極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

八幡湯

2005-02-28 22:34:23 | Weblog
通った銭湯は「八幡湯」という。中杉通りにあった。となりは「日食チェーン」の流行らないスーパーだった。通りを挟んでやや左に酒屋があった。銭湯の料金は230円くらいだったろうか。年々値上がりしたので、はっきりと覚えていない。(ちなみに現在は400円)

銭湯に行って、帰りに酒屋でトリスの小瓶を買うと、合わせて500円になった。

実家は物心つく頃から内風呂があり、銭湯へ通った記憶がない。子供の頃、数回行った程度だ。東京で銭湯生活になり、はじめは若干の不安もあったが、すぐに銭湯好きになった。八幡湯は木造の古い造りで、趣きがあった。番台のおばさんもちょっと「いい女」だった。「時間ですよ」の風情があった。

中村橋駅寄りに「中村浴場」という銭湯があり、こちらも何度か行ったが、現在よく見かける鉄筋造り(2階からマンションになっているようなタイプ)で、ネーミングもダサく、八幡湯と比べ魅力がなかった。

現在「八幡湯」は取り壊され、マンションになっている。地元住民の要望なのか、1階はコインランドリーになっている。「中村浴場」は健在である。
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家財道具

2005-02-27 09:15:40 | Weblog
楽器、ステレオ、ラジオは持っていった。エレキギターは雅之の「リッチ-ブラックモアモデル」のストラトキャスターを借りていた。雅之のストラトは何年間もずっと借りっぱなしだった。返したのは大学を卒業してからである。膨大な曲を雅之の「リッチーブラックモアモデル」ストラトキャスターで作った。エレキギターを楽器屋で購入するのは、就職してからだ。しかも、フェルナンデスのZO-3(ぞーさん)である。まともなエレキギターを買ったことがない。

雅之のストラトの次は池谷の白いストラトを使っている。これは借りているのではなく、機材かなにかと交換したように思う。

ステレオラックは自分で作った。江古田の日曜大工店で板を切ってもらい、釘を打って組み立てた。
その他、小学校から使っている勉強机も持っていった。その他、冷蔵庫と小さな食器棚があった。
六畳一間にしては、わりと家具がある方だ。

電話はない。テレビもなく、情報源はもっぱらラジオだった。ソニーのステレオラジカセの他に短波も入るスカイセンサーというラジオも持っていった。

望月から教わったラジオ短波、土曜夜「セクシーオールナイト」という番組がエロくて、よく聴いていた。

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その他の住人

2005-02-26 23:09:12 | Weblog
細田さんのほかに交流があったのはひとりしかいない。が、名前を忘れてしまった。

ベーシストでいつも暇そうにしていた。部屋はもろにレゲエ一色で怪し気なムードだった。髭づらに眼鏡をかけていた。人あたりはとても柔らかで、年下の私に対しても敬語で話した。よくわからない音楽を聴いていて「いいでしょう」と言うのだった。この人も常に女性がいた。

アパートのすぐ前に小学校があった。夏の夜、小学校のプールで泳がないか、と誘われたことがある。私は泳がなかったが、見物には行った。真っ暗なプールで気持ちよさそうに泳いでいた。

後にスタジオかどこかでばったり出会ったことがある。

レゲエ関係のベース奏者として、評価されるミュージシャンになっていた。
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細田さん

2005-02-25 23:08:08 | Weblog
アパートの住人で明治大学3年生の細田さんは時々飲みに連れていってくれた。

中村橋駅前の「スナック再会」に何度か行ったことがある。8トラックの「カラオケ」があった。ギターの「流し」も来ていた。「スナック再会」で盛り上がり、そのまま新宿歌舞伎町に行って、ボラれたこともある。

細田さんは法学部で司法試験を目指していた。受験に失敗して、ボロボロに酔っぱらって私の部屋に来たことがある。俺はもうだめだ、と散々愚痴ったあげく、正体を失った。しばらくして、女性が引き取りに来た。

介抱してくれる女性がいて、細田さんは幸せ者だなあ、と思った。

細田さんは結局、生命保険会社に就職した。就職してから一度、突然部屋に来たことがある。もうアパートは引き払っていた。

「結局、俺は保険のおばちゃんの世話をするわけよ」と言いながら、私に養老保険をすすめていった。
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大学1年 4

2005-02-24 23:48:17 | Weblog
中村橋から池袋まで西武池袋線で90円、池袋から市ヶ谷まで地下鉄有楽町線で120円だった。現在と比べても著しく安い、とは思えない。大学に通い始めて、「乗り換えしなくてはならない、遠い」と思っている。
池谷は大学まで歩いて通える距離に住んでいた。

池谷のアパートに行った。東京へ来て、まだ2、3日の頃だったと思う。池谷のアパート「円山荘」は、4畳半一間だった。当然、「風呂無しトイレ共同」である。

同じアパートに池谷の中学の同級生、望月が住んでいた。望月は早稲田大に現役合格していた。朝日新聞社でアルバイトもしていた。その上、彼女までいた。

初めて池谷のアパートに行った日、望月を紹介され、望月の部屋で彼女の手料理を食べている。

何を食ったか忘れてしまったが、味噌汁の味は覚えている。
東京で初めて、「一般の人の手料理」を食べ、感動した。
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大学1年 3

2005-02-23 22:40:42 | Weblog
1982年当時の大学生の暮らしは「風呂無し、トイレ共同」が当たり前だった。渥美が住んでいたアパートはトイレが付いていた。うらやましかった。ちなみに渥美の「弥生荘」の家賃は25000円である。私の家賃と、4500円ちがう。この差がトイレのあるなしを決めた。

東京での「ひとり暮らし第一夜の夕食」は中村橋駅近くの西友で買った即席ラーメンだった。部屋のガスコンロで作って食べた。無印良品だった。実家に公衆電話から電話をかけた。母と話し、ちょっと、「うるうる」した。

先日、数年振りに練馬、中村橋、それからその後に住んだ江古田近辺を自転車で走ってみた。練馬は西武線が高架になり、ずいぶんと変ってしまった。昔の風景がまったく思い出せないほど変ってしまった。中村橋も高架になってはいるが、西友が高架下に移動した他はあまり変らない。中杉通りも狭いままだ。江古田は、ほとんど変っていない。

中村橋駅前のパチンコ屋でちょっと打ってみた。

やっぱり負けてしまった。
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大学1年 2

2005-02-22 22:33:28 | Weblog
まったく勉強はしなかったが、まったく出席もしないわけではなかった。一応、出席だけはなんとかしていた。だが、成績は当然ながら、どんどん悪くなった。4年生になって、いよいよ危なくなってきた。留年か、と思っていたら最終試験がストライキ(学費値上げ闘争)で中止になり、レポート提出になった。

おかげで4年で卒業できた。ツイている。

経営学部は卒論がなく、代わりに大抵の学生がゼミを選択した。私もゼミに入ったが、すぐに辞めてしまった。とてもじゃないが、ついていけなかった。高校1年のバレーボール部の時のようだった。

大学の講議で記憶に残っているものはない。これ以上、大学での学業を書くことができない。

私は大学4年間でなにをしたのだろうか。

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大学1年 1

2005-02-21 22:41:34 | Weblog
1982年法政大学経営学部経営学科に入学した。武道館で行われた入学式にも出ている。

入学当初は「勉強しよう」と思っていた。「公認会計士ゼミに入って公認会計士になろう」と本気で思っている。私は今でも何か資格を取りたいと思っているが、20年以上前もそういう嗜好であったのだ。

しかし、勉学に燃えようとしたのは4月のほんの一瞬だった。その後大学がイヤになり、「在籍浪人」をしようと、これまた一瞬思って、その後はまったく勉強をしなくなった。

親元からは毎月8万円の仕送りがあった。現在の金銭感覚でも毎月8万円の出費とは大変だと感じる。それに加えて授業料もかかる。親に負担をかけ、東京暮らしをしているのに、第一目的である「大学での学習」を私は放棄してしまった。

後悔している。知の先達たちの専門的知識を得ることができる場所にいながら、自ら聞こうとしなかった。
残念でならない。

では、私は大学時代、何をしていたのだろうか。
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アパートさがし 4

2005-02-20 17:52:19 | Weblog
大家に会いに行くと、「業者にはこっちでうまく言っておくから、大丈夫よ」と言われた。なんのことかわからなかったが、仲介料の1ヶ月分を「アパマン館」に払わなくて済むということらしかった。

大家は近くに住んでいた。大きな家だった。あまりいい印象は持てなかった。「小金持ちでケチなばあさん」といった感じだった。「業者をごまかす」というのも本音をいえば釈然としなかった。田舎の青年は真面目だったのである。

申し合わせたわけではないのだが、渥美のアパートも近くだった。池谷は西早稲田に住み、青柳は東横線の沿線に住んでいた。

第三篠荘には大学の4年間と、卒業して後も住むことになる。

テレビも電話もない独り暮らしが始まる。
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アパートさがし 3

2005-02-19 22:30:12 | Weblog
練馬駅で2物件。どちらも日当りはゼロだった。

練馬駅の隣、中村橋の物件は2階の東南の角部屋、隣は畑で日当りが最高だった。

アパート名は第三篠荘という。第三というくらいだから、第一、第ニがありそうだが、第ニはなかった。第ニ篠荘は取り壊したらしい。

六畳一間、1階に8部屋あり、2階建てなので16部屋あった。まん中に廊下があって、4部屋づつ分かれていた。トイレは共同で、廊下の両端にあった。トイレに行くためには靴を履いてドアから出なければならなかった。部屋の入口に流し台があった。前の住人のカーペットがそのまま敷いてあり、当然畳もそのままだった。
カーペットはとても汚く、捨てたが、その下の畳も汚かった。

家賃は雑費込みで20500円だった。たしか、家賃19000円、雑費が1500円だったと思う。

第三篠荘に住むことにした。
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