「君子危うきに近寄らず」
車を運転しているとこの言葉が何時も頭を過ぎる。
実は、私はスピード狂かもしれない。と言うのは今までに、バイクで1回、普通車で4回ほどスピード違反で捕まっているからである。中でも高速道路で50km/h以上超過で「ネズミ捕り」に引っ掛った時は1発で90日間の免停を食らった。その時の罰金(反則金ではない)や安全運転講習(免停期間の短縮)が悔しくて、直後レーダ検知機を購入したほどである。以来、ネズミ捕りを遣っていそうな所では安全スピードを心掛けている。最近のレーダ検知機はGPS組込となっており、よく「スピード違反の取締りをする地点」がデータとして保持されているので、電波が検知されなくても、その付近に接近すると警報が自動的に鳴るようになっている。そのため、取締りデータの更新もビジネスになっているようである。
勿論、レーダ検知機を導入したのは本当の安全への反省ではない。若かった頃は冒険心もあり無理してスピードを出していた。しかし、今は運転を楽しむために安全な場所で一寸スピードを出す程度である。ところが、通行量の極めて少ない田舎の高速で某県警の点数稼ぎに付合ってしまったのである。レーダ検知機導入は「自己嫌悪以外の何物でもない」と言うのは不謹慎かもしれない。ともあれ、周囲の皆から「スピード違反で捕まったのは警告だ、罰金で命を買ったと思えば安いものだ」と言われた。その通りだと思う。スピード狂のままでいたらそのうち事故を起こしてあの世に行ってしまったかもしれない。
前々から「君子危うきに近寄らず」運転には関心を持っていた。しかし、それまでは標語みたいなもので実際には安全運転を実践していたかどうかは疑わしい。ところで、私が「君子危うきに近寄らず」運転の信奉者になったのは幾つかの危険に出会していたからである。
[交差点で後進]交差点を右折するため、同じく右折しようとしている車の後で待機していた時のことである。突然、前方の車がバックして私の車にぶつかった。対向車を避けようとして思わず後進したのだろうか。
[交差点で追越し右折]右折するため、交差点内で停車していた時である。後方から来た車が私の車を追越し態に曲り込んで左前部にぶつかった。左側から回り込んで追越し右折し先に行く積りだったようである。事故調査に来たお巡りさんには直進して横を通り抜けようとしていたと弁解していたが、回り込まなければ絶対ぶつからない。運転していたのは会社役員と言っていたが、よくも平気で惚けられるものだと思った。
[突然Uターン]前方の赤信号で停車しようと減速していた時のことである。対向車レーンを走っていたトラックが突然こちらのレーンに飛び込んで私の車の横っ腹にぶつかった。道を間違えたのでUターンしようとしていたらしく、対向車列に隙が出来たので慌てて割り込もうとして勢い余って衝突したようである。
[凍結路面追突]冬雪が降った翌日のことである。道が込んでいて車が十数台連なっていた。数台先のダンプカーが急ブレーキを掛けたらしく後続の車が次々にブレーキを踏んた。私もブレーキを踏んだが、私の車は運悪く丁度凍結路面の上を走っており、スリップして追突してしまった。幸い速度は然程出ていなかったので怪我はなかったが、前の車にぶつかるまでの一瞬がスローモーションのように見えたことを覚えている。その街道の周辺には高い建造物はなかったが一箇所だけ4階建てのビルが建っているところがあった。積雪で凍結した路面は朝日を受けて殆ど溶けていた、唯一そのビルの影部分だけが凍結したままだったのである。
これらの例では事故は予測不能のように思っていた。しかし、事故の経験を重ねるにつれて、今ではこれらの事故は回避できたとは言えないが、全て予測可能であったと思える。人は自分中心で周りのことが見えてないことが多い。また置かれた環境自体が危険を持っているケースも多い。安全と見える環境もちょっとした変化で危険となる場合もある。
人は時として予想外の行動を取ることがある。特に運転中に慌てたりすると急発進、急停止、急ハンドルは当たり前である。針路変更の際、方向指示器を出さないだけでなく、時には方向指示器と違った方向に進むことさえある。極論すれば車がその方向に動き出すまで方向指示器を信用してはいけない。予測あるいは思い込み運転はもっと危険である。先の例での交差点でのバックや追越し右折など常識では考えられないことが、現実には起こっている。「そんな筈はない」ことはないと考えよう。当然のことながら皆が運転の達人ではない。未熟な運転手ならこうするかもしれないを想定しておくことも重要である。
事故の起きやすい場所がある。例えば、カーブの頂点。飛ばしすぎて旨く曲がれなくて対向車線にはみ出し接触する事故は多い。対向車とカーブの頂点ですれ違わないようにカーブに入る前に速度を落とす必要がある。見通しの良い広い道も駐車車両があると狭くなり、死角を作り出すことになり、事故の起きやすい場所となってしまう。
さて、「君子危うきに近寄らず」運転とはどう言う運転なのであろう。危うい所を避けていれば安全かもしれないが車本来の目的や機能が達成されない。「君子危うきに近寄らず」運転とは出会わす運転シーンでの決断原理である。色んなケースを機会があるごとに検証し、もしも、そんなことが起こったらどうするかを考えておくことである。リスクを最初から考慮していれば最小の犠牲で危険を躱わすことが出来る。君子は危うきことに近寄らない訳ではない。危うきことも危うくないことのように見せるのである。車の運転に限らず、常にもしも、そんなことが起こったら、私だったら、どうするかを考えておき、それを肝に銘じて行動することが何事にも動じない「いかにも君子」らしい振る舞いとなるのではないだろうか。
殆どの人が車の任意保険に加入していると思うが、保険は気休め以外の何物でもない。保険に入っていても事故を起こせば面倒である。警察に連絡し、事故証明を取るだけでも一仕事である。ぶつかった相手が同じ保険会社だったらどうなる。まず、こちらに落ち度がないとは決して言えないから、2割は自己責任となり、たぶん次からは保険料が値上げされるであろう。また、自損事故もあるが大抵の事故の場合必ず相手がいる。前にも述べたが、人は平気で嘘をつくし、本心は絶対明かさないと心得ておくべきである。客観的事象だけが問題を解決する。事象には動機は含まれない。わざとぶつけても手が滑ったと言って逃れるのは簡単である。防犯ビデオでも心の中までは映せない。
「事故のないところに問題は起こらない」ここに「君子危うきに近寄らず」運転のルーツがある。兎に角、快適に車を活用するためには、事故に関わり合いになりたくないものである。
車を運転しているとこの言葉が何時も頭を過ぎる。
実は、私はスピード狂かもしれない。と言うのは今までに、バイクで1回、普通車で4回ほどスピード違反で捕まっているからである。中でも高速道路で50km/h以上超過で「ネズミ捕り」に引っ掛った時は1発で90日間の免停を食らった。その時の罰金(反則金ではない)や安全運転講習(免停期間の短縮)が悔しくて、直後レーダ検知機を購入したほどである。以来、ネズミ捕りを遣っていそうな所では安全スピードを心掛けている。最近のレーダ検知機はGPS組込となっており、よく「スピード違反の取締りをする地点」がデータとして保持されているので、電波が検知されなくても、その付近に接近すると警報が自動的に鳴るようになっている。そのため、取締りデータの更新もビジネスになっているようである。
勿論、レーダ検知機を導入したのは本当の安全への反省ではない。若かった頃は冒険心もあり無理してスピードを出していた。しかし、今は運転を楽しむために安全な場所で一寸スピードを出す程度である。ところが、通行量の極めて少ない田舎の高速で某県警の点数稼ぎに付合ってしまったのである。レーダ検知機導入は「自己嫌悪以外の何物でもない」と言うのは不謹慎かもしれない。ともあれ、周囲の皆から「スピード違反で捕まったのは警告だ、罰金で命を買ったと思えば安いものだ」と言われた。その通りだと思う。スピード狂のままでいたらそのうち事故を起こしてあの世に行ってしまったかもしれない。
前々から「君子危うきに近寄らず」運転には関心を持っていた。しかし、それまでは標語みたいなもので実際には安全運転を実践していたかどうかは疑わしい。ところで、私が「君子危うきに近寄らず」運転の信奉者になったのは幾つかの危険に出会していたからである。
[交差点で後進]交差点を右折するため、同じく右折しようとしている車の後で待機していた時のことである。突然、前方の車がバックして私の車にぶつかった。対向車を避けようとして思わず後進したのだろうか。
[交差点で追越し右折]右折するため、交差点内で停車していた時である。後方から来た車が私の車を追越し態に曲り込んで左前部にぶつかった。左側から回り込んで追越し右折し先に行く積りだったようである。事故調査に来たお巡りさんには直進して横を通り抜けようとしていたと弁解していたが、回り込まなければ絶対ぶつからない。運転していたのは会社役員と言っていたが、よくも平気で惚けられるものだと思った。
[突然Uターン]前方の赤信号で停車しようと減速していた時のことである。対向車レーンを走っていたトラックが突然こちらのレーンに飛び込んで私の車の横っ腹にぶつかった。道を間違えたのでUターンしようとしていたらしく、対向車列に隙が出来たので慌てて割り込もうとして勢い余って衝突したようである。
[凍結路面追突]冬雪が降った翌日のことである。道が込んでいて車が十数台連なっていた。数台先のダンプカーが急ブレーキを掛けたらしく後続の車が次々にブレーキを踏んた。私もブレーキを踏んだが、私の車は運悪く丁度凍結路面の上を走っており、スリップして追突してしまった。幸い速度は然程出ていなかったので怪我はなかったが、前の車にぶつかるまでの一瞬がスローモーションのように見えたことを覚えている。その街道の周辺には高い建造物はなかったが一箇所だけ4階建てのビルが建っているところがあった。積雪で凍結した路面は朝日を受けて殆ど溶けていた、唯一そのビルの影部分だけが凍結したままだったのである。
これらの例では事故は予測不能のように思っていた。しかし、事故の経験を重ねるにつれて、今ではこれらの事故は回避できたとは言えないが、全て予測可能であったと思える。人は自分中心で周りのことが見えてないことが多い。また置かれた環境自体が危険を持っているケースも多い。安全と見える環境もちょっとした変化で危険となる場合もある。
人は時として予想外の行動を取ることがある。特に運転中に慌てたりすると急発進、急停止、急ハンドルは当たり前である。針路変更の際、方向指示器を出さないだけでなく、時には方向指示器と違った方向に進むことさえある。極論すれば車がその方向に動き出すまで方向指示器を信用してはいけない。予測あるいは思い込み運転はもっと危険である。先の例での交差点でのバックや追越し右折など常識では考えられないことが、現実には起こっている。「そんな筈はない」ことはないと考えよう。当然のことながら皆が運転の達人ではない。未熟な運転手ならこうするかもしれないを想定しておくことも重要である。
事故の起きやすい場所がある。例えば、カーブの頂点。飛ばしすぎて旨く曲がれなくて対向車線にはみ出し接触する事故は多い。対向車とカーブの頂点ですれ違わないようにカーブに入る前に速度を落とす必要がある。見通しの良い広い道も駐車車両があると狭くなり、死角を作り出すことになり、事故の起きやすい場所となってしまう。
さて、「君子危うきに近寄らず」運転とはどう言う運転なのであろう。危うい所を避けていれば安全かもしれないが車本来の目的や機能が達成されない。「君子危うきに近寄らず」運転とは出会わす運転シーンでの決断原理である。色んなケースを機会があるごとに検証し、もしも、そんなことが起こったらどうするかを考えておくことである。リスクを最初から考慮していれば最小の犠牲で危険を躱わすことが出来る。君子は危うきことに近寄らない訳ではない。危うきことも危うくないことのように見せるのである。車の運転に限らず、常にもしも、そんなことが起こったら、私だったら、どうするかを考えておき、それを肝に銘じて行動することが何事にも動じない「いかにも君子」らしい振る舞いとなるのではないだろうか。
殆どの人が車の任意保険に加入していると思うが、保険は気休め以外の何物でもない。保険に入っていても事故を起こせば面倒である。警察に連絡し、事故証明を取るだけでも一仕事である。ぶつかった相手が同じ保険会社だったらどうなる。まず、こちらに落ち度がないとは決して言えないから、2割は自己責任となり、たぶん次からは保険料が値上げされるであろう。また、自損事故もあるが大抵の事故の場合必ず相手がいる。前にも述べたが、人は平気で嘘をつくし、本心は絶対明かさないと心得ておくべきである。客観的事象だけが問題を解決する。事象には動機は含まれない。わざとぶつけても手が滑ったと言って逃れるのは簡単である。防犯ビデオでも心の中までは映せない。
「事故のないところに問題は起こらない」ここに「君子危うきに近寄らず」運転のルーツがある。兎に角、快適に車を活用するためには、事故に関わり合いになりたくないものである。