昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.29 中世の城舘遺跡、函館市「志苔舘跡」

2011年10月15日 | 北海道の旅
北海道旅行5日目 6/7(火)函館市「大船遺跡埋蔵文化財展示館」の次に、函館市街地から車で海岸沿いの道を東へ約10Kmの場所にある「志苔舘[しのりたて]跡」を見学しました。



高い土塁の前に「志苔舘跡」の石碑と、案内板があり、向かって右手に館門への道が続いています。

「志苔舘跡」は、国道278号から志海苔川の東岸の信号を北に入った辺りにあり、観光案内サイトに「駐車場なし」とありましたが、かろうじて入口近くの広くなった路肩に駐車することが出来ました。

「志苔舘跡」は、室町時代、渡島半島南部に広がるアイヌとの交易拠点のひとつで、小林氏が築いたとされる館跡です。

当時、アイヌとの交易は津軽の十三湊(下の地図参照)を拠点とする安東氏[あんどうし]に配下されており、小林氏はその支配下にあったようです。

■案内板の説明文です。
******************************************************************************
史跡志苔舘跡
  昭和九年八月九日史跡指定
  昭和五十二年四日二十七日史跡追加指定
志苔舘跡は、函館市の中心部から約九キロメートル離れた標高二十五メートル程の海岸段丘南端部に位置している。
西側には志海苔川が流れ、南側は志海苔の市街地および津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。
 館跡は、ほぼ長方形をなし、四方は高さ二~四メートル、幅十~十五メートルの土塁で囲まれ、その外側には、壕が巡らされている。
 郭内は、東西七十八十メートル、南北五十~六十五メートルで、約四千百平方メートルの広さがある。
 また、館跡の正面にあたる西側には、二重に壕が掘られ、さらに外側に小土塁が巡らされている。
 松前藩の史書『新羅之記録』によると、室町時代頃、道南地方には十二の和人の館があり、志苔舘跡もその一つで、小林太郎左衛門良景が居住していたことが記されている。
 この記述によれば、康正二年(一四五六)志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年五月十四日志苔館が攻め落とされたといわれている。
 戦いの後、再び小林氏が館に居住していたが、永正九年(一五一二年四月十六日にアイヌの蜂起があり、志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討死したといわれている。その後は、小林氏が松前藩に従属したために、志苔館は廃館となった。
   函 館 市
   文 部 省
******************************************************************************



北海道南端、渡島半島の地図(上段)と、志苔館跡付近の地形図(下段)です。

15世紀中頃、渡島半島南部は和人、アイヌ混住の地だったようで、本州側の交易拠点「十三湊[とさみなと]」を支配する安東氏は、渡島半島南部に館を構える土豪たちと主従関係を持っていたようです。

安東氏は、渡島半島南部を三エリアに分割、それぞれに守護を置き、12ヶ所ある館の統治体制を整備したとされます。

守護を配置した館と地区は、花沢館-上之国、大館-松前、茂別館-下之国で、地図に赤いマークのある場所です。

又、アイヌの人々は、花沢館から北の日本海沿岸に住む「唐子」、茂別館付近から東の太平洋沿岸に住む「日ノ本」、渡島半島南端に住む「渡党」に分類されていたようで、「渡党」には和人系の人々もいたようです。

「志苔館」は、「道南十二館」の中で最も東に位置し、アイヌ圏に隣接する最前線だったようです。



坂道を登り、城門跡の前の橋の上から来た道を振り返った風景です。

右手の道の両側に壕があり、更にその両側に土塁が築かれています。



案内板にあった「志苔館跡」の平面図に施設名称を挿入してみました。

入口から門に至る道は、二重の壕に挟まれた土塁の上に造られたものでした。

「志苔館跡」は、あまり高くない土塁に囲まれており、図で見ると郭の中の建物は柵で囲まれていたようです。



門を背にして壕に架かる橋の向こうに函館山が霞んで見えています。

「志苔館[しのりたて]」があった当時、函館山の麓には守護補佐役がいる「宇須岸館[うすけしたて]」がありました。




土塁の1ヶ所を空けた門跡から郭の中を見た風景で、以外に広く感じました。

向こうの家並みは、あまり高くない土塁越しに見えるもので、郭の中は厳重に守られている感じはありません。



「郭外遺構」の案内板に館の門の付近の時代的変化を紹介する「開口部の変遷」の図がありました。

この図に並んで「壕の変遷」の図もあり、二重の壕や、土塁の形が変化していく様がわかります。

入口の案内板にある、1457年に始まるアイヌの蜂起事件は、「コシャマインの戦い」と呼ばれ、「道南十二館」の内、10館が陥落したものの、コシャマイン(渡島半島東部の首領か)が討ち取られ収束したようです。

アイヌの蜂起事件は、その後も1525年まで約70年間連続的に発生し、志苔館は、1512年に再び陥落したとされています。

志苔館の施設の変遷は、緊張状況が続く交易の最前線だったことも大きく影響しているようです。


■案内板の説明文です。
******************************************************************************
郭外遺構
郭外には、主に外敵からの防御を目的とした壕、土塁、門、柵、それに橋、土橋等が配されている。
館の開口部に当たる西側には、二重の壕が掘られ、北、東、南側は自然の沢を利用して壕としている。
発掘調査の結果、館を構築した当時は、西側に外柵を設け、その中央の門を通過し、薬研[やげん]の二重壕に架けられた橋を渡り、さらに門を通過して郭内に入る構造であったことがわかった。
その後、郭外は郭内とともに造り替えられていった。外柵は埋められて土塁が築かれ、郭内側の壕も薬研から箱薬研へ、また橋も土橋へと移行した。
ここには、館の構築当時の姿を、できるだけ復原するとともに、その後に構築された土塁、土橋等も保護・保存し、館の変遷がわかるようにしている。
******************************************************************************



南側の土塁の上に登り、郭内を見た風景です。

案内板と、左手の二つの石碑の間に建物跡がありました。



郭内の案内板に建物跡が時代別に掲示されていました。

上段の図は、時代区分第Ⅰa期で、下段は第Ⅱa期です。

この他に掲載していない三つの図があり、二つの図の中間の第Ⅰb期は、上から4番目の写真、緑の平面図にあります。

又、二番目の図の次となる第Ⅱb期では建物の大半が無くなり、更に第Ⅲ期になると郭内の柵も消え、小さな建物が一つあるのみとなっていました。

発掘調査の結果は、アイヌの蜂起により館が陥落し、館が廃止されるまでの歴史過程を物語っているようです。

■郭の案内板の説明文です。
******************************************************************************
郭内遺構
 郭内には、主に14世紀末から15世紀にかけて存在していたと考えられる建物、柵、塀、井戸などの遺構が発見されている。
 建物跡は7棟分発見されているが、柱と柱の間の寸法の違いから大き<三つの時代に分類することができる。
 建築時期からみて、14世紀末から15世紀初頭頃と推定される柱間寸法7尺(約2.12m)以上のものと、15世紀中頃と推定される柱間寸法6.5尺(約1.97m)のものが掘立柱の建物である。16世紀以降と推定される柱間寸法6尺(約1.82m)のものは礎石を使用していることが明らかとなっている。
 また建物跡の周囲には、囲いや敷地割を目的とした珊と塀の跡が発見されている。当初は珊が設置され、後に塀へ変わつて行ったものと考えられる。
 これらの変遷を想定すると、右図のようになる。
******************************************************************************

******************************************************************************
出土遺物
発掘調査による出土遺物には、陶磁器類、金属製品、石製品、木製品等の遺物がある。
陶磁器類は、舶載陶磁器(中国製陶磁器)と国産陶器に区分され、個数にして76点出土している。
舶載陶磁器は、青磁、鉄釉(てつゆ)、国産陶器は瀬戸、越前、珠洲(すず)、かわらけ等のものがある。
金属製品は、古銭22点、胴製品18点、鉄製品279点が出土している。
石製品は、硯・砥石が8点、木製品は、井戸枠、箸、曲者、桶の一部等が出土している。
******************************************************************************



郭の奥に井戸がありました。

のぞいた様子はあまり記憶していませんが、浅いのもだったようです。

多くの人がこの館に立てこもって防戦するにはこの一つの井戸では厳しいように思われます。



函館市立博物館の案内パンフレットに「志苔館跡」付近で出土した「志海苔古銭」の写真が掲載されていました。

2009年8月の函館旅行で見学した時のものです。

撮影が出来ず、展示の様子はほとんど忘れてしまいましたが、大きな甕や、様々な古銭が展示されていた記憶がかすかによみがえります。

■函館市立博物館の案内パンフレットより
******************************************************************************
志海苔古銭
 重要文化財
 北海道志海苔中世遺構出土銭
 昭和43年7月、函館市志海苔町の漁港付近で道路拡幅工事の際、大甕にぎっしり詰められた大量の古銭が発見されました。
内訳は、渡来銭や皇朝銭などの孔開銭が374,435枚と、越前および珠洲産の大甕3個です。古銭は判読できたものが93種類あり、上限は前漢代の四銖半両[よんしゅはんりょう](前175年初鋳)、下限は明代の洪武通宝(1368年初鋳)で、47,000枚余りの皇宋通宝をはじめとする北宋銭が全体の約9割を占めています。
大半がバラ銭の状態でしたが、中には麻紐で孔を繋げた「一緡[ひとさし]」のものも含まれています。
また大甕のうち2個は、赤褐色で口径60~65cm高さ80~85cm程の福井県の越前古窯産、残り1個は黒灰色の石川県能登半島の珠洲産で、ともに14世紀後半頃に属するものでした。
この大甕3個に詰められた備蓄銭は、ほとんど同時期かまたは連続的に埋設されたものとみられ、下限の銭の流通時期や甕の年代から、ほぼ14世紀末頃までのものということができます。
おそらくは、志海苔沿岸産の昆布を、日本海ルートで京都・大阪方面へ出荷したことによる利益と考えられますが、誰が何の目的で蓄え、かつ埋設したものなのかは明らかにはなっていません。
******************************************************************************



郭の南側の土塁の上から津軽海峡を見下ろした風景です。

志海苔古銭が出土したのはこの風景の右手、志苔館の西を流れる志海苔川近くで、道路拡張工事の時に発見されたようです。

大量の古銭が埋められたのは、「志苔舘」が陥落した「コシャマインの戦い」の頃とされており、略奪を回避する措置だったのでしょうか。

「コシャマインの戦い」の発端は、ここ「志濃里[しのり]の鍛冶村」に来たアイヌの少年がマキリ(小刀)の取引で鍛冶職人と争いになり、殺害されたことによるものとされています。

当時、「家数百」と伝えられる志濃里の鍛冶村は、アイヌ人々から注文を聞き、鉄製品を作る鍛冶職人たちが集まった村だったように思われます。

和人からの鉄製品が不可欠な道具となり、大量の古銭に見られる貨幣経済が浸透するなど、アイヌ社会が次第に変質していく時代だったようです。

1457年「コシャマインの戦い」の後も蝦夷地への和人の進出は地域を拡大し、大規模なアイヌの蜂起も次第に道東へと移って行きました。

このブログに1669年の「シャクシャインの戦い」は、北海道旅行No.26に、1789年の「クナシリ・メナシの戦い」は、北海道旅行No.14に掲載しています。

志海苔古銭は、2008年06月21日掲載の徳島県南部海陽町の博物館で、(掲載ページ「大里出土銭」、大甕に大量の銅銭があった)で知り、いつの日か訪れたいと思っていましたが、やっとかなえられた日でした。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。