He will come.
・
「靴無しジョー」ことジョー・ジャクソンは1911年から米大リーグで活躍した最高の野球選手だ。
不幸なことに1919年のワールドシリーズでの悪名高い"Blacksox Scandal"と呼ばれる八百長疑惑で他の7人White Soxの選手とともに球界を永久追放されてしまう。いまだに名誉回復されていない。
しかし彼は当シリーズにおいて3割7分5厘という最高打率をマークし、12本のヒット(これは8試合制ワールドシリーズ新記録)を打ち、唯一のホームランを放ち、6打点5得点をあげ、外野からの送球で5人の走者を刺し、無失策だった。
八百長とは言うまでもなくワザと負けるようにすることだ。いったい誰がこれで八百長したと言えるのか?
そのシューレス・ジョーが平和な小国にやって来る。
・
※データはドナルド・グロップマン著、小中陽太郎訳『折れた黒バット』より
・
・
追記
ジョーの到着を一番楽しみにしているのは誰かって?
いち早く小国に来たラッパ吹きのブラウニーだよ。
・
「靴無しジョー」ことジョー・ジャクソンは1911年から米大リーグで活躍した最高の野球選手だ。
不幸なことに1919年のワールドシリーズでの悪名高い"Blacksox Scandal"と呼ばれる八百長疑惑で他の7人White Soxの選手とともに球界を永久追放されてしまう。いまだに名誉回復されていない。
しかし彼は当シリーズにおいて3割7分5厘という最高打率をマークし、12本のヒット(これは8試合制ワールドシリーズ新記録)を打ち、唯一のホームランを放ち、6打点5得点をあげ、外野からの送球で5人の走者を刺し、無失策だった。
八百長とは言うまでもなくワザと負けるようにすることだ。いったい誰がこれで八百長したと言えるのか?
そのシューレス・ジョーが平和な小国にやって来る。
・
※データはドナルド・グロップマン著、小中陽太郎訳『折れた黒バット』より
・
・
追記
ジョーの到着を一番楽しみにしているのは誰かって?
いち早く小国に来たラッパ吹きのブラウニーだよ。
和田玲子(陶磁器)郷津晴彦(木工)二人展
2019.10.11金ー16水
西荻窪 gallery cadocco
11:00-18:00(最終日-17:00)
初日12:00-19:00
和田玲子の陶磁器 「恵まれた器たち」上絵付けで優しい色調に仕上げました。
「平和な小国の木工屋」郷津晴彦の手彫りの木の食器。無着色で安全な自然植物油仕上げです。
姉と弟の二人展です。
学生の時分、基礎課程担任のWEST先生から耳タコのように言われた「工芸とは心をかたちにすること」。
そんなこと言われても20歳そこそには何のことやらだった。ただ、ちんぷんかんぷんだったけど「この人は本当のことを言っている」ことだけはわかった。「この人は本当のことを言っている」という直観は「内容を理解すること」よりもずっと大事だと、今ではそう思う。
さて「心をかたちにする」は、この頃しみじみわかるようになった。やっと。
そんなこと言われても20歳そこそには何のことやらだった。ただ、ちんぷんかんぷんだったけど「この人は本当のことを言っている」ことだけはわかった。「この人は本当のことを言っている」という直観は「内容を理解すること」よりもずっと大事だと、今ではそう思う。
さて「心をかたちにする」は、この頃しみじみわかるようになった。やっと。
「ホーホーホホー」と後に鳩の鳴き声だと知る音が不思議だった子どもの頃、家族にあれ何の音? と訊いた。
何も聞こえないけど? と言われて、あれは自分にしか聞こえないのだと思い込み、宇宙から来た「何か」が出している音なんだと思うようになった。
妄想はさらに深まり、自分にしか聞こえないということは、自分は宇宙から来た者であり、あれは自分を連れ戻しに来たのだと考えるまでになった。
もそれは本気と嘘ん気のあいだぐらいでそう考えていたような気もする。
そのうち夜こっそり家を抜け出しては自分の星はあれだろうかあっちだろうかと夜空を眺める少年になってしまったのだが、その頃になると嘘ん気の物語のなかに入り込んで演じているようなかんじに近かったかもしれない。ライブSF小説。そうして僕はだんだんSF少年になっていった。
何も聞こえないけど? と言われて、あれは自分にしか聞こえないのだと思い込み、宇宙から来た「何か」が出している音なんだと思うようになった。
妄想はさらに深まり、自分にしか聞こえないということは、自分は宇宙から来た者であり、あれは自分を連れ戻しに来たのだと考えるまでになった。
もそれは本気と嘘ん気のあいだぐらいでそう考えていたような気もする。
そのうち夜こっそり家を抜け出しては自分の星はあれだろうかあっちだろうかと夜空を眺める少年になってしまったのだが、その頃になると嘘ん気の物語のなかに入り込んで演じているようなかんじに近かったかもしれない。ライブSF小説。そうして僕はだんだんSF少年になっていった。
『郷津晴彦個展 自然に暮らす 平和な小国』一昨日で終了しました。
来てくださった方、心にかけてくださった方、本当にありがとうございます。
私たちを見る人たちの顔がみんな笑っているので、くすぐったいような、おもしろい心持ちでした。
私がお芋をあげたドロボーが人気者になって、それで私がなんだかいい人みたいになっちゃいましたが、もともと天と大地からの授かりもをあげただけで、それは当たり前のことだから、どうってことはないんです。
会場の gallery cadocco は居心地のよい場所でした。
一昨日の夕方、地球の日本の、東京の西荻から、国に帰ってきました。
遠い遠いところのはずなのに、目がクラクラしているうちに、すぐ着いちゃいました。
天文学者のホッシー先生は、時空がどうこう言っていましたが、私らにはよくわかりません。
またいつもの暮らしにもどります。のんびりやります。またお会いできる日を楽しみにしています。
日本のみなさんが、自由と平和を、どうか取り戻されますよう。
平和な小国代表 百姓のイモジ
来てくださった方、心にかけてくださった方、本当にありがとうございます。
私たちを見る人たちの顔がみんな笑っているので、くすぐったいような、おもしろい心持ちでした。
私がお芋をあげたドロボーが人気者になって、それで私がなんだかいい人みたいになっちゃいましたが、もともと天と大地からの授かりもをあげただけで、それは当たり前のことだから、どうってことはないんです。
会場の gallery cadocco は居心地のよい場所でした。
一昨日の夕方、地球の日本の、東京の西荻から、国に帰ってきました。
遠い遠いところのはずなのに、目がクラクラしているうちに、すぐ着いちゃいました。
天文学者のホッシー先生は、時空がどうこう言っていましたが、私らにはよくわかりません。
またいつもの暮らしにもどります。のんびりやります。またお会いできる日を楽しみにしています。
日本のみなさんが、自由と平和を、どうか取り戻されますよう。
平和な小国代表 百姓のイモジ
郷津晴彦 個展
『自然に暮らす 平和な小国』
2019年4月26日(金)~5月1日(水)
東京 西荻窪 gallery cadocco
11:00-18:00(最終日-17:00)
初日12:00-19:00
『自然に暮らす 平和な小国』
2019年4月26日(金)~5月1日(水)
東京 西荻窪 gallery cadocco
11:00-18:00(最終日-17:00)
初日12:00-19:00
『平和な小国』を作り始めてから、なんとなく感じていたことがあって、それは人間は案外善良なのではないか、ということです。もちろん人は善良成分だけでできているわけではないけれど、人の中の善良な部分をもっと信じていいのではないか。
「人間の本性は悪である」というと、なんだか洞察力があるような、人間のことがよくわかっているような、そんなふうに聞こえるけど、そのように思い込まされてきた節もあるような気がする。
おもしろいのは、そう考えて『平和な小国』を作ったのではなくて、なんだかわからないけど作っているうちに、そう考えるようになったということです。考えは後からついてくる。
そんなことをぼんやりと考えるともなく考えていた日々のある日の午後、友人がうちにやって来ました。私よりすこし年上の信頼する友人です。
その日の話題は主に、レヴィ=ストロースの『野生の思考』に関してでした。彼が最近ちからを入れて読んでいる本で、私は以前から気になりながらも読んではいません。彼の説明では、長い人類史の中で「悪人の出現」は存外に新しいことらしい。ホモサピエンスは集団をつくり協力することによって生きのびてきた。(このあたりから私の解釈が入ってくる)他人を出し抜いて自分だけ得しようというような行いは、集団の存続には不利にはたらく。助け合ったほうがいい。
そういうわけで、僕はこれからも『平和な小国』をつくっていこうと思います。最近すこし今までとちがった動きがでてきているんですよ。その件についてはいずれまた。最後まで読んでくれてありがとう。
「人間の本性は悪である」というと、なんだか洞察力があるような、人間のことがよくわかっているような、そんなふうに聞こえるけど、そのように思い込まされてきた節もあるような気がする。
おもしろいのは、そう考えて『平和な小国』を作ったのではなくて、なんだかわからないけど作っているうちに、そう考えるようになったということです。考えは後からついてくる。
そんなことをぼんやりと考えるともなく考えていた日々のある日の午後、友人がうちにやって来ました。私よりすこし年上の信頼する友人です。
その日の話題は主に、レヴィ=ストロースの『野生の思考』に関してでした。彼が最近ちからを入れて読んでいる本で、私は以前から気になりながらも読んではいません。彼の説明では、長い人類史の中で「悪人の出現」は存外に新しいことらしい。ホモサピエンスは集団をつくり協力することによって生きのびてきた。(このあたりから私の解釈が入ってくる)他人を出し抜いて自分だけ得しようというような行いは、集団の存続には不利にはたらく。助け合ったほうがいい。
そういうわけで、僕はこれからも『平和な小国』をつくっていこうと思います。最近すこし今までとちがった動きがでてきているんですよ。その件についてはいずれまた。最後まで読んでくれてありがとう。
作品は、それを見る(※注1)人の心に届いて初めて完結するものです(※注2)。
作品は、完成した時点でひとり歩きを始めます。作者は自分の作品のすべてを理解しているわけではありません。どう見るかは鑑賞者にゆだねられます。
作者が考えもしなかったとらえ方をされる可能性も充分にあって、そこが面白い点でもあります。そういう話こそ聞きたいと思います。もちろん我が意を得たりと膝をたたくような反応は文句なしにうれしいものですけど。
作品を発表する作者の気持ちは、「ねえねえ! こんなの作ったんだよ! 見て見て!」という子どもっぽい訴えと、本当のところ少しも違わないように思います。見てくれた人がなんにも言わなかったりすると、本当はその腕を両手でつかんで揺すぶりながら「ねえったら! ねえ!」と叫びたい気持ちなんです。大人だからそんなことしませんけどね。
(※注1)見るといってもそれは視覚に限りません。
(※注2)人知れず、誰にも見られず完結する作品も存在すると私は思っていますが、この考えはあまり一般的ではないかもしれません。
作品は、完成した時点でひとり歩きを始めます。作者は自分の作品のすべてを理解しているわけではありません。どう見るかは鑑賞者にゆだねられます。
作者が考えもしなかったとらえ方をされる可能性も充分にあって、そこが面白い点でもあります。そういう話こそ聞きたいと思います。もちろん我が意を得たりと膝をたたくような反応は文句なしにうれしいものですけど。
作品を発表する作者の気持ちは、「ねえねえ! こんなの作ったんだよ! 見て見て!」という子どもっぽい訴えと、本当のところ少しも違わないように思います。見てくれた人がなんにも言わなかったりすると、本当はその腕を両手でつかんで揺すぶりながら「ねえったら! ねえ!」と叫びたい気持ちなんです。大人だからそんなことしませんけどね。
(※注1)見るといってもそれは視覚に限りません。
(※注2)人知れず、誰にも見られず完結する作品も存在すると私は思っていますが、この考えはあまり一般的ではないかもしれません。
そもそもオープニングパーティーは「作品を中心として、作家や来訪者たちが語らう」場です。
宴会ではありません。いいですか、宴会ではありません笑。
作品そっちのけでただの飲み会と化しているオープニングを経験することがありますが残念なことです。内輪で盛り上がらないこと。
パーティー中も展示時間内であることをお忘れなく(←これ最重要)。ふらりと入ってきた見ず知らずの方も気楽に参加できる雰囲気をつくるべきです(←これです、これ!)。
軽く(いいですか軽くですよ笑)飲んだり食べたりしながら作品を見ながら知らない人ともお話して下さい。作品という共通の話題の種が目の前にあります! 酔っ払わない。
宴会ではありません。いいですか、宴会ではありません笑。
作品そっちのけでただの飲み会と化しているオープニングを経験することがありますが残念なことです。内輪で盛り上がらないこと。
パーティー中も展示時間内であることをお忘れなく(←これ最重要)。ふらりと入ってきた見ず知らずの方も気楽に参加できる雰囲気をつくるべきです(←これです、これ!)。
軽く(いいですか軽くですよ笑)飲んだり食べたりしながら作品を見ながら知らない人ともお話して下さい。作品という共通の話題の種が目の前にあります! 酔っ払わない。
滞在の質によると思います。非常に熱心に長い時間にわたって作品をみている人がいます。それは良い鑑賞者です。文句ありません。
問題は、作品に関係のない世間話や、とめどないおしゃべり、自説の長々とした開陳、はては若者に説教をはじめる・・・などなどでの長居です。ご自分を客観視しましょう。
中には帰るきっかけがつかめないために不本意ながら長居になってしまう方もいらっしゃるようです。気にせず帰りたくなったら帰りましょう。何の問題もありません。黙って帰ってもいいし、一言挨拶するなら「そろそろ帰ります」で充分です。
問題は、作品に関係のない世間話や、とめどないおしゃべり、自説の長々とした開陳、はては若者に説教をはじめる・・・などなどでの長居です。ご自分を客観視しましょう。
中には帰るきっかけがつかめないために不本意ながら長居になってしまう方もいらっしゃるようです。気にせず帰りたくなったら帰りましょう。何の問題もありません。黙って帰ってもいいし、一言挨拶するなら「そろそろ帰ります」で充分です。
前回に少し補足します。要は「ひらかれたフレンドリーな場」を一緒に「つくって」ほしい、ということです。
場は、そこにいるすべての人(来訪者、作者、画廊スタッフ)が作るものだから、来訪者も能動的な主体なんです。受身の「お客さん」ではないんですね。ここは重要だと思います。
鑑賞から発言や立ち振る舞いまで、すべて主体的に関わる能動的な行いなんです。 ですから「悪意のない勝手気まま」が「意図せぬ排他」になってしまうような場合、それはいわゆる「空気が読めない」というよりは、主体意識の問題なのではないか、と思うわけです。
場は、そこにいるすべての人(来訪者、作者、画廊スタッフ)が作るものだから、来訪者も能動的な主体なんです。受身の「お客さん」ではないんですね。ここは重要だと思います。
鑑賞から発言や立ち振る舞いまで、すべて主体的に関わる能動的な行いなんです。 ですから「悪意のない勝手気まま」が「意図せぬ排他」になってしまうような場合、それはいわゆる「空気が読めない」というよりは、主体意識の問題なのではないか、と思うわけです。