TELL IT LIKE IT IS

自分が日々考えたこと(思いつき、空想、反省、楽しみ・・・)

出会いの勧め [好きと嫌い]

2011-07-26 21:17:11 | Weblog
[好きと嫌い]

昔の人は言いました。人には好きと嫌いがある。
でも、好きと嫌いに理由は必要ありません。

男はシャイだから、恋する理由を求め勝ち。
女の恋は宇宙の意志、理由なんて要らないわ、全てが恋の理由だもの。

一目会ったその日から恋する乙女になりました。
でも、恋する兄ちゃんはないようです。

嫌いに理由があれば、それを除けば誰でも好きになれるはず。
そんな馬鹿なことはありません。
嫌いな理由を挙げるのは優しい気持ちの思いやり。

嫌いに理由はないし、必要もない。
理由を知りたいのはストーカーだけ。
だから、ストーカーは破滅するしかないのです。

長い恋愛は嫌いを好きに変える試練の場、結婚しても無理がある。
運命の出会いを信じよう。短い恋も宇宙の意志なら長続き。

恋の波動は言葉のみ。目と目では決して語れない。
「好きです」の第一声は自分から。
「私も好きよ」でゲーム開始。

恋をしましょう、恋をして浮いた浮いたで過ごしましょう。
恋は相手の存在を確認すること。一緒にいることが恋です。
遠距離恋愛は道外れ。

恋をするなら、出会いに賭けましょう。
出会う機会を多く作りましょう。
きっと、宇宙の意志にあった異性に出会います。

運命の人に!

情報公開と情報の共有化

2011-07-25 01:52:38 | Weblog
[情報公開と情報の共有化]

福島原発の事故に関して、牛肉の放射能汚染の問題などは情報公開の不足が原因であると責任を追求する声が多い。肉牛に宮城県産飼料藁が使われており全国に広く流通していたことに関しては決して情報を隠蔽したわけではない。放射性物質(放射能)の放出と関連付けして情報を理解できなかっただけであろう。原発事故で放射能が大量に放出されたことが的確に公表されていたら畜産関係者なら誰もが直ぐに気が付く問題である。静岡のお茶の問題も同じである。

過去、情報公開が問題になるケースでは、情報の隠蔽が事件につながった例が多いが、今回の原発事故の場合は事情が違うように思われる。情報の発信者は常に情報の価値を判断し、その判断基準に従って情報の広さ深さを決めて発表するであろう。この場合、当然ながら、情報の発信者は自分の専門分野/得意分野外の情報については御座なりになりがちである。また、情報を公開しても理解できるあるいは問題解決ができる者か居ないだろうと考える情報については省略してしまいがちである。従って、情報の目的、影響、重要性など情報の価値が不明なものについては後になって情報公開が問題視されることが多いわけである。

日本では情報を公開しても「公開」と言えるほど伝わらないケースも多い。情報公開が遅れたと指摘される多くは情報を受ける側が情報として認知してなかった場合が多いようである。根底に「答えがあるあるいは解決できる可能性がある」と判断されるもの以外は情報として位置付けされないのではないかと思う。

日本で情報が広く行き渡らないのはあらゆる問題解決が特定の一部のグループ(派閥)で行われていると言うことである。従って情報の共有は派閥内に限られるということになる。ある派閥内では非常に多くの情報が共有されるが派閥外にはなかなか出て行かないということである。原発事故の例では政府原子力関連機関あるいは東電関連の派閥内では問題解決に有効な非常に多くの情報が行きかっていたのにも拘わらず、農水省や厚労省には伝わってなかったことになる。

戦争の場合の情報公開(収集)と共有化の重要性は議論を待たないと思う。また、戦争だけでなくあらゆる場面で情報収集と共有化は重要であることは衆目の一致するところであろう。日露戦争時、陸軍の戦死者の半数(4万人以上)が脚気による病死であり、海軍はほぼゼロであった事実は脚気の原因についての情報交換がなされなかったためである。言い換えれば当時森鴎外が率いていた陸軍医派閥が情報の共有化を拒否したためである。これで森鴎外は医者を辞することになったかも知れないが、野木大将も元気な兵を用すればもっと輝かしい戦果を挙げ得たかも知れない。太平洋戦争においても陸軍と海軍がお互いの利害のために手を結んで戦争を始めたにも拘らず、これも軍官僚派閥の壁のために情報の共有化がなされなかったため連携した作戦が取れず、また有効な資源投入が行えずに一方的に敗戦した。陸海軍連携して一体となって戦っていたら違う結果になったかも知れない。これらの史実と、今の情勢を比べて見ると現在の官僚政治は正にこれらの引写しと言えるのではないかと思う。省庁官僚派閥の壁のために情報の共有化がなされず、従って有効な資源投入や連携した政策が取れずに国民の不信を募らせているのではないだろうか。

話を戻そう。情報公開と共有化の重要性は誰もが認識するところである。しかし、情報活用に関しては未熟分野であり、情報が公開されてもその価値を判断し、具体的にどう使うかについて組織的な手法を持たない。結局、個々の情報収集能力とその解析能力に頼らざるを得ないのが実情である。勿論、情報の隠蔽は許されるものではないが、隠蔽するにはそれなりの評価能力が必要である。一番恐れるのは自覚のないまま重要な情報を破棄あるいは喪失してしまうことである。これは私が思うのであるが、日本人の場合記録やデータ収集に関して関心が低いように思われる。欧米人のように何でもかんでも集めて残すと言った精神があれば情報の喪失はある程度防げると思われる。更に、日本人には宗教の問題かもしれないが建前と真実を使い分け、常に記録には建前の方を留める習慣がある。米国のように司法取引により真実を明らかにし、将来の布石とするといった資質に欠けるため情報を軽く扱う傾向がある。

これら日本人の特性を考慮し、情報公開と共有化を推進するには、何でもコンピュータ処理できる形で記録を残す精神の普及(教育)を図る。また、情報の共有化には強制力が必要である。人員の交流、リーダへの権力の集中などのためにタスクフォース、プロジェクトチームなどの編成及びそれへの権限委譲の法制化が必要であろう。更に、リーダほか構成メンバーの情報処理能力向上のためにプロフェッショナル教育が重要である。警官が誰かを捕まえて、「お前は何か悪いことをしただろう。はい、これこれを遣りました。そうか、ではそれで逮捕しよう。」的な情報収集能力しかない日本。情報に関して国民総馬鹿時代からの早期脱却に向けて、情報公開と共有化など情報管理に関する教育の建て直しが急務であるのではないだろうか。