田舎生活実践屋

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江藤正翁の往時の記事(週刊ベースボールより)

2009-03-10 00:26:12 | Weblog
(竹田農園の隣にお住まいの江藤正翁と、バーベキューとビールを楽しんでいましたら、こんなものが出てきたと、南海ホークスのエースとして活躍していたころを書いた週刊誌。以前、「さらば南海ホークス」
( http://blog.goo.ne.jp/takeda12345_2006/d/20080401 に詳細)の記事と同じ内容ですが、面白い。週刊誌4ページとちょっと長い。ご参考です。写真は、その週刊誌。)



週刊ベースボール昭和54年12月3日発行号より
日本プロ野球異色選手列伝
連載① 江藤正(南海)

一方が荷物をさらい、一方が身柄をさらった。まるで略奪、誘拐である。昭和24年、大阪駅頭で起こった阪神・南海の江藤争奪事件。それだけの紛争を巻き起こした主人公がユニフォームのポケットにしのばせて、マウンドに上がった「守り神」がなんと芸者のヘア3本だったとは・・・・往年の南海のエースにまつわる、なんともオカシな物語。

(南海・阪神の大阪駅江藤争奪事件)
江藤正は信じられない、といった表情で阪神代表の富樫興一を見詰めた。
「富樫さん、それは本当ですか。いまおっしゃったことは事実なんですか」
「すべて事実だ。本当なんだ。南海は君と入団の仮契約をしているが、もう要らないといっている。入団の仮契約も破ってしまったらしい」
 富樫は、そういって江藤の胸中をさぐった。
「本当に、南海は私をいらないといっているんですか」
 江藤は同じ質問を何度も繰り返した。
「そうなんだ。ところで君は、すでにプロ入りの意志をかためているのだろう。南海が必要としなくなったのを機会に、阪神に入団してもらえないかね。条件は南海と同額。いや、少し上積みしてもいいとおもっているんだが・・」
 富樫はヒザを乗り出して江藤に阪神入団を迫った。江藤はしばらく考えた末、決断したかのようにうなづくと、
「私は、もう後戻りはしたくはありません。お世話になります」
といって富樫に頭を下げた。
 これが昭和24年3月に起きた大洋漁業の江藤投手をめぐるプロ野球史上例をみない「江藤問題」の幕開である。
 江藤は、それ以前に当時、山本姓を名乗っていた南海監督の鶴岡一人の前で入団仮契約をかわしていた。この席には大洋漁業の監督であり、外野手で4番打者の戸倉勝城も同席している。戸倉は1年後、毎日の旗揚げに加わり、のちに阪急の監督になっている。法大で鶴岡の先輩である戸倉は、
「江藤を早く一人前にしてやってくれ。江藤も法大出だし、君なら、一人前にしてくれると思って送り出すのだから・・」
 と鶴岡に江藤を頼んでいる。
それが、自分を必要としないとは・・・江藤は鶴岡の変心が信じられなかった。
 それから数日後、大阪に帰った富樫は阪神球団事務所で記者会見を行い、江藤の阪神入りを発表した。翌日の新聞を見た阪神ファンは狂喜した。大洋漁業の江藤といえば、22年から3年連続して都市対抗野マウンドに立った本格派投手で、子供のメンコにまで登場している男だ。スター誕生と思ったのも当然である。
 鶴岡はぼう然とした。
「そんなアホなことがあるかい。とにかく江藤を大阪へ呼べ。球団へ呼べ」
鶴岡は球団職員にそう伝え、江藤に呼び出しをかけた。江藤はすぐさま、山陽本線で下関から大阪へ出てきた。
 南海はタクシーを用意して球団職員を数人つけ、大阪駅へ向かった。この情報をキャッチした阪神も球団職員を動員して大阪駅へ駆けつけた。
 出改札口から江藤が姿を見せると、南海の球団職員は、阪神に江藤を渡すまいと一斉に取り囲んだ。
 阪神の球団職員は、わずかのスキを見て江藤の手から荷物を取り上げると、球団事務所へ向かった。
 荷物を取れば江藤がついてくると思ったのである。
 しかし江藤は南海球団職員にタクシーに押し込められ、難波へ向かって走った。
 これが、いまもなお語り草になっている南海、阪神の江藤をめぐる「大阪駅争奪戦」である。
 球団職員に護られて球団事務所に着いた江藤は、鶴岡に阪神との一件をありのままに報告した。
 鶴岡は、
「よっしゃ、わかった。当分の間、雲がくれや」
 というなり資金を鶴岡の友人に持たせ、江藤は大津市の旅館を10日間、転々とした。
 この間、阪神の監督、若林忠志が鶴岡に妥協案を出してきたのである。
「ことし一年は阪神で投げてもらい、来年は南海に移籍させる。これで手を打とうじゃないか」
 この妥協案を、鶴岡は一蹴した。
 江藤問題はコミッショナー裁定となったが、その裁定は、
「江藤は南海に入団、ただし一年間出場停止とする」
という重罰であった。
 一年間といえば、選手生命にも影響しかねないペナルティである。

(殺到した出場停止処分解禁の手紙)
こうして江藤は、第一線のベンチにも入れてもらえず、堺市中モズでの練習に明け暮れた。そこへ起こったのが、4月12日から後楽園球場で行われた巨人~南海戦でのエキサイト・ゲームである。
「巨人はウチの別所毅彦を強引に引き抜いていながら、その別所は出場停止2か月、ウチの江藤は一年間の出場停止。こんなバカなことがあるか。巨人の横暴は許されん」
 というのも、南海が燃えた原因であった。別所問題を裁定したのも江藤に一年間の出場停止を決めたのも、コミッショナーである。ところが、そのコミッショナーは巨人創立者の正力松太郎であった。
「別所を横取りされた悔しさと巨人の横暴。江藤の無念を晴らしてやる」
 と意気込んだ南海選手の気持ちは手に取るようにわかる。
 巨人~南海のエキサイト・ゲームは14日の第三戦で巨人監督の三原脩が南海の捕手、筒井敬三を殴るという、「ポカリ事件」が起こった。
 三原はペナトンレース終了まで出場停止処分を受けたが、7月21日に解禁になった。
 この解禁に、南海の選手はまた怒った。
「みんな巨人の味方か。江藤もなぜ解禁にしてやらん。江藤がかわいそうじゃないか」
 選手たちはコミッショナーに不満をぶっつけた。江藤の出場停止処分を解け、という投書が日本野球連盟に殺到したのもこの頃である。
 江藤は中モズで若手と一緒に、ただひたすら練習に打ち込んでいた。「忍耐」の二字を背負っての練習であった。
 同期の桜である西日本鉄道から入団した下手投げの武末悉昌が21勝17敗の成績をあげてスターダムにのしあがったが、江藤は来る日も来る日も中モズにいなければならなかった。
 このシーズン、別所を横取りした巨人は圧倒的な強さを見せて優勝した。1リーグ制最後のシーズンを戦後初の優勝で飾ったのである。
 別所を取られ、江藤が一年間の出場停止を受けた前年のチャンピオン南海は、8球団中の4位に落ち、首位の巨人に18.5ゲーム差という無残な成績に終わった。
 明けて25年、プロ野球は1リーグ制から2リーグ制になった。
 江藤の出場停止は解禁になった。

(守り神は芸者のヘア3本だった)
その江藤が初めてマウンドに姿を見せたのは3月20日、西宮球場での近鉄戦であった。フランチャイズが確立していなかったため、近鉄は西宮球場を使っていたのである。
 江藤は見事な投球で近鉄を4-0で完封して、一年間の空白を取り戻した。
 右腕からの鋭いカーブと右打者外角いっぱいに決まる速球で、新興の近鉄をねじ伏せたのであった。
 しかし、江藤には大きな欠点があった。ブルペンでは素晴らしい投球をするのだが、いざマウンドに立つと球威が落ちることであった。法大時代もそういったきらいはあったし、大洋漁業でも見受けられた。
 この弱気だけは、一年間の中モズ生活でも矯正されなかった。
 ブルペンの投球がそのままマウンドで通用するにはどうすればいいか。そのことを鶴岡は考え抜いたが、なかなか名案は浮かんでこなかった。
 ところが、ある日、ひょんなことを思い出した。
 軍隊時代、水商売の女性のヘアをお守りとして肌身離さずもっていた戦友の事が頭に浮かんできた。
「そういや、タマよけ、女のヘアを持っていたのがいたな。よし、あの手をやってみたろ」
 というわけで鶴岡は大阪・宗右衛門町にいる顔見知りの芸者を思い出すと、さっそく宗右衛門町に足をのばして、その芸者に会い、事情を説明した後、
「なんとか協力してくれんか。3本抜いてくれんか」
 と持ちかけた。天下の大監督が、芸者にヘア3本を寄付して欲しいという陳情である。その芸者は
「私のが役にたつのなら、どうぞ」
と3本を抜き取り、鶴岡に渡した。それを鶴岡は紙に包んで江藤に渡し、こういった。
「このお守りのご利益は、きっとあるはずや。試合中はユニフォームのポケットに入れておけ。きっと、ええことが起こるぞ。マウンドに立っても、心配なしや」
「親分、ありがとうございます」
 江藤は神妙な表情で紙に包んだヘア3本をお守り袋にしのばせて、マウンドに上がるようになった。
 これもまた前代未聞ではなかろうか。
 とろこが、ご利益はあった。
 江藤は14勝9敗、2.92の防御率をマークしたのである。
「親分、やっぱり効きました。あれさえ持っていれば、どんとこい、でいけました。やれました」
 江藤のうれしそうな声に鶴岡は、その夜、彼を伴って宗右衛門町に向かった。
 あの芸者にお礼をするためであった。
「私のが役に立つなんて、うれしい、おめでとう」
といって芸者は照れ笑いした。
 14勝の成績は3本のヘアから生まれたと話題となった。

(日本シリーズでみせた男の意地)
3年目の江藤には、もうヘアの必要はなかった。鋭いカーブをうまく使って、24勝5敗、2.28の防御率でリーグ最多勝利をマークして南海2リーグ分裂後初優勝の立役者となった。そして、セ・リーグで初優勝した巨人と日本シリーズの対決である。
 日本シリーズは大阪球場で幕を開けた。その開幕前日、鶴岡は巨人の練習ぶりを全員に見学させた。巨人は真新しいボールを惜しげもなく使い、その白球を与那嶺、青田昇、川上哲治や平井三郎、千葉茂が思う存分に叩き込んでいるではないか。
 この豪快な打撃練習を見た南海の選手は恐怖心に取りつかれてしまった。そんななかで平然と見つめていたのが、江藤だった。
「巨人はよく打っている。けれど、おろしたてのボールだからよく飛ぶんだよ。新品だもんね」
 江藤の言葉に選手は我に返った。確かに江藤のいう通りである。それにしても一年前、これがあの弱気な江藤かと選手たちは思わず、彼の顔を覗き込んだほどであった。
 しかも江藤は2日前に第一戦の先発を命ぜられている。それでも平然としていられる江藤を選手たちは別人のように思ったに違いない。
 鶴岡は、その著「栄光と血涙のプロ野球史」(恒文社刊)でこう書いている。
「大試合には老朽投手を起用する方が有利だ、というたてもえからすれば、南海は柚木君を起用する場面であった。ボクも柚木君の先発ということは考えたが、柚木君は当時ちょっと肘を痛めていた。そこで、この年24勝をあげて、もっとも好調だった江藤君を起用したわけであった。リーグ一の勝利を稼いだエースに初陣を飾らせるのが、選手権試合という大試合へのエチケットだという気持ちだった」
 この文章の裏には、入団一年目のシーズンを出場停止で棒にふりながらも、実働2年目でエースに成長した江藤の意地を買ったことがうかがえる。
 事実、鶴岡は江藤に第一線の先発を命じたとき、これまでに聞いたことのなかった迫力のある声を耳にした。
「親分、やります。全力をつくします」
 と自信に満ちた返事だった。
 その言葉通り、江藤は25回を投げ、被安打5、奪三振8、失点2という内容であった。救援の中谷信夫が巨人の猛打を誘発して敗れたが、この試合に見せた江藤のピッチングは気迫にあふれていた。リーグ最多勝の意地をかけてのマウンドだった。

 その江藤も日本シリーズではついに一度も勝つことなく、しかも成績は下降線をたどっていった。27年は11勝10敗、防御率3.35に終わり、28年はついに一勝もできずにこのシーズン限りでユニフォームを脱いだ。
 実動3年間の成績は49勝26敗、防御率2.83であった。
24年、阪神の「だまし作戦」に引っ掛からなければ、一年目10勝は軽く超えていたであろう。
 彼は大阪に住み、電電公社の管理職になっている。ときおり大阪球場のスタンドでその姿を見かけるが、江藤を知る人は少ない。大阪駅前の争奪戦に走った球団職員も、いまはもう一人もいない。30年も昔の出来事である。それにしても白昼の大阪駅で江藤の荷物をひったくって逃げた阪神の球団職員、いまなら引ったくりの現行犯でブタ箱入りのうきめをみていたかもしれない。
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