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意思による楽観のための読書日記

日本古代史を科学する 中田力 *****

こういう古代史書が読みたかった、と言える内容で、日本古代史を中国・朝鮮の歴史、DNA分析、縄文弥生時代の列島地理、古代文化分析など多面的解析を行っている。筆者は臨床医であり複雑系脳科学の権威である。歴史に対しては専門家ではないからこその前研究や既存権威にこだわらない記述が読者には心地よい。日本古代史に関心がある方には必読書として勧めたい。

分析の基本となるのは、魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭人伝・隋書倭人伝、古事記・日本書紀、中国古代天文算術、ジャポニカ米のDNA分析、日本人のDNA分析、史記など。分析の前提となる設定としては、魏志倭人伝記述は故意に変更されていない、古代人の天文などの科学的知識を尊重する、社会学的意識を持ち込まない。

筆者の結論は以下の通り。
帯方郡は卑弥呼が朝貢使を送った時代には魏の直轄地、狗邪韓国は金官伽耶の前身、壱岐対馬を経由して末羅国は唐津近辺、距離の推定は古代里程から魏志倭人伝では一里60m。古代の海進を推定し、伊都国は現在の多久市、奴国はJR長崎本線の久保田近辺、不弥国は現在の佐賀市。

魏志倭人伝での記述から、ここから先へは上級官吏は随行せず、倭人による伝聞と下僕による随行によったため記述が伝聞記述となっている。倭人の粗末な船に同乗するのを躊躇したため。投馬国への水行20日で到達したのは熊本近辺、投馬国から水行10日、陸行1月では現在の人吉街道を通り、人吉からは南にいた隼人を避けて到達した日向灘に面した宮崎。邪馬台国はこの地にあった。対立していたのは南に位置する狗奴国、熊襲と呼ばれることもあり、球磨、曽於から由来するという説もあるが、魏志倭人伝一行が人吉を通過していることから球磨地方は熊襲ではない。

神武以降安康までは在位時期が確定できないが、雄略から敏達、その後の天皇在位年数より推定。また、神武から開化、崇神から仲哀、応神から武烈、継体から欽明の4グループに分類。日本書紀編者の作為的修正を考慮し、神武即位が282年、崇神即位が372年、応神が422年、継体即位が532年と推定する。

卑弥呼活動は240年前後と比定すると、記紀の天照大神が卑弥呼。高天原神話は邪馬台国中心の大和朝廷成立ストーリーである。黄泉の国は出雲、大和朝廷勢力と出雲勢力の対立が神話の構図。宗像三女神は天照大神と素戔嗚命との誓約(うけい)から生まれた神で、大国主命は韓半島からの婿養子であり、博多近辺勢力と結託した。

志賀島で見つかった金印は魏志倭人伝に出てくる奴国とは別の国であった奴国、見つかっていないもう一つの金印は邪馬台国に与えられた。こちらの奴国は大陸の越の勾践に滅ぼされた姫姓の呉の勢力が逃げ延びてきた人たちが移り住んだ場所。これはDNA分析からも裏付けられる。

DNA分析によると、日本人に多いCとDグループが縄文人、Oが弥生人。アイヌと琉球は初期の縄文人でD、後期の縄文人がCグループ。稲作を大陸から直接持ち込んだ弥生人のOグループだが、現在の中国大陸に日本人と同じOグループはほとんど存在しない。ジャポニカ米のDNA分析も合わせると、Oグループの弥生人は上海近辺から海伝いで韓半島を経由せず九州西部、北部に到達した。

邪馬台国が金印を賜ったのは奴国に遅れること200年、秦の始皇帝時代に除福に率いられた末裔が邪馬台国を造った。隼人と呼ばれ邪馬台国と対立した狗邪国も徐福一族の可能性が高く、兄弟国だった。当時の九州に勢力を張っていた3つの勢力はいずれも大陸の呉の逃亡貴族の末裔が立てた国で、倭の宗主国の地位を争っていた。その後、博多近辺の奴国と姻戚関係を結んだ邪馬台国は大和朝廷として成立する。九州平定を済ませた邪馬台国は出雲との対立を経て、「国譲り」で「大八州」と呼ばれた淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州を勢力下に収めた。

出雲には中国の越の文化を持つ素戔嗚命勢力と、越の文化に殷王朝の祭祀を複合させた大国主命の出雲という2つの時代があった。大陸で楚に滅ぼされた越と呉の一族たちが、異民族支配を逃れて海路倭国に逃れてきた。呉と越、二度の国家消滅によりOグループDNAを持つ稲作一族の殆どが大陸を逃れて倭国に到達した。出雲勢力は高志(越)の豪族と組み、邪馬台国、奴国連合に対抗できる貴族を求め大陸・韓半島から大国主命となる殷王朝の末裔を素戔嗚命の娘婿として迎えた。

神武、崇神、応神、継体という4王朝はそれぞれ別の系列だった。神武王朝は漢民族、それを滅ぼしたのは好戦的な中国北方民族、それを漢民族に取り戻したのが応神で、漢民族が設立した南朝への朝貢として倭の五王を送る。神功皇后が応神王朝のなかでも目立った存在。神功皇后は新羅の王子天之日矛と血縁関係にあった。天之日矛は但馬の出石神社に祀られる。

継体王朝は姫姓一族が天皇家の血筋を自分たちのものに戻したかったため立てられた王朝。継体が新羅を嫌ったのは金姓一族への忌避感だった。継体は応神の血を引き周王朝の末裔である。これは神武同様に東洋文化を作り上げた古代中国王朝の正当な末裔であり、周と商(殷)の高貴な血を引いているプライドがあった。神功皇后の三韓征伐のストーリーもそのプライドに基づいた誇張された記述。本書内容は以上。

これらの仮説検証は難しいが、各種の複合的な仮説を組み合わせた研究であり、古代史に関心がある読者の欲求不満をある意味解消する一説であることは確かである。戦いを好まない稲作を営む大陸人の末裔たちが切磋琢磨しながら作り上げたのが大和朝廷だった。大陸ではとだえてしまった調和の文化、これこそがわれらが誇れる日本文化だと感じる。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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