意志による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意志に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

小学生おもしろ学習シリーズ まんが 百人一首大辞典 ****

2018年01月22日 | 本の読後感

小中学生がとにかく楽しく百人一首を覚えてしまって、家族で一番のカルタ取りになれる本、と言ってもいいだろう。

まんが付きであることが良くて、「百人一首」のすべての和歌の意味をまんがで説明、和歌の独特のリズムを知ることができる。一首が見開き2ページで紹介されているので、分かり易く、それぞれの歌の意味、覚え方、読人の概略などがまとめられている。

上の句のなん文字まででその下の句が特定できるのかが、一目瞭然で、関心を持った小学生なら1週間もあれば暗記してしまうのではないだろうか。

百人一首が誕生した物語と百人一首かるたの遊び方(ちらし取り、源平合戦、坊主めくり)、百人一首かるたで勝つ方法なども説明されていて、飽きない工夫がある。マンガの力は馬鹿にできない。絵の印象は強い。天智天皇の「秋の田の、かりほの庵の、苫をあらみ、わが衣手は、露にぬれつつ」の解説マンガには、お百姓が稲の刈り入れの時期に順番で田の側にある番小屋に寝泊まりする絵が書いてあり、質素な小屋に質素なムシロで寝起きするので、屋根から雫が滴って、床も濡れてしまってお百姓の若者が震えている。その様子を天智天皇が歌に詠む、という絵である。

例えば平安時代の歌をまとめていて、その後には平安時代の政治の役職名が絵で解説されている。太政大臣、左大臣、右大臣が頂点にいて、そのしたに大納言、中納言、少納言、参議、八省、職、朝臣などとともに、女官、内侍などの解説。源融は河原左大臣と邸名と役職で呼ばれることや、権中納言定家は本名は藤原定家で、役職と名前で呼ばれることなども説明される。周防内侍は父の赴任国と役職、和泉式部は父の任国と父の役職であることなど。旧国名と今の県名も覚えられる。

天皇も帝、上皇、法王(院)、その子供たちは親王、内親王、斎宮、皇后以外に妃といえば側室、中宮といえば妻と解説され、大人でもあらためて確認できることになる。

喜撰法師の歌「わが庵は、都のタツミ、しかぞ住む、世をうじ山と、人はいうなり」では京都の東南の方向に宇治があって、「しかぞ」は「このように」という意味と「鹿」も住むような、という二重の意味を持つこと。宇治は憂し、につながること、「人はいうなり」、では他人は言っても自分はそうは思っていないことを言外に表すことなども解説する。もう立派な百人一首通になれる。

最後には当時の日本地図が示され、100首がどこを舞台に読まれているかを示してくれていて、サービス満点、これでKindleサービス価格は99円、買うでしょう。

『わが庵は、都のいぬい、セミもなく、世をさく山と、人はいうなり』つくつく法師。 私の佐久の住まい、もう友人とも会いたくないのかなど、人がどう言おうと住み心地満点です、客人歓迎しますよ。

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藝人春秋 水道橋博士 ****

2018年01月20日 | 本の読後感

この人の文章には味があり洒落がきいていて哀愁もあった。テレビで見ているだけではこうした味は伝わってこないし、NHKのドクタージェネラルを見ていても、玉ちゃんの無軌道ぶりを抑制しているあの博士が、この本を書いた人だとは直線的には繋がらない。ビートたけしに憧れてたけし軍団に加わっていたのは知っていたが、お笑い芸人に必要なのは「落差」であり「ギャップ」感であること思い知らされる。元祖「ギャップ」は師匠たけし、お笑い芸人でフランス政府から勲章をもらってしまい、テレビでバカをやればやるほど、ギャップが際立つ。

松本人志も「ギャップ」を目指す。本を書いてベストセラー、映画も撮って、たけしの向こうを張る。又吉直樹はどんな藝を披露したとしても、「ギャップ」が目についてしまい、今となっては逆に面白くないとも言える。爆笑問題の太田光は今や正論を吐くことで少数派を気取る、という「ギャップ」技を身につけている。水道橋博士もこんな「芸能界報告書」を発刊することで「ギャップ」を目指しているとしたら、まだまだ師匠にはかなわないし、そもそも叶うわけもないことは自分がいちばん身にしみている。

それでもお笑い芸人である。たけしやサンマ、鶴瓶や所などが、業界ですごいのは「続いている」ことだと。芸人が続けるためにできることは、もがくこと、そして哀愁を知ることだと。それでもたけしの「哀愁以外の部分をフィーチャーしたいんだ」というのがテリー伊藤だという。テレビ業界はアホらしいほど厳しいのだ。本書には業界裏話的な部分ももちろんあるし、楽屋受けのオチのご披露もある。秀逸は稲川淳二の章とあとがきに紹介される児玉清のエピソード。少しでもテレビ業界の裏側に興味がある人なら一度読んでみても損はないと思う。博士への見方が変わること請け合いである。

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私の日本古代史(上) 縄文から倭の五王まで 上田正昭 ****

2018年01月19日 | 本の読後感

本書が発刊されたのは2012年、古事記が元明天皇に献上されたのが712年、1300年の昔である。記紀はその内容の真偽について多くの議論があり、天武天皇時代の天皇家と日本という国家の権威付けという性格を語られるが、その当時として残る貴重な記録でもある。天皇号は天智天皇から、日本国の国号は天武天皇から、日本国家成立の立役者は藤原不比等、いずれも記紀成立時代の人物である。筆者の上田正昭の大学卒業論文が672年の壬申の乱と記紀氏族系譜であったというからこの時代への思い入れも強いらしい。上田正昭さんは大学院生のころといえば昭和25年近辺で、その頃京都府立鴨沂高校で歴史を教えていたとのこと、私の叔母達も教わったかと思うと急に身近に感じる。

邪馬台国の位置について、景初三年は西暦239年、魏志倭人伝にも出てくる魏皇帝の詔書にはその年の邪馬台国の使者が「大夫難升米・次使都市牛利」としていて、纏向遺跡はその「都市」である市場であり物流センターであったことから、牛利が親魏倭王の任じられ女王卑弥呼の外交副使となった、と推測。弥生時代後期の纏向が文化先進地域であり、北九州から吉備、そして奈良盆地東南部へのヤマト政権推移の時代と重なると述べている。つまり、邪馬台国はヤマト政権であり、奈良東南部にあったとする。九州説を唱える学説でも、卑弥呼の跡継ぎ台与以降の邪馬台国の勢力は畿内に東遷したとする見解がある。ヤマトという古代日本語は記紀では倭、大倭を用いていて、大和と書かれる最初は718年の養老令で、701年の大宝令を改修されて書かれた。邪馬台国からヤマト政権へは連続性があるものの、文化の革新を経ているとしているが、邪馬台からヤマトへの関連はここでは述べられていない。この時代の倭、ヤマト、いずれも狭い範囲での地域を指していて、広域の国を指しているわけではないとしている。

初代の神武から九代の開化までの実在は疑われているが、筆者は10代目以降の和風諡号に着目、崇神、垂仁とその王子王女の諡名に「イリ」、12代の景行から14代の仲哀までに「タラシヒコ」、15代の応神から18代の反正までに「ワケ」が付くことから、崇神、垂仁の三輪王権を「イリ王権」、応神から反正の河内王朝を「ワケ王朝」と分類している。さらに、応神王権の古墳は河内に構築されていて、王権の基盤が奈良から河内に移動、もしくは広がってきたことを示すとしている。これは日本神話のなかの伊邪那岐、伊邪那美による国産み神話は大阪湾を舞台にしていることと関連付け、神話の誕生と河内王権の時代とを結びつけている。

倭の五王の宋書との関連については、稲荷山古墳出土の鉄剣銘文や梁書の系譜も総合すると、讃は履中、珍は反正、済は允恭、興は安康、武は雄略と比定する。

記紀で登場する都怒我阿羅斯等と天之日矛について、関連する逸話に多くの類似点があることから同一人物ではないかと類推、製鉄技術をもたらしたとする。都怒我は敦賀の地名由来であるが、新羅や加羅の最高の官位「角干」の日本風の読みであり阿羅斯等は朝鮮語の閼智(アチ)に由来するという。弁韓地域における製鉄は紀元前2世紀には本格的に行われており、弁韓は伽耶、そして新羅に発展、この製鉄技術が北九州、出雲、丹後、敦賀、越後、秋田などの日本海沿岸から日本列島に上陸してきたことは多くの遺跡からの鉄器発見により裏付けられている。6世紀から8世紀にかけての渤海使節が35回来日、その内訳は出羽(5)、能登(3)、加賀(3)、出雲(3)、隠岐(3)、越前(4)、伯耆(2)、対馬(1)、若狭(1)、但馬(1)、佐渡(1)、長門(1)であったという。それ以前からの人々の移動ルートを示唆するはずとしている。

これらの時代については、多くの学者が諸説を述べているが、時代検証の新技術開発を背景に、朝鮮半島の未発掘古墳研究や日本においても未研究の墳墓発掘調査でさらなる事実発見が期待できる。古代研究者は狭い範囲の専門分野に閉じこもらず、東南アジア歴史、考古学、中国朝鮮歴史学、人のDNA分析など広く学際研究を深めてほしい。

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京都謎解き散歩 井本伸廣、山嵜泰正 ***

2018年01月18日 | 本の読後感

京都は私にとっては生まれ故郷であり、住んでいる東京から見れば観光地の一つでもある。京都には今までも関西地方への出張のついでに立ち寄ったり、実家への帰省などの時に観光したりしてきた。親が老齢になり、また学生時代の同窓会は京都で開催されるので近年、頻繁に京都に行くようになった。せっかく行っているのだからと滞在期間中に京都の様々な場所を訪れている。京都の観光地にはほとんど最低一度は顔を出して入るが、その歴史や由来、小説や物語などとの関連を知っていくのと知らないのでは見学するにしても印象の深さに雲泥の差がある。京都の歴史、祭りなどの由来、文化芸術などを一通りおさらいする意味で、本書を手に取った。

まずは京都府民性、しきたり、京ことば、京菓子、ご利益祈願、社寺、老舗、文化人・有名人、世界的企業などを概観。

印象に残った話をいくつか。鴨長明の方丈記、「ゆく河の流れは絶えずして・・・」は醍醐と宇治の間にある日野で書かれた。長明が暮らした日野の地、「峰によぢのぼりて遥かに故郷の空を望み、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を眺め、時に炭山、笠取、岩間山、石山へ足を伸ばす」と書かれていて、私自身が小中学時代に遊び回った範囲とちょうど重なっている。今はこのあたりをウォーキングで巡っている。

大文字の送り火、京都人ならテレビ・マスコミが「大文字焼き」というのを苦々しく聞いていることと思う。「大」の字は人間の形を表し、その煩悩を焼き尽くすと言われる。五山の送り火の他、その昔は洛北の「い」、鳴滝の「一」、西山の「鈴」、北嵯峨の「蛇」もあったそうだ。現在では8月16日午後8時に大文字が点火され、30分ほどかけて五山の送り火が次々に点火されるが、それ以外に四つもあると同期させて点火するのも大変になるだろう。京都の町中から「大文字さん」をみるには何箇所かの絶景ポイントがあるが、私のオススメは鴨川にかかる荒神橋、50年前なら五山の送り火が全て見えたという記憶があるが、今はどうかは分からない。

伏見稲荷、全国に3万あるという稲荷社の総元締め。空海が東寺の五重塔を建設するために伏見稲荷の山の木を伐採、それが元で淳和天皇が病気になったと言われたため、稲荷社は天皇から五位下の位を得た。空海は守護神として稲荷を祀ったという。その後、真言密教が平安貴族の信仰を得て、正一位の神階を得た。真言宗の僧と民間の巫女や祈祷師の神仏習合から、全国でキツネ降ろしの祈祷が勧められ、真言宗布教とともに稲荷信仰も広まったという。それにしても仏教の教えと現世利益の稲荷信仰が習合するのは興味深い。

伏見城は秀吉によって当時木幡山と呼ばれた地に建設されたが、指月に建てられた指月城は1596年の大地震で崩壊、その後秀吉は伏見城を再建、秀吉の死後その城を預かった家康と石田三成の戦いで灰燼に帰した。家康は関ヶ原の戦いの後に三度目の伏見城を建設、しかし一国一城制で破却、その後に桃の木を植えてその地は現在では桃山と呼ばれる。現在の伏見城は1963年に近鉄遊園地により建設されたが、その場所は明治天皇陵に遠慮して昔の伏見城よりはずっと北西に建つ。私の記憶によれば、その現在の伏見城、建設当時は木幡の松殿山荘から見えたはずだが、現在は木立に隠れて見えそうもない。

京の七口、丹波口、粟田口、荒神口、大宮口、鳥羽口、長坂口、鞍馬口、東寺口、竹田口と実際には10ほどもある。室町時代に通行人から関銭を徴収した場所であるという。秀吉が作った御土居、この時に七口は再編成され、山陰街道の出入り口が丹波口、東海道の出発点が三条橋口または粟田口、大原を経て若狭へと続くのが大原口、北白川から坂本へは荒神口、鞍馬から若狭へと続くのが鞍馬口、周山街道が長坂口、鳥羽街道から大坂に続くのが鳥羽口、西国街道へは東寺口、伏見から宇治へは伏見口または五条橋口など。今の地名にも口の付く場所が残っている。五山の送り火のビスタポイント荒神橋は荒神口の東にある。物事の手始めという意味で「とば口に立つ」という言い方がありこれかと思いこんでいたが、この鳥羽口に由来するとは書かれていない。

鎌倉時代、高山寺の明恵上人が茶を植えたことから日本でも茶が飲まれるようになった。宇治茶は、明恵が宇治の地を訪れた際、農民に茶の種は馬が歩いた馬蹄の跡に蒔くとちょうどよい、と教えたことに由来する。東宇治中学校の校歌に「駒の蹄影、たゆーるみなく♫」という歌詞があったのを思い出すが、今では宇治市内の茶畑は本当に減ってしまった。和束、南山城、宇治田原が今の宇治茶の生産地だという。

この他にも、京都に関係する歴史上の人物、小野篁、小野小町、安倍晴明、酒呑童子、源融、紫式部、清少納言、和泉式部、藤原俊成、鴨長明、兼好法師、千利休、本阿弥光悦、出雲の阿国、松尾芭蕉、与謝蕪村、与謝野鉄幹・晶子。

行事寺社では壬生狂言、葵祭、祇園祭、大文字送り火、鞍馬の火祭りと鬼退治、伏見稲荷、空海最澄と乙訓寺、坂上田村麻呂と清水寺、菅原道真と天満宮、一遍上人と絵伝、法然の教え、フランシスコ・ザビエルが京都で見たもの、蓮如と山科本願寺。

歴史では古代の丹後王国、長岡京、秦氏と京都盆地、祇王と仏御前、鳥羽離宮、大原女と桂女、南蛮寺の神父が見た本能寺の変、伏見城の再建、祇園の花街、鳥羽伏見の戦いなど。

産業地理では、京野菜、西陣織、友禅、伏見とお酒、京菓子と漬物、水力発電と疎水、宇治茶、松花堂弁当、山紫水明、うなぎの寝床の町割り、京の七口、巨椋池、間人と丹後半島など。

自然編では、深草のゾウ、乃木神社の砂岩、深泥池と氷河期、竹林、ヌエと大宮人、ゴイサギと五位の位、ミヤコドリと鴨川千鳥など。

これでまたまた京都の街を歩く楽しみが増えた。

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重ね地図で読み解く大名屋敷の謎 竹内正浩 ****

2018年01月17日 | 本の読後感

東京が江戸時代にはどのような町割りだったのか、大名屋敷はどこに位置していたのか、道や寺社はどうなっていたのか、こうしたことに興味があり、以前より古地図図書を買い求めてきた。最初に買ったものは大判で地図自体は読みやすかったが、それを手にして実際に歩き回るには大きすぎた。そこで、小さめの古地図を買って持ち歩いてみたが、今度は縮尺は大判と同じなのに地図は小さいので見にくく、現在の位置が江戸時代はどこにあたるのかを見逃しやすいことに気がついた。本書の売りは、現在の地図をめくると結構広めの範囲の江戸地図がわかり、現在位置が認識しやすいこと。

「城南」(溜池、増上寺、愛宕山)「城西」(玉川上水、甲州街道)「城北」(中山道、加賀屋敷)「城東」(町人地)と4枚のパートに分かれた江戸地図が現代地図と重ね合わせで綴じ込まれている。そこには各大名の大名当主が居住し江戸の藩の庁舎とも言える上屋敷、隠居した大名当主や世子が居住した中屋敷、大名の別邸で上屋敷が修理や被災した際の代替目的もあった下屋敷、百姓地や町人地を購入して建設した建物で年貢も発生した抱屋敷、上中下以外に幕府から拝領した拝領屋敷、各屋敷の付属機能を持っていた添屋敷などが詳細に記入されていて、大大名が江戸の地に広大な敷地を拝領していたことが分かる。また幕府が御三家と譜代の屋敷を要所に構えて外様からの攻撃に備えていたかのかも一目瞭然。江戸のお城の周りの8割方が大名屋敷、町人地は城東の一部だったことも分かる。江戸は武家屋敷、武士の街であった。

全ページカラーなので1000円と割高にも感じるが地図として見やすい。また高低差が分かりやすい地形図も付いているので、歩く際に坂の昇り降りがあることも事前にわかる。現在の高速道路が江戸時代の濠や水路を活用していること、各国の大使館や公園が大名屋敷跡を利用していること、石高が大きい大名は大きな敷地を持っていたこともよく分かる。道路と寺社の場所は殆ど変わっていないので、これらが歩く際の目印になる。これで、またまた江戸の街を歩いてみようと思う。

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2020年マンション大崩壊 牧野智弘 ***

2018年01月16日 | 本の読後感

越後湯沢に林立するマンションが今は10万円で売りに出されていて、お気楽な定年男子が買っている、というテレビ番組があった。そこでの問題提起は、住民が少なくなって管理費や修繕積立金が足りないマンションで、はたしてすでに老朽化が進んだ建物・設備の修繕メンテナンスはできるのか、ということ。

基本知識として、コンクリートの平均的な寿命は約68年ということ。コンクリートの施工技術や品質によって上下し、施工後のメンテナンスによって寿命が短くなることもある。施工が完璧だとしても、施工後の劣化原因は外部からの塩分や水分侵入による鉄筋腐食、寒い地方では凍害、公害や温泉地などでの化学的腐食、地震後のひび割れなどがあり、定期的な修繕メンテナンスが重要になる。しっかりとした管理組合では13-15年に一度の大規模修繕が計画され実施される。そのためには修繕積立金が十分にあることが前提。マンション規模にもよるが、平米あたり月額170円程度の修繕積立金が必要、つまり、70平米の部屋なら月額12000円程度積み立てられているかどうかがポイントになる。

床面積あたりの外壁面積が大きい低層マンションや足場が組めないタワーマンションは外壁修繕も割高になる。足場が組めるのは高さ20-30m程度までと考えると、平米170円は7階から10階建てまでの目安だと考えたほうが良い。20階以上は平米月額206円、というのが国土交通省ガイドラインである。その他に高速エレベータ、給水ポンプ、非常用発電機、排水配管などの維持費は高層ではより高額になる。新規マンションでは、分譲会社が売値と初期費用を安く見せるために最初の10年の修繕積立金を安く抑え、10年毎に値上げするという計画を管理規約に組み込んでいる場合もあるので注意が必要。高層マンションは眺望が売りなので、高層階のほうが分譲価格が高い。修繕積立金も同じ面積でも高層階のほうが割高に設定する、ということも必要となるはずである。ところが外国人が投資のために高層階を買い占めているというケースも有り、中低層階に住む住民との間に所得や修繕に対する考え方に大きな相違がでてきて、管理組合の運営に支障をきたしているというケースも多い。

築後50年目の大規模修繕の頃になると、建て替えの議論が始まる。しかしその頃には住民の高齢化が進み、もうお金をかけてまで建て替えなどしたくないし、実際できない、という住民が増える。入居当初は一定水準の収入があるサラリーマン家庭がほとんどだったはずの住民の中にも年数が経つと入れ替わりが進み、様々な人達が住んでいることも多くなる。新規マンション建設費用の概算は70平米あたりで2200万円、加えて既存建物の解体費、引越し費用、移転期間中の家賃が加わる。同じ規模のマンションにしか建て替えられないのであればこれらは住民負担となる。問題は建ぺい率と容積率に余裕があるかどうか。容積率400%の地域のマンションで既存建物の容積率が200%であれば、建て替えで倍の床面積にすることができるので、余剰床分を新たな分譲マンションとして売り出せれば理論上の建設費用住民負担はゼロになる。実際には分譲デベロッパーは利益確保を目指して容積率目いっぱいのマンションを建てるケースも多く、建て替え時に容積率の余裕がないケースも多い。それどころか、建設後の条例改定で容積率が引き下げられた地区もあり、その場合には「既存不適格建物」として、同じ容積のマンションは建てられない。区分所有者(マンション所有者)の5分の4が必要な建て替え決議では、こうした現状が障壁となる。

定期借地権付マンションでは、50年の定期借地権の場合であれば、築後50年に近づくほど住民の修繕に対する関心が低下するのは必定。1992年に制定された定期借地権、2042年に期限を迎えるので、2022年以降に問題が徐々に表面化してくる。定期借地権であることを納得して購入した住民が代替わりしてその子が相続してはじめてこの問題を知ることになり、一気に問題になることもある。こうした事実から、将来定期借地権物件の価格暴落もありうる。

解決方法として筆者が提案するのが、BnBへの転用、介護施設やサービス付き高齢者住宅への転用、自治体によるマンション買取制度、区分所有権の一部制限、などである。いずれも法的根拠が必要でありハードルは低くはない。全国600万戸と言われるマンション、今後の住替えや建て替え、賃貸への転換など考えることは多い。ここまでが本書の内容。

今、日本全国で起きている空き家問題の一つがマンション建替え問題である。高齢化した親が老人施設に入居した途端、実家の相続問題が子供の面前に突きつけられ、初めてこうした問題を真剣に考え始めるが、空き家が一戸建てなら自分たちの問題であるが、上記のようなマンションでは、自分ひとりの決断だけでは解決できない。5分の4の議決権は、実際に管理組合総会を運営してみるとその困難さが実感できる。長年住んでいる管理組合でも、総会に出席してくれるのは1割程度で、殆どが委任状、ぎりぎり半数以上の議決権数を確保して運営しているのが実情である。駐車場の作り直しなど特別決議の4分の3以上の出席数が必要な場合には必死の出席依頼と委任状提出依頼が必要となる。私自身も三回目の大規模修繕を目の前にして、賃貸への転出もしくは住替えを真剣に考え始める必要に迫られている。

 

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ことばと文化 鈴木孝夫 ***

2018年01月02日 | 本の読後感

1973年初版の岩波新書、日本語と他言語はその背景となる文化も違うために翻訳しようとしてもうまくいかないケースや誤訳も生まれる。例えば、高校時代に英語に時間に習った言い回し。"It never rains but it pours"これは「降るといつも土砂降り」なので不幸は重なる、災難は続いて起きる、だったはずだが、rainは不幸な出来事とは限らず幸運な出来事でもいいとのこと。英語の初期の学習者が、土砂降りの雨は好ましくない、という思い込みがあったのではないかと筆者は推測する。「二度ある事は三度ある」というほうが近い、ということである。そういえば、カリフォルニアのラジオの天気予報では”We can expect some rains in the evening”という言い回しがあり、乾燥した当地では雨は降ってほしいもの、ということに気付かされたことがある。

もう一つ”A Rolling stone gathers no moss”「転石苔を生ぜず」である。苔が生えることを良いことだとみなすか、いけないことだと思うかである。普通のアメリカ人や雨の少ない地方の欧州人なら庭に苔が生えてしまったら掃除して取ってしまう。つまり本例では「活動的でいれば錆びつくことはない」という意味になる。古くなった家はペンキを塗り直す、という考え方。進駐軍が京都の家をペンキで台無しにした話は京都人なら聞いたことがあるはず。

"Water"という単語、日本語では水である。英語ではお湯も冷たい水もwater。アフタヌーンティーを飲む時間になったので”water”とイギリスで言われて水を持っていったメイドは叱られるという。気が利かない、それにこの場合waterはお湯、ということを知らないという話。

"Lips"は唇。しかししばらくイギリス人と話していると少しの違いに気付かされるという。bearded lipsと言われて、唇に髭!?唇は日本では色が赤みを帯びた上下の帯状の部分、イギリス人はlipsは鼻の下から顎の上までの少し広めの部分を指すらしい。これは相当長く話をしていないと気が付かないだろう。

ペットに対する考え方。イギリス人はペットを大切にする、それは自分が主人でペットは主人たる自分が守る義務があると。日本人としてはペットは自分のパートナーと考える傾向がある。だから、飼えなくなったペットを日本人は「どこかで生きていてほしい」と捨ててしまうことがあるが英国人にはそれはできない。自然観として人間は猛威を振るう自然と戦うか、自然の一部として耐えるすべを覚えるか。宗教観として動物に魂を認めるか認めないか、輪廻転生の思想の有無、人間のポジションの絶対化と相対化も違いとして認められる。殺処分よりも捨ててしまうことを選ぶ日本人を、なんてひどいことをするかとイギリス人が激怒する理由である。日本に観光で来た英国人が馬肉だけは食べない、というのも馬はパートナーという英国人にとっては馬を食べるのは仲間を食するに近いこと、という馬に対する考え方の違い。

英語であなたはyou、相手が母でも子供でも変わらない。しかし日本語では相手が目上の場合には自分との関係性で呼ぶ。目下は名前、もしくは二人称。これが基本なのだが、子供が生まれると夫婦はその瞬間から「パパとママ」に変わる。夫婦の両親はおじいちゃんとおばあちゃん、見事な入れ替わりであり、特に意識することなく行われるが、欧米人から見ると驚きである。おばあちゃんが自分の娘を呼ぶときにさえ「ママ」となる。仕事で仲良くなった欧米人を家庭に呼んで家族内での呼び方に驚くという。欧米人は夫婦はあくまでお互いに夫であり妻、honey、darlingと夫婦の関係性を確認するのが基本だが、日本では子供が生まれると夫婦は父と母に変わる。日本語にhoney、darlingに相当する言葉はないし、そんな呼び方をする夫婦もいない。

茶道では「相客にこころせよ」という哲学がある。日本人としては、自分がどう考えるのかを表明するよりも、相手がどう感じているかを慮ってその考えに自分をどう調和させられるかを考えるという。「忖度」である。これができる人は察しが良い、気が利く、思いやりがある、と評価され尊重される。これらの英語訳にピッタリの単語が見当たらないのも、逆に考えると日本的おもてなしが高く評価される所以かもしれない。「甘えの構造」もこの辺が源泉にあり、国際会議で「こんなことを言うと相手はどう考えるだろうか」と考えているうちに話題が次に移ってしまい発言できない原因もこの辺にありそうである。

本書は初版以来70刷をも数えるロングセラー、今でも内容は新鮮さを失ってはいない。

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発酵食品 食材&使いこなし手帖 ***

2017年12月31日 | 本の読後感

発酵食品は数多い、しかしどのくらいの発酵食品を活用しているか。本書を読んでみてあらためて気付かされた、ほとんど毎食食べていることを。

最近は話題になっている、人気の発酵食品、麹/酒粕。もともと日本人なら大好きな、大豆と野菜の発酵食品である納豆と各種漬物。日本の伝統調味料、しょうゆ/みそ/酢/みりん。朝食とワインのお供、ヨーグルト/チーズそして発酵バター/パン。その他にもある魚と肉の発酵食品である魚醤、すし、かつお節、その他の魚の発酵食品。肉の発酵食品であるサラミ、ハムなど。

種類の解説とともに詳しく書かれている作り方にしたがって、早速作ってみたのは万能醤油ダレ。薄口醤油にネギ、生姜、にんにく、これは餃子のタレや焼肉のタレ、作り置きしておけば色々使えそう。それにキムチにんにく、これもいける。

その他に我が家で手作りしているのは、朝食用パン、豆乳ヨーグルト、醤油麹に塩麹。最近ハマっているのはパンに塩麹と甘酒を少々入れる、そうするとコクの深いパンができる。おいしくて、例外なく味が深まる。煮物、特に煮魚に塩麹はほぼ万能。ちょっとした生活の楽しみです。

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日本語の歴史 山口仲美 ****

2017年12月28日 | 本の読後感

非常にわかりやすく例をたっぷり挙げての日本語の使われ方の説明は知りたい意欲を持った読者には良い教科書となる。

 万葉仮名の誕生は奈良時代、2-3世紀の頃に仏教や千字文などの形で中国から当時の日本列島に持ち込まれたと言われる。大和言葉に漢字の音だけをあてはめたので奇妙な字も使われる。古事記の最初の部分、日本の国土がまだ形を整えていない様子を「くらげなす、ただよへる」「久羅下那洲、多陀用弊流」と表現、こんなに多くの漢字をつかっても10音しか表せないという効率の悪さ、これが後に平安時代のひらかな、カタカナを生み出す源流になっている。「夜麻」「可波」「由岐」「伊呂」「波奈」これが「よる」「かわ」「ゆき」「いろ」「はな」、後年読み方が定まらない漢字の横に振った小さな仮名を振った文書も見つかる。

平安時代になるとカタカナが漢字の読みを補うために付加される。今昔物語の一節。「立テ皆浜ニ出ヌ。可為キ方无クテ、遥ニ補陀落世界ノ方ニ向テ、心ヲ発シテ皆音ヲ挙テ観音ヲ念ジ奉ル事无限シ」「立ちて皆浜にいでぬ。すべき方なくて、遥かに補陀落世界の方に向かいて、心をおこして皆声を挙げて観音を念じ奉る事限りなし」なんとなく読める気がする。返り読みが無いからかもしれない。つまりカタカナの地位が高くなった。ひらかな文はどうなったのかというと、源氏物語などの王朝文学を生み出したが日本語の文章の代表にはならなかった。例えば源氏物語の一節。「山がつのおどろくもうるさしとて ずいじんのをともせさせ給わず。」「猟師やきこりが眼を覚ましたら煩わしいとお付の者にも声を立てないようになさる」。どうだろう、平仮名が中心だと文章の切れ目が分かりづらく読みにくい、また漢語を取り込みにくい。また心情を表すには適しているが物事を論理建てて表現しにくい。漢字カタカナ混じりであればもう少し読みやすく、意味を漢字で表すので意味を取りながら読みやすくなる。

鎌倉・室町時代になると係り結びという形式が出てくる。「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」が出てくると連体形で終わるというあれである。「花、咲きけり」が「花ぞ咲きける」となる。卒業式には歌う「仰げば尊し」、あらためて読んでみる。「仰げば尊し我が師の恩。教えの庭にもはや幾年。思えばいと疾し、この年月、今こそ別れめ、いざさらば。」「今こそ」を受けて「別れむ」が「別れめ」になっている。恥ずかしながら私は「別れ目」かと思いこんでいた。「いと疾し」も「いと年」と思いながら歌っていた。蛍の光にもある。最後のフレーズ「あけてぞ今朝は 別れゆく」これも連体結び。これも「ぞけさは」とは何かと考えずに歌っていた。しかし平安時代に隆盛を誇る係り結びはその後急速に使われなくなる。生き残ったのは「こそ」、しかし連体形ではなく終止形で結ばれるケースが多くなる。現代語では連体形と終止形は同じ、「勉強する」この時代までは「勉強ス」が終止形で「勉強スル」が連体形。係助詞は主語や目的語が文章の構造上明確にしていない文章中でこそ活躍できるもの。例えば「花なし」と書けば「花ぞなき」と強調できる。しかし助詞が入ってきて、主語が明確に示されると「花がなし」となり、強調する係助詞の入り込む空きがなくなる。日本語の特徴ともされる助詞の確立が係り結びを消し去ったのである。

江戸時代には話し言葉が書き言葉に取り入れられていった。江戸時代に盛んになった「浮世風呂」や浄瑠璃などの庶民文学や演し物が江戸っ子の生き生きとした日常を書き写したからである。じとぢ、ずとづの発音が現代と同じになったのも江戸時代。母も「ファファ」が「ハハ」と変化、クァ、クォもカ、コに収斂していく。観音様、上方では「クァンオンサマ」江戸では「カンノンサマ」と変化してくのをアズマ言葉と上方の人たちはバカにしていた。じつは現代でも東北、北陸、四国、九州の一部では火事はクァジ、家事はカジと区別しているという。因縁、安穏、輪廻なども「インエン」「アンオン」「リンエ」からの変化が生じたのである。今でも香川県の観音寺はカンオンジ、京都の観音寺はカンノンジ。

そして明治時代になり、書き言葉と話し言葉の統一が図られ、全国で通用する標準語も定められたので便利になったということ。それでも話し言葉の変化は早く、書き言葉は保守的であるという。つまり話し言葉のほうが書き言葉から離れようとする、というのが歴史から学んだこと。泣く、鳴く、啼く、哭くという使い分けがあり、合う、会う、遭う、逢う、遇うというニュアンスの違いを出せる。悲しい、哀しいでは少し意味合いが違う。逆に現代のキラキラネーム、翼、椿咲、空翔、これくらいなら読めるかもしれないが、若菜、和香奈、和奏、和佳奈、稚菜、波奏とくれば生涯をかけて自分の名前を説明することになりそうである。豊かな日本語、とも言えるし、日本人でも読めない漢字とも考えられる。

時代の変化に抗う訳にはいかないが、不自然な変化には異を唱えるのが歴史と言葉の意味を知るものの務めではなかろうか。

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国家・宗教・日本人 司馬遼太郎・井上ひさし ***

2017年12月27日 | 本の読後感

井上ひさしは大学生の時に知って、ブンとフン、モッキンポット師の後始末、青葉繁れる、41番目の少年などを読んで、ひょっこりひょうたん島の作者だと知った時は感動したものだ。社会人になってからも吉里吉里人、國語元年と読んだり見たりと親しんできた。井上ひさしは言葉と日本に対して相当な思い入れのある人だとも感じてきた。吉里吉里人では社会的問題提起、東北人のアイデンティティや日本語の持つ面白さやユーモア、小さな地域が大きな国の中で独立するということはどういうことになるのか、についても独特な語り口で表現してきた。ここからが本書の内容、1990年代に行われた対談集。

人というものは自分が今住んでいるところが世界で一番住みやすい場所だと考える、と同時に他所者を排除する。自分たちを敵から守るための本能的動きである。自分たちと他所者の見分け方について、一番わかり易いのが言葉だという。自分たちが一番正しくて他者は正しくない、とまでくるとこれは「エスノセントリズム」集団中心主義である。人類の歴史の中で、今まで人間を存続させてきた原動力とも言える。言葉に続いて見た目、宗教、価値観と続くが徐々に見分けはつきにくくなる。世界中でエスノセントリズムがあり境界を接する集団同士はしのぎを削ってきたが、日本は幸いにも言葉、見た目、宗教、価値観と大きな違いがない人々が日本列島という境界を他者と接することが少ない地域に存在してきたため、エスノセントリズムの傾向が薄い。90年台に起きたオウム真理教事件は、日本の中にオウム真理教という集団を作り、その中で国としての機能を持ち、我を捨てて集団に帰属するというエスノセントリズムの快感を見出したのだという。敵は日本国である。クルド人に対するトルコやイラン、北アイルランドに対する英国のミニ版である。もし、サリン事件を起こした後の強制捜査で麻原彰晃が捕まった時に、どうどうと信者の前で良い演説でもぶって、毅然として機動隊のお縄を頂戴していたならば人気も出ただろうに、と井上は言う。自分たちだけが救済されればいい、という教義だったために日本全体を敵に回したと。

フランシスコ・ザビエルが日本に来た時に、日本人も最初はキリスト教を受け入れる。しかし、イエズス会と敵対するフランシスコ会からの教会の次にはスペインの軍隊が来るぞ、というアドバイスに従って秀吉も家康もキリスト教を禁止する。日本国内でも浄土真宗に手を焼いてきた為政者たちはそうした動きにも敏感だった。確かに戦国時代にすでに30万人の信者を獲得してしまったキリスト教は、徳川時代の禁制がなかりせば日本にスペイン領の飛び地ができていたかもしれない、と遠藤周作も言っていたとか。井上は、相手の相対的立場を認めるのが東洋的思想とすれば、自己の絶対性を主張するのが西洋的思想。ナショナリズムが歪んだエスノセントリズムに陥る可能性を秘めているというのである。

天皇機関説について、美濃部達吉は明治憲法でも唱えられていた三権分立に対して、天皇は国家の一つの機関であるとして最高統治権は日本という国家が団体的人格者として保持し、天皇も国家の一機関であるとした。ところが当時の軍部は三権分立に対して統帥権は独立して存在、統帥権は天皇に直結して天皇こそが最高統治者であるとした。つまり、平時は三権分立でも国家存亡の時には統帥権が三権分立に優先すると考えた。「国家存亡の時」というキーワードは危険な兆候であるという指摘である。

現在の日本語は漱石が作り上げた、という話。戊辰戦争の時に官軍に攻め込まれた長岡藩の河井継之助は薩摩・長州・土佐が中心の相手側と会談を持つが言葉が通じない、筆談したという。幕末の藩士たちがやたらと手紙を書いているのは、話し合いで合意したはずの内容を書き言葉で確認しているのだと。10歳で津和野から出てきた森鴎外は言文一致の自信を持てなかった。尾張藩出身の坪内逍遥もじつは言文一致ができない、逍遥を訪ねてきた二葉亭四迷に「あなたは尾張藩出身でも江戸住まいだから言文一致ができるはず」と説いたという。漱石が言文一致ができたのは明治政府が標準語と定めた東京言葉が話せる江戸っ子だったから。

以上が対談の内容の一部。考えさせられるのは、現在起きている小さい地域の独立運動とエスノセントリズムの動き。スコットランドも、クルドもカタリューニャも、そして難民排撃、自国中心主義。相対的立場を認められる日本の働きが必要なときではないかと。また、「国難」と言われる現在の日本の状況、国家危急の時の条項を憲法に定め、専守防衛のための軍隊の存在を明文化する、これだけを見ると必要と考えられることも、その後に何が起きるのか、国家という大きな組織の一員としての意識と価値観までを憲法の中に定めることの意味も考えてみたい。

 

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司馬遼太郎対談集1 この国のはじまりについて ****

2017年12月26日 | 本の読後感

国民的作家である司馬遼太郎が日本とその歴史について学者や作家達と対談した記録を全集にした全10巻の第一巻。

林屋辰三郎との対談では日本と朝鮮半島とのかかわりについて。4-5世紀頃の朝鮮半島は北から高句麗、新羅、百済と分かれていて、大和政権は任那と呼ぶ日本の出先的地域を支配していたと言われている。日本への流入経路は大きく言って3つあったと。高句麗系は越前若狭、百済系は北九州筑紫、新羅系がその中間の出雲だったのではないかと二人で推察する。当時の日本では百済系、その後高句麗系の文明を柔軟に受け入れてきているが、新羅系はそうでもない。やはり出雲系の神話というのは、4-5世紀の大和政権から見ると異文化的な側面があった。こうして考えると、古事記・日本書紀に記されていた高天原と葦原中国の神話や神武東征、神功皇后朝鮮征伐、そしてその後の越前からの継体王権招聘などの朝鮮半島とのかかわりにもこれらのルートが関係していると想像できる。

もうひとつ、林屋辰三郎は大和政権当時から戦国時代まで琵琶湖地方が東西南北の文化的商業的結節点になっていたのではないかと言う。若狭越前から京都へ入り、そのまま大阪湾までつながる経路であり、東海道では都と美濃をつなぐ、そして京都を経て瀬戸内へもつながる。近江商人や伊勢商人が京都や江戸で活躍できた要因に琵琶湖が交通の要衝であったことを上げる。さらに、卑弥呼の弟が国の統一をしようとしても服しないので、その後裔が山城から和束、琵琶湖畔の三上山の麓で統一を図る。これが実は開化天皇の皇子彦坐王(ひこいますおう)、その後景行、成務、仲哀と近江に宮廷を定めてその間に倭健命もでてくる。倭健命は近江から始まった全国統一の動きであるとする。四道将軍の話も大彦命が北陸道を通り東に出る。息子の武淳川別命(たけぬなかわのみこと)は東海道を通り東国で会う。出発点は近江。林家はヤマト王権が崇神王朝の時代にも開化天皇の後裔が近江地方で王朝を立てていたはずと考えている。

関西は母系社会、関東は父系社会、という見立てを司馬遼太郎が紹介する。西日本には若衆宿や妻問いの風習があり、これは南方系母系社会。鎌倉政権以降は都の貴族がもつ荘園を武家政権が自分の土地とするために戦う父系社会。ちなみに頼朝も義経も京都生まれではあるが、頼朝は父系社会を代表で義経は母系社会を代表する。父系社会では長男が絶対的家長、京都の公家的に考えると兄も弟も同格のはず、そこに二人の確執が生まれたと。二人の話は時代と場所を自由自在に飛び回り読者を引きずり回す感じ、それが心地よい。

湯川秀樹との対談では、美人談義。出雲には美人が多い、これはヤマトの昔から言われていた、だから出雲の阿国というのは美人の阿国という意味だったと。薩摩では美人を見た時に「コーライおごじょがごとある」という。おごじょとは娘、コーライとは高麗。平安の昔はウリザネ顔を美人としたが、その後時代を経るごとにウラル・アルタイ型の朝鮮型からインド・ヨーロッパの彫りの深い顔に移行してきたと。

永井路子とは「鎌倉武士と一所懸命」について。一つ一つ土地を開拓していって自分のものになっていく。弱者と強者がいれば戦いの結果として強者が弱者の土地を奪い家来にしていく。家来は次の戦いで活躍すれば褒美に土地を手に入れる。これが関東武士のやり方。鎌倉政権の成立にはこうした土地の獲得と拡大があったという。平安から京都の貴族や寺社が荘園として所持していた土地、これを地頭が守っているのを保元の乱、平治の乱を通して徐々に武士が手に入れていく。というより、土地を手に入れた農民たちのなかで、強いものが生き残り武力を持って武士となっていく。公家は褒美として位と利権しか与えられない、庶民が公家国家に対して土地の所有権を主張しぬいた事が鎌倉時代の特徴であり、御恩と奉公という言葉が今でも生き残っている。徳川時代には戦いがなくなり報奨として与えられる土地がなくなったので御恩は土地を維持してもらえることで奉公すべしというのを武士道とした。

ライシャワー博士ともこの鎌倉時代のことを対談。朝鮮半島との大きな違いはこの鎌倉政権の成立だったと評価。それ以前は日本も朝鮮も律令制度、つまり土地は公のもの。鎌倉政権はそれを開拓した人の所有とした。だから鎌倉政権の大きな仕事の一つが訴訟の取扱だった。これがヨーロッパ封建制と日本の封建制の共通点で、封建制のもとでの土地所有は地場経済の発展につながる。アジアの他の国ではこうした封建制が確立できなかったことが経済的な発展速度に影響を与えた、とライシャワー博士は主張する。頼朝は日本の封建制を確立した立役者だという評価である。また日本は多様な文化の流入を認めたと。鎖国していた徳川時代でさえ、儒教でも陽明学や朱子学、孔子や孟子、幕末には蘭学も受け入れた、朝鮮半島では儒教学のイデオロギーに縛られて拒絶してしまった。

網野善彦とは浄土真宗について、仏教諸派のなかで唯一教義のある宗旨だったと。仏教諸派では悟りを開く、修行というものはあっても教義はなかったのが、浄土真宗では教行信証がありその後の歎異抄があったため、在家の信者にも理解しやすかった。そして地方への布教を通じて京都の文化や言葉が地方に伝わっていった。

原田伴彦とは関が原の戦いについて対談。関が原の戦いは豊臣政権内の派閥争いだったと。石田三成の官吏官僚派と七部将(加藤清正、福島正則、黒田長政、浅野幸長、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明)の武断派が戦った。秀吉子飼いの福島、加藤らの尾張派とその後登用した増田長盛や石田三成という近江派に感情的対立があり、家康がそれらを束ねたと。

司馬遼太郎は対談の前にどんな人物や時代について話をするかという事前準備があったにせよ、ありとあらゆる話題に話を飛ばしていて小気味いい程である。それにしても日本という国の成立が、神話の時代から連綿とつながる撚紐のように現代にまでつながるさまを対談で見せてくれているような気もする。この司馬遼太郎対談集は読み応えがある。

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大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる古事記・日本書紀 ***

2017年12月25日 | 本の読後感

Kindle版を読んだ。タブレットはKindleHD8.9インチなので、普通の本なら十分読めるが、このような大型本になると字が小さくなって拡大しながらでないと読みにくい。それでも大きな絵がマイページ必ずあって、最初は「こんな絵はいらない」と思いながら読み進めていると、妙に記憶に残る絵があることに気づいた。

それは例えば古事記の世界観というマンガの見開きページ。地上に「常世の国」があって天上に「黄泉の国」、国生みを行う伊邪那岐、伊邪那美は天上と地上、地下を行ったり来たりする。地下には「根の堅州国」「夜の食国」がある。日向の国の向こうに「綿津見の宮」があり、「高天原」と「葦原中国」があり海原が出雲の国との間に横たわる。伊邪那岐、伊邪那美が地上で禊を行うと天照大御神が生まれ高天原の統治を行い、素盞嗚命は海原の統治を行う。素盞嗚命は大暴れしたため葦原中国へ追放され出雲に至る。そこで八岐の大蛇を退治し宮殿を築いて子孫を残していく。素盞嗚命の子孫の一人が大国主命、八十神から迫害を受けて根の堅州国に逃亡するとそこには先祖の素盞嗚命がいる。素盞嗚命から試練を与えられてそれらを乗り越えると葦原中国へ戻り国は繁栄するが、天照大御神の要請で国譲りを行う。この結果、天照大御神の子孫である瓊々杵命が葦原中国へ天下り、その子孫が神武天皇になる。ここまでの内容が見開き1ページにマンガで描かれていて、一度中身を読むと記憶は絵で残る。

古事記と日本書紀には様々な解釈があるが、これらの国と神様の関係を漫画で見ると、約7000年前とされる鬼界カルデラ崩壊による九州地方の縄文文化絶滅や3800年前とされる出雲三瓶山大噴火が、神話に取り込まれたのではないかとする推察も頷ける。日本列島には多くの山、火山があって火砕流があれば八岐の大蛇になるし、噴煙で太陽が遮られ、太陽が戻ってきてほしいと祈祷師が祈ったことは想像できる。また、その後の弥生時代に至る間に朝鮮半島から人々が稲作と製鉄技術、鉄製農具とともに渡来してきたことを思い浮かべる事ができる。古事記、日本書紀は天武、持統時代の律令制確立時に当時の大和政権の正当性を記録するために書かれたことはあったにしても、古代の逸話に幾つかの言い伝えや教訓的ストーリーが含まれていたはず。こうしたストーリーの全体観を理解するためにビジュアル本は良い読本だと感じる。Kindle版はなんと99円、これは「買い」である。

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全国アホ・バカ分布考 松本修 *****

2017年12月19日 | 本の読後感

学術的内容をふんだんに含みながらも、テレビの制作過程を裏側から見せてもらいながら楽しく読める本である。書き手のノリは完全に関西人的であるが、アホ・バカに代表される全国の方言に必ず存在するその言葉の来歴が、自分の小さい頃に祖父祖母に掛けられた言葉とともに思い出され、各地方の誇りとともに日本語が全国に広がっていくさまを知ることができる、全国の読者にも是非読んでほしい一冊。(内容を詳しく知りたい方は、タイトルともなった全国のアホ・バカ分布図を見てみよう。

該当する番組は日本民間放送連盟賞など数々のテレビ番組を対象とするタイトルを総なめにしている。視聴者から番組に寄せられた質問「アホとバカの境界線は日本のどのあたりにあるのでしょうか」という問への解答を探す旅から始まった。つまり、東西の境界線があるだろう、という前提でその境目を探そうということ。全国の視聴者からはすぐに反応がある。北海道・青森は「ハンカクサイ」、宮城・福島「バカ」、茨城「ゴジャッペ」、石川「ダラ」、福井「アヤ、ヌクテー」、兵庫「アハー」、徳島「ホレ」、岡山「アンゴウ」、島根「ダラズ」、佐賀「フーケモン」、鹿児島「バカ」、沖縄「フラフージ」。

しかし筆者は「蝸牛考」に目を留める。民俗学者の柳田国男は「蝸牛考」で「でんでんむし・カタツムリ」の言葉が昔の都であった京都を中心に同心円状に古い方は外側の円周に残り、都から新しい言い方が伝わるたびに置き換わっていく、という仮説を立てた。この説によれば、最も古い言い方の「ナメクジ」が東北や九州の辺境に残り、「ツブリ」「カタツムリ」「マイマイ」「デデムシ」と新しくなっていくに従って京都に近づく。関東ではカタツムリ、関西ではでんでんむし、という東西対立ではなく、東海地方や福岡では「ツブリ」など関東と京都を中心とした同一距離円周上にカタツムリという言い方が残っているということ。しかし柳田本人はこの仮説には例外が多く、カタツムリ以外の単語での同様事例を見つけられずに自信をなくしていたというのである。筆者はこの仮説をアホ・バカを例にとって徹底的に検証、証明したとも言える。

視聴者から寄せられた23種類のアホバカ表現に関して古事記、日本書紀以来の過去の文献を調べる。すると、古事記では「ヲコ」、日本書紀・万葉集では「タハケ・タラズ」、その後時代を経て「ホウケ」「コケ」「トロイ」「アホウ」「バカモノ」「タクラダ」「アンコウ」「ヌクイ」「ハンカ」「ダボウ」「デレスケ」などが現れてくることを知る。方言研究の徳川宗賢先生やその他の学会の先生にも協力を得て、方言・言語学会での論文発表にも至る。

こうしたプロセスでの秀逸は、筆者の日本語に対する愛情であった。沖縄の「フリムン」は語源を「振れもの」つまり気のふれたようなという表現だという説が一般的だったことに違和感を抱いて追求したこと。結果は「惚れ者」、日本語のアホバカ表現に人を貶める直接的な表現はないはず、というのが筆者の信念だった。沖縄の人はこの説を知って喜んだことだと思う。同様の例が「ホンジナシ」、類似表現は東北地方と南九州にある。鹿児島では「ホガネー」、青森では「ホンジナシ、ホンツケナシ」秋田では「ホジナシ」岩手「ホウデアナシ、ホデナシ」宮城では「ホデナス」山形「モンジャナシ」福島「ヘデナス」、東北地方の人は自分たちの表現が品がないと思い込んでいた。しかしもともとは御伽草子で酒天童子が言った言葉「酔ひてもホンジ忘れず」、ホンジとはしっかりとした意識、本地垂迹思想の本地であり本来の姿、子供が成長すると「ホジがついてきた」とも言ったという。東北地方のズーズー弁では古くは使い分けられていた「ディdi」「ジzi」「ズzu」「ヅdu」をすべて「ズzu」と発音する。ホンジナシは「ホンズナス」と変化することになる。この変化伝搬速度は1年で930m、約1Kmで、約500年かかり会津地方まで、800年で下北半島まで到達したと思われる。京都を中心に同円周上に広がる同様事例は「カシコイ・リコウ」「ダケド・ドン・バテ」「兄・あんちゃん」「弟・おとと」強調する「ど・くそ・ウズラ・コ」など枚挙にいとまがない。

明治維新で首都は東京になり、標準語を関東言葉に統一したい政府の意向から、この京都を中心とした蝸牛考的展開は止まっている。しかし、このアホバカ表現の考察は今までの学説も変えるパワーを持っている。筆者はバカについて白楽天の白氏文集の「馬一族が自分の家にお金をかけて民を苦しめていることこそ愚かなり」それを表して馬家の者と表現したことを、日本の平安インテリたちが取り入れたとする。つまり、「バカノモノ」が輸入された後、バカモノ、バカ、と変遷してきたとする。アホはバカより新しい。南宋から明の時代に、蘇州の人たちが杭州の人たちを罵って使ったのが「阿呆」現地発音で「アータイ」。これがその時代に勘合貿易の波に乗り文書で日本に伝わり、新しい言い方で人のことを少し馬鹿にするニュアンスで使ったのが「アホウ」、「阿房宮」から由来するなどの諸説を否定する。この「阿」は出雲の阿国や阿Q正伝に使われる名前にちょっと付けて親しみを表現した呼称。23種類のアホバカ表現を見てみるとアホ以外はすべて間接表現、アホだけが直接的な「愚か者」表現であり、阿を付けて柔らかくしている。

こんなことに、どれだけのエネルギーを投入したのかと恐れ入るが、これらは視聴率獲得という目的と、面白い番組を作りたいという熱意に支えられている。賞も取ったし、学会でも発表した、本も出したし、関わった人たちの満足度は余程高かったと推察する。読んだ私の満足度も高い。これは私も関西人、京都嫌いの京都人であることから由来するのかもしれないが。

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わたしを離さないで カズオ・イシグロ ****

2017年12月18日 | 本の読後感

 読み手に前提知識は不要だが、筋書きも概要も知らずに読み始めると、話の展開に最初は戸惑いを感じるかもしれない。読んでいない方にも事前情報が少しはあったほうが読みやすいと思う。

臓器提供が可能になった時代のクローン人間の人権問題を問う、というかたちを取りながら、提供者としての人物による語りからのクローン人間同士の精神的つながりの有り難さも感じとれる作品である。登場人物は多くはない。始まりは「介護者」として「提供者」のお世話の仕事をするキャシーの回顧である。読み手には「介護者」「提供者」に関する説明は与えられないが、物語の途中でそれは突然に登場人物のセリフとして説明されてくる。キャシーは自分が教育を受けてきた「ヘールシャム」では、女の子仲良し6人組や、癇癪持ちだけでも気になる男の子トミー、成長後も親友となるルースとのエピソードが紹介されてきて、キャシー、トミー、ルースの関係性が分かってくる。

ヘールシャムには何人かの先生が登場する。エミリー先生、ルース先生、正体不明のマダムなど。基本的な学問や芸術に取り組む機会も与えられているが、人生の可能性やなりたい職業、などの話題は巧妙に避けられている。ルース先生は、こうした学校の方針に反対だったようで、生徒たちに事実を伝えようとするが、学校から排除されてしまう。生徒たちは目の前で起きている事柄を眼にはしているが、本当の意味を深く考えようとしない。学校では「提供者」として生まれてきたことや、「介護者」「使命」などについても、生徒側に憶測による疑念が生じる前に巧妙に刷り込まれるように伝えられている。

その後、トミーとルースはパートナー関係になるが、キャシーも含めた3人の絆は継続する。高校生あたりの年齢で学校を卒業すると生徒たちはコテージと呼ばれる施設に一時移り、その後、介護者、もしくは提供者としての使命を果たす。ルースは2回めの提供で使命を終えるが、トミーとキャシーはその後、自分たちの使命の裏側にある、人間社会の臓器提供の仕組み、その社会で問題になる人権問題の存在と、ヘールシャムという施設を運営してきた慈善団体の存在を知ることになる。エミー先生もマダムもその団体のメンバーであり、臓器提供にまつわる人権問題の緩衝材としてのヘールシャムの意義を説明されるが、二人は本当の意味までは理解し得ない。提供は1-4回行われ、多くの場合には3回、運が良ければ4回で提供者は使命を終える。キャシーは幼友達であり親友のルース、トミーの介護者となり、二人の使命を見届けて、自分の使命を待ち受ける。

臓器提供による疾病治療が可能になるとした時の問題点は何であろうか。現時点では、心肺停止状態、もしくは脳機能停止からの「自発的意思」に基づく臓器提供が行われ、臓器売買についてもその存在が取り沙汰されている。その臓器提供が国家レベルで正当化され、産業化されたらどうであろうか。「わたしを離さないで」では、臓器提供のためのクローン人間育成の産業化を国家レベルで受け入れた上で、国民的合意も成立済みという前提でも、良心の呵責、クローンたちの人権問題、クローン培養による新人類誕生のリスク等の問題が国民の前には突きつけられてくることを紹介している。エミリー先生もマダムでさえ、クローン人権問題に正直に取り組みつつも、臓器培養による人類の生存への欲求、病気治療による健康長寿メリットには逆らいきれない。

主人公のキャシーはクローン本人であり、自分に与えられた「使命」については、教育で教え込まれていて不自然なこと、不合理であるとは考えていない。タイトルは、"Never let me go"という歌が、不妊治療の末に授かった赤ちゃんを私から離すようなことはしないで、と問いかけているようだ、というキャシーの解説からきていている。トミーは事実を知った後に、自分が起こしていた癇癪は、生まれながらの使命に反発していたのかと自問自答する。先に使命を終えたルースは事実を知ることなく一生を終えたはずではあるが、キャシーとトミーはルースこそがこの事実を知りたかったはずだと感じる。キャシーは、「私を離さないで」とエミリー先生に象徴される人間社会の良心に訴えかけているようにも受け取れる。

帚木蓬生の「臓器農場」渥美饒児「沈黙のレシピエント」など臓器提供をあつかった小説はあり、ソイレント・グリーンなどのSFでも扱われる生命の尊厳についてのテーマ。全く異なるアプローチで好みは分かれるとは思うが、こちらは大層抑制がきいた表現で読者に考える大幅な余地を与えている分、私には好ましく感じられる。

 

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昭和のエートス 内田樹 ****

2017年10月29日 | 本の読後感

内田樹は1950年生まれ、私より4歳年上、団塊の世代である。現時点ではほぼ同世代と言えるほどの違いであるが、昔の出来事を思い出しながら振り返るときには4年の違いが少し増幅される。昭和39年の東京オリンピックの思い出、現在の金儲け的五輪招致に反対する内田だが、当時内田樹は14歳だからもうすでにその時点で批判的な視点を持ってみていたのかもしれない。私は当時小学4年、聖火リレーの終点である最終ランナーとして走る坂井義則君、聖火台の横でぶらぶら揺れている謎の三っつの物体(多分聖火着火の様子を撮影するカメラ)、入場行進曲のことを、急速に発展する首都東京への憧れと共に思い出す。(以下、本書の内容を土台にした私の個人感である)

内田樹の父と私の父も多分同世代、「戦争に負けた」、という意識を強く持っていた大正世代である。大正生まれの人たちは、戦争への国家的傾斜の途中に教育を受けた。国家のためには個人を犠牲にすることの尊さを幼い頭に埋め込まれたはずである。敗戦時、その世代は20歳代、占領軍による民主化と軍隊に関係するものの根絶が猛烈な勢いで起きていた。大正世代のそのまた親たちは、「負けたんだから仕方がない」というつぶやきもあったのかもしれないが、大正世代は「僕たちは騙されていた」「こっち(民主化と非軍事化)が本当だったんだ」との思いを強く持った。昨日まで「お国のために死ぬまで戦うことが君たちの使命だ」と教えていた大人たちが、戦後は「民主主義の大切さ」を教え、軍隊で威張っていた大人たちが、今は闇のビジネスで金儲けしている様を見て、大いなる失望を感じたはずである。「民主化」を勧めてくれていたはずの占領軍、アメリカ政府の方針も、日本労働界の急激な左翼化に対するブレーキや、中国共産化、朝鮮戦争から日本再軍備に向けて急変する。根源的に、「国の方針は本当に正しいのか」「この人達の言っていることの裏側には何があるのか」をいつも考えるのは当たり前とも言える。

そうした大正世代を親に持つ、そしてその強い影響を受けたのが昭和20年代生まれ、団塊の世代である。昭和30-40年代には貧乏なことは決して恥ずかしいことではなかった。クラスのマジョリティが貧乏で、お金持ちもいたが、家庭教師がいる、塾に通う、なんていう友達には同情したものだ。団塊の世代が成長の過程で見聞きした出来事、昭和35年の安保闘争、37年キューバ危機、そして39年東京オリンピック、41年政界汚職、43年3億円事件、44年大学紛争、45年大阪万博、三島由紀夫割腹、47年あさま山荘事件、横井さん帰還、48年金大中事件。内田樹は大学紛争時に大学入学、私はイエスタデイ・ワンスモアを聞きながら48年に大学に入った。こうした出来事を振り返ると、やはり中学生までは起きている事件の内容を、受動的に受け入れてしまっている。大学以降は出来事に対する自分のスタンスを感じながら振り返ることができる。つまり大学入学以降は大体内田樹と私の年の差は縮まっていく気がする。その後、50年ベトナム戦争終結、51年ロッキード事件などと続く。内田樹は39年の東京オリンピックが「敗戦後の脱力感」の転換期だったという。私にとっては、転換点は大阪万博あたり、しかし敗戦後ではなく、それは貧しさから豊かさへ、裏から表へ、水面下から水面上へ、子供から大人へ、などと重なっている。

人はどのようにしてこうした自分のスタンスを形成していくのか。幼年時代は親の影響が絶大である。小中学生時代は時代背景の影響も強く受けるだろう。そして高校生から大学時代は自分の周りにある環境や情報から何を掴み出せるか、にかかっている。両親がどの程度口出しをするのか、15歳以降の経済状態も大きく影響するだろう。生まれた時代は変えられないのだから、「何を肯定し、なにを否定できるか」という自分のスタンスは経験と知識の上にチョコンと乗っかているヤジロベーみたいなものであろう。大正世代の人たちは国家も自分の経験も知識も一度すっかり否定せざるを得なかった。そこに「断絶」が存在する。一方、その親達の世代では、敗戦後廃墟の中で家族を養うため、生き抜くために、敗戦時に自分のスタンスを書き換えられなかった人もいただろうと想像できる。その場合でも心のなかには捨てきれなかった「断絶」が存在するだろう。

昭和の戦後世代、そして平成世代に自分の全経験と知識を否定した事があるという人はどのくらいいるだろうか。自分の経験を否定する、これは並大抵のことではない。年齢で言えば、20歳であれば、20年間を全否定しても、その後に数十年の人生が残っていると考えることもできるが、40歳ではすでに難しく、60歳を越えるともう困難とも言える。昭和のエートスはそんな、昭和時代を経験してきた40歳以上の大人たちへの問いかけであると共に、20,30歳代の世代にも「肯定と否定」について考えてほしいというメッセージと受け止めたい。

「大義なき解散」という話題が最近あったが、「大義を語る大人」ほど信用できないものはない、というのが昭和のエートス(特性、習慣)。大義がないと批判されて慌てて大義を作り出す、そんなものはもっと信用できない。憲法改正の自民党案に入り込んでいる根源的思想を「個人より組織と国家」という不気味で信用できない大きなものに感じてしまうのは、昭和のエートスであると感じる。私と同世代である現在の総理は、「否定と肯定」についてどう考えているのだろうか。

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