澁谷wednesday

チタラダ水曜日を受け持つ佐々木と下東によるブログです。
「仕事中に見辛い」との要望からテンプレートとりました。

放射線量(さ)

2011年03月17日 | Weblog
相変わらずネットでガイガーカウンターを見ながら仕事をしています。

年間で浴びても安全とされている値が1000マイクロシーベルトらしいので、
1000マイクロシーベルト÷365日÷24時間=0.114155251マイクロシーベルト/時
日本の放射線量http://eq.yahoo.co.jp/でみる限り東京はまだ大丈夫かなぁと。

安全なところの人たちが頑張らなければならない訳ですが、テレビが「すぐにはすぐには」といって居るので不安になります。
遺伝子を破壊する放射線を、新陳代謝の激しい子供や妊婦や、それをこれから行う女性を浴びる場合、
ほんとにこの1000マイクロシーベルト/年という値は適切なんだろうか?

また放射性物質の飛散や混入を計算していないはずなので、それらが起こった際、この数字を信じていいのか?ダムの位置も気になる。

テレビ局はなぜ原子力資料情報室の人とか、反原発の人たちの発言を流さないんだろうか?

トモダチ(さ)

2011年03月15日 | Weblog
ぼぼぼ募金箱を作ったんだな、と北野さんから連絡があり…
うそです。流ちょうな日本語のメールが届き。

ジムに設置してあるそうです。
お財布に余裕がありましたらぜひとも。

ネットでガイガーカウンターを気にしながら、計画停電で止まる電車の時間を気にしながらの仕事はなんだか疲れますね。先週までの普通で仕事に苦しんでいた日々がなんと脳天気にすばらしかったことか。
そしてそれらを戻らぬものとした原発の恐ろしさを、人間の不完全さを感じます。

テレビの顔面で苦しんでいる人をいっぱい観る中で「がんばれる人たちが頑張らなくてどうする。」と素直に感じ、これは今回の唯一の収穫でした。
今まで頑張っていはいても、どこかで誰かに助けてほしい気持ちがあった。「認めてくれ」「保証をくれ」「ここから逃げ出させてくれ」「行き過ぎた資本主義をただしてくれ」「市民税高すぎ」etcetcクレクレ
けれども。被災者の姿を見ることで自分はまだまだ頑張れることを知り、助ける側にいることを知りました。頑張ります。

ただどう東京や西日本の人間がいくら頑張っても、三陸の海は、芭蕉が言葉にできなかった松島は、厳しく美しい雪景色は戻らないんじゃないだろうか。

大企業と東電の癒着で進められた原子力発電所は、取り返しのつかないものだった。
それは高木仁三郎先生を始め、多くの有識者、市民団体が叫んできたことだったけれど楽な生活が好きな僕は目の前の生活に追われたりしながら声高にがんばるのが面倒くさがって、踏みつぶしてきた。あぁなんてものを失ってしまったんだろう。
石原の論調も分からなくはない。(もっとも石原は僕の記憶が正しいならば原発推進派だったはずだが)

元気です

2011年03月14日 | Weblog
災害に遭われた方に心からお悔やみを申し上げます。
あなたと、あなたの周りの少しでも多くの方が無事であるように願います。

僕は元気です。会社から落合のアパートまで歩いて帰ったりしてるほど元気です。徒歩2時間くらい楽に歩く体力があります。
シモも元気です。彼は自衛隊員として災害地域で頑張っています。

つらいですが頑張りましょう。
暴走したウランを冷やすのには多分年単位の期間が必要なんだと思います。
そしてその間に排出される海水や水蒸気には普段以上に放射性物質が含まれると思われるため、一生付き合っていく問題になるのだと思います。つらいですが頑張りましょう。
みんなで背負わなければ解決できない問題だと思います。

ギルバートブレイク

2011年02月17日 | Weblog
帰宅して着けたテレビで流れていたギルバートグレイプを観ました。

主演ジョニーディップ、助演レオナルドディカプリオ。
僕がまだ中学生だった頃、学校で見に行った映画だっただけに、画面にいるジョニーディップはまだ正当派美青年でディカプリオは線の細い子供姿だった。障害者役のディカプリオの演技がうますぎる。

閉塞的な田舎でレジ係をし、自殺した父のショックで過食症となった母と、精神障害をもった弟、幼い姉妹の世話を焼く青年が、恋人と出会い、自分の殻を破って行く物語、だった。
いい映画だった。中学生には理解できない程度にしんみりとした。

この映画を初めて見たときの感想は、僕にもこういう救ってくれる人(願わくば美女)が現れて、つまらない日常を払拭してくれるんだろう、程度だったし、母親の愛も恋人の(まぁ居なかったが)愛も違いがよくわからなかったけれど。

結局は自分が与えるしかないんだなと、当時のギルバートの年齢になって感じる。
子供は大人が組み立てた世界の被害者だけれども、やがて成長し、いつの間にか加害者になっている。傷つけたり傷つけられたり清濁混ざる中で、自分から何かを与える事で、贖罪して行く。いつのまにか加害者の立場から、贖罪に似た愛情を与えてていく。
子供が親からの愛は受けるだけ。いくらでも手に入るから需要と供給の感覚で稀少感も低い。自分で与える側になって、愛情は重みを持ってくる。
多く手に入る物に価値を見いだすのは難しい。
空気とか、水とか。
子供の頃は親からの愛とか時間とか。

数が少なくなってくると価値が高まる。
可能性とか、時間とか、親の愛とか。

「男は死ぬのも仕事だ」

2011年02月16日 | Weblog
なんだか色々と処理しきれないで日にちが進んでいる。
ばあちゃんの葬儀や遺品整理などで時間感覚が人生とか業績とかいったピントに合わさった眼で、生まれ親しんだ町から通勤、退社している訳ですが。

フタコや神保町の町が、なんだかえらく寂れて、中途半端に古くて、統一感がなくて。目先の事とか使い捨てとかで埋まってるように見えて汚らしいです。

ここで一生を終えるって、だれかの手のひらの上で終わるような感じで寂しいなぁと。
まぁフタコなんかは畑ばかりでその中を路面電車が走っているような場所だったらしいのだけれども。土の香りのする寂れ方の方がまだ自分の体を埋める分には心地よい気がする。

コンクリート製の古びた老人病院のベットで死ぬのはつまらない。
身を埋めるなら大自然の中で鳥葬とか風葬とか、歴史ある町中がいい。

タイトルの言葉は故大沢啓二監督の言葉。格好いい。

葬儀に関する文章

2011年02月15日 | 上手に書けた的な…
96歳という年齢は多くの友人や兄弟に先立たれて寂しい月日時間なのだろう。用賀の葬儀社で葬式会場の大きさや仕出しの数を話し合っていると、祖母の晩年の孤独が感じられた。
私の幼い日の記憶に居る祖母は、庭に面した椅子に座って午後の日射しとともに笑っている穏やかで優しい表情をしている。学校柄帰りおやつなどを食べている僕に、祖母は庭の花の名を教えてくれたり、好きな俳優の話や、昔好きだった家庭教師の用紙などを話してくれた。
聞かせてくれた。
孫は可愛い存在で荒れたらしい。優しかったその表情の裏側を、僕は今でも祖母の歌集で確認する事が出来る。
僕と向き合っている際の祖母は優しかったが、たまに覗き見る祖母は寂しく、厳しい人であった。その稀少と介護を必要とする時間が長かったせいだろうか。晩年の祖母を思い出そうとすると字が曲がってしまう事を激しく嘆く姿や、晩年の痩せた腕、脚、それらを自由に動かせない呵責、記憶が混濁して困惑している姿など、辛そうにしていた姿、それを取り繕うと懸命な姿が浮かんできてしまう。
またプレスリリースや祝詞を書く為に読んだ祖母の戸籍や雑誌の記事には学生生活や信仰を科学者であった祖父に断念させられた事、戦中戦後の混乱期に結社に尽くした事が記されており、多くの事を諦めてきたであろう人生が見て取れた。
会場の打ち合わせを終えた夜に見えていたのは祖母の優しさよりも
僕への祖母の優しさより、甘える事が苦手だった祖母の性格や、あきらめの大井人生の幕を苦しみながら閉じた晩年の姿であった。
葬儀当日、どれだけの人が来るか、ガラガラで寂しいのではないかと心配していた百人規模の会場は喧嘩や弔問客、電報、手伝いをしてくださる方々であふれる賑やかな会場となった。新聞社が訃報を載せてくれたこともあり、花屋のファックスは通じにくなった。多くの人が参列し、哀悼の意を示してくれるのを見ていると嬉しくて涙がとまらなくなった。
慕ってくれる人がこんなに居たのか、祖母を覚えてくれているのは僕ら家族やケッサyの御で資産たちだけじゃなかったのか、と思うととても保からしかった。「こんなに多くの人が来てくれたよ」「おばぁちゃんの人生は正しかったよ」と言って挙げられている気がして嬉しかった。
付き合いで来てくれたいた型も多かっただろう。本島に悲しんでいたのは何割かだったのかもしれない。しかし玉串奉天の際に人の動きが重なった瞬間の美しさ、花を手向ける葬列の長さは宗教的な美しさがあった。美しさがこの好意の信憑性であるように思えた。
仮想を終えた祖母の骨は多くが形を保っていなかった。多少残っていた部分もつまみ方を謝ると橋の圧力に耐えきれず割れて粉になってしまった。最後に骨壺に入れた頭骨も数ミリ程度の薄さで、96歳という時間がもう肉体的に限界であった事を教えてくれた。(よそに掲載した物の転載)

訃報

2011年02月04日 | Weblog
祖母が亡くなりました。会社を早退し、葬儀社で遺体と対面。その後は葬儀の段取りをして、遺体に着せる生前気に入っていたドレスをさがして、会社に戻ってプレスリリースを流す作業。昨日の夕刊、今日の朝刊に何行か出てるので、良かったら読んであげてください。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP360JP360&q=%E4%BD%90%E4%BD%90%E6%9C%A8%E7%94%B1%E5%B9%BE&aq=f&aqi=&aql=&oq=
96歳。大往生でした。葬儀社に運ばれてきた姿は入院中の病床で見た姿より安らかだった。病床で会った時は痛みを訴えたり、物忘れで僕の事もわからなくなったり、戦前に住んでいた家に帰りたいと言ったり。そういった部分がいっさい取り払われた姿は、とてもやすらかに見えた。

手を合わせ、伝える言葉を探す。
安らかに眠ってください、が初めに出たが近いようで少し違う。
宗教が無いとこういうときに一瞬困る。おばあちゃんはクリスチャンになりたかったらしいのだけれども、科学者だった父親が許してくれなかったらしい。
葬儀は神式だけれども、それは今さっき僕らが決めた形式の話でしかない。
血の通う言葉はありがとうだった。感謝の言葉を念じる。
今までありがとう。お世話になりました。おばあちゃんがいたから僕が居ます。
おばあちゃんの頑固な血筋は少し僕の中で流れています。いつも庭に面した席で本を読んだり、相撲を楽しみにしていた姿は日差しを背景として残っています。厳しい言葉も、優しい言葉も脳裏に残っています。あなたの姿がまだここにあります。ありがとう。

葬儀の段取りを決める作業や、プレスリリースへの問い合わせは苦痛だった。
ゼロが馬鹿みたいに並んだパンフレットから色々と組み立てる。
訃報のプレスリリースを流す作業は何度もやっていたのだけれども、体がしびれるような感じで何度も文章を間違えて多くの方に迷惑をかけた。同時に、自分が今までやってきたプレスリリースの作成の不躾さに気づいた。あぁなんでもっと親身になって上げられなかったんだろう。
訃報も葬儀の形も本人が書式を作っておいた方がいいんだろうな。生前は縁起でもない話だけれど、介護の苦労と似て、いざ死んでしまってからは些細な物で。ご本人の希望するものを探してあげた方がいいのだろう。いやそれとも、死者を想う気持ちとして、遺族がいろいろと考えた力を使ったりする事に意義があるんだろうか?

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2011年01月24日 | Weblog
大寒の日。作ってるホームページ(なぜか結構作れるようになったんですよ)の写真を撮りに午前五時起床。
車を飛ばして海に行ってきました。波に洗われた砂浜は明け方の空を反射させていて。とても神秘的でした。
海に向かう途中で月没も観られました。主観が混じる事で印象派的な風景になっているのか、それとも空気の膨張率の問題なのか、写真に撮った何倍も大きく見えました。
そういえば年末には流れ星を見られたし。この冬は景観運がいい気がします。



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2011年01月14日 | Weblog
PC用品を買いに、とか打ち合わせとか。最近秋葉原に行く機会が増えた。
初めて足を踏み入れた頃の秋葉原は緑が無くて排ガス臭くて、ゴチャゴチャしていて、駅の出口を間違えると右も左もわからなくなる町だったのだけれど。
打ち合わせで使うカフェ、ヨドバシカメラ、ソフマップが駅からばらけているお陰で3カ所を回っていただけで秋葉原の地図が頭に入ってきた。

学者には学者、土方には土方、犬好きには犬好き特有の表情というものがある。抱えている過去、思考などは外面ににじみ出てくるのだろう。

最近秋葉原を歩いていると高けー版画をカイマセンカ的な声かけや優しげな笑顔とともにメイドマッサージのチラシ渡されるようになってきた。ちょっwww違っっwおまっwwwww

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2011年01月01日 | Weblog
明けましておめでとうございます。岩手から帰ってきました。東京はアタタカイネなんて半日ぐらいはほざいていましたが、一日経ったらもう。
岩手は寒かった物の雪が積もってて楽しかったです。接待してくださった方はスーツにゴム長靴をブーツインでした。ブーツインしてない僕は歩くたびに靴に雪が入って冷たいたかったです。けどまぁ初雪だったので楽しく。
それに比べて東京の寒さときたら…
意味なく寒いというか、見返り無く寒いというか。

昨年は時間の無さにもがきながら半歩だけ前進できた一年でした。
半歩がうれしかった…
考えてみたら、5年くらいもがいた後の半歩だった気がします。今年はそれを一歩にしようと。
雪景色がきれいだから寒さに耐えられる、的な。


無題

2010年12月22日 | Weblog
駄文を書く時間がなかなかありません。
いつか時間ができたら書きたいこと。

•昼休みに30分歩くようになった。毎日毎日毎日、食べたくもない炭水化物に1000円払って肩身狭く資料読むのが嫌になり、なじみのタイ料理屋やサンドイッチ屋を通過。昼ご飯を我慢して30分ウォーキングするようになった。お金はたまるし、食事時のうるささとも無縁だしでとても具合がいい。体を動かすので眠気もこない。ただ目線が資料にいってるので轢かれそうにはなる。

•老人病院に入ったおばあちゃんの入院費が半端ない。月30万円。びっくり。
働かないで介護に尽くしたいところだけれども点滴など医療業務が関わるためにそうもできないらしい。
現場の介護士は仕事がキツいのに格安のお給料で、
家族は月30万円もかかって
消費税は上がる。中間にとんでもない浪費家がいるとしか思えない。

•才能には望めない部分
才能というものが好きで、つまりは出来る人がやればいい、とか適材適所とかが僕の思考回路にはこびりついているんだけれど。(なんで蛮力や駆け引きの強さに欠ける僕は試合興味がないのだろうけれど)、最近になってようやく努力の効用がわかってきた。
努力の効用は信用と多様性なんだろうなぁと。そして第三者が求めるのはある程度の結果とその継続なんだろうなぁと。

•佳作
2年くらい継続して努力しているものがあり、僕はそっちの才能には欠けていると思うんだけれどもチリも積もればナントやらでだんだんと下駄が高くなってきたらしく。とあるイベントで5席に入選した。

賞というのは才能に与えられるものだと思っていたけれど。
審査する先生方も賞を出す経営者もたいてい忙しいから、第三者の作品が(才能点100+努力点0)で作り上げられようが(才能点10+努力点90)で作り上げられようがあまり問題ではないらしい。
いやむしろ。賞というのは努力をしてくれる人への励まし的な要素も強いんだろう。努力してくれてありがとう。今後も努力をして文化をつなげておくれ、と。という訳で地道に昼休み歩いている訳です。

•腐らない
才能でやって、うまくいかないとすぐさま腐る世代もカビを広げられるほどのスペースがなくなってきた。カビはすぐさま拭く。

•才能
そんな努力偏重の中、とある才能あふれたものを目にして。なんだか日々のくぐもった世界が洗い流された気がした。やっぱり才能は美しい。キラキラしている。
努力とか積み重ねなんかで才能を汚さないでほしい。
僕の美的感覚からいえば努力なんかで枠にはめたり、ほかの凡庸なものと交わるように能力を広げないでほしい。なんて思うけれど。
なんか「腐らない」を指標にすると思考はストップするけれども生きるのは楽。

•PCが壊れた
モニターがなくなったらとても清々しい気分で、勤務時間が気楽だった。
きっとPCのモニターが放つ光は人の心を傷つける物質が含まれているにちがいない。もしくはPC仕事が出来なくて暇だったからかどっちかだ。

•新しいiMACが来た
使いやすくてびっくり。マウスでスワイプできるってとても便利。
マックのこういう使いやすさが好きなのだけれども、経済ニュースを見ていたらどうもI PHONEやI PADやMacが売れても部品工場など日本の中小はあまり儲からないらしい。最近スマートフォンが好調で部品工場の景気が良いのだとか。
アドビのソフトも充実してきたし、「誰が買うんだよ」と思っていた東芝や三菱のPCに…
でも使いやすいんだよなぁ、マック。

•賞
なんだか文章を書いていたら気持ちがよくなってきた。とある賞について。
あれは賞なんか狙わずに自費出版にして同人誌的な売り方すれば(売り上げ-原価分)のヤバい収入になっただろうし、商人の算段で無駄な尾ひれ胸びれを着けられなくてよかっただろうになぁと、横目でみている。
才能ってやはり生まれ持ったものだろうけれど1冊分書く力があるなら、出版を重ねる間にうまくなっていくだろうし。徐々に徐々に力を着けて最終的に、よいものにたどり着けばいいのに。
外野を気にしないでがんばってほしいです。世界には心を腐らせるものがいっぱい。

•鬼に関する本を読んでいて、なかなか面白い。
鬼というのは元々は鉄の技術を持ってきた朝鮮人、もしくは製鉄に関わり、熱で肌がやけ、髪が逆巻き、視力を悪くして目を琥珀色に変えた製鉄従事者(多くが貧しさからつれてこられた農民だった)の異質さが元だそうで。
やがて平安時代の闇への恐怖や仏教の餓鬼道などが混じって形作られたらしい。

現代の感覚としては中国の「鬼」は「卑しいもの」で(日本軍の将校をさした「東洋鬼」とか小泉元首相を揶揄した「小泉小鬼」とか)、日本の鬼は「退治されるもの」(鬼畜米兵)とか)といった感じで、えらくかわいそうな感覚。
などなど。調べてみるとなかなか面白く。
更には「鬼追い祭」なる奇祭を発見。
スペインの「牛追い祭り」的な、「風と共に去りぬ」的なおしゃれなものを期待させる名前です。


ファス

2010年11月11日 | Weblog
僕の学生時代。時代は格差社会の幕開けで、片方にはホリエモンい代表されるITバブル、もう片方には戦後経済を支えてきた中小企業の倒産や技術流出が現れながらも、別段問題視されてはおらず、当時の小泉首相なんかは中小企業は痛みに耐える方向で、人間を契約社員の形にして人件費を抑える事で大企業を助ける方向で、という政策を二期とおして行っているような時代でした。
今書いてもイライラしますが、学生だった僕はもっとイライラしていて、理想主義的に左に傾き、不破哲三が訳した資本論を借りてワクワクしながら帰ったりしてました。
不況と相まって左傾思想は3年続きましたが、勉強している中でどうもこの社会主義って言うのは人間に実現出来ない政策だなという感想が強くなり、反転、まだ倫理が生きていそうな自由経済主義に傾き、なんだかん今も続いている。

左がうまくいかなかった理由は権力の偏りだった。
平等を実現する為の抑え込んだ武力
平等にパンを配る為に発生した、配給役という権力
加えて
画一的な生産によって抑え込まれた人間の創造力と言うチカラの苦しみ。
「理想主義から始った集団はうまくいかない」
なんて格言があるけれど、
理想と人間性というのが往々にして釣り合わず、崩れてしまうらしい。

何が言いたいのかと言うと、
左寄りの政党が誕生して、なんだか徐々にファシズム的になって、告発者がでて、静粛しようとしている。

という風景が寂しいのです。

karate

2010年11月10日 | Weblog
久々に体を動かしました。
休日の代々木公園で。外人に「karate!」とか言われながら体を動かしました。
Y山さんおめでとうございました。バカバカしい話をして、体を動かして、寝て。最高です。

ふらふら(さ)

2010年11月09日 | Weblog
仕事が入り組んでいてクタクタです。

フラフラで帰って、寝たら朝で、ふらふらになって出勤してます。
以前O家さんが「朝起きると子鹿のようになっている」という話をしていたのを思い出す。
あの時はどんな状態なのかよく分からなかったけれど。あーこのフラフラね。

日本文化

2010年10月29日 | Weblog


風が年末の風ですね。いかがおすごしですか?
韓国旅行に行って以来民、族的なアイデンティティークライシスに陥ってしまい、日本文化について書いた司馬遼太郎、加藤周一、岡本太郎、坂口安吾の文章を読み直しました。え、みんな左より?まぁ知識人てのは大概左に傾いてるもんですよね。
今まで感覚として納得出来ずに読み飛ばしていた、
岡本太郎が熱意を持って朝鮮を語っている部分。
司馬遼太郎がやたら話を朝鮮文化にもっていく部分
加藤周一が外国人から見た日本について、「かつては素晴らしい文化をもっていただろうし、戦後すばらしい経済成長した、が現状についてはよく分からない。」程度だ、といっているところも
韓国旅行以来なんとなく理解出来るようになった。

今の僕が思うには、地理的な日本とは
大陸文化の余波を受けながら、時々ガラパゴス化して独自の変化を遂げた島、
なのだろう。

読んだ物の中で一番ショックだったのは明治~昭和の新宿を写した写真集だった。


(明治の銀座、大正の新宿)
ムーランルージュ(昭和)とか伊勢丹とか、もあるんだけれど、それ以外はほぼ長屋。大江戸八百八町的な、「美しい日本文化」との断絶感満点。明治大正昭和戦前の文化意識ってひどかったんじゃ…まぁそれは今でも変わらないか。

敗戦国、地震国として、古い建物が無いのはある程度仕方が無いのだろう。
国がダメなら個人レベルで、と行きたいところだが、なんでも意識ってのは空間と環境に寄って左右されてしまう物らしく、
伝統もへったくれも無い空間で日本文化を理解し維持、継承していく作業を生活に採り入れるのもなかなか困難な話になってしまうんだろう。
味蕾の日本人が70年代、80年代のビルを見ながら、戦後一時期世界の中心だったことを誇りとするような事になる前に、だれかビルぶっ壊してお城かラピュタか作ってくれないかなぁ。