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自分が日々考えたこと(思いつき、空想、反省、楽しみ・・・)

安全評価力:自分の身は自分で守らねば

2012-05-21 00:51:05 | Weblog

[安全評価力:自分の身は自分で守らねば]

福島原発の事故や度重なる交通死亡事故を見て、本当に「何か打つ手はないのか」とやるせない気持ちになる人は多いだろう。今、日本では領土問題も含め、エネルギーや食品、医療などあらゆる分野で安全の評価と確保が話題になっている。日々の出来事や事件報道で知る限りでは、日本の行政には国民を守るための安全評価力が備わっているようには見えない。行政には国民を守る気持ちが欠如しているのではないかとさえ思う。我々を守ってくれる人は誰もいないようで大変不安だ。今や、自分の身は自分で守らねばならなくなってきた。

安全を「他人任せにする」はずはないと思うが、突き詰めて考えてみると、そもそも日本人は自分で自分の身を守る精神に欠けているのではないかと思うことがある。幕府の力が強大で、あまりにも平穏な江戸時代が長く続いた所為なのか、兎に角、「お上」に頼りっぱなしの暮らしが当たり前であった。その「お上」がここに来て頼りにならなくなったから困ったものである。任せておけば何でもかでも然るべく対処してくれた「お役人様」がいたのは昔の話となりつつある。

官僚組織が退廃してきた今、役人は大衆の顔色を伺いながら、組織だけは守ろうとしているように見える。もともと大衆は勝手で気まぐれである。大衆の言う通りやっていたら、みんなが不幸になるのは必然であろう。多数決にしても決して物事を正しい方向に導くとは限らない。旨く行かなかった時は一緒になって悔やむことはできるが、賛成に投票したお互いを罵り合い自滅するのが落ちだ。後悔しないためにも人任せにせず自分に責任を持つ心構えが必要である。

ところで、安全システム設計手法の一つに「フールプルーフ(foolproof)」というのがある。これは「馬鹿に気をつけろ」と言うことではない。専門家でなくても、素人でも安心して操作運用できると言うことである。物は必ず故障するし、人はいくら頭が良くて、教育レベルが高くてもミスを犯す、そして事故は起きる。だから、ミスを犯させないような設計、ミスしても大事に至らない設計が重要である。

日本人は頭が良いし、教育レベルも高いから、人さえしっかりしておれば自然と旨く行くと思っている人が多い。バス事故の例でも運行管理や運転手の技量などソフト面を問題にした報道が中心であった。道路の施設整備などハード面の不備はあまり話題にならなかったように思う。しかしながら、賢い技術者なら、当然、道、車、人など三位一体で安全設計をするはずである。まして、安全装備十分なバスでありながら、一瞬の居眠りで多数の死者を出すことはなかったはずである。道路施設の安全設計が不十分であったから大事故になったのである。ちょっと昔、ガードレールの端部品が取付いてなくて、ガードレールが運転手を串刺しにした事故があったのを記憶している人もいると思う。今回もガードレールと防音壁の連携が取れていれば、バスが誤ってぶつかっても、スムーズに弾き飛ばされ多数の死者は避けられたのではないだろうか。

原発事故の対応においても責任逃れや責任転嫁発言が相次いでいるが、そもそも原子力事業は費用対効果を考えて、必要最小限の安全設備と専門家集団で構成していたはずである。それが素人集団で遣っていたとは何たる言い訳であろうか。それなら最初から、フールプルーフの考えで安全システムを構築できたかもしれない。運用者は自分たちを含めて日本人は頭が良いし、教育レベルも高いので欧米とは格が違うのだと誇示したいがために手を抜いたのであろうか。

原発事故を見ても、高速道路のバス事故を見ても、大きな被害となったのは責任のある立場の人たち、あえて言えば役人が本来やるべきことをやってなかったことに尽きると思う。日本の行政は多くの役人を抱えながら、遣るべきことを遣らないのは、誰も責任を取らなくても良い集団的無責任体制で運営されていることに起因するのではないかと思う。本来、優秀な人はその能力を世のために活用する責任があるはずである。技術者や専門家が相応に評価され、その能力を遺憾なく発揮できるようになれば、責任もおのずから備わるようになるはずである。しかし、今の日本には優秀な技術者や専門家が責任をもって活躍できる行政システムが確立されていない。問題が起きるたびに新しく独立した専門評価機関を設置して対応しているのが現状である。

新しい機関ができても、任せられる専門家がいないと言う更なる別の問題もある。昔から日本では頭脳の流出が取り沙汰されるが、実は日本には専門家が住みにくく、優秀な人が評価されにくい風土がある。ここに、日本病の一つ問題があるようだ。日本の教育では差別だと言って優秀な人を評価しない傾向があり、結果的に能力を発揮する場を与えないことになってしまう。優秀な技術者や専門家にもスポーツ選手が受けると同様な憧憬や尊敬を受ける権利があるはずである。日本ではそれがないので、頭脳の流出に繋がるのである。現状打開策として、行政組織をもっと専門技術者に責任と権限を持たしたものとすることが一番効果的だと思うがどうだろう。

誰も守ってくれないので、自分の身は自分で守らねばと言ってはみたが、個人レベルで安全確保を実践して行くことは大変である。今、我々にできることは、身の回りで起こっている様々な事象に対して安全評価を自ら下す力量を養うことであると思う。安全評価の概念が世に浸透すれば自然と社会の意思として安全が確保されるようになるであろう。そのためにはフェイルセーフやフールプルーフ、更にはフェイルオペラティブなど安全設計手法を学ぶことがひとつの切り口になるかと思う。評論家やマスコミを通じて世論を盛り上げて改革を行うなどと言う甘い考えも捨て難いものであるが、兎に角、安全に関して自分に何ができるのか、遣りたいことをできるのは誰かを見極めることが重要である。自分で身を守ることができなければそれを遣り遂げてくれる人に託さねばならない。

注:フェイルセーフ(Fail-safe)とは故障や操作ミス、設計上の不具合などの障害が発生することを予め想定し、起きた際の被害を最小限に留めるような工夫をしておくと言う設計思想である。その中で特に人的ミスに絞って対応しようとする考えをフールプルーフ(Foolproof)と言う。フェイルオペラティブ(fail operative)とはフェイルセーフを一歩進めて、故障が発生してもサービスを継続して提供できるようにする考えである。


女は本当に地図が読めないのか

2012-05-01 23:52:32 | Weblog

[女は本当に地図が読めないのか]

 「話を聞かない男、地図が読めない女」と言う本が出版されている。この表題は男女の違いと関係を旨く言い表していると思う。本の内容は出版物に譲るとするが、女は本当に地図が読めないのか興味のあるところである。

説によると原始時代から始まって男と女は違う進化を遂げてきた。男は遠くまで出かけて狩猟を行い、女は近場で木の実や果実を採った。こうして長い時間を掛けて、男と女の脳は異なる方向に進化してきた。狩猟には遠くにいる獲物を追跡するため、男ははるか前方が見えるように進化した。女は忍び寄る捕食動物をいち早く見つけるため近場の視野が広くなった。

かなり前になるが、所ジョージの出演しているTV番組で「女は本当に地図が読めないのか」について面白い実験をしていた。2種類の地図を使って、男女数人を実験者にして、どちらの地図が目的地により辿り着き易いかを競う実験である。距離や大きさ、配置を忠実に再現した一般的な地図では男性は確実に目標地点に到達するのに対して、女性は迷ってしまって到達できなかったケースが多く、到達しても時間が掛かり過ぎた。これを見て本当に女は地図が読めないのではと思った人は多かったはずである。しかし、もうひとつの地図、これは空間的には合ってないが目印となる店や建物を散りばめた目標地点までの経路を標した案内図であるが、これを使った場合には圧倒的に女性の到達率が高くなり、逆に男性は殆ど到達できなかった。この様式のものはグルメ店の案内図やレジャー施設へのアクセスマップ、ルートマップなどに多く採用されている。インターネットでは地図ソフトを直接参照できるので、従来の空間的な地図も多く使われているが、女性にも解りやすくするポイントはガソリンスタンドやコンビニ、銀行など目印となる目標物が如何に多く含まれているかである。最近の車には不可欠であるカーナビもこれら目標となる店舗情報は常時更新しているようだ。

もうひとつの実験も面白い。人通りの多い街中を歩く実験で、百メートルくらいの間に不審な人たちを数人配置しておき、地図と同様に男女数人に歩いて貰うものであった。「途中で不審な人を見かけましたか」の質問に対して女性は全員「はい」と答え、不審者の様子もしっかりと記憶していたのに対して、男性は誰も存在にさえ気がつかなかったと言う結果であった。アベックのケースでは女性はきっちり見ているのに男は全然気づいていなかったのである。

このTV番組を見てから、改めて家内の行動に注目したところ「女は視野が広く、よく周りを見ている」ことが解ってきた。よく夫婦で買い物に出掛けるのであるが、私はそれらの存在すら認識してないのに対して、家内は道路の脇にある看板や人形、飾りをよく知っており、少しでも変化があるとそれを話題にするほどである。

男は対象物の形や大きさ、空間に占める割合、動き、配置などを思い浮かべ、更に、対象物を回転させたり、障害を回避しながら進んだり、立体的にものを眺めることができる能力を持っており、頭の中で地図を回転させ、どっちに進めばよいか判断できる。即ち、男は空間的な「地図が読める」のである。一方、女は空間的な「地図は読めない」が視野が広く、周りの変化を緻密に把握しており、どこが安全でどこに隠れれば良いかを確実に判断できる。案内図的な地図は完璧に読めるのである。

この違いは男女の結びつきに大きく影響している。男は本能的に女に与えたいと言う欲求があり、遠くまで狩に出掛けようとする。そして、その努力を評価してくれる女を求めているのである。女が幸せなら、男は満足する。これに対して女は自分の周りを見て立ち位置に満足すれば幸せと思うのである。男が女を満足させている限り男女の関係はうまくいく。しかし、男女の視点には大きな違いがある。男は常に遠くを見据えており、近場には関心が薄い。だから女が周りの変化に満足できなくなっても、男はなかなかそれに気づかない。こうして女は満足させてくれるほかの男を求め、男は自分の与えるもので満足してくれる新しい女関係を求めるようになる。

男は近場のことに関心が薄いので、女が一生懸命、周りのことを話しても聴く耳を持たず、女は遠くには行けないので遠くのことは「男任せ」となり、最終的には無視することになる。結局のところ、男と女は肉体的にも精神的にも似て非なる生き物である。所詮、男は女を理解できないし、女には絶対なれない。女とて男の気持ちを理解できるはずがないのである。「話を聞かない男、地図が読めない女」と言うこの地図の話も男女関係の本質を表しているのであり、心しておく言葉のひとつであるに違いない。