光と影のつづれ織り

写真で綴る雑記帳

韓国世界遺産の旅 高敞支石墓遺跡、百済歴史遺跡地区

2017年10月22日 | 海外旅行

 ちょうど1年前は、韓国世界遺産の旅の真っ最中でした。

そのブログ記事は、次のようにアップしましたが、韓国南西部とソウル周辺部

が残っていましたので、忘れないうちに再開します。

海印寺(2017.2.10投稿)

良洞民俗村、安東河回村(2017.2.7投稿)

慶州 その1(2017.1.17投稿)

済州島 その4 城邑民俗村、城山日出峰(2016.12.31投稿)

済州島 その3  万丈窟、サングムプリ噴火口(2016.12.29投稿)

済州島 その2(2016.12.18投稿)

済州島 その1(2016.12.7投稿)


2016.10.20(木)朝、全州市のホテルから歩いて10数分の食堂で、「全州コンナムルグッパ(もやしのスープ御飯)」

をいただく。 朝の7時15分、食堂内には朝食をとる作業員やサラリーマン風な方が結構いました。

 

 


朝食後、全羅北道の高敞(コチャン)へバス移動。


高敞支石墓博物館に到着。 壁面パネルに、密集した支石墓の写真。

 



韓国の世界遺産マップが展示されていました。

今回の現地ツアーガイドの朴明淑(パク ミョンス)さんの熱心な説明。

高敞支石墓遺跡の位置は、ガイドさんの顔の左側のところになります。

ただ、2015年に世界遺産に登録された百済歴史遺跡地区は、載っていません。

百済歴史遺跡地区は、ガイドさんの頭の左上のところになります。

 



高敞支石墓の特徴や形式などの、写真パネル説明。



博物館の屋上からの展望。 中央に高敞川が流れ、その向こうの山麓に支石墓が連なっています。

野外展示場には、先史時代の村などがありました。

 

 



山麓部を望遠で撮影。重機や人影から、支石墓が結構、大きいことがわかります。

支石墓は、西ヨーロッパや中国、日本でも見られますが、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれ

2000年に、高敞、和順、江華の支石墓群が世界遺産に登録された。



またバス移動で、次は益山(イクサン)の百済歴史遺跡地区、百済弥勒寺址です。

広大な敷地の中央に、九重の石塔、左に建築工事の覆いのようなものが見えます。 

 

7世紀初頭に建てられた百済最大規模の寺で、三塔(木塔1、石塔2)と三金堂からなる。

当時の想定復元模型が展示されているようですが、私たちのツアーでは見学せず。

ブログサイト「韓国古代山城探検!」から模型写真を転載。

 


 


 弥勒寺址の俯瞰写真。 1990年の写真で、右の白い石塔(東塔)は、この年に復元して建てたもの

中央は木塔址のみ。 左の塔(西塔)は国宝で、唯一現存するが、崩壊や傷みが激しいため、解体復元中。

 


 


 東塔。かなり大きい。

 

 

 

西塔は、1915年に統治していた日本により、補修工事が行われた。 補修後の写真。

 


 


 1910年の補修前の写真と、補修の設計図。  崩壊が激しいが、建築遺跡として確かに価値は高い。

 


 


 解体復元工事の覆いの中です。

あれっと思ったのは、創建当時を復元しているように見えたためです。

実際のところは、よくわかりませんが、解体前の姿で補修・復元してもらいたいと強く思いました。

 


ブログサイト「韓国古代山城探検!」から、2008年当時の復元工事中の写真を転載。

 

上の写真は解体中の1階部分になりますが、2009年1月に柱石の中から、舎利荘厳具が発見された。

舎利荘厳具は、石塔を立てる際に奉納されたもので、舎利壺や舎利奉迎記、各種貴金属など貴重な資料となった。

 




昼食は益山の食堂で、海鮮カルグッス(平打ち麺)

店の看板の中央には”しゃぶしゃぶ”と書いています。(ハングルを勉強中なので、ここだけ読めます)


丸ごとのイカは、ハサミで切ってくれました。 

海鮮具材を食べた後に、麺を入れて食べるのは、日本と一緒。


 


 

 

昼食後、百済の都があった扶余へ

扶余のマップです。



世界遺産・百済歴史遺跡地区の扶蘇山城の百花亭からの眺め。

眼下の白馬江(錦江)は、古代中国、日本との交易路の役割を果たしていた。

丁度、クルーズの黄布帆船がやってきました。







百花亭は、、唐と新羅の連合軍に攻められて、百済が滅亡(660年)するとき、宮廷の女性達が節義を守るため、身を投げた場所で

落花岩という崖の上にあります。   韓国の子供たちが、静かに眺めていました。




百花亭、宮女たちの慰霊のため1929年に建てられた。


 


続いて、扶蘇山城の麓の定林寺址へ来ました。

百済時代に都だったサビ城(地図の中で、羅城で囲まれた区域)の中心に建っていた寺。

百済時代の遺跡として残っているのは、石塔のみ。(国宝)



石塔の奥の伽藍にある石仏。  660年に、百済の滅亡とともに焼失した定林寺、高麗時代の1028年に新しく建てられ、その

本尊仏となった石仏。 頭部は後代に造られたものとのこと。


韓国の昔の国家が造った巨大寺院(新羅の皇龍寺、百済の弥勒寺、定林寺)は、大半が破壊、焼失していることにウーンでした。



次は公州へバス移動。  宋山里(ソンサルリ)古墳群で、7つの王陵がある。

5、6号墳と7号墳(武寧王陵)のレプリカがある模型展示館に入ります。




6号墳の断面 四神が描かれている。




武寧王(第25代の百済王)の胸像




武寧王陵は、1971年に排水路の工事中に偶然発見された。 他の陵墓はすべて盗掘されているが

奇跡的に1500年前の状態で発掘された。 被葬者がわかる唯一の王陵。


王と王妃の木棺は、国立公州博物館に展示されているので、Webサイトから引用。

木棺は日本特産の高野槙(コウヤマキ)で作られているそうだ。




武寧王陵の石室内壁もレンガ製で、描かれている模様は蓮の花。



実際の武寧王陵の石室入口です。




この日最後は、公山城です。

百済の創建は、紀元前に、今のソウルである漢城(ハンソン)から始まったとされ、北方の強国、高句麗に悩まされた。

西暦475年、高句麗の侵攻によって熊津(ウンジン/現在の公州市)に都を移す。 その山城が公山城(コンサンソン)

熊津時代に再び力をつけた百済は、538年、泗沘(サビ/現在の扶余)に遷都した。

錦西楼という楼門への道を登っていきます。




城壁上の道から市街の眺め。  時刻は17時58分



一周して、錦西楼に戻ってきました。








夕食は公州市内の食堂で、蓮の葉包み御飯定食。



公州から宿泊先の大田市までバス移動。 夜9時前、ホテルの部屋の窓から市内を撮影。

セブンイレブンが見えたので、買物に行き、身振り手振りで何とか買えました。

 


部屋のなか。 スマホの歩数計を見ると2万歩! 風呂に入ってバッタンキューでした。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「生誕120年 東郷青児展 抒情と美の秘密」Web内覧会

2017年10月16日 | アート 西洋画

 2017年9月19日(火)「生誕120年 東郷青児展 抒情と美の秘密」Web内覧会に行ってきました。

 フライヤーです。 

 東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館のHP  http://www.sjnk-museum.org/ 

 

頂いた図録の表紙がこちら。

 よくできた図録で、作品の図版以外にも資料などが充実し、東郷青児の来し方、当時の状況など

が詳しく、かつ、読みやすく、まとめられていました。 企画された方、6人の執筆者、特に中心

となって執筆・編集された中島啓子さん(東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館 主任学芸員)

に拍手を送りたいと思います。



 内覧会は18:30開始、美術館のある42階のフロアからの夜景が美しい。

 

 

 

 実は、私は東郷青児の独特の女性画には、アートとして興味が湧きません。

ですが、東郷青児がどうして日本の大衆やメディアの人気を得たのか、そこを知りたいと思っていました。

展覧会の趣旨も、東郷スタイルが成立したとされる1950年代までの画風の変遷をたどるもので、ぴったりでした。

 

 それでは、東郷青児の18~31歳まで


 変わった服装、イケメンの顔立ち、早熟で野心満々の若者に見えます。

繊細な感じもします。



左側の作品が二科展に初出品して二科賞を受賞した《パラソルさせる女》

日本の前衛は、この作品あたりからと言われており、18歳の青児が、その6年前、フランスで発足した未来派を

見よう見真似で取りこんだように思います。




1921年 24歳で渡仏。

渡仏後すぐの、左側の風景作品《ブローニュの森の風景》は、何の変哲もない感じで、右の女性像《巴里の女》もスタイル的には平凡な感じ。ただ、繊細な

優しさは、感じます。

 

 

 


渡仏2年後の作品。  右側の作品《帽子をかむった男(歩く女)》は未来派展に出品した作品。 技巧が上がってます。

左側は《明代像》東郷青児の最初の妻がモデル。 単純化して立体感を出す、東郷スタイルの兆しを感じます。

 




左端は《髪》1924年、 右は《ベッド》1925年 

東郷は1925年頃より、独自のスタイルを探求した。 ルーブル美術館にも頻繁にいったようだ。

色数や彩度が抑制されて、滑らかで、単純化した立体感のある絵がつくられた。


 

 

 

左は《ピエロ》1926年、 右は《サルタンバンク》1926年


《サルタンバンク》が、本人にとってパリでの最も充実した作品になった。    注 サルタンバンク:道化師、軽業師などの大道芸人 

《サルタンバンク》が出来上がったとき、東郷は嬉しくて、ピカソをアトリエに引っ張ってきて見てもらったそうだ。

ピカソから「自分の絵を見ているような気がする」と言われ、ギャフンと参ったと、後に感想を述べている。 藤田嗣治も見にきたらしい。

(左端で、そんな説明をしている方が、中島啓子主任学芸員)

 

 

 第2章 恋とモダニズム 1928~1930年代前半

1928年に帰国した東郷は、その年の二科展に滞欧作を特別展示し、評価された。

そして、翌1929年の二科展に出品したのが次の作品

左《窓》1929年   右《ギターを持つ女》

《ギターを持つ女》で、後に東郷はこのように述べている。

”僕はサンティマンタリズムをほかの人ほど軽蔑しない。絵を描く動機が、サンティマンによって発火されることが屡々あるのだ。

この繪はそれの代表的なものだらう。 僕は甘くトロケルような絵が描いてみたい。・・・”

なるほど! デザイン的な構図、イラスト的な単純化のなかに、中間色の美しい色調と相まってセンチメンタルなムードが漂う。

 

 

 

 

この1929年には、東郷は心中未遂事件を起こしている。 心中未遂の相手”盈子(みつこ)”とはその後、引き離され、事件を取材にきた 

宇野千代と同棲。 4年後、偶然、再会した東郷と盈子は、ついに一緒になり、人生を全うすることになる。 

二人が亡くなった後、二人の愛娘のたまみ氏は「女性を描くと、自然とうちの母親になっちゃう。 違う人を見て描いていても。 究極 

の愛といえばそうかもしれない。 彼が気が付いていたかどうかはわからないけど。」 

 

 

 

心中未遂が1929年3月30日、この《ギターを持つ女》や《窓》が第16回二科展に出品されたのが9月3日~10月4日ですので、これらの作品は 

心中事件前後に制作されたと思います。  私見ですが、東郷スタイルは、この《ギターを持つ女》が端緒ではと思います。

 

 

 

一方、1929年には、超現実派の作品も制作。

《超現実派の散歩》 1929年     色調が美しい。


 



 

 

 

 

1930年の作品《手術室》                       右は《静物(ゆりの花》1930年

 この《手術室》は東郷が気に入っていて、その後の展覧会に何度も出展しています。

 

  

 第3章 泰西名画と美人画

1930年代半ばは、東郷の画業と人生の転機となった。

仕事では、1933年に帰国した藤田嗣治との交流を通じて、富裕層を顧客に持つ百貨店と

の繋がりを得、同時期に、東京火災(現:損保ジャパン日本興亜)から継続して仕事を受

けるようになった。

私生活では、1933年に明代との離婚が成立し、翌年の秋には心中未遂の相手であった西崎

盈子と再会、宇野千代とも別れて1939年に盈子と結婚した。


 

 

 

 

 

 

 

一方、雑誌と全集の刊行ブームに沸いていた出版界で、東郷は帰国直後から仕事を受けた。 

大衆化時代に簡潔で洗練された東郷のデザインが表紙や挿絵に採用された。

 東郷自身も翻訳を手掛けたり、劇場の舞台装置の設計をしたり、積極的にデザインの仕事を受注した。

森永やカルピスなど広告宣伝に力を入れた企業も、東郷に宣伝の顧問やデザインを依頼した。

 

 

 

 

東郷が美人画と称した一連の少女シリーズ

左《扇》1934年                 中央《テニスコート》1934年         右《黒い手袋》1933年

 



雑誌の表紙 右端のしおりは1934年、 左の3誌は1935年の刊行。

 

 

 

 第4章 復興の華

戦後の東郷の仕事は、二科会の運営と、出版物に加え、建築の装飾がが重要な位置を占めるようになる。

出版では、戦時中、抑圧されていた官能的表現を渇望した時代の雰囲気が伝わってくる。

 

 

 

 

 

 

1950年、新聞メディア系の週刊誌の表紙にも・・・・東郷の大衆への知名度は、高かったことが窺える。

 

  

 

 1952年、京都で大壁画を制作している。 

  

 



左は壁画の下絵で《平和と団結》1952年  東郷は《女とリボン》の題にしたかったが、注文主の朝日側がつけた題らしい。

 右は《渇》1953年  1952年に日本は主権を回復したが、東郷は、戦争が残したものがひしひしと痛感され、一方、東西冷戦で世界を

おおう大きな不安が胸中にあって、こんな絵が生まれたと述べている。

 

 

右から、反時計回りに《四重奏》1955年、 《白い花》1956年、 《バレリーナ》1957年

 

 

 右から、反時計回りに《脱衣》1958年、 《望郷》1959年、 

 

 

  右から、反時計回りに《干拓地》1966年、 《レダ》1968年、 《若い日の思い出》1968年、

左端の 《若い日の思い出》は、安田火災のカレンダー(1969年)で、東郷は1960年代以降、二科展出品作において貧困などの社会的テーマや

アフリカや西アジア諸国のエキゾチズムなどに挑戦を続けたが、戦前から東京火災(その後、安田火災、損保ジャパンに)は、叙情的な女性像を

独自に東郷から購入して、カレンダに掲載するようになり、可憐な女性像の画家という東郷像が浸透する一因になった。


東郷は、絵画に対する理論とか理屈、更には哲学的な態度とかは、糞くらえで、感情をよりどころとして、描きたいように描いた。

特に女性に対して、甘くとろけるような抒情的な絵を好んだ。 そうした個性は、実際の女性関係にも顕れ、心中未遂事件などを

おこしたが、逆に、メディアなどに多く取り上げられ、東郷青児の名前が広く知れ渡ることとなった。

泰西名画調を欲求する時代とも合致し、人気、知名度がスパイラル状に上がっていった。 芸術性という点では、疑問はあるが

絵肌の技巧は、一級品であることは間違いない。

昭和という時代に、西洋画界のスターの道を歩んだ画家の展覧会だった。



見終って、42階の窓から景色を見る参加者。  ここの柱に東郷の絵を架け、スポットライトを当てると、いいだろうな。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする