昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

近江神宮の境内に古代の時計

2009年01月24日 | 近畿地方の旅
前回に続き、滋賀旅行で、「近江神宮」へ参拝した記録です。



「外拝殿」に上る石段の横に青銅の龍がありました。

この青銅の龍には古代中国と、現代の両方のイメージを感じます。

■向って左にある説明板を転記します。
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古代火時計 FIRE CLOCK

この火時計は、約4000年前、中国にて、おもに夜間の時間を計るものとして用いられたもので、龍の背に等間隔に計14個の銅球が吊り下げられており、糸の下を燃え進む線香の火が糸を焼き切り、球が落下し、下に設けられたドラが鳴って時を告げるものです。

この時計は1間隔がおよそ2時間を示すように作られています。
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時計には、時刻を伝えるものと、時間を長さを伝えるものがあります。

この「古代火時計」は、時間を長さを伝えてくれるようです。



写真の印象より大きく、堂々とした龍でした。

青銅の龍に神秘さを感じるのは、尾や、胴の幾何学的なデザインと、リアルな龍の顔のアンバランスさによるものでしょうか。

玉をつかんだ爪のある足が、印象的です。

■台座に貼り付けられた表示板にはローレックスの王冠のようなマークが刻まれ、次のことが書かれていました。
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ロレックス時計会社(スイス・ジュネーブ)より日本の皆様へ贈る。
1979年 時の記念日
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境内に日時計がありました。

昭和三十九年十月に奉納された精密日時計と書かれています。

神社の建物の朱色に合わせて作られたようです。

■日時計にいくつかの表示板があり、その一つを転記します。
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六月十日 時の記念日
「日本書紀」の天智天皇第十年のところに
「四月丁卯[ていぼう]、漏刻[ときのきざみ](水時計)を新台[にいうてな]におき始めて時刻[とき]を打ち、鐘鼓をならし」たと書いてある。いまから千三百年のむかし、天智天皇は日本で始めて「時刻」の制度を定め給うた。
それは新暦の六月十日に当たるのでこの日が「時の記念日」ときめられた。
それよりさき天智天皇は中大兄皇子であらせられたとき、齊明天皇第六年に漏刻[みずどけい]を作られている。この大むかしにすでに時に関する大科学者であらせられた。
漏刻は「時間」の経過をはかるものであって、いま何時[なんじ]かという「時刻」ははかれない。「時刻」は刻々に移りゆく太陽の位置によって定められる。それが精密日時計の仕事である。
東京時計製造株式会社
佐藤守彦
昭和三十九年十月
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「精密日時計」の文字盤です。

文字盤の手前が午前、向こうが午後の時刻が刻まれています。

朝日は昇ってきていましたが、建物の陰になって日時計には日が当たっていませんでした。

■表示板の一つを転記します。
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精密日時計の見方

日時計は地上に立てた棒の影が太陽の動きにつれてかわることから時刻を知るものです。
人類が太古の時代に発見しています。
この精密日時計は五分刻みという世界最高の精度を誇るものです。
文字盤の目盛におちている影の左側で午前の、右側で午後の時刻を読み取ります。
この影がこの場所の時刻ですけれど腕時計の時刻(日本標準時)にするにはグラフを見て今日の分秒数を影の時刻に加減して下さい。
日本および世界各都市の方向をも示してあります。
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「精密日時計」の周りにあった表示板の一つです。

写真に向かって右の説明文に下記の説明文がありました。
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「影の示す時刻(真太陽時)に、グラフの今日の分秒数を+-すると日本標準時(腕時計の時刻)となる。」
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グラフの横軸には、下段に1月から12月まで表示され、その上段に5日間隔のタテ線が書かれてあります。

グラフの縦軸には+15分から-20分まで1分単位で目盛が刻まれています。

グラフには曲線波打つ曲線が描かれ、今日の日付に交差する曲線が、何分の位置にあるか確認するようです。

日時計が示す時刻を確認し、グラフの補正分数を加減すると正確な時刻となるようです。

しかし、神社に来て日時計のお勉強をするとは実に予想外の展開となりました。



上段の「精密日時計」のすぐそばに、もう一つ「矢橋式日時計」がありました。

こちらの方が新しいようです。

■説明板があり転記します。
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矢橋式日時計
日時計のみかた
この日時計は、上のひさしの形をした板のかげが、午後1時までは右側、午後1時間以後は左側の目盛にうつり、それで、そのときの時刻が分かります。
この半円形の目盛板は、その中心のまわりに回転させて、時間のくるいをなおせば、常に正しい時刻を示すことができます。
日時計の周囲にある方位距離板は、ここからその土地まで、地球上の大圏コースにそって行くときの方向と距離を示しています。
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文字盤を上から見た様子です。

朱色の日時計と同じように、午前と、午後の文字盤が離れていますが、間隔が大きく開いています。

日陰を作る斜めに立つ板もずいぶん幅広です。

インカを連想するような太陽のマークがありました。

■説明板があり転記します。
 文字盤が示す時刻が、日本標準時と違いがある二つの理由が説明されています。
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この日時計の特長
これまでの日時計には、次の2種類の時差がありました。
(1)経度差
ここ(東経135.3°)と、中央標準時の基準子午線(東経135°)の通る兵庫県明石との経度差による時差(ここでは日時計が常に約3分進む)と
(2)均時差
四季の変化で太陽が天の坑道上を移行する速さが一定でないため、真太陽と、わたくしたちが時刻の基準にしている平均太陽との相違による最大16分までの進み遅れがあります。
この日時計は統計135°の時刻より、ちょうど1時間遅れる東経120°北緯45°のところの水平型日時計とまったく同じ方向を向くように、少し傾けておき、時間を示す数字は1時間進めて、かいてありますから、(1)の土地の経度差による時差はありません。
また目盛が等間隔になっているので、(2)の均時差による時差は、目盛板を多少左右に回転して、その下方にある矢印の真上にその日の修正値がくるようにすれば、日時計から直接正確な中央標準時(誤差1分程度)をしることができます。
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上記の説明書きの下に、「均時差修正表」が書かれていました。

朱色の日時計は、時刻の修正をグラフで表示していましたが、ここには1月1日から5日毎の日付と、修正する分が書かれたものでした。

時刻のズレは、5日で2分程度あるようです。



日時計の文字盤の周囲には、その方角にある歴史的な場所と、距離が書かれています。

天智天皇にちなむ白村江の名も見えます。



休憩所(二階が時計博物館)の横に小さな池があり、その後方に「漏刻」がありました。

四つの水槽が、階段上に作られています。

池に架かっている石橋を渡り、そばで見物しました。

■写真に向って左に見える白い説明板を転記します。
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漏刻 水時計

日本最初の時計の模型

近江神宮と時の記念日

天智天皇が御在世10年(西暦671年)近江大津宮(今の近江神宮の付近)に初めて漏刻台(水時計)を設け、あまねく国民に時を知らされたことは、日本書紀に「漏刻[ときのきざみ]を新台に置きて始めて時候[とき]を打ち鐘鼓をならす。始めて漏刻を用ふ。この漏刻は天皇の皇太子にまします時に始めてみずからつくりたまふ所なり」と伝えられています。

大正9年に制定された<時の記念日>は、そのご神徳を後世に伝え、正しい時間の観念の普及をうながす目的をもって、天智天皇が漏刻を置かれた4月25日(太陰暦)を太陽暦に換算して6月10日と定められました。
6月10日<時の記念日>には近江神宮において<漏刻祭>が盛大に執り行われております。

この漏刻の模型は一目盛りがおよそ10分間を示すように作られています。

平成14年4月18日設置
近江神宮
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四つの水槽と、下段の水槽に水位を測る白い棒があり、10分刻みの目盛が見えます。

■写真の下に見える表示板を転記します。
 スイス製の時計代理店からの寄贈品のようです。
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天智天皇漏刻ご創製の徳をたたえ日本・スイス修交百周年を記念して日本国民のためにこれを贈る
昭和39年2月5日
瑞西[スイス]オメガ時計日本総代理店
シイベルヘグナーエンドコンパニーリミテッド
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日本の古代の時計を外国の企業から寄贈されているとは意外でした。



昨年8月、奈良の「飛鳥資料館」で見た水落遺跡[みずおちいせき]の模型で、「漏刻」部分を拡大した写真です。

「漏刻」の模型の横にスイッチがあり、水槽をつなぐ透明のパイプに流れる水の動きが見えるようになっています。

この模型では5段の水槽ですが、各水槽間をパイプでつなぎ、サイフォンの原理で次々と下の水槽に水を流す構造になっています。(パイプの端は水面下にセット)

一番下の水槽に水が流れ込み、水位で時間を測るものですが、常に一定量の水を流す必要があります。

多段階の水槽は、一定量の水を流し込むために工夫されたものだそうです。

一番上の水槽に水を汲み入れると、その度に水位が変化し、その下の水槽に流れ込む水量が変化しますが、次々と下の水槽にいくと水位の変化がなくなっていくそうです。



上段の水落遺跡[みずおちいせき]の模型の横にあった「漏刻」を動かしていた頃の再現図です。

水槽に水を汲んで入れる人、水位を測る人、二階の鐘楼に時刻をつたえる人、鐘を突く人が見えます。

大和朝廷は、これで民衆に時刻を伝えていたようです。



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