読書日記

いろいろな本のレビュー

アーミッシュの老いと終焉 堤順子 未知谷

2021-05-24 13:55:23 | Weblog
 アーミッシュはプロテスタントの一派で、ローマ・カトリックの弾圧を恐れて新大陸アメリカに逃れてきた。創始者のメノ・サイモンズ(1496~1561)の名前をとってメノナイトと言われ、メノナイトの一員ヤコブ・アマンが1639年ごく少数の同調者とともに旗揚げしたのがアーミッシュである。幼児洗礼ではなく成人洗礼を主張したので再洗礼派と呼ばれる。イエスの教えを日常生活に取り入れて、聖書に忠実に生きることを旨とするアマンの主張は多くの支持者を生んだ。チャーミング・ナンシー号でアメリカにやってきた21家族を皮切りに、1700年代の終わりまでに約500人、さらには1800年代には、およそ3000人のアーミッシュがアメリカに渡った。

 アーミッシュの特徴は彼らの生活スタイルがこの200年間全く変わらなかったことである。服装は当時のまま。自動車は使わず、馬車。電気は使わず、農業を生業とする。読書は聖書以外禁止。義務教育以上の高等教育は受けない。税は払うが社会保障には入らない。離婚は禁止等々、富と自由を求めてやってきた移民とは完全に一線を画している。彼らは家族、コミュニティのネットワークで助け合って暮らしている。アーミッシュの子供は16歳になると一度親元を離れて俗世で暮らす「ラムスプリンガ」という期間に入る。アーミッシュの掟から完全に解放され、時間制限もない。子供たちはその間に、酒、たばこ、ドラッグなどを含む多くの快楽を経験する。そして18歳・成人になる際に一年間アーミッシュのコミュニティーから離れた後に戻るかアーミッシュと絶縁して俗世で暮らすかを選択することが許されるが、ほとんどの者が洗礼を受けて生涯アーミッシュとして生きる。その結果、彼らの人口は20年ごとに倍増している。

 この現代社会のアンチテーゼと思われる彼らの生き方がいま注目されている。文明化に異を唱える新興宗教のコミュニティーも多くあるが、多くはカルト集団になってしまうことが多い。だが、アーミッシュの場合は200年の伝統があるので、その存在は揺るがない。本書はタイトルのごとく彼らの「老いと終焉」をルポしているが、彼らの死生観は、あるがままの老いと向き合い、ありのままに受け入れる。そして死は生の延長上のことであると考える。そして死は自宅で迎えるのが普通だと著者は言う。介護問題も大変だと思うが、先述のコミュニティーの協力でやっているようだ。アーミッシュの医療事情を著者は次のように言う、彼らは医療保険に入っていないので、体の不調を感じてもすぐ病院には行かず、まず一般薬とサプリメントを服用するが、それだけではなく各家庭に伝統的に伝わる家庭薬を使い、症状に合わせた食品を摂って治癒を図る。それでもだめならカイロプラクターに行き、それでもだめなら病院へ行く。ただし、けがと妊娠中のトラブルに限ってはためらわずに病院に行くのだと。

 文明の進歩に伴ってコミュニティーは核家族化が進み人間関係が砂のように希薄になる中で、文明を拒否して生きるアーミッシュの濃い人間関係の中で、助け合うという人間の基本が守られているのは学ぶべきものがある。ここにはキリスト教精神が背景にあるとはいえ、高齢者介護の問題を考えるヒントがある。「金持ってても晩年は寂しい」では生きてきた甲斐がない。アーミッシュの生き方には、ある種、老荘思想の力強さがある。

 

維新支持の分析 善教将大 有斐閣

2021-05-04 09:06:13 | Weblog
 副題は、「ポピュリズムか、有権者の合理性か」である。維新は元大阪府知事の橋下徹氏が立ち上げた政党で、彼の言説・政策・選挙戦略などを含めていわゆるポピュリズムに訴える大衆扇動政党であるという評価があるが、著者はこれに異を唱えている。大阪でなぜ維新が強いのかについては、民度の低い大阪府民が維新の口当たりの良い政策のプロパガンダに惑わされて選挙で投票してしまうという傾向があるという指摘はかなり有力な見解だと私も思っていたが、これも著者は否定する。その論拠は、二度の大阪都構想の住民投票で反対派が多数になって否定されたことだと言う。あれだけ維新が人気を得ていれば、賛成派が多数を占めると思うが、実際はそうではなかった。これは大阪市民が投票に際して、都構想に関する情報を理性的に判断したからで、決して維新の言い分をそのまま信じたわけではないと分析している。維新を支持する有権者も都構想では反対に投票した事例が報告されている。これを有権者の合理性と言っている。

 よって本書はポピュリズムに弱い批判力のない、民度の低い大阪の選挙民というイメージを払拭することに労力が割かれており、大阪府民は本書に感謝すべきだろう。維新がこれほど大阪で強いことについて著者曰く、「大阪維新の会」と政党名に「大阪」と付けたことが大きい。自らのラベルに「大阪」の代表としての価値を付与することに成功したからである。同時に全国的には支持されない理由でもあると。確かに維新の候補者は個人のアピールよりも、「身を切る維新の改革断行」などを連呼する場合がほとんどである。個人の人気・実力よりもまず維新の候補者であるかどうかが問題なのだ。その証拠に、有権者は維新とついているだけでその候補者に投票してしまって、その後当選した人物がとんでもない人間だとわかって混乱する事例が多々ある。最近では池田市の市長がその好例だ。

 著者は上記の仮説を証明するためにサーベイ法という物事の全体像を把握するために広く行う調査法を駆使している。これによって印象批評的な分析を排除しているのは立派である。それで今回「サントリー学芸賞」を受賞したのはご同慶の至りである。大阪市民の冷静な投票行動には敬意を払うべきだが、都構想の賛成・反対の差はわずかで拮抗していた。この住民投票に関して、在阪のメディアは私の感じでは維新よりの報道が多かったように思う。この維新との親和性は前から気になっていたが、コロナ禍の今、ますますひどくなっている。「大阪府吉村知事生出演」「激論橋下徹生出演」こんなタイトルで午後のしょうもないニュース番組が垂れ流されている。コメンテーターに転身した元党首はコロナ景気に沸いている。テレビ局は彼らを出演させれば視聴率が取れて安上がりだからだろう。それにしても一片の批判精神もないのが危惧される。これでは政権中枢の批判などできるわけがない。出来たらアホなテレビ局の批判も書いて欲しかった。NHKはさすがにこれほど維新に癒着はしていないが、菅内閣の批判はしない、政権に取り込まれてしまっている。時の権力から距離を置くというスタンスがない。それで受信料を強制的に取るのは筋が通らない。この受信料のアンケートで6割以上の人が反対をしていたのが新聞で報道されていた。コロナ以後の菅首相の仕事はNHK受信料廃止だろう。それまで今の地位にいるかどうかはわからないが。