秀子通信

山歩きが好きなお婆の
気まぐれ日記

ノートパソコンが突然使えなくなって

2008-05-20 23:11:18 | Weblog
 都合よく使っていたノートパソコンが突然使用不能になってしまった。大事なデータをコピーしてなかった。こうした状況がおこりうることを聞いてはいたが、他人事としてしか認識していなかったという事だ。購入した電気屋さんに持ち込んで事の重大さを思い知らされた。「少しばかりの技術と知識のある人ならデータは取り出す事ができる」と聞いて、一旦持ちかえり、甥の知人に頼んでもらって、どうにかデータは取り出してもらった。マザーなんとかいう部分が不具合を起こしたらしい。本社え送って見積もりを取って修理するかを決める事になる。‘05年の八月の購入だから、まだ3年も経たないのに本体部分が壊れてしまうのかと思った。新しく買えるくらいかかってしまいそう。なるべく直したい。ノートは甥からかりたがネットは使えない。もともとのデスクトップのパソコンの出番となった次第。ところが「通信」のパスワードを忘れてしまって更新ができなかったが、ようやく娘の婿さんに聞いて復活したところです。



ボタンが満開

2008-05-14 21:30:09 | Weblog
 今、村内を回ると垣根越しにボタンが、枝もたわわにと、いう感じで咲き誇っている姿をあちこちで見かける。一株で150も花をつけているものもあるようだ。多くはピンクのものだ。我が家のものはボタン色、ピンク系2色、白とあるが今年は花の咲きはあまり良くない。肥料のかげんもあるのかも?と坪庭の花々の事が気にかかる。DNAには逆らえない?
 テレビでは中国の地震の被災の様子を伝えている。ミャンマーでサイクロンの被災があったばかりなのに、心が重くなるニュースばかりが続く。地震対策、我が家も耐震強度の補強をしなくてならないが、全く何のてだてもない。ここだけは大丈夫だと考えているわけではないけれど。困ったものだ。

村の好きな風景の1枚

2008-05-11 14:46:46 | Weblog
 朝、新聞配達の途中にうつした1枚。好きな箇所だ。これから田に水が入れられて、逆さに写った風景もまたいい。
 昨日今日は竹田の水神様のお祭り、やはり雨降りとなった。お宮には昔ながらの夜店が並んだのだ。どんな賑わいだったんだろうか?ここずっと来た事がない。役員の皆様本当にご苦労様です。子ども達の思い出作りに????.地域作に???
雨の中に並んだ黄色いテンとを早朝横目に見ながら、一瞬だけお祭りのことを考えた。

クマガイ草が満開となりました。

2008-05-10 13:55:57 | Weblog
 ここ一日二日の間にクマガイ草満開となっていました。22本中15本が花をつけました。桜草の様子がちょっと気になるが今日の雨は天然の良いおしめりだ。
 ボタン色のボタンも満開となっていました。ボタンに雨はうれしくない。かさをさしてやりたいくらいです。
 
 今議会も折り返し点で体制も一部変わり、新体制で始まった。村も大課制がしかれてこちらも新体制、議会事務局長も変わった。12人ばかりで2つの常任委員会に分かれて審査することに大きな責任を、背負いきれて居ないだろう責任に不安を感じてしまいます。
 8日も月1の全員協議会、政教分離の問題で議論白熱し、新席で緊張の一瞬、右手で鼻をこすった瞬間「ぬかみそ」の臭い。場違いな所での臭いではあるが緊張がほぐれた。「ぬかみそ」臭いと言うが、この頃好きな匂いだと思っている。
政教分離の問題で「法的に問題はあっても政治的に進める」という村側答弁は問題ありだ。この議論白熱の場に新聞記者が取材中であったが昨日も今日も記事はない。

田に水が入りました。

2008-05-07 11:22:20 | Weblog
 桜は散り、若葉の季節となりました。我が家の坪庭も桜草、熊谷草、ボタン、ひぎりと華やかで美しい季節となりつつあります。
 水田に水が張られて、田植えも始まります。山も日々緑色が変化し、こんなに緑色の種類があったのかと思うくらいです。
 

清水寺  淋しい八十八夜祭でした。

2008-05-04 17:47:26 | Weblog
 清水寺恒例の八十八夜祭、庫裏取り壊しの法要もあって、今年は格別に淋しさを感じさせるものでした。参加者もすくなかった様です。
 例祭は本堂で御本尊御開帳の下に、里寺3人の住職によるお経や参列者の焼香で豊作祈願をし、保存会長が村長から民間の人に替わった事の紹介もされた。今回の清水寺についての長岡 壽先生の講義では、「近世文書に見る清水寺」と題して、竹田の清原家の日記覚書帳なるものからの引用しての講義は1700年代の暮らし向きのわかるもので興味惹かれるものでした。享保11年に観音堂が出来、竹田村にも棟上式の手紙が届いたこと、享保12年にはつき鐘を造る為に大池村の衆が寒中念仏を四人つつ二組、日夜出て米や銭を集めたこと、屋根の萱も持ち寄った物でふいたことなどが書かれていることの内容は当時の暮らし向きが具体的に解るものでした。住民の暮らしと密着した祈願寺であったこと、天領であったことが、廃仏毀釈の折にも壊されずにすんだのではないかと語られたことには興味惹かれるものが残った。ふと、山形村の底流にある自立を選択してきた村民の思想にはそんな所につながる何かがあるのかも知れないと思った。「一木一草が、鎌倉時代からの文化財だ」と「大川先生の鑑定は大事にしてほしい」的に結ばれたが、壊すことに決められてしまったことは、この場に及んでも何とか取りやめる事は出来ないものだろうか?いう思いは募るばかりだ。
 今回、一人で上大池豆沢から歩いて登る。1時間半程かかる。里の方には「こしあぶら」が丁度取りごろだった。久ぶりに歩いた。