[韓流ドラマ(その3):儒教]
韓流ドラマに嵌まっている昨今であるが、最近ひとつの疑問に行き当たった。これは韓国の脚本家、所謂「作家さん」の特徴かもしれないが、ストーリーの展開をうそや真実の秘匿で進めるものが非常に多いことに気づいた。家族、友人、恋人ほか誰にでも平気で嘘をつく、勿論、脚本的には善意であるとの設定であるが、嘘に詰まれば次々と嘘を重ねていく。日本の常識では到底考えられないようなことをドラマの中では平気で遣っている。詐欺紛いのうそがストーリー展開の柱になっているにも拘らず、韓国ではそれなりの視聴率を上げたというのは不思議である。視聴者から見れば、うそは明確であるのにも拘らず、うそがバレそうになると「すれ違い」や「事故遭遇」や第三者の[突然の割込み]で真実の暴露を先送りする。このことの繰り返しでは「はらはら」はするけれど、ストーリー展開が見え見えで終いには飽きてくるのだが。それでも、韓国で最後まで視聴者を飽きさせなかったのは、彼らがうそをつくことに寛容であるためであろうか。韓流ドラマから、韓国では儒教の影響で、今でも男尊女卑や長幼の序など主従関係の厳しいことはある程度気づいてはいたが、更に、ウソをつくことは悪いことではないと言う思想が現存することに気づかされた。
朝鮮半島の人たちがうそつきと言うわけではないが、背景には朝鮮王朝が中国以上に儒学を教育の柱に据えて来たことが大きく影響していると思う。儒教では、五倫(父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)の道を全うすることを教えている。つまり、年功序列が絶対であり、常に年長者を敬うことを教える。嫁は舅・姑には絶対服従で、妻は夫に尽くし、年長者には礼を尽くすシーンなどは韓流ドラマの定番である。目上と酒を酌み交わす場面では後輩は酒を呷る時必ず横を向くが、実際、韓国での酒の席で同じに振舞われて驚いたことがある。
ところで、儒教の教えには本来、「男尊女卑」や「ウソをつくことも正しい」と言う考えは存在していなかった。男尊女卑思想は夫婦の別として「夫に妻は身を以って尽くす義務がある」と言うことから発生し、いつの間にか夫である「男」が上位に位置付けられたようである。また、孔子は、ウソをつくことを奨励した訳ではなく、「父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す、直きこと其の内に在り(父為子隠、子為父隠、直在其中矣)」(子路第十三の十八)と言い、親と子が庇い合うことが人間本来の情感でそれを偽らないことが真の正直であると説いている。これが時と共に、自分や一族のためにウソをつくことは正しいことだと解釈されるようになったと言われる。
これ以上、儒教文化の内容について述べるつもりはないが、朝鮮半島でのこれらの思想の浸透には中国式の科挙の導入が大きく影響していると思う。朝鮮王朝では長い間、試験科目を儒学とした科挙が行われて来た。そのため儒学が世に広く行き渡っており、彼らの思考・行動の根底には儒教そのものがあると言える。科挙は日本でも、平安時代に導入され、庶民でも役人に登用されて最終的には貴族までのし上がる道が開かれていたが、律令制の崩壊とともに廃れてしまい、朝鮮半島のように科挙を通じて儒学が世の中に広く浸透することはなかった。儒教は施政者にとって都合の良い思想ではあったが、日本では単なる、教養、学問の域を出ることはなかった。
韓流ドラマは面白くて、時間さえあれば観ているが、数をこなすにつれて、出演者やストーリーの素晴しさだけでなく韓国文化や思想の違いがなんとなく判るようになってきたと思う。ちょっと昔、TV番組で韓国の女性が日本人の男性は素晴しいとコメントしているのを聞いたことがあったが、今では、その言葉が儒教的文化から脱したいと言う正直な気持ちであると頷ける。韓流ブームで韓国男性にあこがれている日本女性も多いが、顔やスタイルに囚われず、韓流ドラマから、そこに流れている文化や思想も感じ取って欲しいものである。外見や格好に惹かれて、嫁いで見たら、嫁姑の戦いどころか、隠し子は居るやら、愛人は居るやら、男尊女卑の戦前の暮らしだったなんてことになりかねない。こんなことを言うと韓流ブームに対する嫉妬心からだと言われそうであるが、まだまだ、韓国は儒教文化圏であると思う。
最後に、本来の儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)を拡充し、五倫(父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)の道を全うすることを教える。その延長には君子による政治があるのである。決して、男尊女卑やウソつきを正当化する思想ではないことを注記しておきたい。
仁:人を思いやること。
義:利欲に囚われず、なすべきことをすること。
礼:人間の上下関係で守るべきこと。
智:学問に励むこと。
信:言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。
儒教とは無関係であるが男尊女卑については「三国志」に怖い話がある。ある日、旧友が訪問し、夫婦で出迎えた。その晩はこれと言ったご馳走はなかったが、肉料理で歓談した。明朝、旧友は奥方が居ないのを訝しく思いながらも出立した。実は友を歓迎する為に妻を提供したとの話である。