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伊豆の土屋郷(須原村)と土屋氏

2020-12-26 15:40:19 | 伊豆だより<里山を歩く>

元稲梓村立須原尋常高等小学校(現下田市、廃校)の大正12年度卒業生(石堂の同級生)は31名中22名が「土屋」姓だった。そのほか「佐々木」「村山」「小泉」等もあったが「土屋」が圧倒的に多い(71%)。校区は元須原村(明治10年に本須郷村、新須郷村、茅原野村、北野沢村が合併)、奥伊豆の小さな山村である。

全国の苗字ランキングは上位から「佐藤」「鈴木」「高橋」「田中」「渡辺」だと言う(明治安田生命保険)。「土屋」は120~140位に位置し決してメジャーな苗字ではないのに、此処は大半が土屋姓。下田市須原は「伊豆の土屋郷」とも呼べる里である。 

この地域に土屋姓が多いのは何故だろうか? 

(1)「相模の土屋」と「甲斐の土屋」

誰が最初に土屋姓を名乗ったのか? 古文書や歴史書、系図や家紋などに関する多くの研究によれば、土屋姓は「桓武平氏中村氏族の流れ(相模)」と「清和源氏一色氏の流れ(甲斐)」の二系譜に代表され、これがほぼ定説となっている。その他にも、「清和源氏武田系小笠原忠定が徳川秀忠家臣土屋正明の養子となり土屋氏を呼称」「宇多源氏雅信の次男成起が美濃国土屋郷を領して土屋氏を呼称」「伊豆、三河、駿河、丹後、伯耆、石見、備後、大和、紀伊、肥前に土屋氏があった」との記述(奥富敬之「日本家系・系図大辞典」)もあるが、今回は源流「相模の土屋」と「甲斐の土屋」について述べよう。

相模の土屋氏:平安時代末期、中村荘司宗平の三男「宗遠」(平良文の6代孫)が荘内の相模国大隅郡土屋郷(平塚市)に館を構え郷司となり、「土屋」を氏(姓)とし土屋三郎宗遠を名乗ったのが始まりとされる(土屋の祖と称される)。現在も平塚市には「土屋」が地名として残り、館跡も特定されている。

なお、父の中村宗平は桓武天皇の曽孫「髙望王(平髙望)」の子「平良文」の流れをくみ、桓武平氏の豪族であった。祖先の髙望王は平安時代中期898年上総介に任じられると一族を伴い坂東に下向し、武家集団として勢力を築いていた。宗遠の兄弟たちも、長男は中村太郎重平で余綾郡中村郷(中井町から小田原東部)を継ぎ、二男の土肥次郎実平は土肥郷(湯河原)に、四男の二宮四郎友平は二宮郷(二宮)に館を構え、娘は岡崎郷(岡崎村)の三浦岡崎義実に嫁している。当時の中村氏一族は西相模一帯に力を持つ豪族(武士)として存在していたのである。

宗遠は兄実平らと共に源頼朝の挙兵に参加、頼朝側近の武将として「富士川の合戦」「一の谷の合戦」「屋島・壇ノ浦の合戦」などに出陣し、鎌倉幕府樹立に貢献した。宗遠の後裔も代々鎌倉幕府の御家人として仕え、出雲国持田荘・大東荘や河内国伊香賀郷の地頭を任官するなど厚い信頼を得ていた。

しかし、時は移り室町時代になって備前守土屋景遠の時代、「明徳の乱」「上杉禅秀の乱」に組みし破れたことから相模本領を没収され(1418年)、相模の地で栄えた土屋氏は各地へ離散してしまう。景遠の父氏遠は武田家家臣となり甲斐で果てるが、景遠は武田信長を主君として行動を共にして信長に従い鎌倉御所に同行、鶴岡八幡宮神職大伴時連の娘を娶った(或いは房総に渡ったとされる)。景遠の子勝遠は幼かったため難を逃れ甲斐に渡り、後に甲斐武田氏の武田信昌の娘を娶り武田家の重臣となっている。

  系譜:桓武天皇―葛原親王―高見王―髙望王(平氏祖)―良文―忠頼―頼尊-恒遠―宗平―宗遠(土屋祖)―宗光―光時―遠経―貞遠―貞包―宗将―秀遠―道遠―宗弘―宗貞―氏遠―景遠―勝頼―信遠―昌遠-円都―知貞―知義―知治―知康

◇甲斐の土屋氏     

*鎌倉時代、甲斐市島上条大庭に志摩荘(荘園)地頭である土屋氏の館があったと伝えられているが(甲斐国史)、当主の氏名など詳細ははっきりしない。また、同地島上条村続(甲斐市)には甲斐守護武田信重と家臣土屋氏が代々崇敬したとされる八幡神社がある。

*戦国時代、甲斐土屋氏は甲州西郡(にしごおり、釜無川西側)を本領とし、八田村徳永(南アルプス市)に居館があったと伝えられる(金丸氏と同族であった)。系譜を遡れば足利公深(足利尊氏の子、一色氏)に連なることから、清和源氏義国の流れとされる。

*武田家重臣であった金丸虎義(筑前守)の次男平八郎(昌次、昌続)は武田晴信(信玄)の近習として仕え、永禄4年川中島合戦で信玄を守った功績が認められ、桓武平氏相模三浦氏流の土屋氏名跡を継承し土屋平八郎昌次と名乗った。その後侍大将に取り立てられ多くの合戦で奮戦し右衛門尉に叙せられ、信玄の側近・奉行として仕える。信玄死去の際は遺骨を甲府に持ち帰り埋葬したと言われる(信玄墓所)。天正3年(1575)長篠の戦で土屋右衛門尉昌次戦死。

また、昌次の実弟惣藏(昌恒)は、武田海賊衆の岡部忠兵衛(貞綱)の養子となった(貞綱は養子を迎えるにあたり土屋姓の名乗りを許された)。惣藏(昌恒)は長篠の合戦後は武田勝頼に従い甲府に落ち、長篠の戦で戦死した兄昌次の名跡(土屋姓)と家臣をも引き継いだ。天正10年(1582)武田滅亡となる天目山の戦いで、昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せたが、勝頼に従い殉死。幼少だった昌恒の子・忠直は駿州興津の清見寺に預けられ、9歳の頃から家康の側室茶阿の局に養育されたと言われる。

*また、武田家滅亡に際し、上野国児玉郷(群馬県)に逃れ帰農した土屋源左衛門、勝頼十六将の一人で軍用金を持って土谷沢(群馬県下仁田)に落ち延びた土屋山城守高久、信州伊那瑞光禅院(長野県)には土屋昌恒の子宗右衛門、伊豆には土屋勝長、外記、玄蕃が落ち隠れ住んだとの伝えがある。かくして、本能寺の変後、甲斐国は徳川家康が領することになる。

 系譜 (1)足利泰氏―公深(一色)―範氏―範光―詮範―範貞―範次―藤直―藤次(金丸家)―虎嗣―虎義(備前守、金丸)―昌次(次男、土屋右衛門尉を称す)、(2)虎義(備前守、金丸)―昌恒(五男惣藏、岡部氏養子、土屋を称す)―忠直(上総久留里藩へ)―利直、(3) 忠直―数直(次男、常陸土浦藩へ)

◇江戸時代の土屋氏:武田家の家臣であった土屋家は、武田家滅亡後に徳川家康に仕えることになった。家康の側室茶阿の局に養育された土屋忠直は成長して、慶長7年(1602)上総国久留里藩主となり、利直、直樹と三代続いたが直樹の代で改易お取潰しとなった(直樹の狂気を理由に)。しかし、直樹の嫡男土屋達直は祖先の功績が認められ旗本寄合席に任じられ晩年を無役に過ごした。因みに、赤穂浪士に登場する土屋主悦は土屋達直のことである。一方、寛文9年(1669)には忠直の次男土屋数直が土浦藩主となった。数直は徳川家光に若年寄・老中として仕え、数直の嫡男土屋政直は綱吉、家宣、家継、吉宗に老中として仕えた。その後も土浦藩主家は代々大名家の格式を守って明治維新に至っている。

 系譜 (1)上総国久留里藩主:土屋忠直―利直―直樹、(2)常陸国土浦藩主:土屋数直―政直―陳直―篤直―寿直―泰直―英直―寛直―彦直―寅直―挙直(幕末明治維新へ)

(2)土屋の由来と家紋

土屋の由来と家紋について触れておこう。

◇土屋の由来:先に述べたように、土屋姓の初見は平安時代末期、相模国大隅郡土屋郷に館を構えた土屋三郎宗遠と思われる。宗遠は中村氏の出であるから、氏(姓)は地名からとったとするのが妥当だろう。平安時代の荘園を管理する武士は自分の所有する土地(本貫地)の地名を苗字にするのが一般的だった。

それでは、何故この地域が土屋と呼ばれていたのか? 謂われについて確かな記録はないが、相模国大隅郡土屋郷は丘陵地で多くの谷戸があり、寺分地区の地名土屋窪は岩屋窪から転じたのではないかとの説がある。土屋窪には複雑な構造の古墳(土屋窪地下式坑と呼ばれる)があり、「岩屋(土屋)のある場所」と言うのが語源だと言われている。

◇家紋:桓武平氏良文流の土屋氏は「三つ石」、清和源氏一色氏流の土屋氏は「九曜」を家紋とした。この二つが土屋氏(姓)の代表紋とされる。

「三つ石紋」はいわゆる石畳紋で、神社の敷石模様から来ている。神官や氏子が家紋としたのだろう。「九曜紋」はいわゆる星紋で、インド占星術が扱う9神を星で表し、運命を司るものとして信仰したことによる。

なお、家紋の起源は古く平安時代後期にまで遡る。鎌倉時代以後は合戦の際に敵味方を区別したり、手柄を確認させたりするための手段として爆発的に広まった。その後、江戸時代から明治時代を経て、貴族や武士だけでなく一般庶民も広く家紋を所有し使用するようになったため変異を生み、その数は5,000~10,000を超えると言う。しかし、第二次大戦後は家に対する意識が変わり、墓石などに家紋を確認するのみだ。

(3)土屋勝長(外記助)

下田市須原坂戸口にある宝篋印塔は「土屋氏の墓」と伝えられている。掛川志稿には天正10年(1582)天目山の戦いで敗れ武田家滅亡の後に、勝頼の家臣であった土屋勝長はこの地に落ちのび隠れ住んだとある。また豆州志稿には、須原村水神社の天正10年上梁文には「茅原野村氏土屋外記之介勝長」との記述があり、下山治久「後北条氏家臣団人名辞典」や橋本敬之「下田街道の風景」には、小田原城主北条五代氏直の家臣に茅原野村の地侍土屋勝長(別名、外記助)との記載がある。

これ等から見て、土屋勝長が天正10年以降は茅原野村(下田市須原)に住んだと考えて間違いあるまい。戦国時代の茅原野村は、小田原北条氏の重臣大道寺氏の所領であった(小田原衆所領役調)。勝長が茅原野に来た天正10年頃の小田原城主は第五代北条氏直、領主は大道寺政繁(河越城主・鎌倉代官)であるが、氏直の母は武田信玄の娘、大道寺氏は北条家の重臣であった関係で、勝長はこの地に落ち着き地侍として氏直に従ったと言うことだろうか。

残念ながら、勝長の系譜、土屋氏(姓)を名乗るようになった経緯は分からないが、この地域に土屋姓が多いのは勝長一族に所縁あると考えるのが妥当だろう。ただ、全てが血縁であるとは言えず、平民苗字許可令(明治3年)、平民苗字必称義務令(明治8年)の施行を経て土屋姓を名乗った者も多数存在するに違いない。

因みに、土屋氏宝篋印塔のある場所は戦国時代~江戸時代には茅原野村と呼ばれたが、町村合併により明治10年(1877)に須原村、明治22年(1889)に稲梓村、昭和30年(1955)に下田町へと変わり、昭和46年(1971)には市制が布かれ下田市となっている。

(4)啓山石堂と土屋姓

或る夏休みだった。石堂の孫が「家のルーツは?」と聞いたら、「鎌倉の偉いお坊さんと一緒に来た」と石堂は応えた。しかし、高僧の名前も時代も明らかでない。石堂の菩提寺が臨済宗建長寺派の古松山三玄寺であることから推量すると、この寺の僧侶と関係あるのだろうか。因みに、三玄寺の開創は慶長元年(1596)竜翁祖泉禅師、開山は慶長14年(1609)とされる。その後、元禄7年(1694)七世宗翁和尚の時「三玄寺」と改称、宝暦12年(1762)十一世黄州和尚の時には改装がなされている。

一方、石堂の系譜を遡ると、啓山石堂(土屋啓二、平成14年2002没)―寂空常然(土屋つね、昭和38年1963没)―土屋傳蔵(明治28年1895没)―土屋半右衛門(明治39年1906没)―土屋傳四郎(明治24年1891没)―傳三郎(嘉永2年1849没)―圓山光月(文政元年1818没)とあるが、この先は辿れない(改製原戸籍、法雲寺過去帳)。この過去帳の記述から推測すると、石堂家が土屋姓を名乗ったのは「平民苗字許可令(明治3年)」「平民苗字必称義務令(明治8年)」後かも知れない。

原戸籍簿には、石堂の高祖父半右衛門と曾祖父傳四郎の住所地番が「須原165(茅ヶ谷戸)」、祖父傳蔵の地番が「須原180(茅ヶ谷戸)」とあり、土屋氏宝篋印塔や三玄寺に近い場所である。何か因果を感じさせるが確たるものはない。その後、傳蔵・常然の代に親族は須原430~600地域(枝郷坂戸)へ転居している。因みに、茅原野村は天正18年(1590)に天正検地が実施され一筆ごとの所在地(字)、田畑の品等、地積、名請人などが記載されているが、地番が付されるのは明治4年(1871)戸籍法、明治19年(1886)戸籍法細則(内務省令)が施行された後のことであろう。

石堂の家紋は「丸に三つ石紋」で土屋氏の代表紋と同じある。墓石には「土屋家の墓」の文字、「三つ石紋」「屋号」が彫られている。墓参の折に三玄寺墓所を巡ってみると大半が三つ石紋であった。この集落には「土屋姓」「三つ石紋」が多い。

石堂は寺田を耕作し(昭和23・24年に自作農創設特別処置法で購入した)、檀家総代を務めるなど三玄寺との関係は深かった。

先日、石堂の須原尋常高等小学校卒業生名簿(大正12年度)を調べていたら、「土屋勝長」の名前に目が留まった。何だ、これは?

(写真は大正13年3月須原尋常高等小学校卒業生)

参照:(1)渡邊三男「日本の苗字」毎日新聞社1977、(2)吉田大洋「苗字と祖先」弘済出版会1980、(3)奥富「日本家系・系図大辞典」東京堂出版2008、(4)清水太郎「天正期における北条氏照家臣団2009、(5)橋本敬之「下田街道の風景」長倉書店2020

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2024-01-21 01:15:25
初めまして。
祖母が南伊豆の出で旧姓が土屋だと聞いたことがあります。
祖母の父は東京で近衛兵のお仕事をしていて早死にであったと聞きました。
近衛兵は家が柄が良くないとなれなかったと。
ちなみに祖母の母は芸者さんだったそうです。
先日、旅行で下田を訪れましたところ知らずに涙が頬を伝いました。
自分のルーツに近づき、魂が懐かしんだのでしょう。

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