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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~その17~ 蒙古が猛攻!? 元寇前編

 
カミカゼは吹かなかった!?
第一次元寇・文永の役


元寇麁原戦跡(祖原公園) ほか
1274年(鎌倉時代中期)

2019.3.31追記
企画中の「元寇本(仮)」のために史料を調べ直してたら、
まだまだ真実が出てきました。
『福岡なるほどフシギ発見〜おまけ46〜 まだまだ出る出る元寇の真実その1』
『福岡なるほどフシギ発見〜おまけ47〜 まだまだ出る出る元寇の真実その2』


こんばんは。
今週のミステリーハンター、ヒャア・ア●ナ●ル少佐だ。
ふっ。
認めたくないものだな。
伏せ字にするとアブナイ名前というものを。

さて、今週から2回に渡って諸君も歴史の教科書などでよくご存知の元寇、現代中国的には元日戦争ということになるのだが、とにかく元と日本との戦についてお話しよう。
あ、ここでは私はジオンではなく高麗の将校として覚えておいていただこうかな。
たまには攻め手側から見た元日戦争というのも面白かろう。

幼少期にひとくち餃子で、成人してからは羊の焼肉でユーラシア大陸を席巻したチンギス・ハーン(ヨーロッパでの発音に近い形で「ジンギス・カン」と表記されることも。幼名はテムジン)の孫で、モンゴル帝国の第五代皇帝、フビライ・ハーン(かつての発音に近い形で「クビライ・カアン」と表記されることも)は先帝の臣下時代から中国征服を図り、高麗(こうらい)にも侵入。
30年近い抵抗にも関わらず、高麗は1259年に帝国に屈して服属した。
フビライが元を起こし、皇帝に即位したのはこの翌年のことである。
フビライの次なる目標は中国南部を支配する南宋
南宋に圧力をかけるために日本と親交を結び、できれば配下に置きたいと考えていたフビライは、1268年から高麗経由でたびたび国書を送ったが、日本政府はフビライの意図を日本征服としか読まず、頑(かたくな)にこれを無視していた…。


高麗王の元宗という男は自分の地位安定のためにフビライにおもねるいけ好かないヤツでね、これに反発する勢力も多かったのだよ。
もともと高麗王朝の精鋭部隊だった三別抄(さんべつしょう)なんかは済州島などに逃れて対元抵抗活動を続けていて、日本政府にも救援を求めたのだけど、日本は元の国書を無視したように、これもよく考えずに黙殺してしまったらしい。
結局三別抄は第一次元日戦争(文永の役)の前年に鎮圧されてしまった。

元としてはひとまずリスクの大きそうな日本攻めは置いておいて、先に南宋に侵攻することも考えていたらしい。
しかし、1274年に即位した元宗の息子・忠烈王は、お父上同様モンゴル兵を国内に入れて抵抗勢力を抑えたいと考え、日本侵略をしつこく進言し、兵力の提供を申し入れた。
どうもお坊ちゃん育ちが身にしみすぎる。
甘いな…と思っていたら、元はこの進言を受け入れてしまった。
かくして我々高麗軍にも出撃命令が下り、900艘もの船を半年で建造。
1274年10月3日(旧暦)、元軍2万、高麗軍5千600、それに船員など非戦闘員1万5千を乗せた大元連合の大船団が出発したのである。

我々大元連合はまずツシマ、イキを殲滅、マツラトウ(松浦党)の本拠であるヒラド、タカシマ(鷹島)に壊滅的打撃を与え、10月19日(旧暦)に博多湾に入った。
日本では我々の動きを察知して2年前には元寇対策本部(異国警護番役)ができていたようで、対馬攻撃の際に逃げ延びたツシマコタロウとかいう兵卒から我々の来襲がダザイフに伝えられ、陸上には迎撃態勢が整えられていた。
我が軍は一旦、手薄な今津沖に停泊。
一部先遣隊が上陸し、アキヅキ(秋月)隊を抜いてソハラ(麁原=祖原)あたりまで進撃した。

翌20日、船団は東に移動を開始。
目標はハカタの敵を殲滅し、敵の本営と思われるダザイフを陥れることである。
我が高麗軍はモモチバル(百道原)に上陸した。
元軍本隊はさらに東に移動し、正面からハカタの敵の本陣を攻撃する。
「我々の役目は側面からハカタを攻撃し、敵の注意を引きつけること。
 本隊上陸後は敵を挟撃し、殲滅することにある。」
ミノフスキー粒子の濃度が高く、戦いはすべて目視となるので、まずは先遣隊のいる見晴らしの良さそうなソハラ山に本陣を設営し、前線をベフに置いた。
対峙するのはヒラド・タカシマでボコボコにしたマツラトウとハラダ隊である。
「見せてもらおうか。
 日本軍の戦法というものを」
すると、やたらと重装備の男が単騎で進み出て「ヤアヤア」などと叫びだした。
その直後、1本の矢がけたたましい音をたてて飛んで来た。
「なにっっっ! 連邦の新型兵器か!?」
しかし、その矢は音を立てただけで、遥か頭上を飛び去っていった。
我々をかく乱しようとしているのか、意味が分からぬ。
「ありゃあ一体何のつもりでしょうなあ、ヒャア少佐ぁ」
「油断するな、トレン。
 攻撃開始だ!」
我が軍は矢で弾幕を張り、震天雷(てつはう)で攻撃しながら押し出した。
「この震天雷というものは、殺傷能力はそこそこのものだが、
 その爆発音で、初めての相手を威嚇するには十分な威力がある。
 特に馬は驚いて逃げ出すので、騎馬隊相手には有効だな。
 しかし、一体どういうことなのだ。
 連中は戦法も未熟なら、戦い方も素人だ…。」
しかし、敵は緒戦こそ面食らってひるんでいたようだが、戦闘を重ねるにつれて勢いを盛り返してきた。
数ではこちらの方が圧倒的に多いのだが、何せ敵は死を恐れずに切り込んでくる。
こちらは大半が元に脅されていやいや従軍している兵士なので、士気が低い。
一時はアカサカという湿地帯まで押し込んだのだが、敵はキクチ隊(熊本県代表)も加わり押し返されてきた。
「ちぃぃっ!
 一旦ソハラの陣まで撤退する。
 弾幕を切らすな!
 私が殿(しんがり)をする!」
「少佐、ご無事で!」

結局その後膠着状態となり、ほぼ弾薬も尽きたのだが、日暮れになって敵はミズキ(水城)の要塞に撤退したので、我々も夜襲を避けるために船に引き揚げた。
話によると、元軍本隊はオキノハマ(息の浜)、ハコザキハマ(箱崎浜)に上陸して、激戦の末にほぼハカタの町を制圧したが、こちらも武器が底をつき、副司令が負傷。
日本軍がミズキ(水城)に撤退したところで町に火を放ち、船に戻ったらしい。
もともと今回の遠征は威力偵察であり、大宰府までは落とせなかったが、目的は果たせたということで、その夜の軍議で撤退を決定。
しかし、全軍が博多湾を引き揚げ高麗に戻る途中に時化に遭い、なんと軍の半分を失ってしまった。
日本で言われてきたように、第一次元日戦争ではカミカゼにやられて撤退した訳では決してないのだが、私はこのとき責任をとらされる形で、しばし後方に下げられることになったのだよ。


文永の役布陣図(部分)。元寇資料館のパネル他、いろいろな資料から推定。広域図はこちら

チャラチャチャ~
<CM>


元寇での戦闘に関する資料は、あの自己主張の強い竹崎季長 (たけざきすえなが/肥後の御家人)の蒙古襲来絵詞によるところが大きいようで、それに高麗や元の文献などから補足を加えている程度なのでしょう。
博多方面の状況は筥崎宮が炎上したということくらいしか分からないのと、西部戦線の状況も見るところによって微妙に違っていたりします。
とにかく、文永の役では元軍が上陸して市街戦が行なわれたので、別府や赤坂、鳥飼などよく聞く地名が戦場になっていますが、後の時代にどんどん町ができていったので、その名残は全くと言っていいほどとどめていません。
そんな福岡で文永の役を感じれる数少ない場所が、元軍(高麗軍)が本陣を置いた場所とされる祖原公園です。
いわゆる古戦場跡ということですね。
標高30mほどの祖原山がそのまま公園になっていて、山頂近くに「元寇麁原戦跡」の碑が、北側の広場には「元寇遺跡」の碑があります。
公園は、春には近所の人の花見スポットになってるみたいです。
えらくピカピカの元寇麁原戦跡の碑。1974年(昭和49年)に建てられている。
こちらの元寇遺跡は、たぶん明治期の富国強兵気分の頃にでも建てられたのだろう。

東公園には日蓮像亀山上皇像がどど~んと立っていて、日蓮が見下ろしているあたりには、日蓮上人銅像護持教会が運営する元寇資料館があります。
この資料館、見た目は地味ですが、蒙古兵の甲冑や武具などがあって、意外と面白い。
立正安国論で蒙古来襲を予言したとされる日蓮さん。まあ、当時の情勢から考えると、「内乱が起こり外敵が攻めてくる」なんてことは誰でも思いつきそうな気もするんですが。伊勢神宮で「身を以って国難に代える祈願」をしたといわれる亀山上皇。文永の役で焼けた筥崎宮の再興の際に「敵国降伏」のシンピツをカシしたとされる。
元寇資料館。実は東公園も元寇の古戦場らしい(ってか、福岡の市街地はどこでも古戦場ってことになるのかもしれないけど)。カフェを併設する博物館はいくらでもあるけど、居酒屋のある資料館ってのは珍しい。

蒙古兵の武具やちょっとおどろおどろしい元寇絵なんかが展示されている。
文永の役(黄色)と弘安の役(紫)の元軍船団の数を表した模型。分かりやすくてよろしい。


ヒャア少佐がおっしゃる通り、
・文永の役の10月20日は今の暦の11月26日にあたり、台風の季節ではない
・博多湾内に大量の元軍の船の残骸や兵士の遺体が見つかったとの記録もない
などを根拠に、今では文永の役ではカミカゼはなかったというのが定説になりつつあります。
文永の役の目的そのものも、日本征服ではなく、国書を無視する日本を脅すためのもので、最初から長居するつもりはなかったのではないかとも言われてますが、はてさていかがなものでしょう。
ただ、高麗の記録にはそれらしい記述があるそうなので、博多湾を出てからの帰路になんらかの嵐に遭ったのは間違いなかろうと思われます。

元軍撤退の後、志賀島に1隻だけ元軍の船が取り残されていて、220人余りの蒙古兵が首を切られたそうです。
その場所には首塚が建てられていたそうですが、およそ700年を過ぎて荒廃していたので、1927年(昭和2年。しかのしま資料館の資料では昭和3年)にモンゴル国王の使者を招いて丘の上に遺骨を移し、供養塔が建てられたのだとか。
しかし、この供養塔も2005年(平成17年)の福岡県西方沖地震で倒れてしまったので、今度は丘の下に建て直されたのだそうです。
蒙古塚の先にあるしかのしま資料館にも、若干ですが、志賀島関係の元寇資料が展示されています。

現在の蒙古塚。これも妙にピカピカしている。奥のでっかい石塔が、地震で倒れて移設されたものだと思うのだけど、確信はないです。
もともと蒙古塚(昭和2年建立)があったところ? 日蓮像もある。なぜかは知らぬが北天神にある日蓮宗のお寺が発起人ということらしい。ちなみに首塚は、この登り口の向かい、海側の6号万葉歌碑のところにあったのではないかと思うのだけど(右手に小さな地蔵がある)、確信はないです。

しかのしま資料館にも蒙古兵の兜が展示されていた。個人所有のもの(だった?)らしい。


元寇麁原戦跡(祖原公園)
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福岡市早良区昭代1
駐車場:なし

元寇資料館
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福岡市博多区東公園
入館料:一般300円
営業時間:土曜、日祝日の10:00~16:00(閉まっている場合は日蓮像前の売店に声をかけて)
駐車場:有料(1日700円なので、短時間なら路上のパーキングスペース60分まで300円がお得かも)

蒙古塚
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福岡県福岡市東区志賀島
駐車場;あり

つづく

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