極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

高校時代

2005-01-31 22:38:26 | Weblog
高校3年間が終了した。

バンドでベースを弾いた。
たった1日だったが、女性と付き合った。
喘息で入院した。
勉強はしなかった。
竹本さんと中村さんに恋をした。

竹本さんとは大学時代、西武池袋線「江古田駅」の踏み切りで、偶然出会う。

中村さんとは卒業以来 会ったことはない。
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高校3年 68

2005-01-30 16:46:03 | Weblog
高校を卒業した。卒業式には出たのだろうか。記憶がない。欠席しているかもしれない。

同級生の多くが現役合格できなかった。池谷は立命館大に現役合格し、京都に旅立っていった。花島も東洋大に合格した。今思えば、池谷や花島といった吹奏楽部の多くは現役で合格した。学業も優秀だったのである。特に池谷はその後、早稲田大に合格するのだがら成績の良さは、ずば抜けている。

西村は代々木ゼミナールの名古屋校へ。親戚宅に下宿した。
雅之は和光大に現役合格したが、浪人した。早稲田大の近くの「浪人寮」のようなところで暮らすことになった。
青柳は横浜の演劇の専門学校に進学した。

河合塾豊橋校に通った同窓生は多かった。渥美もそうだった。

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旭クリーナー

2005-01-29 16:43:57 | Weblog
旭クリーナーという清掃会社でアルバイトした。池谷の紹介だ。期間はズレているが、西村も働いた。新しく建設された施設などの最終段階の清掃を多く請け負っている会社だった。現場の仕事だ。仕事はわりとキツかったが、個性的な人が多くおもしろかった。数人の社員とアルバイトという布陣だ。社長は「大将」と呼ばれた。日に何本も缶コーヒーを飲んだ。必ず「Mコーヒー」だった。

私が旭クリーナーでアルバイトをしたのはこの時しかないが、池谷は大学に進学してからも休みのたびにアルバイトをした。

そのうち、池谷は「若大将」とよばれた。
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原動機付き自転車

2005-01-28 23:47:08 | Weblog
予備校に入る空白期間に原付きの免許を取って、バイクを買っている。原付きの試験は一度落ちている。なんというバカだろう。

購入資金はベースの売却とアルバイトで用意した。もうバンドなんてやらないだろうと思って、後輩に売ってしまったのだ。実に惜しいことをした。

アルバイトをしたり免許を取ったりと呑気なものである。

浜松オート近くの「中野サイクル」という自転車屋兼バイク屋でホンダのラクーンを中古で買った。5、6万だったと思う。ラクーンはクラッチもあるしっかりとしたバイクだった。中古といってもほとんど乗られていなかった。
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3年B組金八先生

2005-01-27 22:55:06 | Weblog
1981年3月27日金曜日は「金八先生」の最終回である。

これまた、インターネットで調べると沖田浩之とか、川上麻衣子の「第2期」だ。中江喜一が「加藤優」役で暴れる、校内暴力をテーマにしたシリーズだった。あの、ダウンタウン松本も泣いたといわれる、ラストシーン(中島みゆきの「世情」をバックに機動隊と乱闘)が有名だ。

と、書いたが、ほとんど見ていない。武田鉄矢はあまり好きではなかった。今でもそうだ。

加山雄三版「高校教師」の方がずっといいと思っていた。まったく記憶がないので、これも調べるとテレビ東京製作の連続ドラマだ。最終話は、女生徒が飛び下り自殺をして、加山はあっさり教師を辞めてしまう。

こう書いただけでも、潔くて良いと思う。

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タイムズ・スクエア

2005-01-25 23:50:45 | Weblog
予備校の手続きか何かで豊橋に行き、ついでに映画を観た。トリニアルバラード主演の「タイムズ・スクエア」だ。アメリカ、ニューヨークへの憧れもあって、感動した。サントラ盤まで買ってしまい、思い余って主演のトリニアルバラードにファンレターを出してしまった。パンフレットか何かに宛先が載っていたのだろうか。配給会社に直接出したのかもしれない。英語がまったくできなかった私だが、一応英語で書いた。

しばらくして、B5サイズのポートレートと直筆の手紙が送られてきた。トリニ本人が書いたか怪しいが、いたく感激したものだ。

つらいことばかりだったので、ずいぶんと慰められた。

後にも先にもファンレターを出したのはこの時だけである。
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具志堅用高

2005-01-24 22:55:20 | Weblog
1981年3月に具志堅用高がタイトル戦で負けている。まさに「負け犬」になっていた私にとって、とても印象的だった。インターネットで調べると、1981年3月8日、メキシコのペドロ・フローレンスに12R、KO負けだ。ボロボロになって倒れる具志堅用高の姿をなんとなく覚えている。

1970年~80年代のボクシングというのは、今よりももっと世間は注目していたように思う。具志堅用高は13回防衛し、他のボクサーに比べて際立って成績がよいが、他のボクサーも「日本の希望」的な見方をされていたようなところがあったように思う。
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ブルースブラザース

2005-01-23 18:42:17 | Weblog
1981年3月に「ブルースブラザース」を試写会で見ている。浜松の中央劇場、「先着500名の一般試写会」というもので、午後6時会場で午後5時50分頃着くと、「2、30人しか並んでいない」と書いてある。平日ということもあるだろうが、映画の認知度のせいでもあるだろう。

名作の誉れ高い「ブルースブラザース」は当時の浜松で先着順試写会でも会場一杯にならなかった。

感想は「ギャグで笑えない」「キャリーフィッシャーがいい」「主人公たちより、まわりの出演者の方が歌がうまい」などと書いてある。「洋楽のリズムを日本人は本当に受け入れることができるか」などとえらそうなことも書いてある。

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高校3年 67

2005-01-22 18:59:49 | Weblog
受験した学校にすべて落ちた。そのまま浪人してしまった。就職する選択肢もあったはずだが、なぜか浪人してしまった。就職する気概などなかった。予備校は豊橋の河合塾にした。浜松にろくな予備校はなかった。行ってみると、国公立、私立文系、私立理系、の3コースしかなく、なんとなく私立文系のコースを選択してしまった。

国公立の多科目を勉強するパワーはなかった。

親の負担を軽減するために公立の専門学校を受験したはずなのに、私立の文系コースを選んでいる。やはりなにも考えていない。

世間知らずのお坊っちゃんだ。

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高校3年 66

2005-01-21 23:54:49 | Weblog
1981年2月24日、東京都立診療放射線専門学校の不合格を知る。この学校のランクはどのくらいだったのか、当時の日記によると「偏差値ランク16」と書かれている。このランクは数字が小さい方が、レベル高で、東京大学などは当然「ランク1」になるわけだ。

通っていた高校の優等生は「ランク5」あたりで、平均が「ランク9~10」、落ちこぼれでも「ランク12~14」などと書いてある。

「ランク16」で合格できず、ずいぶんとへこんでいる。
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