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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~出張編~ 元寇の海中遺跡がある鷹島へ

 
福岡人にとって元寇といえば文永の役(第1次元寇)の陸戦や弘安の役(第2次元寇)の水際迎撃戦など、当然のことながら博多を中心に捉えてしまうけど、松浦(まつら)の本拠地である西九州も戦場になっていて、特に第2次元寇では神風の舞台になっている(ちなみに第1次元寇では神風ではなく、元軍は自主的に撤退した帰路で暴風雨に遭ったというのが現代の定説ですね)。

ところで松浦党とは何ぞや?
教科書なんかの影響で
松浦党=海賊
というイメージが強いけど、必ずしもそうではないっぽい。
以下は聞きかじりを元にした個人的な推測なんだけど、
もともと“海賊”の本場は九州と畿内を結ぶ水上交通の要衝だった瀬戸内海で、
食うに困ると租税を運ぶ船を襲って食料を奪っていた海の豪族ってのが始まりなんでしょう。
やがて平氏と源氏みたいに国内の勢力が分かれるにつれて、どちらかの勢力と組むようになって、味方の船を護衛したり(護衛料を徴収したりして)、敵方の船を拿捕したりする水軍みたいなもんになっていったんだろう。
そのうち、瀬戸内海の勢力争いで追い出されたか、大陸との私貿易に魅力を感じたかで、大陸に近く多島海で良港の多い松浦あたりに移っていったのが、松浦党のルーツなんだと思う(たぶん)。
まあ、最初は平氏方で、壇ノ浦では源氏についたという話なんで、その流れで西にいたのかもしれないけれど(結局あいまい)。

で、“党”というのが紛らわしいんだけど、
戦国時代までは一族をまとめあげる(またはライバルを滅ぼす)ほどのカリスマ的な指導者が現れなかったために、合議制の連合体のようになっていたんだろう(戦国時代になると、松浦党の一派・波多氏は滅亡し、もう一派の平戸松浦氏は大名に成長した)。
鎌倉時代には“党”として御家人になったというか、下り衆少弐氏の統制下に置かれていたようだ。

第1次元寇で元軍が博多侵攻の前に松浦を襲ったのは、松浦党の存在を知ってのことか、たまたま進軍ルートだっただけなのか。
壊滅的な被害を被りながら直後の博多防衛戦にも参加しているのは、松浦党がワンピースみたいな自由気ままな海賊ではなく、鎌倉幕府(と言うより少弐氏)の統制下で動いていたという証だと思う。

第2次元寇では、博多上陸を果たせず壱岐に退いた東路軍に対する総攻撃に参加。
壱岐から追い出され、平戸で江南軍と合流した東路軍と鷹島沖で海戦。
松浦党は得意の水上ゲリラ戦で活躍したことだろう。
元軍は博多をとばして伊万里あたりから陸路大宰府を目指すために鷹島周辺に集結したが、ここで台風の直撃(いわゆる神風)に遭い、多くの軍船が海の藻屑となったのである。
台風一過、日本軍は伊万里湾で掃討作戦を展開。
続いて鷹島に上陸していた元軍10万を殲滅した。

元寇の後、中国・朝鮮の沿岸に倭寇が現れ、これが「松浦党=海賊」の印象を強くしたんでしょう。
確かに初期倭冦は松浦党によるものが多いけど、これは元寇に対する報復(元寇で失われた食料・物資・労働力の補充)とも言われている。
また、室町時代になると幕府が勘合貿易を始めたため、松浦党の私貿易は密貿易=海賊行為と幕府が吹聴したのかもしれない。
ちなみに、後期倭寇の多くが中国人によるものだったということは、ご承知の通り。

いや~、長い前置きだったけど、そういう訳で鷹島@長崎県松浦市。
鷹島肥前大橋で佐賀県唐津市と結ばれてしまったために、佐賀県とは繋がってるけど長崎県とは繋がっていないという不思議な位置関係の島だ。
玄界灘と伊万里湾の境にあり、神風のときに元軍の船は伊万里湾側に避難していたのだろう。
伊万里湾側の海中では元軍の遺品が大量に見つかっており、平成23年には17mもある軍船の竜骨(キール)の一部が発見されて話題になった。
周辺は平成24年に「鷹島神崎(こうざき)遺跡」として国内初の水中の国の史跡に指定され、近くで2隻目の船(元の軍船と思われる)も発見された。
しかしながら、何せ水中の史跡なので見物することもできず、丘の上に「鷹島神崎遺跡展望所」っちゅうもんがあるけど、上から海面だけ眺めてもしょうがない。
展望所から見下ろす鷹島神崎遺跡の海。これで遺跡って言われても…
双眼鏡のようなものを覗いてみたら、元の艦隊がうじゃうじゃ…?


これじゃあ仕方がないので、展望所の先にある鷹島歴史民俗資料館&埋蔵文化財センターへ。


鷹島歴史民俗資料館では「てつはう」や鉄兜、碇石、陶磁器など海底から発掘された元軍の遺品を展示。
目玉は金印ならぬ青銅印で、元軍の大隊長クラス(?)が使用したと思われる「管軍総把印」。
元の時代に使われたモンゴル語のパスパ文字が刻まれていて、印面が6.5cm四方の結構大きな印鑑だ。
こちらは玄関前に飾られている、鷹島特産の阿翁石で造られた「管軍総把印」の石像。アミダくじみたいなのがパスパ文字。


隣接する鷹島埋蔵文化財センターは、各地にある埋蔵文化財施設とは異なり、水中考古学専門。
海底から引き上げられた遺物の保存処理や調査・研究を行なっている。
ガラスケースのように見えるけど、脱塩処理のために水に浸されている元の軍船の外板など。「まるで遺跡の生簀」とはY女史の表現。“生簀”は地元の船大工さんに作ってもらっているそう。



元軍に占領され戦場となった鷹島は、海底遺跡ばかりでなく、島内のあちこちに元寇関連の史跡が残っている。
対馬小太郎の墓。第1次元寇で元軍に真っ先に襲われた対馬は守護代・宗助国以下80騎の奮戦むなしく全滅。その直前、元軍来襲を大宰府に報せよとの命を受けた家臣の小太郎と兵次郎は小舟で脱出。使命を果たすと少弐景資の麾下に入って奮戦。第2次元寇では元軍鷹島上陸の報せを受けて転戦、戦死。遺言によって、対馬を望む丘に埋葬された。兵次郎の墓も島内にある。

刀の元の六地蔵。小太郎の墓の近くにある「刀の元」は、第2次元寇で元軍の捕虜を斬首したところといわれる。天正13(1585)年造の六地蔵との関連はよく分からんけど、6体の地蔵じゃなくて、灯籠のようなものの6面に地蔵さんが刻まれている。


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