南九州旅行2日目、「関之尾滝」の次は、「今町一里塚」です。
この後、都城市から約40Km南の志布志市へ向かう予定で、立ち寄ったものです。
都城市街地から国道269号を進むと道の両側に「今町一里塚」が見えてきました。
「一里塚」は、江戸時代の初頭、幕府が命じて全国の街道に造った施設で、江戸日本橋を起点に一里(3.927Km)毎の道の両側に塚が築かれ、旅人の目印としたものです。
又、塚の横には榎[えのき]や、松が植えられたとされ、木陰で旅人が休憩できるよう配慮されていたようです。
街道の両側に残っていることでも珍しい「今町一里塚」ですが、昔の街道が、そのまま現代の国道で続いていることも珍しいのではないでしょうか。
■「今町一里塚」の案内板より
******************************************************************************
種 別 国指定史跡
名 称 今町一里塚
指定年月日 昭和十年十二月二十四日
一里塚[いちりづか]は江戸時代の街道一里(約四キロメートル)ごとに設けられた道しるべである。これは十七世紀の初めに徳川幕府が、江戸日本橋を起点に東海道などの主街道に築いたのが始まりといわれる。薩摩藩では十七世紀の前半に設けられたようである。今町の一里塚は、今町街道と呼ばれた都城・末吉・松山・志布志を結ぶ道筋(現国道二六九号線)にある。
この街道は上使(幕府巡検使)一行の、薩摩藩から飫肥藩への通り道にもなっており、昭和十年頃まで緑の松並木が続く美しい光景をかもしだしていた。その街道の両側に土盛のように残されていたこの塚が、国の指定を受け保存されることとなった。現在はその松並木もなくなっているがこの塚だけは残っており、一里塚としては九州で唯一の国指定史跡となっている。
平成七年一月
都城市教育委員会
******************************************************************************
「今町一里塚」周辺の地形図に江戸時代末期の「天保国郡図」から街道筋の地点を探し、赤い直線(破線)で結ぶ方法で書き加えたものです。(一部の地名は現代の地図では見つからず推察で記入しています)
案内板によると「今町一里塚」は、都城・末吉・松山・志布志(地図に赤丸で記した)を結ぶ「今町街道」の一里塚だったとされています。
このルートを「天保国郡図」で見ると「佐土原」(宮崎市の北)から「都城」を経由し、鹿児島へ至る「日向街道」(現代の国道10号)でもあったようです。
又、案内板に「上使(幕府巡検使)一行の、薩摩藩から飫肥藩への通り道」とあり、都城から飫肥を結ぶ国道222号のルートかと思いましたが、違っていました。
「天保国郡図」には国道222号ルートの街道が無く、「鹿児島」から末吉に入り、都城~八良加納(八郎ヶ野?)~福島(串間?)~秋山を経由して「飫肥」へ至るルートが書かれていました。
当時の街道が末吉から北上して都城へ向かい、再び南下する回り道のコースとなっているのは不自然で、上使(幕府巡検使)が重要拠点「都城」へ立ち寄るための配慮でもあったのでしょうか。
国道269号の西側にある一里塚です。
高さ約1mの石垣の上に塚が築かれ、「榎[えのき]」と思われる大きな木がそびえています。
近くから見た西側の塚の風景です。
塚の形が道路に沿って細長く、円形の塚が国道側の裾の部分を削られたように見えてきました。
かつての街道が現在の広さの国道へ拡張される時、塚が削られて、断面に石垣が造られたのかも知れません。
塚の上には「今町一里塚」と刻まれた石碑が立っていました。
国道269号の東側の一里塚です。
こちらは、小さな塚の上に榎が植えられていました。
初めて見る一里塚に、チョンマゲ姿の人々が行き交う風景が浮かんでくるようでした。
この後、都城市から約40Km南の志布志市へ向かう予定で、立ち寄ったものです。
都城市街地から国道269号を進むと道の両側に「今町一里塚」が見えてきました。
「一里塚」は、江戸時代の初頭、幕府が命じて全国の街道に造った施設で、江戸日本橋を起点に一里(3.927Km)毎の道の両側に塚が築かれ、旅人の目印としたものです。
又、塚の横には榎[えのき]や、松が植えられたとされ、木陰で旅人が休憩できるよう配慮されていたようです。
街道の両側に残っていることでも珍しい「今町一里塚」ですが、昔の街道が、そのまま現代の国道で続いていることも珍しいのではないでしょうか。
■「今町一里塚」の案内板より
******************************************************************************
種 別 国指定史跡
名 称 今町一里塚
指定年月日 昭和十年十二月二十四日
一里塚[いちりづか]は江戸時代の街道一里(約四キロメートル)ごとに設けられた道しるべである。これは十七世紀の初めに徳川幕府が、江戸日本橋を起点に東海道などの主街道に築いたのが始まりといわれる。薩摩藩では十七世紀の前半に設けられたようである。今町の一里塚は、今町街道と呼ばれた都城・末吉・松山・志布志を結ぶ道筋(現国道二六九号線)にある。
この街道は上使(幕府巡検使)一行の、薩摩藩から飫肥藩への通り道にもなっており、昭和十年頃まで緑の松並木が続く美しい光景をかもしだしていた。その街道の両側に土盛のように残されていたこの塚が、国の指定を受け保存されることとなった。現在はその松並木もなくなっているがこの塚だけは残っており、一里塚としては九州で唯一の国指定史跡となっている。
平成七年一月
都城市教育委員会
******************************************************************************
「今町一里塚」周辺の地形図に江戸時代末期の「天保国郡図」から街道筋の地点を探し、赤い直線(破線)で結ぶ方法で書き加えたものです。(一部の地名は現代の地図では見つからず推察で記入しています)
案内板によると「今町一里塚」は、都城・末吉・松山・志布志(地図に赤丸で記した)を結ぶ「今町街道」の一里塚だったとされています。
このルートを「天保国郡図」で見ると「佐土原」(宮崎市の北)から「都城」を経由し、鹿児島へ至る「日向街道」(現代の国道10号)でもあったようです。
又、案内板に「上使(幕府巡検使)一行の、薩摩藩から飫肥藩への通り道」とあり、都城から飫肥を結ぶ国道222号のルートかと思いましたが、違っていました。
「天保国郡図」には国道222号ルートの街道が無く、「鹿児島」から末吉に入り、都城~八良加納(八郎ヶ野?)~福島(串間?)~秋山を経由して「飫肥」へ至るルートが書かれていました。
当時の街道が末吉から北上して都城へ向かい、再び南下する回り道のコースとなっているのは不自然で、上使(幕府巡検使)が重要拠点「都城」へ立ち寄るための配慮でもあったのでしょうか。
国道269号の西側にある一里塚です。
高さ約1mの石垣の上に塚が築かれ、「榎[えのき]」と思われる大きな木がそびえています。
近くから見た西側の塚の風景です。
塚の形が道路に沿って細長く、円形の塚が国道側の裾の部分を削られたように見えてきました。
かつての街道が現在の広さの国道へ拡張される時、塚が削られて、断面に石垣が造られたのかも知れません。
塚の上には「今町一里塚」と刻まれた石碑が立っていました。
国道269号の東側の一里塚です。
こちらは、小さな塚の上に榎が植えられていました。
初めて見る一里塚に、チョンマゲ姿の人々が行き交う風景が浮かんでくるようでした。