読書日記

いろいろな本のレビュー

慶喜のカリスマ 野口武彦 講談社

2013-09-21 13:50:59 | Weblog
 慶喜の本格評伝。以前新書版の慶喜伝(新潮新書)があったが、今回370ページの大部である。江戸幕府最後の将軍はいわばクローザーで、どう幕引きをするかが問題だったが、結果的には大政奉還し、江戸無血開城と徳川家存続を果たしたことでその役割を果たした。この弁舌さわやかな貴公子はカリスマ性を十分に備えて英邁豪胆と評価すべき所と、肝心かなめの所で卑怯臆病の虫が湧いて出るという二面性を有していた。
 鳥羽伏見の戦いで苦戦が伝えられると、臆病風を吹かせて江戸城に逃げ帰ったことは根性無しの面目躍如で、後世に名誉(汚点?)を残すことになった。この件に関して著者は言う、「幕末政治家としての慶喜の行跡を全面的にたどって見たうえで物をいえば、政治的生涯の結末近くで冒したたった一回の戦術選択のミス(それはなるほど軍事的には決定的な誤謬だった)だけを取り上げて断罪したのでは、慶喜に対して余りに酷というものではないだろうか。筆者自身の、これまで慶喜に振ってきた史論の鞭はもうとうに折れている」と。著者はこのように慶喜をいとおしむが如き筆致で淡々と幕末の歴史を俯瞰して見せてくれる。穿った見方をすれば、著者自身が人生の黄昏時に際して慶喜を誉めて、大団円のうちに人生のエピローグにしたいのではないか。とにかく、幕府崩壊のプロセスの中で、それなりの役割を果たしたのが慶喜だったというのが本書の内容で、慶喜顕彰の書である。
 後書きで、著者は現役世代の日本人は歴史を学ばない。政治家も民衆もそうだと批判している。彼らは歴史小説から得た知識を歴史と思い込み、それが正しいと信じ込んでいる。さらに小説を読むのはまだましで、テレビドラマ、とくにNHK大河ドラマが歴史小説を読む代わりをしている。一番顕著なのが明治維新の受け止め方。現代日本社会では、あらゆる政治家が競って明治維新の仮装劇、というよりコスプレを演じていると一刀両断に切り捨てている。著者によれば、民主党の「松下政経塾」出身という宣伝は、吉田松陰の「松下村塾」の焼き直し的パロディ、小沢一郎の西郷隆盛気取りは失笑もの、「日本維新の会」の「維新八策」はあからさまな坂本龍馬気取り、それが国民の支持を得るという事象の愚かしさ。これには司馬遼太郎の一連の歴史小説が歴史教科書の代わりに一種の大衆的歴史教育の役割を果たしたという見解は正しいと思う。小説はフイクションであるから真の歴史とは大きな距離があることは確かだ。

ゆるしへの道 イマキュレー・イリバギザ 女子パウロ会

2013-09-14 05:15:35 | Weblog
 著者は、ルワンダ虐殺時は22歳で、同じツチの女性7人と、穏健派フツの牧師の家のトイレに91日間隠れて難を逃れた。その後、著者は自分の家族を虐殺したフツを許す。これが「ゆるしへの道」という題の意味である。「ゆるし」を可能にしたのは神(イエス・キリスト)に対する信仰である。彼女が生き延びることができたのは奇跡で、それは神が救いのの手を差し伸べたからだと信仰の功徳を告白している。前掲の『隣人が殺人者に変わる時』(かもがわ出版)の虐殺生存者が、神は私たちを見捨てたと言っているのとは大きな違いがある。神の祝福を一身に受けた著者はニューヨークに渡り、国連の仕事に就き、結婚、出産と映画の主人公のような人生を辿る。
 本書はルワンダ虐殺の光を描いたものと言えよう。一種の宗教的メッセージとして読者に訴えてくる。神は基本的には俗事にはかかわらず、人の生き死にに関与しないのが普通だが、この本には宗教的オーラがあり、著者は神の子になっている。
 たまたま幸運の連続に恵まれて生き延びたことが、神の恩寵として意識されると、神の存在がますます確信となっていく。信者誕生のプロセスである。でも信者すべてが神の恩寵を受けるわけではない。どうして私が生き延びることができて、他人は死ななければならなかったのか。その境界はなにか。その分岐点は?ここに神の存在を想定できる著者は幸福である。家族を虐殺したフツを許すことができたのも神の人間愛を実感したからだろう。この境地に立てる人は少ないかも知れないが。
 でも人が人を殺す戦争の愚かしさを認識できたらこれ以上素晴らしいことはない。多くの人が本書と前掲書を読んで、戦争の愚かしさを認識されることを願う。