小さな農園

日々の労働と想いをつづります。

ワークシェア

2011-09-30 04:55:58 | お花

 久しぶりに電車に乗った時、高校生の会話が耳に入った。

A君 「最近逢っていなかったけどどうだい」

B君 「県内の卸業者に就職が決まったよ。いくつもの会社の試験を受けた。」

A君 「就職か決まって良かったな。俺もいくつか受けたがまだ決まっていない。駄目なら大学へ行こうかな。少し焦ってきたよ。」

 就職の話は極短い会話で終わり、携帯電話の話に移った。私の友人の子も大震災によってか内定が取り消され、今懸命に就職活動をしているそうだ。今年の就職活動は大変厳しいようである。「若い人に職がない。あるいは身分が不安定である。」といったことは、その人の一生を決めかねないほど重要な事だ。再就職はもっと困難である。一時、ワークシェア(仕事を分かち合う)が注目されたが、会社等で採用されているのだろうか。雇用の拡大は今後ますます困難となってくるであろう。そうなると「仕事を分かち合うこと」を真剣に考えなくてはならない。それは痛みを伴うかもしれないが。


端境期

2011-09-29 04:38:21 | お花

 台風を境に寒くなってきた。秋野菜の成長には良いのだが、夏野菜は成長が止まった。きゅうり、なす、トマトの成長が見られなくなるのは寂しいものだ。同時に野菜の宅配も品数、質、量とも充分とは言えなくなってきた。春から秋まで継続的に野菜を提供することの困難さを実感する。昨日、友人から土のPH測定器を借りて畑の土を測定したが、ほうれん草の種を蒔くには酸性度が強すぎるようだ。アルカリを好むほうれん草であるが、今から石灰を蒔くわけにいかないので、灰を一部まいた。どういう結果になるか楽しみだ。野菜にとって心地良い環境が大変重要だとわかっていても、その環境を作ることはなかなかむづかしい。良い土を作るには最低数年必要であろうし、害虫、草の除去は日頃の管理が重要となる。良い環境作りには時間と根気を要する。このように考えると、農業が始まって以来野菜にとって心地良い環境作りということが2千年以上続いているのかもしれない。


野菜を届けた時の会話

2011-09-28 03:52:05 | お花

 子供、孫と暮らすおばあさんに野菜を届けた時の会話です。

私       「こんばんは。遅くなりました。」

おばあさん  「その入れ物にいれて。急に寒くなったね。」

私       「この寒さで夏野菜は大きくならないですね。キュウリは最後です。」 野菜を入れ物に入れる。

おばあさん  「今日、デイサービスに行ってきたよ。ここ半年週2回行っているが最近行く人が少なくなったようだ。体操したり、絵を書いたりするんだが、   

         家に居たほうがいいね。」

私       「たまに行くのも好いんじゃないですか。」

おばあさん  「たまにはね。でも1日いると退屈しちゃうよ。」 突然に

私       「何歳の頃が一番良かったですか。」

おばあさん  「子供を育てている時期ともっと元気だった60歳の頃かね。」

私       「子供を育てているころが一番いい時期かもしれませんね。自分も元気ですからね。でも子育て以外に一花咲かせたいですね。なんという

          か自分が納得できる花を咲かせたいですね。

おばあさん  「若いから咲かせられるよ。」

私       「どうなるかわかりませんよ。暗くなってきたのでこれで失礼します。」

 

 


キノコ採り

2011-09-27 06:58:23 | お花

昨日、友人に誘われてキノコ採りに行った。昨年はマツタケが大豊作であったようだが、今年はまだのようだ。3人でマツタケ3本とコモソウはそれぞれが2回ほど煮物にできるほどの収穫であった。マツタケは木の葉が堆積するようなところには生えないようだ。確かに痩せ地に1本はあった。それ以上に思ったことは、私が歩いた後、友人は何本かキノコを採ったようだ。同じものがあってもキノコ採りに慣れない私には見つけることができなかったのだ。同じものがあっても見つけることができない。不思議なことであるが、よく考えると暮らしも同じことである。私たちを包む環境は同じであるが、その反応は個々に違う。社会の動きが見えたり、見えなかったりと。また、意識的に見ないこともある。自分の見たものに、敏感でありたいと思う。


洛北

2011-09-26 06:27:27 | お花

 土日を娘の住む洛北で過ごしました。北野天満宮の朝市、鞍馬神社から貴船神社までの散策、サッカー観戦と充実した2日間でした。朝市は古物から布、野菜等大量のものが展示、販売されており、買い物客も大変多く盛況でした。この地域の名物の一つのようです。鞍馬神社からの散策は、3時間ほどと適当な時間でした。久しぶりに家族5人での散策となりました。鞍馬神社の本殿は山奥にあり、神の存在をそこに感じたのかもしれません。紅葉の時期の美しさを想像しました。京都には神社仏閣など多くあり自然もだいぶ残っています。ただ、人間を拒否した自然に感じます。私たちは見ることしかできないからです。都市はどこもそうですが、見る自然しか残っていません。都市では時間をもてあそぶこともありそうです。