毒ガス戦の視角からとらえた「党生活者」の世界―第2部
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※この原稿は、2000年頃(いまその発表記録が手元で確認できていない)書いたもので、もう大分古くなってしまって書きかえたいけれど、今に読む意味もありそうなので、とりあえずこのプログにアップしておく。
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「党生活者」成立事情―その背景の上海戦争、そして毒ガス戦準備
佐藤 三郎
本論は、小林多喜二の小説「党生活者」の成立事情を、NBC〈核・毒ガス・細菌〉戦の視角から明らかにする試みである。
もちろん、それは二十世紀に世界を舞台に展開された〈毒ガス・細菌戦〉の歴史的事実を認識し、二十一世紀の平和の力を育てる上でも必要な視点ではないかと思うからである。
二十一世紀の初頭の今日、「九・十一」自爆テロ・炭疽菌テロ・アフガン空爆で、ふたたび多喜二「党生活者」が告発した生物化学戦=毒ガス・細菌戦の恐怖が蘇ろうとしている。それだけに今こそ、毒ガス戦の視点から「党生活者」の世界が再評価されることが求められるのである。
1
「党生活者」成立の背景・多喜二はなぜ藤倉工業を取材したのか―手塚〈定稿〉の壁をこえて
まず、その作業の前提として七三年の新日本出版社版をもって定稿とされる手塚英孝『小林多喜二』での、「党生活者」成立事情についての〈定稿〉を検証したい。
▽三二年三月八日、多喜二は小説「沼尻村」を脱稿、この直後から多喜二は藤倉工業の労働者たちと交流を持つようになった(『小林多喜二』下 新日本出版社八五ページ)。
藤倉工業の労働者達とのつながりは、まもなく急変した彼自身の事情のため短期間におわったが、その経験は四か月後に執筆した「党生活者」の素材になった。(同八九ページ)
▽「党生活者」はきびしい生活のなかで、かなりいそいで書きあげたものだったが、『中央公論』誌の編集者中村恵は、危険をおかして非合法の作者と直接ひそかに連絡をとってなにかと協力した。しかし、作品の内容と当時の事情から、編集部はこの小説の発表を延期した。(同一○三ページ)
▽「党生活者」は、彼の死後、「転換時代」と改題されて『「中央公論』四、五月号に発表されたが、全編一八○枚のうち、七五八か所、約一万四○○○字が抹殺された。(一一八ページ)
▽「党生活者」は、前編で中断されているが、四月からの彼自身の地下活動の体験と、三月頃関係をもっていた藤倉工業の労働者の闘争が題材にされた。(同一○三ページ)
とされている。
この〈定稿〉は、五八年初版の筑摩書房版以降版を重ねられて七五年に大阪在住の山田耕作から、「党生活者」の「倉田工業」のモデルは、東京・五反田の「藤倉電線」とされてきているが「藤倉工業」の誤りではないかと指摘されて初めて、手塚英孝は「新しい事実―小林多喜二『党生活者』のモデル工場のこと」(七五年三月一七日付『赤旗』)と訂正した。
そして、よく考えてみると志賀直哉宅訪問時期などの誤りも三二年春に集中しており、ただの偶然だとは考えがたいのである。
それゆえ、手塚の評伝『小林多喜二』が、党生活者のモデルにした「藤倉工業」についても、「倉田工業」のモデルが「藤倉工業」であることを確認しながらも、その当時の藤倉工業が毒ガスマスク製造の大手の一つであり、後に示すように共産党と左翼労働組合にとって重点組織対象工場であることを認識しないまま執筆したことが分かるのである(七五年の「藤倉電線」から「藤倉工業」への訂正以後も会社名は訂正されたとはいえ、その業務内容については一字の変更も加えず今日に至っている)。
このままでは、多喜二が生命がけで「党生活者」の世界を描いたことに対する評価として、不適切であると思うのである。
わたしはこうした視点から、多喜二が「党生活者」の成立に藤倉工業をはじめとする毒ガス戦用軍需工場内のたたかいが創作テーマの発展にどのような影響を与えたかを解明したい。
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※この原稿は、2000年頃(いまその発表記録が手元で確認できていない)書いたもので、もう大分古くなってしまって書きかえたいけれど、今に読む意味もありそうなので、とりあえずこのプログにアップしておく。
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「党生活者」成立事情―その背景の上海戦争、そして毒ガス戦準備
佐藤 三郎
本論は、小林多喜二の小説「党生活者」の成立事情を、NBC〈核・毒ガス・細菌〉戦の視角から明らかにする試みである。
もちろん、それは二十世紀に世界を舞台に展開された〈毒ガス・細菌戦〉の歴史的事実を認識し、二十一世紀の平和の力を育てる上でも必要な視点ではないかと思うからである。
二十一世紀の初頭の今日、「九・十一」自爆テロ・炭疽菌テロ・アフガン空爆で、ふたたび多喜二「党生活者」が告発した生物化学戦=毒ガス・細菌戦の恐怖が蘇ろうとしている。それだけに今こそ、毒ガス戦の視点から「党生活者」の世界が再評価されることが求められるのである。
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「党生活者」成立の背景・多喜二はなぜ藤倉工業を取材したのか―手塚〈定稿〉の壁をこえて
まず、その作業の前提として七三年の新日本出版社版をもって定稿とされる手塚英孝『小林多喜二』での、「党生活者」成立事情についての〈定稿〉を検証したい。
▽三二年三月八日、多喜二は小説「沼尻村」を脱稿、この直後から多喜二は藤倉工業の労働者たちと交流を持つようになった(『小林多喜二』下 新日本出版社八五ページ)。
藤倉工業の労働者達とのつながりは、まもなく急変した彼自身の事情のため短期間におわったが、その経験は四か月後に執筆した「党生活者」の素材になった。(同八九ページ)
▽「党生活者」はきびしい生活のなかで、かなりいそいで書きあげたものだったが、『中央公論』誌の編集者中村恵は、危険をおかして非合法の作者と直接ひそかに連絡をとってなにかと協力した。しかし、作品の内容と当時の事情から、編集部はこの小説の発表を延期した。(同一○三ページ)
▽「党生活者」は、彼の死後、「転換時代」と改題されて『「中央公論』四、五月号に発表されたが、全編一八○枚のうち、七五八か所、約一万四○○○字が抹殺された。(一一八ページ)
▽「党生活者」は、前編で中断されているが、四月からの彼自身の地下活動の体験と、三月頃関係をもっていた藤倉工業の労働者の闘争が題材にされた。(同一○三ページ)
とされている。
この〈定稿〉は、五八年初版の筑摩書房版以降版を重ねられて七五年に大阪在住の山田耕作から、「党生活者」の「倉田工業」のモデルは、東京・五反田の「藤倉電線」とされてきているが「藤倉工業」の誤りではないかと指摘されて初めて、手塚英孝は「新しい事実―小林多喜二『党生活者』のモデル工場のこと」(七五年三月一七日付『赤旗』)と訂正した。
そして、よく考えてみると志賀直哉宅訪問時期などの誤りも三二年春に集中しており、ただの偶然だとは考えがたいのである。
それゆえ、手塚の評伝『小林多喜二』が、党生活者のモデルにした「藤倉工業」についても、「倉田工業」のモデルが「藤倉工業」であることを確認しながらも、その当時の藤倉工業が毒ガスマスク製造の大手の一つであり、後に示すように共産党と左翼労働組合にとって重点組織対象工場であることを認識しないまま執筆したことが分かるのである(七五年の「藤倉電線」から「藤倉工業」への訂正以後も会社名は訂正されたとはいえ、その業務内容については一字の変更も加えず今日に至っている)。
このままでは、多喜二が生命がけで「党生活者」の世界を描いたことに対する評価として、不適切であると思うのである。
わたしはこうした視点から、多喜二が「党生活者」の成立に藤倉工業をはじめとする毒ガス戦用軍需工場内のたたかいが創作テーマの発展にどのような影響を与えたかを解明したい。