見出し画像

雑感録

福岡なるほどフシギ発見~その18~ 蒙古はもう来ん!? 元寇後編

 
復活のヒャア。今度は防塁半分、カミカゼ半分。
第二次元寇・弘安の役


元寇防塁跡(国指定史跡/博多湾沿岸各地)
1281年(鎌倉時代中期)

2019.3.31追記
企画中の「元寇本(仮)」のために史料を調べ直してたら、
まだまだ真実が出てきました。
『福岡なるほどフシギ発見〜おまけ46〜 まだまだ出る出る元寇の真実その1』
『福岡なるほどフシギ発見〜おまけ47〜 まだまだ出る出る元寇の真実その2』


やあ、こんばんは。
今週もミステリーハンターは私、ヒャア・ア●ナ●ル大佐だ。
え、少佐じゃなかったかって?
ハッハッハ。
一度は左遷されて南方戦線を点々としたが、キシリャア少将(名古屋人か?)に拾っていただいてね。
今回東部戦線に復帰するにあたって2階級特進したのだよ。

第一次元日戦争の後、元は南宋攻めに集中。
この間、第一次元日戦争で日本への脅しが効いてると読んだのか、フビライは2度ほど使者を送ってくるが、日本政府はどちらも使者を斬首。
今回は殺ではなく、本当に殺してしまったのである。

1279年に南宋征服を完了した元は、再び矛先を日本に向けてきた。
一方、日本側では次の蒙古来襲に備えて、1276年には香椎から今津までの博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(いしついじ=今で言う元寇防塁)を築いていた。
これは九州各地の守護に、領地の広さに応じて造る防塁の長さが割り当てられたもので、およそ半年で完成。
大きな川の河口には艦船の侵入を防ぐために乱杭が打ち込まれている。
蒙古対策としてはこれとあわせて高麗遠征という神功皇后もびっくりの積極策が計画されていたらしいのだが、石築地には協力した守護たちもさすがにこれには従わず、立ち消えになったのだという…。

1281年5月3日(旧暦)、我々は7年ぶりに日本に向けて出発した。
今回は我々高麗軍と元軍を合わせた東路軍4万に加え、元が傘下に収めた南宋の兵士を主力とした10万の江南軍もいる。
しかも江南軍は農具や籾だね持参というから、前回の威力偵察とは違い、元は長期戦、あるいは占領・入植を想定していたのだろう。
江南軍とは6月15日にイキで合流の予定だったが、我々東路軍は先にハカタ・ダザイフを制圧する予定で出発したのである。
我々高麗軍はツシマを蹂躙。
ツシマに寄らなかった元軍とはイキで合流した。
江南軍との集合場所でもあるイキを制圧すると、我々東路軍は博多に向かって出発した。
まずハカタ・ダザイフを押さえれば、江南軍を迎えてここを拠点に日本の都へと攻め上ることができる。
ところがこのとき艦隊の一部がナガトに向かっている。
たった300の艦船でホンシュウからの日本の援軍を抑えようというのか。
まったく上の考えることは訳が分からぬ。

とにかく我々は6月6日に博多湾に侵入。
日本軍の戦い方は分かっているし、地理的なものも把握できている。
「上陸戦用意!」
「ヒャア大佐ぁ、アレは何でしょうなあ?」
「なるほど、あれが日本軍が我々の上陸阻止のために準備していたという新型兵器・石築地(いしついじ)か。
 噂には聞いていたが、意外と高くて頑強そうだな。
 途切れたところがないか、もっと近づいてみろ。」
ところが我々が近づくと、防塁の上に楯を構えた兵士がズラリと並び、一斉に矢を放ってきた。
「大佐ぁ、敵の一斉射撃です!」
「うろたえるな。
 射撃が収まるのを待て。
 こういうときはうろうろ逃げるより当たらんものだ。
 私が保証する。」
「ギャアアアアアア! やられましたあ、大佐ぁ!」
「ちぃーっっっ!
 引けえいっ。上陸ポイントを変更する!」
いくつか上陸を強行しようとした船もあったが、石垣にとりつく前にことごとく矢や槍で倒されている。
石築地は延々と続いており、結局我々の船団は湾の入口のシカノシマ、ノコノシマまで後退し、集結した。

シカノシマでは上陸し侵攻を試みたが、なにせ海岸以外ほどんど平地がなく、本土とは幅数メートルの砂州でつながっているだけという島である。
たちまち自軍の兵士で押し合いへし合いとなったところへオオトモ隊がやってきて混戦となった。
おまけに沖合の船には小舟に乗った連中が夜戦をしかけてくる。
日本軍はホンシュウから援軍が来ているのか、日増しに数が増えているようだ。
まったくナガトに行った連中は何をしているのやら。
そうこうしているうちに江南軍との合流の日が近づいてきたため、6月13日に、我々は一旦イキへ引き揚げた。


弘安の役布陣図。元寇資料館のパネルや元寇防塁の史跡の説明板他、いろいろな資料から推定。大きな図はこちら

ところが肝心の江南軍はいつまでたっても現れない。
兵たちの間には、高麗で広まりつつあった疫病が蔓延しつつあり、上の連中は撤退か作戦続行かでもめ始めていた。
さらには九州本土の専守防衛ばかりと思われていた日本軍が、またもや小舟で襲いかかってきた。
「まったく屍肉にたかるハエのような連中ですなあ」
「ということは我々は屍肉か、トレン?」
ここに及んでようやく江南軍の先遣隊が到着した。
なんでも連中は出発間際に指揮官の交代騒ぎがあり、出発したのがなんと集合予定日を過ぎた6月18日だったらしい。
さらに集合場所をヒラドへ変更したいと伝えてきた。
そこで東路軍は半ば日本軍に追い立てられるようにしてヒラドまで後退したのである。

「気に食わんな。
 江南軍は10万とはいえ、大半は農民兵だろう?
 そんなウドの大木といっしょになっても身動きがとれなくなるだけだ。
 それに、何より開戦してからここまで時間がかかりすぎている。」
「しかし大佐ぁ、我々も日本軍のゲリラ戦法でかなりの損害を被ってますし、疫病で数千人が死んでますから、体勢を立て直すにはちょうどいいんじゃないですかあ?」
「矢傷を負っているというのに、おまえは気楽だな、トレン。」
結局7月上旬に我々はヒラド沖で江南軍と合流。
それから船の補修だの作戦変更だのと、ずるずると時を過ごした。
そして7月下旬、ようやく上からのお達しが告げられた。
「諸君、我々はア・バオア・タカシマに船団最終防衛ラインを設定する。
 そこからイマリ湾に上陸し、サガ平野を横断、大軍を押して一挙にダザイフを突く。
 これまではの不慣れな海戦では苦戦したが、陸上戦では我々に勝るものはいない。
 皇国の興廃、この一戦にあり。
 各員一層奮励努力せよ!
 ジーク、モンゴル!」 ジーク、モンゴル! ジーク、モンゴル! ジーク、モンゴル!…

7月27日、14万人4千艘の大船団は鷹島へと進軍するが、これを察知した日本軍は、ショウニ隊がまたも夜襲を敢行。しかし、29日には撤退していった。
「ようやくハエを追い払いましたねえ、大佐ぁ。」
「しかし、妙だな。
 あっさりと引きすぎる。」
「この大艦隊を見て、とても敵わんと思ったんでしょう。」
そして30日。
船団はタカシマ沖に到着したが、次第に風が強くなり、波が高くなってきた。
「しまった!
 連中があっさり引き揚げた訳はこれだったのか。
 やはり作戦の遅れが最悪の事態を招いたようだな。
 まわりの船と距離をとって碇を下ろせ!
 体を何かに縛り付けろ!…」

この日の夜から翌閏7月*1日にかけて、暴風雨が吹き荒れた。
太陽暦でいえば8月下旬。
この海域を台風が直撃したのである。
4千隻の大船団は、あるものは高波に飲まれ、あるものは隣の船と衝突し、その大半が海の藻くずと散っていった。
嵐の後、わずかに残った航行可能な船は逃げ帰ったが、残った兵士たちは日本軍に掃討され、捕虜となった者もことごとく処刑された。
ただ南宋人のみが助命され、奴隷にされた。
全軍14万のうち、本国に帰り着いたのはわずか5分の1ほどだったという。
ヒャア大佐の行方は、あの嵐以来とんと知れない。

旧暦では、太陰暦の1年354日を実際の1年365.24日にあわせるために、およそ3年に1度、閏月(うるうづき)が設けられる。この年は7月と8月の間に閏7月が設けられた。


チャラチャチャ~
<CM>


だらだらと長くなってしまいましたが、なにせあっという間に終わった文永の役と違い、弘安の役は2カ月以上。
そりゃあ、季節も変われば台風も来るでしょう。
弘安の役でのカミカゼについては、確かにあったものだとされています。
これで日本は2度にわたって蒙古を退けたのですが、クビライは3度目の日本侵攻を計画していたとか。
しかし、それを果たせないままクビライは1294年に没し、日本侵攻計画もそれで立ち消えになります。
一方の鎌倉幕府も3度目の元寇に備えながら、恩賞に不満をもつ御家人対策も抱えることとなり、徐々に弱体化していきます。

さて、弘安の役関連の史跡と言えば、博多湾岸に20kmにも及ぶ規模で築かれ、元軍上陸を阻止した元寇防塁。
今でもいくつかの防塁跡が残っており、いくつかは復元されてそれらしい姿を見ることができます。
今津元寇防塁
今津海岸の松原に続く防塁跡。奥の金網の中にはまわりを掘り下げて復元したものがある(これだけ見ると防塁ではなく塹壕のようだ)。大隅・日向が担当。近くには蒙古塚もあるらしいのだが、発見できず。
生の松原元寇防塁
ここがもっともそれらしい復元がなされている。陸側は階段状になっていて、海側が見渡しやすいようになっている(トップの写真)。肥後が担当。
百道元寇防塁
ここは掘り下げることなく石がゴロゴロ。能古島からも石が運ばれたらしい。担当国不明。この先に西新元寇防塁がある。
西新元寇防塁
ここは周りを掘り下げて復元。この先に元寇神社があり、さらにその向こうの西南大学構内にも防塁跡がある。担当国不明。
西南大学元寇防塁
西南大1号館新築工事の際に発見され、北東に12m移したところ(1号館地下中庭)に復元。石塁と土塁の二重構造になっている。担当国不明。
地蔵松原元寇防塁
石碑と説明板はあるのだけど、いったいどこが防塁跡なのかさっぱりわからない。よく見ると、公園の隅っこに防塁の境界を示す石杭があったりする。担当は薩摩。
博多小学校石塁遺構展示室
博多遺跡群の中にある博多小学校の発掘(おそらく校舎の建設時)で見つかった石塁跡。元寇防塁と特定された訳ではないが、石の積み方や規模が今津や西新の元寇防塁と似ているらしい。ちなみにこの辺りはかつての息浜にあたるところ。(2010年7月24日撮影)

このほか今宿、小戸、地行などいくつかの防塁跡があります。
オススメは、かなり歩きますが元寇関係の映像コーナー(東屋)もある今津か、それらしい雰囲気のある生の松原でしょうか。
今津元寇防塁の「史跡ひろば」にある映像コーナー。屋外施設にも関わらずビデオがちゃんと稼働している(笑)。

ちなみに、防塁にはやたら石が使ってあるので、名島城や福岡城築城の際に石垣用にもっていかれたものが多いそうです。

超マイナーなところでは、弘安の役の際に、高野山の僧が志賀島の山奥にこもって祈祷したという場所に社(やしろ)があり、火焔塚と呼ばれています。
けっこうな山奥にある火焔塚。なにがどう「塚」なのやら分からん。


なお、元寇終焉の地、鷹島まで行けば、海中から引き揚げられた大量の元軍の遺品などを見ることもできますが、このコーナーは福岡対象なので、はしょらせていただきます。

追記
行ってきました。


今津元寇防塁
 大きな地図で見る
福岡市西区今津
駐車場:あり

生の松原元寇防塁
 大きな地図で見る
福岡市西区生の松原

西新元寇防塁
 大きな地図で見る
福岡市早良区西新7

地蔵松原元寇防塁
 大きな地図で見る
福岡市東区筥松4-1~箱崎6-8

博多小学校石塁遺構展示室
 大きな地図で見る
博多小学校石塁遺構展示室
福岡市博多区奈良屋町1-38
開館時間:毎週土曜の10:00~17:00(12/29~1/3を除く)
入館無料

火焔塚
 大きな地図で見る
福岡市東区大字志賀島

つづく

←ひとつ前へ--CONTENTSへ

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「なるほど」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事