意志による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意志に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

日本人の知恵 林屋辰三郎、加藤秀俊、梅棹忠夫、多田道太郎 ***

2017年01月20日 | 本の読後感

なんと、昭和37年に発行された本で、その前年朝日新聞に連載された「日本人の知恵」を再編集したもの。現代で言えば「和風総本家」「スゴ~イ、日本の習慣に隠された先人の知恵(空想上の番組)」みたいなトーク集だが、トークしているメンバーがすごいと感じる。

明治維新以来の日本は西欧に追いつけとの号令のもと、旧来の日本的なものを「時代遅れ」として西欧の制度や近代的な手法、技術を積極的に取り入れ、日本的と考えられたものを「自己批判」してきた。しかし、日清日露の戦争後、第二次世界大戦前には戦意高揚のため日本文化や日本思想に対する「自己礼賛」がはびこった。敗戦後はその反動もあってか再び自己批判が横溢、欧米の文化を理想とし、特にアメリカ文明への憧れが、テレビ番組にも溢れていた。私が小学生になる前に、貧乏だったアパート住まいの我が家にも、これからはテレビだ、ということだったのか昭和35年ころにテレビジョンが購入された。近所の人達も見に来たくらいだったからまだまだ珍しかった。その頃に見ていた記憶にある番組は、ララミー牧場、ローハイド、アニーよ銃をとれ、名犬ラッシー、ちょっとあとにはじゃじゃ馬億万長者、かわいい魔女ジニーなどアメリカのドラマばかりで、こんな広いうちに住みたい、家に車があったら便利だろう、西部劇のところに行ってみたい、などと幼稚園から小学生だった私でもアメリカに憧れを抱くようにになった。「ローレンローレンローレン...ローハーイド!」と主題歌を歌っていたことも覚えている。一方で、安保反対、ハガチー帰れなどとアメリカとの条約締結には大反対の空気が溢れていて、アパートの廊下を「安保反対ごっこ」をして遊んでいたのも事実。科学や近代的制度を理想と考えながらも米に反発する気持ちもある、そんな空気の中で書かれた一冊である。

取り上げられているのは50ほどのテーマであるが、例えば「番付」、東西に横綱から大関、関脇とランキングがあり、誰が強いのかがひと目で分かるが、先場所の勝敗で上下するので、気が抜けない。真ん中には勧進元と行司がいて、第三者の存在が東西のバランスをとるという、京都と鎌倉、江戸幕府と朝廷のような一極集中でない形態であると評価する。日本独自である「じゃんけん」も三者鼎立で西洋の弁証法的論理形式とは異なるという。

「習合」というテーマでは、欧米のデパートとは異なる形での日本のデパートは呉服屋から発展して、屋上には遊園地があり、階上に食堂、地下には食品売り場もあって欧米のデパートとは全くことなる概念として繁栄しているという。クリスマスのサンタクロースも大国主神がモデルとなり、デパートも実は縁日が下敷きになっているとのこと。受け止める母体があるから習合できるのであって、ヌーディストやベジタリアンは土着しないだろうと予言している。アンパンは饅頭という母体があって西欧のパンをうまく習合させた。「学習雑誌」は子供向けの雑誌だが学年ごとの細分化され、付録もついて定着していることが習合している証拠であると。

「平等性」も特徴的で、「おみやげ」は西欧でもあるが、日本のようにご近所や職場の皆さんに買って帰ることはない。それは旅行という特別でラッキーな物語を共有したい、という考えがあるから。また「なべ」という食べ物は西欧にはない。みんなで一つの器から食べる、という物語の共有が連帯感を育む。

ちょうど特急こだまが開通した時で、東京大阪間を6時間30分で結ぶ今までにない特急なので、公募で「こだま」というツバメやハトより早そうな名前となった。今後予定される弾丸列車(新幹線)の名前はどうなるのだろうか、と心配しているのが面白い。この時点では「ひかり」「のぞみ」などという洒落たアイデアは思いつかなったのかもしれないが、考えてみればまことにうまく名付けたものだと思う。

その他、取り上げられたテーマは、「予備校」「駅弁」「花見」「漫才」「風呂」「折り紙」「出前」「ノーチップ」「万国旗」「バスガイド」「お守り」「実物模型」「家計簿」「どうも」などなど、バラエティーに飛んでいる。いずれも今でも日本的特徴を持ったものばかり、「和風総本家」「プロフェッショナル」「72Hours」などでも取り上げられてもおかしくない。

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外国特派員の目 ニッポン見たまま 週刊朝日編 ***

2017年01月17日 | 本の読後感

先日読んだのは1975年ころにイギリスに短期滞在した女性から見た英国事情だったが、こちらはほぼ同じ頃日本に駐在していた外国人駐在記者による日本事情。その後の40年で日本は経済的な発展があり、日本への留学生、旅行者、滞在者も増えたので、今は日本礼賛番組や記事が横行しているが、当時は辛口の日本評論や外からどう見られているのかを気にする感覚がよく分かる一冊。日本ポジティブ面とネガティブ面と分類して列記してみよう。

ポジティブ面 大相撲の歴史やしきたり、横綱の威厳。ヒロシマを保存することの重要さ。房総半島に当時でも残る海女の姿。若い女性のファッションセンスはパリ以上。日本の自然は世界一、人がいないことが一番。寺社仏閣や茶の湯、日本美術の洗練された美しさ。日本のお肉の切り方は薄くて素晴らしい。総じて日本の食べ物と飲み物は美味しい。日本女性は魅力的。社会のダイナミズムは欧米以上、今後の経済発展は約束されている。チップがいらない。列車電車のシステム。

ネガティブ面 大相撲の放映時間をゴールデンタイムにすれば猛烈に働くお父さんも早帰りするかも。一家心中は子供の人権無視。結構披露宴は時間とお金の無駄、呼ばれた方には拷問だ。来日するモナリザに一億総狂乱はいかがなものか。ピル解禁はリスクが有ると解禁せず、堕胎はできる、この矛盾。神風タクシーと乗車拒否。戦争を引き起こした歴史を忘れる速さ。交通信号を律儀に守るのは日本帝国が戦争に邁進した方向性に盲信したこととつながる、ルバング島から帰還した小野田さんを見よ。今では美しかった房総半島が高速道路で破壊された、美しい磯にマリンパークは不要。日本では観光地になぜリゾート施設を作りたがるのか、消費者もそれを求めるのが疑問。日本の都市計画は無計画、都市景観の醜悪さは世界最低レベル、都市景観に対する美醜感覚がないのか。公共交通機関でのアナウンスメントは拷問的騒音。地下鉄はサウナ状態できれいな景色もない残念な移送手段。日本の雑誌は低劣なポルノ、平気で電車の中で読む神経を疑う。国際感覚がないと自らを嘆く島国根性、日本文化は独特と言うより海外との共通部分をアピーするべき。専業主婦として団地の狭い一室で子育てしている教養ある女性は本当に幸せなのか。日本の英語教師は日本の子供たちに英語嫌いを植え付けている。ゴミ捨てマナーはひどい。日本人はエコノミックアニマルだと信じ込んでいること。日本が第2次大戦で中国と朝鮮に与えた損害について多くの日本人が罪の意識を持っていないこと。自動車の使用制限ができていない、もっと自転車と自転車専用道路を。警察がヤクザを真面目に取り締まらない。選挙制度が保守政党に有利なのにこれを改革しない。進学試験制度や医師養成システムの複雑さ。民主主義の形態は欧米並みなのに実際の政治は三流。

こうして分類してみるとネガティブ面が目立っているが気がつくのは、その後の40年でネガティブ面も少しは解消できていることと、そしてまだまだ日本人の心と頭の中身は変わっていないこと。ということは、表面的には日本礼賛をする外国人は増えているが、外国人も心と頭のなかではまだまだネガティブ面の日本を感じている人も多いということか。旅行者や留学生がこの40年でどれだけ増えたのかを考えると、一つの国が変化するというのは時間がかかるということ。イギリスもこの40年で随分変わったが、日本の40年の変化はどの程度だろうか、一度誰かと話をしてみたい気がする。

各国駐日記者による外人特派員の目―ニッポン見たまま (1975年)

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黄昏のロンドンから 木村治美 ****

2017年01月15日 | 本の読後感

40年ほど前に発刊された本、1974年8月から翌年3月まで、大学教授だったご主人に同行した女性のエッセイ。40年の違いで変わっているところと変わらない所、日本を見る目が違うところと同じところなど、読んでいて面白い。当時は旅行でイギリスに行ったことがある人も少なかっただろうし、日本から来た、といえば向こうも珍しいので歓迎されたと思う。1990年ころのバブル期には大勢の日本人観光客がロンドンのフォットナム&メーソンに行って、日本語ができるという店員に向かって、千円札を握りしめ関西弁で「もうちょっとマケテーナ!」と言いながら、きっといつも飲んでいるというのではないと思われるアールグレイの高級紅茶を買っているのを見たことがあるが、そうなる前のまだ日本が経済成長期で、そんなには経済的に豊かにはなっていない時代のエッセイ。

ロンドンには移民が多い話。借りた2階建て住居の一階に住む家主さんがユダヤ人で、日本人はきれいに生活してくれるので日本人ばかりを店子にしたがる話。バスの車掌が黒人で、中華料理店は中国人、インド料理点や百貨店の店員はインド人、ロンドン繁華街は多民族、しかし郊外電車に乗ると乗客はアングロサクソンばかりと。移民が増えた町中から郊外に移動しているのだという。これはアメリカでもそう。移民に対する施策は次の通り。民族や宗教の違いで法律上の差別はしない、自国民と同等の権利を扶余、雇用、賃金、社会保障も平等。しかしロンドンでは職業別に階級がはっきりしているのも事実。黒人は地下鉄バスなど、食堂には黒人は働いていない。ハロッズは白人ばかり、大学教授となるとアングロサクソンかユダヤ人。しかしその後イギリスでも人種差別が表面化して問題となる。パブも労働者向けの「パブリック」とホワイトカラー向けも「サロン」では入口が違うが中は共通、真ん中に仕切り板がある。これはその後なくなったのではないか。著者夫婦は知らずにパブリックの入口から入ろうとして、お前らは向こうだ、と言われたとか。なぜ分かるのだろう。

ロンドン地下鉄のエスカレーターで右側によって一列に立っていることに感心している著者、今では日本の都会では当たり前になった景色だが、その頃はそうではなかったのである。その他、夫婦はかならずダブルベッドで寝ているが、日本人は大体がツインベッドを好むので、ユダヤ人の家主はツインを用意してくれている話。「オーカルカッタ!」というミュージカル、一糸まとわぬ裸で踊り回る演劇に驚く。それでも日本から来ていた「東京キッドブラザーズ」が当地でも人気になっていて、その舞台で日本人ダンサーが上半身裸になるのを見て現地の人達も驚きの声を上げるのだそうだ。オーカルカッタを見ても興奮しない人たちが、なぜ上半身の裸体を見て驚くのかが不思議だと。エロティシズムの感じ方の違いだと。

ロンドンの服飾店には化繊のチープなセータか高級なウールのセーターが売られていて、その価格差が大きくてびっくり。日本から時々訪れて一緒に買い物に付き合うと、ボンドストリートで高級なセーターを買って帰るのでまたまた驚く。日本のウール製品のほうが安くて品質もいいのにと。イギリスには日本のように切れ味の良い包丁がない、あってもテーブルナイフで、じゃがいもの芽をほじくるのに使える直角な部分がない。ご飯をすくうオシャモがない、汁物をすくうオタマはレードルといって取っ手が直角についていて使いにくい。魔法瓶がない、あっても日本のようにきれいな花柄なんてついていない、アラジン社製のポットがあって、これが「魔法瓶」の名前の由来だと気がつく。イギリスでの紅茶は沸かしたてのお湯で淹れるので、魔法瓶ではだめ、というのが製品が普及していない理由だとも知ることになる。八百屋では積まれているトマトやかぼちゃを手にとることができず、店の人が後ろの方で勝手に袋詰してくれるので、自分が気に入ったものが買えない。

それでも町中でも自然がいっぱいあって、桜も咲いてすぐには散らず、道も広くて、学校では子供たちに平等に公平に教育機会を与えてくれる。規律と自由、プライバシーの考え方、フレンドリーな社会的微笑など良い面にも気がつく。

とにかく、半年の滞在なのに小学生の二人の子供を連れて行って、観劇やネス湖などへの小旅行もして、現地の人達ともそこそこ触れ合って、プラスとマイナス両方をフェアに観察する、これが大宅賞受賞理由だろう。この本を読んでロンドンに行ってみたくなった人は多いのではないかと思う。

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日本アイヌ地名散歩 大友幸男 ****

2017年01月14日 | 本の読後感

著者の思い入れがつよーい本。前提となるのは、日本列島における縄文人と弥生人の分布と順序の仮説。日本列島にはまず1万年以上前から約1万年もの間、縄文人が北から南は沖縄まで住み着いて、ある程度共通した言語を使っていたので、地名もその時代から数千年を経ても残っているものがある。その後弥生人が稲作や銅器、鉄器製造技術とともに大陸から日本海側から移住、九州から本州全土にかけて縄文人を追いやるように拡大していった。その為、本州には現在の日本語を使った地名が広がっているが、北海道や東北北部、沖縄列島には縄文人が使っていた言葉と共通する古いアイヌ語による解釈ができる地名が多く残る。「別」や「内」が付く地名だけではなく、本州や九州にもアイヌ語で解釈可能な地名がある、というもの。この仮説には、従来からの歴史文献やDNA分析からも納得できるので、「なんでもかんでもアイヌ語関係付け」と思える主張でも、「こういう解釈も可能」と思いながら読める。

岬はアイヌ語で鼻を意味する「イト」「エト」または顎を意味する「ノッ」、糸崎や江戸、伊豆、井戸、野付、能登、能戸、野登などがこの候補となる。「サンナイ、サンペツ」は「前に開けた沢」なので、地形から見て三内丸山遺跡や山内、山辺内、三平、山根などは可能性大。稚内は飲水の川を意味する「ワクカナイ」、幌別は大きな川の「ポロペツ」、笑内(おかしない)は沢尻に猟小屋がある沢の「オカシウンナイ」、尾去別は川尻に草地ある川の「オサルウンペツ」、茂別は静かな川の「モペツ」。別や内だけではなく、辺、戸、部も川や沢があればこうしたアイヌ語由来である地名候補になるという。浜の地名は「オタ、ウタ」なので小田、大田、歌が付く地名なら候補となる。伊勢も古名は伊蘇であり磯を意味する同じ音の「イソ」から、須磨、志摩も岩礁を意味する「スマ」からという。

山は野の高みを意味する「ヌプリ」、日本語の登るの元は「ノポル」であり同根。「シリ」は大地、「モシリ」は小さな大地で島を、「キリ」は高い立った山を、「キム」は低い山を、「モイ」は森、「タイ」は林を、「ヌプ」は野、「ピラ」は崖を意味する。候補となる地名は「X登、X尻、X切、X野、X平」などでたくさん考えられる。

東京近辺では、小田原は浜の「オタ」から、木更津は耳の形の海の「キサルト」から、世田谷の野毛や横浜の野毛山公園は顎状に突き出た頭の「ノッケイ」から、幕張は奥の原の「マクンパル」、浦和は縄文時代は海辺だったため砂浜の渉り場である「ウラワ」、渋谷は泉の岸で「シンプイヤ」、あくまで候補であるということで解釈可能だということ。

近畿では伊賀は越える道で「イカル」、丹波はこちら側の岸の「タンパ」、有馬は元は播磨の有馬郡であちら側の浜で「アリルルムイ」、「クス、クシ」は越えたところや山の向こうを意味し、三重県の久豆、楠、樟、櫛田川など、越の国と言われた北陸も山の向こうである。

万葉集に出てくる地名では、足柄は夜明けの早い所もしくは初めての土地で古朝鮮語の「アシガラ」、相模は峠の女神で「ジャガム」、「イカポロ」は越える大きいで伊香保、峰が横に繋がった山で「ツクマネシリ」から筑波嶺。

日本古語では「タ・ナ・ラ」はそれぞれが入れ替わること多いという説があり、「ヒラ、ヒタ、ヒナ」は注意が必要。船は古語ではフィナ、古い人名でよくある比羅夫はフィラフと考えられ船夫、つまり船頭、すまり水軍を率いる武将となる。倭人伝にでてくる卑奴母離(ヒナモリ)は船守で水軍の頭となり、うまく話が合う。日田、比良、日名などの地名はこうした意味をもう一度考えて見る必要があるという指摘。

沖縄の地名で川を「ナイ」、崖を「ピラ」、海を「トー」、人を「チュウ」、山や森を「モイ、ムイ」、広がるを「パル」と呼ぶのはアイヌ語と共通。那覇は水の岸の「ナパ」、糸満は岬のある場所で「イトオマイ」、日本人をヤマトンチュウと呼ぶのは「ヤマトウンチュウ」ヤマトにいる人となる。その他、東北の方言にはアイヌ語の痕跡が見られ、古朝鮮語との共通点も多いという。

本書以外でも日本列島には多くの新羅、百済文化の影響があり、地名や神社、習慣にも多くの痕跡が見られるという記述は多い。著者の信念は強いようで我田引水的解釈も多いかもしれないが、そこにこうした縄文人の痕跡であるアイヌ語地名の解釈を加えることは、古文献や歴史分析の一つの見方だと感じる。

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使者と果実 梶村啓二 ****

2017年01月10日 | 本の読後感

1939年のハルビンで独身の高級官僚で満州国国務局に勤める百済タダシが実業家の妻である倉橋奈津と、趣味である音楽を通して知り合い、不倫の仲になる。それを知ったのはタダシの京都の大学時代からの友人でこちらも外務官僚である孫江。タダシがこのままではいけないと、外務省の特別任務を与えようとする。特別任務とは、さる侯爵家の所蔵品であった名品チェロのドメニコ・モンターニャを関東軍が買い取ったものを、日本の同盟国であったドイツ軍ゲッペルス博士に世の中には伏せて極秘でプレゼントしようというもの。趣味でチェロを弾いていたタダシにそのチェロを満州から日本を経由してドイツまで運んでもらいたい、という任務である。チェリストのタダシが最適任者だというのは孫江のストーリーで、なんとか不倫相手の奈津から引き離そうという作戦であった。

日本の特務機関は独自の調査で奈津の夫である倉橋雅之がソ連に機密情報を漏洩していることを突き止める。決定的な証拠を握るため倉橋は特務機関の監視下に置かれ、その妻である奈津とタダシの不倫も特務機関に知られることとなる。それを知ってか倉橋雅之は奈津をベルリンへの出張に同行することを提案、不倫相手だったタダシの身の安全を念じていた奈津はタダシと会わないようにしながら数ヶ月を経て夫とともにベルリンに旅立つ。ほぼ同時に孫江からのチェロ運搬という使命を帯びたタダシもベルリンへと向かう。

ベルリンでは、その留守中に決定的なスパイ活動の証拠を握られた倉橋夫妻とタダシにも特務機関の目が光る。タダシと奈津は表立っては会えないし、奈津は警戒してタダシを避けている。このままでは倉橋も奈津も逮捕され処刑されると考えたタダシは、ダンスパーティの会場で奈津に接近、当時は戦争の外にあった平和な国アルゼンチンのブエノスアイレスへの逃避行を奈津に密かに提案、奈津は迷いながらも了解したかに見える。逃避行はスイスのルツェルンでの待ち合わせ、そしてニューヨークを経由してブエノスアイレスへと船で逃げるという計画。運んでいる名器を売れれば二人で暮らせるくらいのお金にはなる、という読みであった。

こうのタダシと奈津の逃避行の一部始終を聞き取るのはタダシがブエノスアイレスで臨終間際に知り合った日本人の平悠一。悠一は日本に輸出できるワインを開拓している貿易商、なかなか最適なワイナリーが見つけられずにいた。ふと入ったバーにいたのがタダシ老人、すでに90歳を超えていたタダシは、悠一と顔見知りになる。ある日、花を買ってきた悠一に、自分と奈津の話を聞かせる。話し終えたあとに悠一にチェロの曲を弾いて聞かせた。一緒にいたのが17歳のアルゼンチン女性ペネロペ、まるで実の孫のような親密さであった。一晩かかって奈津とタダシの逃避行の話を聞き出した悠一、次の朝、ペネロペからタダシ老人が死んだことを伝えられる。逃避行は本当にあったことなのか、それともタダシ老人の夢を聞かされたのか。残された遺品の後始末を任された悠一、ほとんど唯一の財産であったチェロは、名品ドメニコ・モンターニャであった。

悠一はドメニコ・モンターニャを財団に委託してクロアチア人チェリストに貸し出すことにする。そして孫江も後日コンサート会場でそのクロアチア人チェリストに出会うことになるのだが、まさか孫江も、そのチェロがタダシが持ち逃げした名品だとは気づかない。その後、悠一はロンドンでペネロペと一緒にドメニコ・モンターニャの音色を聞く機会に恵まれる。

純愛の物語にスパイと戦争の味付けがあり、題材の割に後味はとてもいい作品。現代の不倫物語のようなドロドロ感は全く無いので安心して読める。使者はタダシであり悠一、果実はタダシが悠一に語ることができた夢物語と残されたドメニコ・モンターニャ、そしてひょっとして果実がペネロペだとしたらと夢は広がる。

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昭和のエートス 内田樹 ***

2017年01月09日 | 本の読後感

内田樹と高橋源一郎の言っていることにはいつも気をつけている。自分より5-6歳上だと思うのだが、いちいち自分と重なる部分とすれ違う部分があるので、考えるヒントになりやすいためである。反感や嫌悪感に創造性は伴わないことが多いが、同感や違和感はいずれも参考になるからだ。

昭和の40年ころまでは、「日本は戦争に負けたんだから」という共通認識があったように思う。東京五輪と大阪万博以降の昭和の後半はGDP経済成長論からバブル経済論で「日本も混沌の時代を経てようやくここまで来た」という感じ。平成になると生産年齢人口がピークを経て減少期に入りいつのまにか一人あたり所得は世界で20位に、すでに各家庭レベルではそこそこの生活レベルに到達するも、しかし給料は上がらない、若者は就職できないというなかで「日本がどうのこうのというよりも自分探し」という時代になった。

「日本は戦争に負けた」という文脈には占領時代を経て、随分な反対があったのではあるが日米安保と現行憲法を基盤にした経済成長を期待する部分があった。そして実際に経済の規模は拡大していったので、会社では年功序列通りに出世もし給料も上昇、家のローンも返せるし、ボーナスで子供の教育費もまかなえた。昭和30年ころまでに生まれた人たちの多くは平成になりリタイヤする頃になっても、昭和の慣性的経済力と良き記憶で「努力は報われたかな」と思える半生を過ごしてきた。

こうしたジェネレーションが現在を生きていると感じることがある。それが「昭和のエートス」ではないかと思う。本書の読者はこうした気分を感じながら読むと、この内田おじさんの言っていることがよく理解できるのではないかと思う。インテリなので理屈っぽいし、教育者なので話題によっては妙に力んでいる部分もある。それでも昭和前半に思春期を迎え経済成長期に様々なことを考えだした人が何を考えていたか。

「なんで自分が」と今、自分のことを思っている人がいるとしたら、それは今の時代のせいではない。昭和の時代にも同じように感じていた若者がいたはずだが、「みんなも貧乏をしている」「そのうちに良くなる」などと言い訳していたかというと、そんなことはない。親を楽にさせたい、世の中の役に少しでも立ちたい、という考え方ではなかったか。自分視点から家族視点、世の中視点に引いていくと少しはマシにならないだろうか。自分の境遇と隣人や友人との比較に創造的発想は生まれない。本書は少しはこうした考えの参考にならないかと思う。

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寿命1000年 ジョナサン・ワイナー ***

2017年01月06日 | 本の読後感

人間の平均寿命は日本では男が80、女が87歳で、今週のニュースでは、昭和31年頃はそれぞれ63、68歳であった。さらに20世紀の初頭には50歳くらいであった。寿命がのびたのは、新生児死亡率の低下、公衆衛生概念の発達による感染症減少、抗生物質発見、だそうだ。ポイントは最近の100年で30年ものびたこと。狩猟時代には15-20歳で、江戸時代では35歳程度であった。それがここ100年で30年ものびたということは一年長く生きると4カ月寿命がのびるということ。今後もまだまだのびる余地はあるというのが本書の主張である。

現在の学説では、フリーラジカル老化説が有力、フリーラジカルで最もダメージを受けるのが細胞内のミトコンドリア。細胞内のミトコンドリアは一ヶ月も経たないうちに死んでしまうが、オートファジーによる分解機能で再生される。ミトコンドリアは身体にエネルギーを与えるがこのフリーラジカルも放出する。このオートファジーの機能低下が老化の仕組みだということ。これは克服可能ではないか、と主張する。

老化の原因を分類すると次の七つ。架橋結合とよばれる体内分子同士の結合、ミトコンドリアの衰え、細胞内に溜まるゴミ、細胞外間隙に溜まるゴミ、細胞自体の老化、細胞死による毒素、そして癌。癌以外は現代科学で対応可能、のこるは癌だという。

しかしこの癌が一番の難物、身体のあらゆる部位に癌化の可能性がある。その対応策がWILT法、テロメア伸長の全身阻止である。テロメアは生存に不可欠な機能とされているのに、その機能を停止させることで老化を防ぐという過激な考え方。

本書の主張とはずれるが、一番心に響いたのは、最近は一年生きると4ヶ月寿命ものびるということ。その率で行くならあと20年生きると寿命はさらに6年のびて、、、それでも愉しく健康に過ごせるかどうか、、、ちょっと今からでも歩きにいこうかと思う。

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ひとの目、驚異の進化 マーク・チャンギージー ***

2016年12月29日 | 本の読後感

われわれ人類はなぜカラフルな色覚を発達させたのか。三原色とよく言うが、これは霊長類しか持たないという。哺乳類は一般に二原色、鳥や昆虫は四原色だと。果物などの食べ物を見つけやすい、というのが従来の学説。

筆者が言うには、まず、顔など肌の一部をむき出しにしている種には、相手の顔色を観るということが重要だった。特に女性はこの能力が生死をわかつ。女性に色覚異常が少ないのはこのためだと。

目が横ではなく前に付いているのは、立体視力のため、というのが従来の学説。筆者は森の中での木の枝や葉っぱのむこうにいる敵を見付けるためだと主張。横にあると後ろにも視野が拡がるが前を左右の目で見る範囲が狭まる。

目には錯視、という現象がある。動体視力には、動くものがそのまま進むとどうなるかを予測する能力を含む。錯視は未来予見力だというのだ。

そして人がもつ識字力、文字を読むのは遺伝ではない。漢字でもアルファベットでも当てはまるそうだ。文字が自然界を象徴し単純化しているからだという。

こうした学問領域は進化理論神経科学というらしい。錯覚だと思っていたらそれは未来予知能力だと、これはかなり面白い。

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徴税権力 国税庁の研究 落合博実 ****

2016年12月21日 | 本の読後感

筆者は元朝日新聞社記者で大蔵省と国税庁担当をしていた。2003年にフリーになり現在にいたる。野球のO氏とは一字違いの同姓同音名。国税庁や検察庁に記者として入り込み、多くの特ダネをものにした。国税庁や検察庁の公務員がなぜ守秘義務を犯してまで極秘資料を記者に渡すのか、それは捜査を進める際に世論を味方にしたい時があるから。記者としても自らのプレスコードを課してきたという。国税庁はあくまでも徴税機関であり世直し機関ではない。税務調査の結果を単純に正義と位置付けて記事にはしないこと。企業の申告漏れでも悪質なケース以外は記事にはしない。本書は2004-2006年に週刊文春と文芸春秋に掲載した記事から文庫化したもの。

1992年の東京佐川事件の処理を東京地検がわずか20万円の罰金で矛を収めたことに世論が大反発した。検察庁前の庁名板に黄色いペンキがぶちまけられた事件である。当時の検察の大甘の違法献金対応に危機感を持ったのは国税庁調査査察部長の野村、金丸代議士への政治献金5億円は所得なのではないかとの調査をはじめ、これを立件する。政治家対応では国税庁や検察庁は相当慎重になる。相手がその後自分の省庁のトップとしてアサインされたらどんな目に合うのかがわかっているから。しかしこの時の国税庁は骨があった。長官は土田正顕、次長は瀧川哲男、そして野村。当時の大蔵次官の尾崎護に相談、検察庁は東京地検特捜部長が五十嵐紀男、最高検の財務担当検事は石川達紘、こうしたメンバーがそろって初めて政界の当時のドンである金丸信を所得税法違反で逮捕するまでにこぎつけた。その後政治資金規正法が改正され政治家個人への企業献金が制限されるようになる。

国税庁の活動に介入してくる政治家がいる。本書では実名を挙げてその手口を紹介する。竹下昇、小泉純一郎、渡辺美智雄、橋本龍太郎、田中真紀子、亀井静香とそうそうたるメンバーが実名入りでその手口と介入内容を紹介されている。本人への取材では知らんぷりをするのだが、記者としては証拠をしっかりと押さえているので確かな話である。

有名芸能人への調査は東京国税局資料調査課の担当。1979年当時マークされ、証拠が挙げられた芸能人とその脱税額が次の通り。森進一2.14億円、石坂浩二1.53億円、若尾文子0.99億円、大原麗子1.22億円、浅丘ルリ子0.86億円など。手口は経費水増しと架空計上で、指南した税理士が同じだという。

大企業への対応では1982年当時マークされていたのが大洋漁業不正所得17.3億円、三菱商事3.4億円、日商岩井17.7億円、住友商事8.2億円、伊藤忠商事10億円、日本鋼管9.8億円など。その後2002年以降は企業の海外との取引に着目、追徴課税したのがホンダ117億円、京セラ127億円、船井電機165億円、武田薬品570億円、ソニー324億円、マツダ76億円、三菱商事22億円、三井物産25億円など。課税されたのはほとんどが移転価格税制で、日本での利益を海外子会社やペーパーカンパニーに移転するもの。

最後は創価学会、90年代には調査に入った国税だが、自民党との共同与党になってからは完全に腰が引けたという。創価学会は公称信者827万世帯、収入は3つあって収益事業会計、墓苑公益会計、公益事業会計である。課税対象は収益事業会計だけで、その額は2004年で163億円。第二位の明治神宮は17億円とその10分の1、創価学会の経済規模は宗教団体としては断トツなのである。827万世帯の墓苑事業を一手に取り扱う墓苑事業、墓地の永代使用料と墓石で100万円程度、区画数は40万とすると2000億円程度の経済規模になる。最大収入は一般会計、会員からの寄付金で、定説では2000-3000億円と言われる。これらが非課税となっているのだが、果たして所得税などとして扱える部分はないのかどうかがポイントである。また出版事業や物販、駐車場、全国に2000か所と言われる土地への固定資産税など、国税庁として確認調査が必要な対象は多いはず。課税の公平性は保たれているのだろうか、というのが筆者の指摘である。

一読して「凄い本だ」という感想。すべて実名、すべて根拠資料を提示した暴露本的著作である。田中金脈を追求した立花隆の下で働いたこともあるという筆者、まだまだ書ける資料をお持ちではないかと思う。

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古代史の謎を解明するためにも宮内庁管理の陵墓を科学的に発掘したらどうか

2016年12月10日 | 本の読後感

以前読んだ「謎の豪族 蘇我氏」を読み直してみた。

本書で水谷千秋氏は次のように記述する。『5世紀から6世紀にかけては大王の勢力が弱体化、蘇我稲目が大臣に登用されてからは馬子、蝦夷、入鹿と4代続いてヤマト政権を支え、蘇我氏あっての王権であった。蘇我氏は仏教の取り入れに積極的で、隋からの官僚制度や租税の管理方法、屯倉で導入された戸籍などの先進的な仕組みを取り入れた。飛鳥という町と飛鳥寺も蘇我氏が築き上げたといっても過言ではない。乙巳の変はここまで築き上げた蘇我氏による王権の果実を横取りし、蘇我氏が招来した渡来人や仏教徒、僧旻などのブレーンも含めて引き継いだのが中大兄皇子と中臣鎌足であった。日本書紀の記述は天命思想で乙巳の変の流血によるクーデターを正当化し、蘇我氏の専横を強調することで天智、天武、持統の政権の権威付けを図った。当時の人々にとっては記憶に残る蘇我氏はそれほどまでに強大だったとも考えられる。』

また、「蘇我氏の正体」で関裕二氏は次のように推測している。『魏志倭人伝によれば卑弥呼の死を受けて男王が立ったが収まらずトヨが女王として君臨し国はおさまった。トヨがヤマトに裏切られ九州筑後川から鹿児島の野間岬を目指した、これが出雲の国譲りであり、天孫降臨であるという。日本書紀がこれを隠したのは、トヨの夫とされる仲哀天皇、実際には武内宿禰であり、蘇我氏の祖先であった。この二人の子が応神天皇であり神武天皇と同一人物であった。そして出雲神の正体がトヨと武内宿禰である。日本書紀で天の日槍(あめのひぼこ)とされるのはツヌガアラシトであり、新羅の王子であった。船で播磨の国にきて宇治川から近江、若狭、但馬の地を選んだ。そこには鉄があったから、という推測である。そしてその末裔が蘇我氏であったというのである。なぜ日本書紀が蘇我氏は渡来人だと書かなかったのか、これは今ひとつハッキリしない。蘇我氏の祖が武内宿禰であり天の日槍であればスサノオの境遇とそっくりである。蘇我氏の祖は新羅に渡った倭人であり、脱解王の末裔であった、蘇我氏は一度ヤマト建国にのち没落していたが、6-7世紀に「我蘇り」と曾我から蘇我に書き換えた。ツノガアラシトは日本に鉄をもたらし、ヤマト建国の機運を一気に高めた功労者であった、これを藤原氏は書きたくなかった。』

また、今まで読んできたDNA分析言語学比較文化論考古学古墳分析などなどを総合すると、素人考えながら、次のようなことが言えるのではないか。

都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラヒト)と天之日矛(アメノヒボコ)に象徴される渡来人達が製鉄技術を日本にもたらしたとされる逸話や武内宿禰の日本書紀における記述とその子孫とされるのが蘇我氏であること、なども踏まえると、大和朝廷が倭国を統一するために製鉄技術は必須であり、当時九州や吉備、出雲、近江、越、尾張などの諸豪族を統一する戦いでは、鉄製の武器が大いに活躍したのではないか。また、稲作の豊穣を祈る神道に加え、鎮魂や成仏の概念を強く意識した仏教受容も倭国統一に大きな役割を果たしたのではないかと考えられる。武烈で断絶したとされる大王家を越の国から継体を呼び寄せたのは大伴氏と物部氏だったが、それを大和朝廷に組み込めた最終的な勢力は蘇我氏であった。蘇我氏は山城の秦氏とも強いつながりを持ち、朝鮮半島とのつながりも相当深かったと考えられる。日本書紀を取りまとめた天武天皇と藤原不比等は、大和朝廷の成り立ちに深い関わりと貢献をした蘇我氏の痕跡を消し去るために様々な工夫をこらしたが、事実は天皇家の祖先には新羅、百済の王族の血が濃く、渡来人とされる朝鮮半島由来の人たちが稲作を始め、青銅文化、鉄器文化を持ち込んだのであれば、倭国の中枢は、日本列島古来の縄文人をあとから来た弥生人が圧倒し、倭国の統一まで大いなる貢献をしたと考えてもおかしくはない。歴史的にキーとなる継体陵や仁徳陵など、本格的に発掘分析研究してみたいと感じる。

宮内庁が継体陵と認定する太田茶臼山古墳は、はたして本当に継体陵なのか。実は多くの学者が指摘するのは、高槻にある今城塚古墳である。宮内庁認定の継体陵の発掘できないが、今城塚古墳は発掘(盗掘も)されている。古代史に登場するような古墳の多くは盗掘されていると言われるが、科学的に発掘・分析してみればさまざまな歴史の謎に関するヒントが見つかるかもしれない。天皇陵でもない古墳をお祀りし、本当の天皇陵は保護されないまま盗掘されているとしたら、これこそ不尊、不作為の罪ではないか。「陵墓」と言われる歴代天皇や皇后、皇族を葬った陵(みささぎ)と墓(ぼ)、被葬者の特定はできないが陵墓の可能性がある場合などで、古墳以外に石塔などもある。場所や被葬者は幕末から明治初期に文献や伝承を手掛かりに指定されたが、天皇陵の見直しは1889年以降はないという。発掘しても何も出てこない古墳もあるだろうし、掘れば何か分かるわけでもないだろうが、日本列島に896あると言われる天皇家の墓とされる古墳の発掘分析を積極的に進める必要があるのではないかと思う。

 


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継体天皇と朝鮮半島の謎 水谷千秋 ****

2016年12月07日 | 本の読後感

筆者2013年の著作、結論としては継体天皇(大王)は近江に生まれ、若狭で57歳まで過ごしたとされているが、その途中では朝鮮半島に渡り、百済の武寧王との親交があり、日本に百済経由で当時の進んだ文化であった中国の制度や考え方を五経博士を招聘することにより大和王朝(倭国)に取り入れた人物であったとする。

継体王朝の前まで政治の中心は大和・河内地方であったが、継体天皇の出身は近江湖北、基盤とするのは若狭、越前、そして美濃、尾張である。継体を支援した母体は大和地方の豪族で、主に大和盆地の東側に基盤を持っていた物部氏、大伴氏、和邇氏、阿部氏ら中央の非葛城系であった。当時はまだ九州の豪族も力を持ち、特に魏志倭人伝に出てくる松浦国や伊都国などの次の世代である有明海沿岸の諸豪族とは、当初は友好関係、その後微妙な関係であった。磐井の乱は継体即位直後に起こっているが、それを鎮めに行ったのは大伴金村、物部荒甲(アラカイ)、継体王朝で統一できた大和政権が、かねてより九州で独立する動きを見せていた磐井に攻撃を仕掛けたと見る。継体が若狭より即位した当初は、大和盆地の西に本拠地を置く葛城氏や南部の蘇我氏など反対勢力が強く、樟葉の宮(枚方市)、綴喜の宮(京田辺市)、弟国宮(向日市)、と大和盆地に入れなかったが、その後、葛城氏の権益を継承した蘇我氏と手を結び、即位後20年をかけて磐余玉穂宮(大和盆地の櫻井)に定着することができた。

継体王朝で実行された親百済政策(五経博士招聘と引き換えにした朝鮮半島四県割譲、部の民制度と氏姓制度導入、その後の仏教導入など)や当時の中国や朝鮮半島の先進的文化を取り入れる努力などの国際的開明性は、先代の雄略の政策を引き継いでいる。さらに、秦氏など渡来人を重用し、朝鮮半島で活躍し帰国した各地の首長に百済式冠や太刀を与えて評価した。生まれ故郷の近江高島の地には多くの渡来人たちが製鉄などの技術を持ってすでに生活していた。若狭にも秦氏一族がいて、当時の若狭は日本海を経由する朝鮮半島からの入口でもあった。日本書紀には生まれた近江から母とともに越前に移住し、57歳までそこにいた、と記述されるが、その間、近江と若狭、越前を行き来していたことと推測できる。

継体の墓は今城塚古墳だと言われているが、それと同型の古墳が宇治にある二子塚古墳である。現在ではその大部分が線路や住宅地になっているが、元は全長112メートルの二重の濠を持つ大きな前方後円墳であり、京都府でこの時期最大の古墳である。筆者の推測ではあるが、和邇氏が宇治には居たことから、継体后の和邇臣河内の女ハエ媛、もしくは秦氏関連の王族関連の人物を被葬者と想定できるという。

本書では氏の成立についても考察されている。倭人の名前は魏志倭人伝などでは卑弥呼、壹與、難升米など個人名、埼玉稲荷山古墳の辛亥銘鉄剣でも意冨比(オホヒコ)、江田船山古墳太刀銘文にも牟利弖(ムリテ)など個人名のみ。最古の確実な氏の存在を示す資料は、6世紀後半と見られる岡田山古墳の「額田部(ヌカタベ)」で日本書紀などによれば、継体から欽明朝には氏姓制度が成立していたと考えられる。物部、蘇我、大伴などはその時期からの呼び名で、権力者がその一族に呼び名を与える形で継承されたとしている。この頃の氏は二文字、中国は一文字が多く、古代百済の影響を受けていたと考えられるとしている。

武烈で途絶えてしまった大王一族の血脈を応神の5世代孫であるとされる若狭の継体を呼び寄せることで大伴氏、物部氏は朝廷に勢力を伸ばすことができた。大和朝廷内での葛城氏、蘇我氏と物部氏、大伴氏の勢力争い、倭国と百済を始めとした朝鮮半島等の関係や九州に残る勢力とのバランス、大陸や朝鮮半島に比べた時の文化的遅れとなど、こうしなければならなかった背景が解明できそうな一冊である。筆者はあとがきで述べているが、考古学的アプローチと歴史文献アプローチの協同が重要であると。ここにDNAや言語学、古代朝鮮史、中国古代史などを加え、古代史発掘ではぜひ学際的アプローチをお願いしたいと考えている。

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狡猾の人 防衛省を喰い物にした小物高級官僚の大罪 森功 ****

2016年12月05日 | 本の読後感

守屋武昌元防衛次官の収賄事件についてのインタビューによるドキュメンタリー。こんな小物がなぜ中央官庁のトップにアサインされたのか、呆れると同時に、バレなければ任期を全うして悠々自適な老後を送っていたかと思うと腹が立つ。背景にはアメリカ政府とアメリカ防衛産業界にいいように喰い物にされている日本の実態がある。防衛省の武器や防衛備品については市場価格があるわけではなく、個別見積もりと国家間交渉があるのみで、その実態は国民からはうかがい知れない。はたして国民税金によりなりたっている防衛費が正しく見積もられているのか、備品は正当な価格で取引されているのかさえわからない。そこにアメリカ側にはロビイストの存在があり、日本側には防衛商社の存在がある。本件で問題になった山田洋行という会社が三井や三菱ならばこんなに表沙汰になっていただろうかとも勘ぐってしまう。

守屋武昌は、情報獲得のために貿易商社の宮崎常務に接近し、本来は禁止されている接待を受け、料金を払わないゴルフを夫婦で5年以上にも渡り続けていた。商社の人間がなぜ中央官庁の官僚に接近してくるのか、考えればわかりそうなものだ。その清潔感の欠片もない守屋武昌という人間については、本来は中央官庁のトップになるほどの人ならば備えるべき知見や見識が感じられず、その人間臭さや家族も含めたどこにでもいそうなサラリーマン的「ご近所感」にかえって嫌気が差すというもの。

森功のドキュメント著作は何冊か読んできたが、いずれも核心に迫っている部分と、やや食いたらない部分があると感じる。「同和と銀行」「許永中」は相当な食い込み方だったが、本ドキュメントの裏側には、歴代防衛庁(今は防衛省)の次官だけではなく大臣も含めたトップの汚さや腐臭が漂ってくる。そういえば小池東京都知事も防衛庁長官経験者、このような防衛疑惑、実態と真実を語る日は来るのだろうか。

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日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造 篠田謙一 ****

2016年12月01日 | 本の読後感

現代人と遺跡などから発掘された骨などからDNAを取り出し分析、世界の人類のルーツを解明しようとする取り組み。2007年の著作であり、その後の分析にも興味が持たれるが、アフリカ大陸から出た人類の祖先が、中東から欧州、そしてアジアを通って北米、そして南米に広がっていったルート仮説を解説。そしてその中でも分析されたDNAのサンプル数が最も多いという日本人のルーツについて分析、先行して日本列島にたどり着いた縄文人は北と南から日本列島に住み着いて、その後稲作文化をもった弥生人が何回にも分けて移り住んできたことをDNA分析から解析、説明している。

DNA分析と言っても、ミトコンドリアDNAの分析は女系祖先をたどることになる。男系祖先はY染色体の分析であり、本書では最後に触れられていて、殆どはミトコンドリアDNA分析の結果である。アルコール分解酵素を持つ遺伝子は、極東アジアに住む人類の中に分解が苦手だという変異型が多く、欧州、アフリカ、豪州では皆無、日本では23.9%、中国南部では23.1%と多くなっている。アジアでもインドネシアから太平洋諸島では2.9-0.4%、中国北部では15.1%、インドシナでは5.0%、北米では2.2%、中米では6.1%となっている。日本の中での分析をすると、変異型を持つのは関東、中部、近畿に多く、分解酵素を持つ正常型は東北、南九州、四国太平洋側に多いという、まさによく語られる通りの結果である。これは従来日本列島に住んでいた縄文人には分解酵素が備わり、後からやってきた弥生人には変異型が多いと考えれば納得がいく。

現代の人類をDNA分類で大きく分けると、白人、黄色、黒人などという分類とは全く異なり、アフリカで3クラスター(L0,L1,L2)、その他で1クラスターとなる。その他の中にアフリカ以外の全人類が入り、そのクラスターを更に分類するとN、M、L3と3つの型に分けられるという。これから分かるのは各クラスターの持つ歴史的時間の長さであり、人類は最初にアフリカ大陸で発生して、その後非常に長い時間をかけてアフリカ大陸内で進化を遂げてきた。L2からL3への分化は8.5万年前と推定、そのタイミングで出アフリカを果たしたと推定される。その先は6万年前に中東、5万年前に東南アジア、4.7万年前にオーストラリア、4万年前に欧州と日本も含む東アジア、3万年前にシベリアに北上、1.5万年前に当時は陸だったベーリング海を渡り北米へ、1.2万年前に南米へ到達した。太平洋地域には海伝いに3000年前に拡散して1500年前にはハワイと太平洋経由で南米に、NZには1000年前に到達したという。

人類を4つのクラスターに分けたが、それを細分化すると、Lグループのアフリカ集団、M,N、そしてNから派生したRからなるアジア集団、Rから派生したUとT、J、H、V、そしてNから分派したW、Iからなる欧州集団に分類できる。有名な「イブの7人の娘達」(サイクス著)はこの欧州の7グループを指す。MからはアジアでさらにC、D、G、Qが派生、NからもA、Y、Xが派生、RからはアジアでF、B、Pが派生している。アジアを細かく見ると、東北地区はA、C、D、G、M8a、Y、そしてCから派生したZが分布、東南アジアにはB、Mから派生したE、そしてF、M7、M9、R9が分布、インドネシアにはP、Qが分布する。それぞれの分布状況と分岐年代を分析することで、本土日本は北方漢民族、韓国との距離が近く、やや離れてモンゴル、雲南漢民族があり、さらに少し離れたところに沖縄、アイヌが分布している。

この本が書かれた時点で国際的DNAバンクに登録されたミトコンドリアDNA配列データは3000、そのうち4分の1は日本人、その日本人は大きくは16にわかれそれぞれが別の由来を持つ。32.6%がD4、4.8%がD5でDグループが多く、B4が9.0%、B5が4.3%、AとGがそれぞれ6.8%、ついでMのサブグループでM7a、M7b、M7c、M8b、M10が7、4、1、1、1%となり、Fが5.3%、N9aが4.6%、N9bが2.1%、Cが0.5%、Zが1%、その他が6.6%となっている。D4,D5は東アジア最大のグループで現在の中国北部、朝鮮半島から日本列島に多く分布。Aはシベリアから北米、中米、Bは太平洋諸島から南米に広がる。

M7aは沖縄と日本に最も多く見られ日本列島の北に行くほど少なく、フィリピン諸島でも多く見られる。M7bは雲南から中国沿海地方、台湾に多く、M7cは東南アジア島しょ部で多く見られる。M7が生まれたのは4万年前、M7aは2.5万年前に琉球列島を経由して日本列島に流入、日本列島と朝鮮半島にしか存在しない。日本本土に5.3%あるFは東南アジアでは最大のグループ、中でもタイ・カンボジアでは37%、ベトナムでは16%、台湾では19%となり、沖縄は2%、朝鮮半島が5%であることから朝鮮半島経由で日本列島には移り住んできた集団と見られる。その他N9は北方ルート、M8aは北方漢民族、Cは中央アジア平原、Zはアジアと欧州を結ぶ人たち、M10は北方アジアにつながる系譜と考えられるという。出現率は1%以下のH,Vは日本の中では欧州の系譜で、女系ミトコンドリア分析だと考えると明治以降の流入の可能性が高い。沖縄の分析をするとほとんどは本土日本と共通で、貝塚時代以降もルーツは南九州だと考えられるという。また北海道先住民と沖縄が縄文人の形質を残しているという考え方もDNA分析で肯定されるという。

DNA分析は科学的な分析である一方で、流入経路はあくまで分布から見た推測の域を出ることはなく、発掘、出土した骨や遺跡などを分析した結果と照合しながらの検証が重要となる。しかし、DNA分析技術が進歩し、分析サンプル数が世界的に増加してくればさらなる仮説の検証も可能となる。今後10年で歴史が大きく解明される可能性は大きと期待したい。

https://first-genetic-testing.com/gene/haplo.html

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神社の起源と古代朝鮮 岡谷公二 ****

2016年11月28日 | 本の読後感

「神社と神道は日本古来の宗教」という考え方と「神社と神道は稲作とともに弥生人によりもたらされた」という考え方がある。本書は神社は渡来人、それも新羅からもたらされたという仮説に基づき、現場である神社がある近江、敦賀、但馬、出雲、三輪、豊前そして南朝鮮の慶尚南道各地をめぐる。読み手のスタンスによって、少しでも名前が似ていれば朝鮮半島由来という我田引水的とも読めるし、はたまたやはり天皇家の先祖も含めて弥生人であり渡来人なのか、とも読める。私は「神社、八幡社、稲荷社などは稲作をもたらした弥生人が、持てる技術である銅器、製鉄、医術なども含めて豊かな生活と収穫を願った形」というスタンスで本書を読んだ。

本書は「フィールドワーク実践編」との副題のように、上記筆者仮説を検証しながらの旅行記という形を取りながら、各種学説の引用を踏まえながら仮説の補強をしている。近江では白鬚神社、水尾神社、余呉湖の北野神社、伊香具神社、近江八幡の苗村神社、鏡神社、安羅神社などをめぐり各地の新羅、伽耶の痕跡を探す。まず全国に400社あるという白鬚神社は新羅系神社であり、近江の白鬚、比良はシラ、ヒラという音から新羅、シーラ由来であるとする。白山信仰も新羅由来であるという学説も紹介する。近江に勢力を張った水尾氏(三尾)は元は越前に由来し、製鉄技術を近江にもたらしたという。琵琶湖の湖西地域には磁鉄鉱が産出、多くの製鉄遺跡がある。継体天皇は越前出身で、7-9人の后妃を迎えたが三尾氏出身の女性が数人いるとし、湖東の息長氏とも関連していずれも新羅系ではないかと推測している。湖西の和邇あたりにいた豪族和邇氏も製鉄に携わり、こうした多くの豪族は弥生時代に朝鮮半島から製鉄技術と稲作技術をもって日本列島に移り住んできた勢力であるとする。移住経路は北九州経由、出雲経由、越前経由、但馬経由など多くの経路があったと考えられる。筆者は魏志や三国史などの書物や関連各諸説からそのように推測しているようだ。

琵琶湖の北にある余呉湖、ここには新羅崎神社があり新羅の王子とされる天之日矛(アメノヒボコ)が祀られている。日本書紀には「天之日矛が宇治川から遡って北近江を経由、若狭から但馬に至って住居を定めた」という記述がある。この天之日矛は諸説あるが、一人ではなく朝鮮半島より製鉄技術をもたらした人たちのことを指すのではないかと筆者は考えている。また、ここ余呉にも伝わる羽衣伝説は世界中に見られるが、特に朝鮮半島と日本列島には多い。北野神社と言う名前にはなっているが、明治維新の神社合祀令で新羅崎神社も合祀された。近江の神社には天之日矛を含め新羅の痕跡が数多く見られる。しかし古代の一時期より新羅蕃国視があり、明治以降も朝鮮蔑視傾向から、新羅を白木、白城、白姫、白岐、白鬚、白井などと名を変えてきた地名が多いというが、ここ新羅崎神社近辺には新羅の名を地名に残す場所が多い。神社に新羅の影響が多いのは、仏教公認が高句麗、百済に比べて1世紀半以上遅れていて、古来信仰がより深く根付いていたためという。日本で最も多いという八幡神社、稲荷神社も新羅系の秦氏が祀った神社であったという。

日本では祠堂や神社が古来より国家の庇護を受けてきたのに対し、朝鮮では仏教、その後儒教を国教とし国家の庇護を受けられず、さらに太平洋戦争後は生活改善(セマウル)運動やキリスト教の広がりもあり、朝鮮半島では祠堂はほとんどその存在を見られなくなっている。筆者はそれでもその痕跡を探しに慶尚南道に幾つかの祠堂跡を見つけるが、その形は日本に見られる神社の原型で、社殿などの建物はなく、神社の原型である森や岩石が残されている。日本でも沖縄のせいふぁ御嶽や若狭のニソの杜、対馬の天道山、薩摩のモイドンなどが残っていて韓国の学者から注目されているという。これらは原始的な太陽信仰や穀霊信仰などに密教なども習合していて、韓国には残っていない古代信仰の形が見られる。

敦賀の気比神宮の祭神は伊奢沙別(イササワケ伊讃別)命、仲哀天皇、神功皇后、大和武尊、応神天皇、玉姫命、武内宿禰命の7座、筆者は伊讃別命こそが祭神であり仲哀天皇以下は後からの合祀であるとする。さらにこの伊讃別命が天之日矛であり都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラヒト)であるという学説を支持している。

出雲では素戔嗚尊に関し、新羅系の帰化人の象徴であり、出雲地方に製鉄技術をもたらした一団であるという学説を支持。日本中に点在する素戔嗚尊を祭神とする神社は新羅系だと考えられるという。一方、古事記・日本書紀には多くの記述があるこの素戔嗚尊、出雲国風土記には簡単なそっけない記述があるだけで、かえって不自然、出雲国の風土記を編纂した国造が意図的に大和朝廷の記紀の記述に反抗したと考えられるとする。意図的に新羅の痕跡を消そうとする試みはこの頃すでに見られるという考え方である。これは出雲地方には3つの勢力があり、一つは古くから住み着いていた杵築神社を祀った海人部の人たち、その後朝鮮半島から製鉄技術をもたらした素戔嗚尊を奉ずる韓鍛冶の人々、三つ目は東出雲を根城とした熊野神社を奉ずるひとたちであった。3-4世紀頃に吉備方面から大和勢力が入り込み、当地の意宇氏と協力して須佐氏を排除、意宇氏は国造を命じられる。意宇氏が編集した出雲国風土記に素戔嗚尊の記述がそっけないのはこのせいだという。また、出雲には十六(うっぷるい)湾、七類(しちるい)湾、加夜里(かやり)、安良波(あらは)比、辛(から)川、加賀羅、加安羅など朝鮮語由来、朝鮮地名由来の地名が多く見られることから、朝鮮半島とのつながりが深かった地域であるという。

三輪神社では、出雲、若狭一帯から琵琶湖沿岸を通って南下し大和に入った辰韓、新羅の勢力は三輪地方の都祁(つげ)に定着、三輪地方を本拠地とした。三輪山は朝鮮式山城であり神奈比山であるという学説を支持。三輪遺跡には多数のふいごや鉄の溶滓が発見されており、この地方の鉄鉱石をもとめてのことだったとする。出雲人はこのあと、東国へも進出、製鉄の技術と出雲特有の前方後方墳古墳をもたらした。東国の大己貴命、素戔嗚尊を祀る神社、氷川神社の多くは出雲系であり、つまり新羅系だと主張する。埼玉の金鑚(かなさな)神社はその名前に製鉄の痕跡を持つ。祭神は素戔嗚尊、東進は鉄鉱石を求めての旅だったとも言う。東進のルートには2つあり、信濃から東山道を経て上野、下野へと向かうルート、そして信濃路から甲州路入る線である。建御名方(タケミナカタ)神を祀る諏訪神社、古事記に記されているのは建御名方神が建御雷(タケミカヅチ)神に力比べに破れ諏訪に逃れたと。諏訪神社の御柱は踏鑪炉(たたら)の高殿4本柱の押し建て柱に起源があり、その柱のうち南の柱を神聖視、梁塵秘抄から南宮の本山は諏訪神社、中津宮は大垣の仲山金山毘古神社、稚き宮は上野市の敢国神社であると。タケミナカタのミナカタは南方だとして、鉄の神だという。

豊前、大分の宇佐八幡宮は「多くの幡を立てた祭祀様式に名付けられた」という学説を支持、鍛冶集団である辛嶋氏が奉る守護神だと主張。この集団には医術に長けた人々もいたため、のちに大和朝廷の庇護も得て、その後京都の石清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮と分祀され、全国の八幡神社の総元締めになっている。宇佐八幡宮がいつ神仏習合したかは明確ではないが日本の中では神仏習合の魁であった。崇仏派の蘇我氏は排仏派の物部氏と争うため、大神比義という人物を宇佐八幡宮に送り込み勢力を拡大しようとした。神社も神宮も朝鮮半島から日本列島にもたらされたもの、というのが本書の全体的な主張である。

これは前に読んだ「古代朝鮮と倭族」の記述とも合致するし、稲作の豊穣を祈るという神社の役割とも矛盾なく考えられる。神社と神道が日本古来、と考えると稲作をもたらした弥生人以前に日本に住んでいた縄文人の信仰に由来することになり、神社や神道の多くのしきたりと矛盾することが多い。いずれにしても純粋に弥生人がもたらしたというよりも、従来からあるアミニズム的な信仰、その後の仏教なども交わり合っている神仏習合も考えられるので、100%これ、と言うものでもないかと考えられるが、神社・神道は稲作文化と古代朝鮮由来というこの説、有力だと思う。

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古代朝鮮と倭族 鳥越健三郎 ***

2016年11月27日 | 本の読後感

中国雲南省あたりで水稲栽培に成功し、その後東南アジアに移住していった人々の子孫のうち、その後朝鮮半島を経由して日本列島に到着、定着した人々が弥生人の本体であるとするのが本書の主張。

今までにも何冊もの関連書籍を読んできた。「魏志倭人伝の謎を解く」、「日本民族の誕生」、「日本語のルーツは古代朝鮮語だった」、「列島創世記」、「白村江 古代アジア大戦の謎」、「日本書紀の謎を解く」などなど。多くの書籍名には「謎を解く」が付く。それほどにわからないことが多いということ。

中国北部の黄河流域で粟などを中心に畑作農業を営んいでた漢族や苗(メオ)族は、土間式住居でくらしていたが、雲南省の稲作文化を持った人たちは高床式住居を考案、炉を床上に持ち、屋内に履物を脱いで暮らしていた。本書ではこうした雲南省稲作文化を営んでいた人たちを「倭族」と呼び、「史記」の記述から「百越」ともいわれる多様な民族が同様の生活様式だったと推測する。越(wo)は「倭(wo)」に通じ類音異字であるとする。於越(浙江)、ビン(門構えの中に虫)越、揚越(江西)、南越(広東)、駱越(安南)などが百越である。倭族はこうした人達と稲作に関連する文化を共有するというもの。

こうした倭人達は朝鮮半島が辰国時代(前漢時代)から後漢時代には馬韓、辰韓、弁韓と三国に分かれていた南部に住み着き現在の済州島を経由しながら日本列島に稲作や鉄器技術とともに移り住んだ。本書では高句麗、百済、そしてその二国の源流である扶余国に共通する卵生神話を比較分析している。扶余は黒竜江上流域にいたモンゴル種の遊牧狩猟民であるが、紀元前2世紀頃に狩猟と農耕を行う扶余国を建てた。高句麗はツングース系と言われるが、その神話はいずれも卵生神話で共通している。稲作民族中心の百済に卵生神話があるのはこうした2つの文化の融合の結果であるという。

本書では済州島と朝鮮半島南部、そして日本に共通する文化としての注連縄、石塔、鳥居の原型である鳥を上に載せる木の棒などを紹介、これらを中国雲南省からタイ、ミャンマー、ラオスに住むアカ族にその原型を認められるとする。また聖なる鳥としてのカラス、神として祀るヘビ、道祖神とトリ、上棟式におけるトリの血の儀式などを分析、共通点をあぶり出している。現地調査に重きをおいた分析が本書の特徴、古代史に関心がある向きには価値のある書。

本書で言う「倭族」の日本列島への移住は紀元前から数十回に渡り、移住は一方向ではなく双方向に複数回に亘った。当時は縄文時代から弥生時代へ、そして邪馬台国から大和朝廷への移行の頃とも重なっていて、本来、日本側の書物、中国の書物、言語学、DNA分析、文化人類学、習俗比較、人類学、化石分析など複合的な分析と研究が日中韓の複眼的学問的検証が必要である。無理な注文だが、全体を網羅した横断的、学際的分析ができる人はいないのだろうか。本書でも紹介されている鳥居や神社の由来は、稲作とその豊穣を願うために、こうした「倭人」や弥生文明とともに形を変えながら日本列島に入ってきたとする考えもある。この際、神社の由来も探ってみたい。

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