昔に出会う旅

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琵琶湖畔にそびえていた昔の「安土城」

2009年04月16日 | 近畿地方の旅
「石馬寺」からきぬがさ山トンネルをくぐり、数分で「安土城跡」へ到着しました。



「安土城跡」の入口に石碑と、案内板がありました。

石碑の大きな文字は、独特の書体です。

写真に向かって左側に安土山が見え、手前の空地が駐車場になっています。

数台の車が駐車し、見学者は、まばらでした。

■「安土城跡」の案内板を転記します。
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特別史跡 安土城跡
織田信長はが天下統一を目前にしてその居城として築いた城である。天正四年(1576)着工、天正九年ごろ竣工したと認められる。
天正十年(1582)六月、本能寺の変の直後に天主閣等も罹災[りさい]し、ついで廃城となった。
琵琶湖に突出した丘陵の安土山の全域を城域とし、各所に石垣を築き、中央に七層の大天守閣をはじめ各殿舎等を建て雄大かつ壮観を極めた。また山ろく平地には城下町を形成するなど近世都市の先駆であった。
現在城の縄張りを知ることのできる石垣・石段・礎石等のほか罹災をまぬがれた織田氏の菩提寺である見寺の三重塔・楼門および金剛二力士像(いづれも重要文化財)が残存している。
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復元された石垣のそばの大きな案内板の一部に「明治26年の安土城跡周辺地形図」と書かれた地図がありました。

緑の部分が「安土城跡」です。

当時の安土山の東側や、西側の北半分は湖だったことが分かります。

あの赤い天守閣が、琵琶湖のほとりにそそり立つ様は、素晴らしいものだったと思われます。


現在の「安土城跡」周辺の地図です。

湖に突き出ていた安土山も干拓が進み、かっての面影はありません。

安土山の南は、東側にある繖山[きぬがさやま]につながり、その間を東海道本線が走っています。

「安土城」の天守閣は、安土山の南の頂上付近で、大手門からの道はその南の谷に沿っていたようです。

安土山の南に水路が二本見えますが、かっての堀だったものと思われます。

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特別史跡安土城跡
安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で討ち破った翌年、天正4年(1576)に始まります。築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだったのです。築城開始から三年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住みました。しかし、その三年後天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまいます。それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で信長の息子信雄[のぶかつ]や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールします。しかし天正12年小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城となるのです。その後江戸時代を通じて信長が城内に建てた見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくことになります。
安土城跡は大正15年(1926)に史蹟に、昭和27年(1952)に滋賀県蒲生郡安土町・東近江市(旧能登川町)にまたがる約96万㎡が特別史跡に指定されました。
昭和15・16年(1940・41)に天主跡と本丸跡の発掘調査と整備が行われ、昭和35年~50年(1960~1975)にわたって主郭部の石垣修理が行われました。昭和57・58年には信長400回忌にあわせて城跡南面の平面整備が行われています。そして、平成元年度(1989)から安土城跡を将来にわたって永く保存し、広く活用することを目的として「特別史跡安土城跡調査整備事業」が20年計画で行われています。
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駐車場から、城内の大手道を結ぶ道で、かっての大手門があった付近と思われます。



「安土城跡」の料金所がありました。

予定外の石馬寺の拝観で、時間にゆとりがなく、入場はあきらめました。



案内板にあった地図で、安土城跡の南西部分です。

かっての安土城は、大手門の道から天守閣を正面に見上げるコースにあります。

近づくにつれて壮大な天守閣に圧倒されたものと思われます。

左手には見寺の三重塔、右手には有力武将の屋敷が建ち並び、来る者は信長の権威を強く感じたのではないでしょうか。

向って左に赤い字で「百々橋口」と書かれた門が見えます。

見寺へ直接登って行く道があったようです。



案内板にあった出土品の瓦で、「搦手道湖辺部出土の金箔瓦」と書かれていました。

「搦手道湖辺部」は、安土山の上にある天守閣から東北東方向の麓に下った道の辺りと思われます。

この金箔に飾られた瓦が並ぶ様子は、豪華なものだったと思われ、城の裏手までもこのような瓦を使った信長の財力は計り知れないものだったのではないでしょうか。

仏教勢力との対立、南蛮貿易などの影響もあり、旧来の文化から新たな文化の模索が始まった時代の建築だったのではないかと思います。



大手門の道から西を見た様子です。

石垣の途中が一段低く復元されており、西虎口(門)があった場所と思われます。



大手門の道から東を見た様子です。

大手門の東に石段が復元されており、東虎口(門)があったようです。

■石段の上り口の脇に案内板があり転記します。
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石塁と大手三門
 安土城の南口は石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁で遮っています。この石塁が設けられた部分は東西約110mあり、その間に4箇所の出入り口が設けられています。通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が1箇所だけです。織田信長は、安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ三門にしたのではないか、西枡形虎口以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと想定されます。
 東側石墨は北側に溝がなく基底幅は約4.2mです。石塁は一直線ではなく大手門の所でへの字に屈曲しています。石塁の石は、八幡城や彦根城に再利用されたか、江戸時代以降の水田耕作などの開墾により大半が消失し築城時の高さは不明です。そのため復元にあたっては、南側から石墨北側の通路にいる見学者の方が見通せる高さに制限しました。東平入[ひらい]り虎口[こくち]は、間口約5・5m奥行き約4・2mで、柱を受ける礎石等が残ってないため門の構造は不明です。
 石塁の中に詰められている栗石がない部分が約30m(東側石塁の西端に網を張って中の乗石が見えるようにしている部分から西です)あり、この間に大手門があったと思われます。石塁から南に2間分、2・4mの間隔で礎石が2基、礎石抜き取り穴が1基見つかっていますが、石塁の基底石が据えられている面と同じ高さにあり、大手門の柱が石塁より前に2間分飛び出すという特異な形になり規模や構造において不明な点が多くどのような門であったか不明です。
 また、虎口や通路に上がる段差がある部分ですが、その多くが後世の開墾で当時の遣構が消滅して、石段であったか木階段であったか確定することができませんでした。そのため確実に築城時に段があうたが材質が不明である部分については安土城では用いられていない花崗岩の切石で復元して築城時の遺構と区別することにしています。門があったと見られる部分には豆砂利樹脂舗装をして表示しています。また、通路部分は針葉樹の間伐材を使ったウッドチップ樹脂舗装で表示しています。上段の郭の内、土塀があったと推定される箇所はウバメガシの生垣にしています。
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案内板にあった「平安京内裏の内部構造」と書かれた図です。

上段の説明にあるように安土城の南にある大手門付近の三つの門は、平安京内裏の門を模したものと考えられているようです。


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