ソチオリンピック。真央ちゃん、残念でしたねえ・・
って、スポーツに無関心な私でも言うくらいだから、そりゃあ、国民の期待を背負って大変なプレッシャーだったんだろう、と思う。はい、勝手に期待して、すみません。
その後、流布するネット情報などを見ていると、採点基準がどうの、審判がどうの・・とあって、しかし、そういった情報が信じられるかどうかも分からない。けれども、テレビのこちら側でも、身体が語る真実は伝わるなあ・・って思う。
あの日。もう寝ようかと思いながら、たまたまチャンネルを合わせたら、ちょうど浅田真央のフリーの演技が始まったところで、つい最後まで見てしまった。張り詰めたものを漲らせながら、ひとつひとつジャンプを決めていく姿は壮絶でしたねえ。そして、ああ、終わった、という空白の後の涙。
私は、うわっともらい泣きしながら、そうそう、ヒトはこうやって泣くのよね・・ と、妙に納得していた。
ちょうど、その日の晩、稽古をしていた相手役さんの演技が気になって「あれ、泣こうとがんばってない?そもそも、普段、泣いたりする?」と聞いたら、案の定「いや・・泣かないですね・・」と返って来て、う~ん・・こりゃ、どう言ってあげたらええんやろ、と思ったところだったから。
もちろん、いろんなケースがあるのだけれど、涙はあふれたり、こぼれたり、するもんだという気がする。当たり前だけど、出そう、とか、流そう、と思って出すものではない。
私はいつだって泣ける、って女優さんや、女優じゃないのに、そんなこと出来る人(主に女性)が、たまにいたりするけれど、そういう涙と、そうでない涙は、やっぱり別モノで、ちゃんと見てたら見分けがつくもんさ。
「じゃあ、あなたは泣きますか?」と逆に聞かれて、「オトナにしては、まあまあよく泣くよ。映画でも、三面記事でも泣ける。」と答えたけれど、最近の私は、昔ほど、泣かなくなった。
それは多分、社会人としても、オトナとしても正しいことで・・。些細なことで泣きたくなるのは、軽い鬱の時もあろうから、心が健やかになって、バランスよく泣いたり笑ったりできるのは、きっと良いことだと思う。
一方で、こうやって自分は、現実と妥協した、詰まらない大人になるのか・・と残念に思う自分もいる。
思えばニューヨークに行く前と、行ってから、不安とさびしさで押しつぶされそうになりながら、私は、実によく泣いた。よく言われるように、生活の変化は・・たとえ、それが自分の望んだものや(「結婚」のように)ポジティブなものであったとしても・・大きなストレスを伴うものだ。例えば、もう一度、住むところや仕事、生活を変えて、あの経験をしたいかと聞かれたら、すぐに「YES」とは言い難い。
けれども、私は、あのしんどさを遥かに越える収穫があったってことも知っている。毎日が冒険のようでワクワクしたし、自分で自分の変化や成長を実感できた。辛さを乗り越えて大きくなった、って自負もある。だから、YESかNOかで答えたら、やっぱり今もYESなんだろう。
「その時」が来た時に、怯まない自分でいたいから、泣きもせず、追い詰められもせず、のほほんとしている最近の自分に、ちょっと危機感を覚えてしまう。このままで、私、大丈夫かしら、って。
かと言って、大き過ぎる試練は嫌なんやけどぉぉぉ・・・
・・ええっと・・何が言いたいのか、分からなくなってきたので、この辺で筆をおきます・・。おやすみなさい