読書日記

いろいろな本のレビュー

メキシコ麻薬戦争 ヨアン・グリロ 現代企画室

2016-12-27 09:53:31 | Weblog
 最近新聞のニュースに以下のタイトルの小さな記事が載った。「麻薬トラブルか 32人の胴体発見 メキシコ南部」記事は「メキシコ南部のゲレロ州シトウララで、32人分の胴体と9人分の頭部が見つかった。麻薬組織同士の抗争が激しい地域で、麻薬絡みのトラブルが関係しているとみられる。匿名の通報を受けた警察が22日から3日間、山中を捜索し、17カ所に埋められた胴体を見つけた。遺体の身元は判明していない。近くでは車数台が乗り捨てられており、警察は近くで誘拐されていた人も見つけ、救出した。近くの道路沿いでは先週、9人分の頭部が見つかっていた。(ロサンゼルス)」というものだ。これが日本で起こっていたとしたらビッグニュースとして報じられることだろう。ところがメキシコでは日常茶飯事のようだ。
 麻薬の原料の「ケシ」はメキシコで産し、それが麻薬となってアメリカに密輸され、メキシコの裏の経済を潤している。これといった産業のない土地柄、この麻薬に関わるギャングが跋扈し、政治家・警察と癒着し、一般市民を恐怖のどん底に陥れている。市民は自警団を組織し、麻薬カルテルと相対峙している場合もあるが、カルテル側の切り崩しにあったり、自警団が犯罪に手を染めて腐敗していくなど、成果は出ていない。今春公開された米ドキュメンタリー映画「カルテル・ランド」はその問題を扱ったものだ。
 本書はメキシコの麻薬問題を時系列で記述したもので、危険な取材を敢行し、書物にまとめた努力には敬意を表したいと思う。いろいろと話題は多いが、私が興味深く読んだのは第10章の「文化」の項で、マフイアの音楽「ナルコ・コリード」を扱った部分だ。「ナルコ」は麻薬、「コリード」はノルテーニョと呼ばれるリズムにのせて歌われる物語歌のことで、「ナルコ・コリード」は麻薬密輸入を歌った物語歌ということになる。これがメキシコでは盛んで、カルテルの幹部が自分の人生を振り返った内容をのものを作曲家に依頼しそれを歌手が歌って発表しCDにしたり、果ては映画にすることもあるという。中身は麻薬密輸の称賛と暴力の公認が中心で、メキシコ政府はラジオでの放送を禁止している。それにもかかわらず、ナルコ文化は信じられないくらいもてはやされているという。そんな中で、ナルコミュージシャンがギャングに襲われ殺される事件が多発している。作品や、歌い方が気に入らないのかというとそうでもない。コリード専門のレコード会社のプロデユーサー曰く、「ここには今、暴力が蔓延している。しかし音楽家がそれを作ったわけじゃない。ミュージシャンが殺されたケースの多くは、彼らの音楽とは関係がなかった。女や金やなにかで争いに巻き込まれていたんだ。あるいはたまたま運が悪かっただけなんだ」と。殺される方もわけがわからぬままに死んで行くわけで、それが冒頭の記事に繋がっていく。貧困の中で育つ若者にとって先の見えない社会の中で、麻薬カルテルのギャングになってしのぐしかないという状況はメキシコのみならず中米の特徴だ。ホンジュラスは政権交代による治安の悪化で、殺人事件発生率が世界一で、ギャングがはびこっている。その若者ギャング団を取材した『マラス』(工藤律子 集英社)によると、子どもを取り巻く貧困が彼らをギャングへと駆りたてているとのこと。貧困ゆえに生きるか死ぬかの選択しかないのが原因だ。市民生活の中での生き残るための暴力は戦場におけるそれよりはとりあげられ方が少し甘い気がするが、現実麻薬カルテル同士の殺人は戦場のそれと変わらないぐらい酷い。逆に麻薬戦争の方が文脈が読みにくいので、巻き込まれる恐怖は国と国の戦争以上である。このメキシコ麻薬戦争を目の当たりにして、トランプ次期大統領がメキシコとの国境に壁を作りその費用をメキシコに払わせると言って喝采を受けたのも、理解できる。でもその前にアメリカの麻薬密輸問題に手をかけることが求められる。     

セカンドハンドの時代 スベトラーナ・アレクシェービッチ 岩波書店

2016-12-19 10:38:20 | Weblog
 セカンドハンドとは中古品の意。タイトルは旧ソ連の社会主義体制崩壊後に遅れて資本主義を試す旧ソ連人の感慨を表した言葉である。作者曰く、「思想も言葉もすべてが他人のお下がり、何か昨日のもの、誰かのお古のよう、どうあるべきか、何が私たちの役に立つのか、誰も知らず皆知っているのはかつての私たちの知識、誰かの体験、過去の経験。今のところ、残念ながらセカンドハンドの時代」と。1990年代にゴルバチョフ、エリツイン大統領によってソ連の社会主義は崩壊したが、ペレストロイカ(改革)による新しい時代が希望に満ちた良き時代かというとそうではなかった。逆に、権力を握るものとそうではない者の経済格差は大きくなり、治安も悪化して暴力も頻発した。その中で、ソ連崩壊後20年にわたって聞き取りした、自殺者の家族、収容所の経験者、クレムリンの元幹部、民族紛争を逃れた難民、地下鉄テロの被害者等々のインタビューを集めたもの。これは作者の一貫した方法であるが、作者自身は前面に出ることはなく、録音を忠実に再現している。読んでいてこちらが苦しくなるほどの内容が多い。しかし大部分は旧ソ連に対する思い入れが強く、あれだけスターリニズムによって人権を抑圧されてきたにもかかわらず、良き時代として回顧されるところが興味深い。社会主義という壮大な実験場に息も絶え絶えの状態で放り込まれながら、それでもソ連の方がましだったというのは、西側の資本主義が社会主義以上に人権抑圧的ということなのだろう。自由主義はいわば自己責任の究極の形であるから、ソ連人にとっては戸惑うことが多いのはよくわかる。
 作者はウクライナ生まれで、ベラルーシ在住。ウクライナはロシアの侵攻を受けて独立を脅かされている。よって作者自身にとっても状況は旧ソ連時代と基本的に変わるものではない。彼女は朝日新聞のインタヴューで、プーチン政権下のロシアについて、重篤な状況で「力」による問題解決を計ろうとしている。人々も「今はロシアの時代だが、敵に囲まれている」と思い込んでおり、「意識の軍国化」が進んでいる。人々は軽々と戦争について語り、テレビでは連日、新しい軍用機や軍艦が映り、人々はそれを強国の印だと喜んでいると危機感を募らせている。従ってこの抑圧状況と戦っている作家にノーベル文学賞が与えられたのにはやはり深い意味がある。
 このインタヴュー集は語り手の回想が長短取り混ぜて赤裸々に語られるわけであるが、これがルポルタージュではなくなぜ文学なのかということについて、柄谷行人氏は朝日新聞の書評欄で次のように述べる、著者は話を録音するとき、人の言葉が「文学」になる瞬間を意識している。「ただの日常生活が文学に移行するその瞬間を見逃さない」ように。「文学のかけら」は「いたるところ」「思いもよらない場所」に見出される。たとえば、ある人物がいう。「わたしたちは、いつもいつも苦悩のことを話している………。これは私たちがものごとを理解する手段なんです」。その意味で、この本は「文学」なのだと。苦悩が思考の端緒であるというのはまさに文学の本質であろう。実際、語り手の辛い回想記録は抑圧状況下の人間の苦悩を十分描いているという意味で文学である。

戦艦武蔵 一ノ瀬俊也 中公新書

2016-12-05 09:42:46 | Weblog
 2015年戦艦武蔵がフイリピン沖海底で発見され、世界の注目を集めた。武蔵は太平洋戦争中の1942年に完成し、1944年のレイテ沖海戦でアメリカの航空機によって撃沈された。武蔵は大和の姉妹艦で、大和が戦後一貫して脚光を浴び、戦記・映画・アニメ等で描かれたのとは対照的に半ば忘れられた存在だった。折しも2016年12月4日にNHKスペシャルで「戦艦武蔵の最期」が放映され、発見された武蔵の残骸を最新のコンピューターグラフイックで分析し「不沈戦艦武蔵」の弱点を指摘した。それは敵の戦艦の砲撃を受けても、浸水しないように、艦の内部をいくつもの部屋に区切り、外部を厚い装甲板で覆っていたが、その厚い鉄板をつなぐリベットが弱く敵の魚雷攻撃で鉄板が外れ、艦内が浸水して沈没してしまったというものだった。航空機からの魚雷攻撃を想定して設計されていなかったことも指摘された。日本海軍は真珠湾攻撃で敵の戦艦を飛行機で壊滅状態にさせたが、その戦法を自らが生かすことはなく、逆にやられてしまった。巨大戦艦の時代ではないのにそれに固執したところに失敗の原因があった。番組の中でアメリカ軍の元パイロットのインタビューで、アメリカ軍は1944年秋までに航空機による戦艦攻撃を検討していた事がわかった。前後左右から四方面に分かれて魚雷攻撃、そして真上から爆弾投下というものだ。アメリカ兵は最初武蔵を見た時その巨大さに驚いたという。しかし大きいので、標的にしやすかったとも述べている。この攻撃に晒された武蔵の甲板上は悲惨な状況だった。機銃で対抗しようとしたが敵の圧倒的な攻撃の前に銃に肉片がこびりつき、日本兵の死体が山積の状態だったという証言があった。いわばなぶり殺しの状態である。テレビでは特に二番目の主砲の下の火薬が爆発して沈没を早めたという指摘があった。最大の武器の46センチ砲が実戦で火を噴くことはなく、火薬が沢山残ったままだった。それに引火して轟沈したのである。この戦いで2400人の乗員の内、1000人以上が戦死、生き残った兵は、そのまま、今度は陸上戦に派遣され、最終的に生き残ったのは490人だった。不沈戦艦武蔵の沈没を目の当たりにした兵が各所で、武蔵の弱点を言い募り、軍批判を阻止するために帰国を許さなかったものと思われる。残酷な話である。 
 本書は上記の武蔵の問題点を含め、大和の蔭でひっそり生きた武蔵の姿を多方面に渡りで解説しており、大変面白く読めた。猪口敏平艦長が退艦することなく、武蔵と運命を共にしたエピソートや、元乗組員佐藤太郎の手記『戦艦武蔵』と吉田満の『戦艦大和の最期』の比較、佐藤の作品を批判して事実の掘り起こしに専念した作家吉村昭の『戦艦武蔵』の問題点などを通じて、戦争批判の小説の限界を指摘している。曰く、武蔵や戦争を自ら知った人々の話は、彼らが体験を語り終えるや、同じ戦争、同じ軍艦の話でありながら、その後の世代は再び「全然そういう考え方に頭脳を向けない」ものとなり、結果として武蔵も何ものでもなくなった。約70年間、口ではずっと「戦争体験の継承は大切だ」と言い続けてきたにも関わらずである。人が歴史に「なぜ」を問うのは、しょせん自らと同時代のそれに限ってのことであるに過ぎないと。誠に戦争体験の継承は難しいのである。