昔に出会う旅

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南九州旅行No.10 世界最大の「関之尾甌穴群」、「関之尾滝」と、用水路の歴史

2012年07月02日 | 九州の旅
南九州旅行2日目朝7:00頃、都城市のホテルを出発し、都城市関之尾の「関之尾滝」へ向かいました。

「関之尾滝」は、都城市市街地から北西へ直線距離で約8Kmの場所にあります。



「関之尾滝」の正面に吊橋が架けられ、見上げるように眺めた風景です。

勢いよく落下する滝からは霧雨のようなしぶきが下流約60~70mの吊橋まで飛んできていました。

観光案内では「滝の高さ18m」と紹介され、低いと思っていただけに、この滝の迫力は予想を大きく超えるものでした。



関之尾公国の案内図です。

図の上部の「現在地」と書かれた場所の右上に駐車場があり、そこから赤い矢印のルートを一周しました。

滝の上には「長さ600m・最大幅80m」と紹介された「関之尾甌穴群」が続き、散策路から見ることが出来ます。

図右下に散策コースの距離・時間が書かれていますが、7:20頃から8:00頃までゆっくりした約40分間の散策でした。

■関之尾公園の案内板です。
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関之尾公国の滝と甌穴
 昭和三年   国の天然記念物指定(甌穴)
 昭和三十三年 宮崎県立母智丘関之尾自然公園
 平成元年   日本の滝一〇〇選 入選
関之尾公園には、大滝(幅四十メートル高さ十八メートル)男滝、女滝の三つの滝があります。滝の上流へ六百メートル幅八十メートルにわたって広がる甌穴があります。この甌穴(小さい瓶のの様な穴)は、約三十四万年前に形成された床の大きな溶結凝灰岩(火砕岩の一種)の割目に砂や石ころが入り水の力と長い年月をかけて出来上ったもので現在も進行中てす。大きいものは三メートルを越えるものなど、一帯に数千個の穴が散在しています。日本では、木曽川やこの庄内川の上流に小さいものはあリますが、こんなに大規模なものは世界でも類がないといわれ、フランスにあるホンデスールより大きく世界一であると地質学の権威者は、称賛されておられます。
 また、昭和五十四年には 緑の村(宿泊施設・売店・テニスコート・プール・を開設するなど、四季を通じ自然を満喫できる公園として整備を施しています。
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公園案内図の「現在地」とある庄内川の西岸から下流を見た風景です。

人影のない朝の公園は、せせらぎの音と、5月の新緑に包まれ、すがすがしい散策になりました。

「庄内川」は、高千穂峰南麓の流れを集めた勢いのある清流で、太平洋にそそぐ「大淀川」の支流になるようです。

地図で、「大淀川」の河口のある宮崎市から都城市周辺の流域一帯をたどって見ると、意外も流域面積では「筑後川」に次ぐ九州第2位の河川であることを知りました。

少し下流には東岸に渡る橋(遊歩道)が見えます。



橋の上から見た甌穴群[おうけつぐん]の様子です。

甌穴は、川底の岩盤に出来た円柱状(球状)の穴で、岩の窪みなどに小石が留まり、水流で回転することにより底が削られて出来るようです。

「関之尾甌穴群」では、円柱状の穴も見られますが、たくさんの甌穴が更に削られて連続した状態になったと思われます。

■公園内に「関之尾甌穴」の案内板がありました。
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国指定天然記念物
 関之尾甌穴
 指定年月日 昭和三年二月十八日
霊峯高千穂の南裾に沸く清流を集めて走る千足川[せだらし]と溝口川とが合流し一大飛瀑となって庄内川とかわるここが関之尾の滝で滝の高さ十八メートル巾四十メートルの溶結凝灰岩の柱状節理の断崖である
この滝から上流六百メートル 巾四十メートルにわたる河床に水の力で出来た大小無数の壺穴がある これが「甌穴」である
この甌穴はシラスの底にある溶結凝灰岩が川床に露出しその川床が水の力で流される礫の回転運動でえぐり取られて出来たもので直径は一メートルないし三メートルである甌穴の造成は今も進行中であるがその起源は姶良カルデラ造成以前であるといわれている
国は地質学上貴重な天然物として指定した
昭和五十九年七月一日
 都城市教育委員会
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東岸に渡り、川辺の遊歩道を下流に進んで行くと、用水路の取水口が見えてきます。

そばの案内板に「田園空間博物館 北前用水路取水口」とあり、下流の水田に水を供給する施設のようです。



取水口から下流方向の「北前[きたまえ]用水路」の風景です。

「関之尾公国の案内図」に「北前用水」と記した辺りの風景で、対岸にも同様の水路「南前[みなみまえ]用水」が見られました。



更に下流に進み、「関之尾滝」の横を過ぎた辺りに「北前[きたまえ]用水路」の余剰の水を川に戻す施設がありました。

右手に水門があり、余剰の水はここから下の断崖に流れ落ち、「男滝」と名づけられていますが、滝の全景は割愛しています。

■「男滝」を紹介する案内板です。
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「田園空間博物館 北前用水路」
この男滝は北前用水路の余水吐[よすいは]きです。
明治の人が岩を掘り抜いてつくりました。
余水吐きは大雨のときなどに余分な水を川に流して水路を守る働きをします。
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「関之尾滝」周辺の地形図で、左上は拡大図です。

「関之尾滝」の上流側には三つの用水路が造られたとされ、拡大図にある「A・B・C」の場所はその取水口です。

「北前用水の取水口は、「B」の場所ですが、地形図には上流の両岸「A・C」の場所にも取水口が見られます。

旅行の下調べで読んだ「宮崎県の歴史散歩」(山川出版社)ではこの「北前用水路」は紹介されておらず、A「南前[なんまえ]用水」と、B「前田用水」が紹介されていました。

江戸時代に造られたとされる最初の用水路「南前用水」は、「庄内川」の南岸「川崎・平田・乙房地区」の農地を潤しており、「北前用水路」「前田用水路」は、北岸「庄内地区」下流を潤しているようです。

■「宮崎県の歴史散歩」(宮崎県高等学校社会科研究会歴史部会 編集)の一節です。
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 関之尾滝を取水口として二つの用水路がつくられている。
その一つ南前[なんまえ]用水は、薩摩藩家老川上久隆[かわかみひさたか]が、主命により滝の上流300mの右岸の岩山を掘り抜いたもので、現在の川崎・平田・乙房[おとぼう]地区190haを灌漑した。
もう一つの前田[まえだ]用水は、当初1889(明治22)年、庄内の坂元源兵衛が滝の上流350mの左岸から取水して、20haを開田したが、資金不足で失敗した。のち鹿児島出身で農商務次官となった前田正名が、辞官後引き継ぎ、1901年、完成した。これにより庄内・山田・志和地の3村(現在の都城市・山田町)にわたる264haの開田に成功した。用水路は幹線13.5km、トンネル13ヵ所の大規模なものである。
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<参考>
・南前用水 1685年(貞享 2)完成 水路の長さ7.2Km 水田灌漑面積170ha
・北前用水 1889年(明治22)完成 水路の長さ5.1Km 水田灌漑面積 68ha
・前田用水 1901年(明治34)完成 水路の長さ7.0Km 水田灌漑面積278ha



「男滝」から更に下流へ歩き、「関之尾滝展望台」を過ぎた場所に不思議な形の「川上神社」がありました。

建物の埴輪で見たような形にも見え、馬の鞍を模したものでしょうか。

川上神社の創建は、最初の「南前用水路」の開削を命じた都城島津氏当主「島津久理」(1657~1727年)を祀ったことに始まるようです。

その後大正時代に、「北前用水路」を完成させ、「前田用水路」の開削に尽力した「坂元源兵衛」(1840~1918年)と、「前田用水路」を完成させた「前田正名」(1850~1921年)が合祀されたようです。

神社名「川上神社」の名から推察すると、創建当時に都城島津氏当主「島津久理」から命じられ、工事を指揮した家老「川上久隆」も主祭神だったのかも知れません。

「関之尾滝」の下流域の人々が用水路の恩恵に感謝し、雄大な滝を見下ろすこの場所に社殿を建てたものと思われます。



「男滝」から少し下流に歩いた前方に関之尾滝の展望台が見えてきて、すぐ下には吊橋に降りていく階段がありました。

切立った岩の断崖を見ると、水路や散策路が岩を削って造られていることがうかがわれます。

■展望台に不思議な物語が書かれた案内板がありました。
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関之尾公園に伝わる物語
今から六百年前、時の都城主北郷資忠公が家臣を引き連れてここで月見の宴を行いました。こうこうたる月に映える滝の美しさ、甌穴の不思議な流れに一行は酔っていました。この宴に庄内一の美女十八才の通称お雪(おしず)がよばれ、殿様にお酌をしますが、緊張のあまり酒をこぼしてしまいました。
 それを苦にしたお雪は宴の終わった後滝つぼに身を投げました。お雪の恋人経幸[つねゆき]は日夜悲嘆にくれて滝の上から声を限りにお雪の名を呼び続け泣き悲しみ、槍の穂先で岩に思いをこめた一首の歌を刻み残し、行方が分からなくなりました。
  書きおくも かたみとなれや 筆のあと
   また会うときの しるしなるらん
この経幸[つねゆき]の想いが通じて、毎年名月の夜になると朱塗りの盃が滝つぼに浮かんでくるのでした。
二人を偲んで恋人同志で男滝、女滝に酒を流すと必ず結ばれるという。
 都城市
 都城観光協会
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100m以上離れた展望台から眺めた「関之尾滝」の絶景です。

大きな轟音をたてて大量の水が落下する滝の迫力に圧倒されました。

日本の滝100選の中では高さ18mは、最低クラスですが、この迫力は意外でした。

滝の上には川一面に甌穴が続き、岸辺には帰りに歩いた散策路の柵が見えます。



案内板の物語で、殿様にお酌をしたお雪が身を投げたのはあの岸辺からだったのでしょうか。

案内板では600年前(南北朝時代)の物語に続き、「二人を偲んで恋人同志で男滝、女滝(男滝の下流)に酒を流すと必ず結ばれるという」とあります。

1889年(明治22)完成の「北前用水」から落下する流れに男滝・女滝と名づけ、600年前の恋人による縁結びのご利益を語る都城市と、観光協会のたくましい商魂にも大いに感動したスポットでした。


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