経てようやくここまで来た」という感じ。平成になると生産年齢人口がピークを経て減少期に入りいつのまにか一人あたり所得は世界で20位に、すでに各家庭レベルではそこそこの生活レベルに到達するも、しかし給料は上がらない、若者は就職できないというなかで「日本がどうのこうのというよりも自分探し」という時代になった。

「日本は戦争に負けた」という文脈には占領時代を経て、随分な反対があったのではあるが日米安保と現行憲法を基盤にした経済成長を期待する部分があった。そして実際に経済の規模は拡大していったので、会社では年功序列通りに出世もし給料も上昇、家のローンも返せるし、ボーナスで子供の教育費もまかなえた。昭和30年ころまでに生まれた人たちの多くは平成になりリタイヤする頃になっても、昭和の慣性的経済力と良き記憶で「努力は報われたかな」と思える半生を過ごしてきた。

こうしたジェネレーションが現在を生きていると感じることがある。それが「昭和のエートス」ではないかと思う。本書の読者はこうした気分を感じながら読むと、この内田おじさんの言っていることがよく理解できるのではないかと思う。インテリなので理屈っぽいし、教育者なので話題によっては妙に力んでいる部分もある。それでも昭和前半に思春期を迎え経済成長期に様々なことを考えだした人が何を考えていたか。

「なんで自分が」と今、自分のことを思っている人がいるとしたら、それは今の時代のせいではない。昭和の時代にも同じように感じていた若者がいたはずだが、「みんなも貧乏をしている」「そのうちに良くなる」などと言い訳していたかというと、そんなことはない。親を楽にさせたい、世の中の役に少しでも立ちたい、という考え方ではなかったか。自分視点から家族視点、世の中視点に引いていくと少しはマシにならないだろうか。自分の境遇と隣人や友人との比較に創造的発想は生まれない。本書は少しはこうした考えの参考にならないかと思う。

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寿命1000年 ジョナサン・ワイナー ***

2017年01月06日 | 本の読後感

人間の平均寿命は日本では男が80、女が87歳で、今週のニュースでは、昭和31年頃はそれぞれ63、68歳であった。さらに20世紀の初頭には50歳くらいであった。寿命がのびたのは、新生児死亡率の低下、公衆衛生概念の発達による感染症減少、抗生物質発見、だそうだ。ポイントは最近の100年で30年ものびたこと。狩猟時代には15-20歳で、江戸時代では35歳程度であった。それがここ100年で30年ものびたということは一年長く生きると4カ月寿命がのびるということ。今後もまだまだのびる余地はあるというのが本書の主張である。

現在の学説では、フリーラジカル老化説が有力、フリーラジカルで最もダメージを受けるのが細胞内のミトコンドリア。細胞内のミトコンドリアは一ヶ月も経たないうちに死んでしまうが、オートファジーによる分解機能で再生される。ミトコンドリアは身体にエネルギーを与えるがこのフリーラジカルも放出する。このオートファジーの機能低下が老化の仕組みだということ。これは克服可能ではないか、と主張する。

老化の原因を分類すると次の七つ。架橋結合とよばれる体内分子同士の結合、ミトコンドリアの衰え、細胞内に溜まるゴミ、細胞外間隙に溜まるゴミ、細胞自体の老化、細胞死による毒素、そして癌。癌以外は現代科学で対応可能、のこるは癌だという。

しかしこの癌が一番の難物、身体のあらゆる部位に癌化の可能性がある。その対応策がWILT法、テロメア伸長の全身阻止である。テロメアは生存に不可欠な機能とされているのに、その機能を停止させることで老化を防ぐという過激な考え方。

本書の主張とはずれるが、一番心に響いたのは、最近は一年生きると4ヶ月寿命ものびるということ。その率で行くならあと20年生きると寿命はさらに6年のびて、、、それでも愉しく健康に過ごせるかどうか、、、ちょっと今からでも歩きにいこうかと思う。

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ひとの目、驚異の進化 マーク・チャンギージー ***

2016年12月29日 | 本の読後感

われわれ人類はなぜカラフルな色覚を発達させたのか。三原色とよく言うが、これは霊長類しか持たないという。哺乳類は一般に二原色、鳥や昆虫は四原色だと。果物などの食べ物を見つけやすい、というのが従来の学説。

筆者が言うには、まず、顔など肌の一部をむき出しにしている種には、相手の顔色を観るということが重要だった。特に女性はこの能力が生死をわかつ。女性に色覚異常が少ないのはこのためだと。

目が横ではなく前に付いているのは、立体視力のため、というのが従来の学説。筆者は森の中での木の枝や葉っぱのむこうにいる敵を見付けるためだと主張。横にあると後ろにも視野が拡がるが前を左右の目で見る範囲が狭まる。

目には錯視、という現象がある。動体視力には、動くものがそのまま進むとどうなるかを予測する能力を含む。錯視は未来予見力だというのだ。

そして人がもつ識字力、文字を読むのは遺伝ではない。漢字でもアルファベットでも当てはまるそうだ。文字が自然界を象徴し単純化しているからだという。

こうした学問領域は進化理論神経科学というらしい。錯覚だと思っていたらそれは未来予知能力だと、これはかなり面白い。

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徴税権力 国税庁の研究 落合博実 ****

2016年12月21日 | 本の読後感

筆者は元朝日新聞社記者で大蔵省と国税庁担当をしていた。2003年にフリーになり現在にいたる。野球のO氏とは一字違いの同姓同音名。国税庁や検察庁に記者として入り込み、多くの特ダネをものにした。国税庁や検察庁の公務員がなぜ守秘義務を犯してまで極秘資料を記者に渡すのか、それは捜査を進める際に世論を味方にしたい時があるから。記者としても自らのプレスコードを課してきたという。国税庁はあくまでも徴税機関であり世直し機関ではない。税務調査の結果を単純に正義と位置付けて記事にはしないこと。企業の申告漏れでも悪質なケース以外は記事にはしない。本書は2004-2006年に週刊文春と文芸春秋に掲載した記事から文庫化したもの。

1992年の東京佐川事件の処理を東京地検がわずか20万円の罰金で矛を収めたことに世論が大反発した。検察庁前の庁名板に黄色いペンキがぶちまけられた事件である。当時の検察の大甘の違法献金対応に危機感を持ったのは国税庁調査査察部長の野村、金丸代議士への政治献金5億円は所得なのではないかとの調査をはじめ、これを立件する。政治家対応では国税庁や検察庁は相当慎重になる。相手がその後自分の省庁のトップとしてアサインされたらどんな目に合うのかがわかっているから。しかしこの時の国税庁は骨があった。長官は土田正顕、次長は瀧川哲男、そして野村。当時の大蔵次官の尾崎護に相談、検察庁は東京地検特捜部長が五十嵐紀男、最高検の財務担当検事は石川達紘、こうしたメンバーがそろって初めて政界の当時のドンである金丸信を所得税法違反で逮捕するまでにこぎつけた。その後政治資金規正法が改正され政治家個人への企業献金が制限されるようになる。

国税庁の活動に介入してくる政治家がいる。本書では実名を挙げてその手口を紹介する。竹下昇、小泉純一郎、渡辺美智雄、橋本龍太郎、田中真紀子、亀井静香とそうそうたるメンバーが実名入りでその手口と介入内容を紹介されている。本人への取材では知らんぷりをするのだが、記者としては証拠をしっかりと押さえているので確かな話である。

有名芸能人への調査は東京国税局資料調査課の担当。1979年当時マークされ、証拠が挙げられた芸能人とその脱税額が次の通り。森進一2.14億円、石坂浩二1.53億円、若尾文子0.99億円、大原麗子1.22億円、浅丘ルリ子0.86億円など。手口は経費水増しと架空計上で、指南した税理士が同じだという。

大企業への対応では1982年当時マークされていたのが大洋漁業不正所得17.3億円、三菱商事3.4億円、日商岩井17.7億円、住友商事8.2億円、伊藤忠商事10億円、日本鋼管9.8億円など。その後2002年以降は企業の海外との取引に着目、追徴課税したのがホンダ117億円、京セラ127億円、船井電機165億円、武田薬品570億円、ソニー324億円、マツダ76億円、三菱商事22億円、三井物産25億円など。課税されたのはほとんどが移転価格税制で、日本での利益を海外子会社やペーパーカンパニーに移転するもの。

最後は創価学会、90年代には調査に入った国税だが、自民党との共同与党になってからは完全に腰が引けたという。創価学会は公称信者827万世帯、収入は3つあって収益事業会計、墓苑公益会計、公益事業会計である。課税対象は収益事業会計だけで、その額は2004年で163億円。第二位の明治神宮は17億円とその10分の1、創価学会の経済規模は宗教団体としては断トツなのである。827万世帯の墓苑事業を一手に取り扱う墓苑事業、墓地の永代使用料と墓石で100万円程度、区画数は40万とすると2000億円程度の経済規模になる。最大収入は一般会計、会員からの寄付金で、定説では2000-3000億円と言われる。これらが非課税となっているのだが、果たして所得税などとして扱える部分はないのかどうかがポイントである。また出版事業や物販、駐車場、全国に2000か所と言われる土地への固定資産税など、国税庁として確認調査が必要な対象は多いはず。課税の公平性は保たれているのだろうか、というのが筆者の指摘である。

一読して「凄い本だ」という感想。すべて実名、すべて根拠資料を提示した暴露本的著作である。田中金脈を追求した立花隆の下で働いたこともあるという筆者、まだまだ書ける資料をお持ちではないかと思う。

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古代史の謎を解明するためにも宮内庁管理の陵墓を科学的に発掘したらどうか

2016年12月10日 | 本の読後感

以前読んだ「謎の豪族 蘇我氏」を読み直してみた。

本書で水谷千秋氏は次のように記述する。『5世紀から6世紀にかけては大王の勢力が弱体化、蘇我稲目が大臣に登用されてからは馬子、蝦夷、入鹿と4代続いてヤマト政権を支え、蘇我氏あっての王権であった。蘇我氏は仏教の取り入れに積極的で、隋からの官僚制度や租税の管理方法、屯倉で導入された戸籍などの先進的な仕組みを取り入れた。飛鳥という町と飛鳥寺も蘇我氏が築き上げたといっても過言ではない。乙巳の変はここまで築き上げた蘇我氏による王権の果実を横取りし、蘇我氏が招来した渡来人や仏教徒、僧旻などのブレーンも含めて引き継いだのが中大兄皇子と中臣鎌足であった。日本書紀の記述は天命思想で乙巳の変の流血によるクーデターを正当化し、蘇我氏の専横を強調することで天智、天武、持統の政権の権威付けを図った。当時の人々にとっては記憶に残る蘇我氏はそれほどまでに強大だったとも考えられる。』

また、「蘇我氏の正体」で関裕二氏は次のように推測している。『魏志倭人伝によれば卑弥呼の死を受けて男王が立ったが収まらずトヨが女王として君臨し国はおさまった。トヨがヤマトに裏切られ九州筑後川から鹿児島の野間岬を目指した、これが出雲の国譲りであり、天孫降臨であるという。日本書紀がこれを隠したのは、トヨの夫とされる仲哀天皇、実際には武内宿禰であり、蘇我氏の祖先であった。この二人の子が応神天皇であり神武天皇と同一人物であった。そして出雲神の正体がトヨと武内宿禰である。日本書紀で天の日槍(あめのひぼこ)とされるのはツヌガアラシトであり、新羅の王子であった。船で播磨の国にきて宇治川から近江、若狭、但馬の地を選んだ。そこには鉄があったから、という推測である。そしてその末裔が蘇我氏であったというのである。なぜ日本書紀が蘇我氏は渡来人だと書かなかったのか、これは今ひとつハッキリしない。蘇我氏の祖が武内宿禰であり天の日槍であればスサノオの境遇とそっくりである。蘇我氏の祖は新羅に渡った倭人であり、脱解王の末裔であった、蘇我氏は一度ヤマト建国にのち没落していたが、6-7世紀に「我蘇り」と曾我から蘇我に書き換えた。ツノガアラシトは日本に鉄をもたらし、ヤマト建国の機運を一気に高めた功労者であった、これを藤原氏は書きたくなかった。』

また、今まで読んできたDNA分析言語学比較文化論考古学古墳分析などなどを総合すると、素人考えながら、次のようなことが言えるのではないか。

都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラヒト)と天之日矛(アメノヒボコ)に象徴される渡来人達が製鉄技術を日本にもたらしたとされる逸話や武内宿禰の日本書紀における記述とその子孫とされるのが蘇我氏であること、なども踏まえると、大和朝廷が倭国を統一するために製鉄技術は必須であり、当時九州や吉備、出雲、近江、越、尾張などの諸豪族を統一する戦いでは、鉄製の武器が大いに活躍したのではないか。また、稲作の豊穣を祈る神道に加え、鎮魂や成仏の概念を強く意識した仏教受容も倭国統一に大きな役割を果たしたのではないかと考えられる。武烈で断絶したとされる大王家を越の国から継体を呼び寄せたのは大伴氏と物部氏だったが、それを大和朝廷に組み込めた最終的な勢力は蘇我氏であった。蘇我氏は山城の秦氏とも強いつながりを持ち、朝鮮半島とのつながりも相当深かったと考えられる。日本書紀を取りまとめた天武天皇と藤原不比等は、大和朝廷の成り立ちに深い関わりと貢献をした蘇我氏の痕跡を消し去るために様々な工夫をこらしたが、事実は天皇家の祖先には新羅、百済の王族の血が濃く、渡来人とされる朝鮮半島由来の人たちが稲作を始め、青銅文化、鉄器文化を持ち込んだのであれば、倭国の中枢は、日本列島古来の縄文人をあとから来た弥生人が圧倒し、倭国の統一まで大いなる貢献をしたと考えてもおかしくはない。歴史的にキーとなる継体陵や仁徳陵など、本格的に発掘分析研究してみたいと感じる。

宮内庁が継体陵と認定する太田茶臼山古墳は、はたして本当に継体陵なのか。実は多くの学者が指摘するのは、高槻にある今城塚古墳である。宮内庁認定の継体陵の発掘できないが、今城塚古墳は発掘(盗掘も)されている。古代史に登場するような古墳の多くは盗掘されていると言われるが、科学的に発掘・分析してみればさまざまな歴史の謎に関するヒントが見つかるかもしれない。天皇陵でもない古墳をお祀りし、本当の天皇陵は保護されないまま盗掘されているとしたら、これこそ不尊、不作為の罪ではないか。「陵墓」と言われる歴代天皇や皇后、皇族を葬った陵(みささぎ)と墓(ぼ)、被葬者の特定はできないが陵墓の可能性がある場合などで、古墳以外に石塔などもある。場所や被葬者は幕末から明治初期に文献や伝承を手掛かりに指定されたが、天皇陵の見直しは1889年以降はないという。発掘しても何も出てこない古墳もあるだろうし、掘れば何か分かるわけでもないだろうが、日本列島に896あると言われる天皇家の墓とされる古墳の発掘分析を積極的に進める必要があるのではないかと思う。

 


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