Sketch of the Day

This is Takeshi Kinoshita's weblog.

根岸港のカップヌードル

2024-02-11 | Memory of Yokohama life as a child

父といちばん良く行っていた魚釣り場は根岸港だった。今から45年以上前のことである。釣り場への行き方は、はっきり覚えていないが、おそらく白滝不動尊の急坂を降り、不動下から市営バスに乗って八幡橋下車、徒歩で釣り場に向かったのだと思う。我々のいつものポイントは、神奈川冷凍磯子事業所前の、根岸港最奥の岸壁である。最奥といっても、八幡橋から一番近いところなので、たんにそういう理由でよく訪れたのだと思う。父は歩くのが嫌いだったが、といって車に乗るわけでもなかった。この釣り場付近には、今でこそ磯子・海の見える公園やローソンがあるが、当時はそういった施設は何一つなく、じつに寂しいところだった。しかしただ一つ、日清カップヌードルの自販機があった。道路端の大きな事業所の建物にへばりつくようにしてそれは置かれていた。しかし、しばらくすると撤去されてしまった。冬の寒い日などずいぶん重宝したものだが、子供心にとても残念だった。

カップヌードルの発売は1971年だから発売後6年以上が経っていたことになるが、当時は巷にカップヌードルの自販機がけっこう置かれていて、給湯ができプラスティック製のフォークも備え付けられていた。私のお気に入りはカレーヌードルだった。寒空の下じつに美味かった。これが経験のためにカレーヌードルを食べると今でも当時のこと、この釣り場のことを思い出す。というかその思い出に浸りたいがために今でも時々カレーヌードルを食う。さて釣れた魚は、主にハゼ。でもあまりに水が汚かったので釣っても食わなかった。根掛かりだと思って引っこ抜くとオデキのような気持ち悪い生物が釣れてきた。釣り鉤を外そうとそいつを踏みつけると水が吹き出た。いまは水質が改善されているようだ。納竿してから腹が減ると八幡橋の近くの中華料理店でラーメンを食った記憶があるが、いまGoogleマップで探しても見つからない。あるいは根岸駅のあたりだったかもしれない。


磯の名

2024-02-04 | Memory of Yokohama life as a child

江ノ島や城ヶ島のような島ともなれば、磯の一つ一つの出っ張りにすべて名前がついている。いずれ古くから呼び習わされてきたと思われる。幼少の砌、魚釣りに行っていた頃にはそんなことにてんで興味はなかったが、良く行った城ヶ島の「水垂」という磯は今でもよく覚えている。江ノ島も、いつも行く磯は決まっていたが、名は聞いた覚えがない。しかし、いま釣り場地図などで調べるに井ガ崎から松ヶ崎と呼ばれる辺りの磯だったと思われる。

父と魚釣りに行っていた城ヶ島の磯も、江ノ島の磯も共通する点がある。それはいずれも島の北側の波静かな釣り場であるということ。島の南側の外海に面した磯はもっと良い釣り場だったようだが、父は鼻垂れ小僧の余を決して南の磯には連れて行かなかった。これは、父の配慮だったと思われる。それはともかく、名を聞いた覚えのない江ノ島の磯をなぜ特定できたかといえば、グーグルマップの井ガ崎の磯の突端に忘れもしない生け簀のような工作物を発見したからである。

江ノ島の磯では生け簀として使われていたと思われる枡の如き工作物を至るところで見かける。いつ頃つくられたのかはわからぬが、ずいぶんと古色を帯び、磯に馴染んでいる。岩をくり抜いてつくられたとみえるこれらの生け簀は、水面下で海と繋がっているのか、打ち寄せる波とともに水位が変わる。生け簀のある井ガ崎の突端には、ベテランと思しき釣り師がいつも陣取っていて大きな黒鯛を釣り上げていた。獲物は魚籠に入れられ生け簀に投げ込まれていた。余はそれを横目に小物をちまちまと釣っていた。

さて当時我々はこの磯場にどうやって行っていたか。江ノ島の高台を巡る散策路から急な山道を降り、危なっかしい崖下の波打ち際を父の手を借りながら釣り場に向かった覚えがある。満潮時、足を滑らせ海に落ちそうになったこともある。しかるに、最近のネットの記事を見ると、松ヶ崎について「以前は山から下りる道もあったが今は稚児が淵から回るしかない」とある。余の記憶が正しかったことが何故か嬉しい。が、その山道が今は使われなくなっていることに時間の流れを感ず。余にとりてはこんな些細なことも極めて感慨深い。


スカンディア

2024-02-02 | Memory of Yokohama life as a child

子供の頃江ノ島や城ヶ島に父と魚釣りに行きしことを懐かしく思い出し、磯の名、江ノ島への道程などネツトに調べたらば、当時の拙宅の、新しきマンシオンへの建て替へが終はれることを知る。その流れにベアトの撮りし著名なる不動坂〜白崖のミシシッピベイの写真など眺めたらば父より電話。曰く、昔横浜シルクホテル前の洋食店に鰊の酢漬けを食ひしを思い出しまた食いたくなりき。亡くなりし駒沢のお兄(余にとりては叔父)も一度連れて行つたためしあれど店の名を忘れきと父。余はスカンディアならぬやと直感すれど、シルクホテルの前なりしやいなや記憶定かならず。Googleマップに調べるに果たしてシルクホテル斜向かいに其の店はありき。スカンディアならぬやと父に言うに、おゝ其れなり其れと合点せり。当時余は其の店で、といふか其の店にも、いや何れの店にもハンバーグステーキを食ふた。スカンディナビア料理店のハンバーグが美味きやいなやなど絶えて関係なかりにけり。父は未だに、当時余がハンバーグステーキのほかに目の無かりしためしを言えど、言われずとも自覚し居る。さて、スカンディアへは大人しくなりしよりも一度二度足を運びし覚えあれどそれも何十年も前のこと。父は、鰊の酢漬けを何処かに探して持ち来て呉れと言ふ。横浜の思い出は、父にとりても未だ今めかしめり。


想い出の新横浜通り

2020-09-24 | Memory of Yokohama life as a child

新横浜通りの三ツ沢から横浜駅方面に下る坂道の風景は忘れられない。新横浜通りは、新横浜駅から滝之上の自宅にタクシーで戻る時によく通った。と云っても決して頻繁ではなく、静岡の実家から横浜の自宅に戻る際、時々使った程度。当時、小学校が休みになると祖父母のいる清水に帰省するのだが、長い休みが明け新幹線の新横浜駅に降り立つ。そこで普通なら横浜線、京浜東北と乗り継いで山手駅に向かうのだけれど、新横で既に日が暮れ、ああ疲れたね!となると、タクシーで滝之上直行という決断が下される。しかし此れは可成り贅沢な決断であったと思われる。だから実際、全然頻繁ではなかったのだ。

夜の新横浜駅の記憶は全くない。其れも其の筈、当時の新横は見渡す限りの田畑或いは空き地で、其の侘しさは今の新横からは想像もつかない。むしろ実家のある静岡駅前の方が遥かに都会であった。そういう訳で、恐らく当時の新横浜駅前は真っ暗!だったのであり、故に記憶が飛んでいると思われる。それなのに、此の坂道だけは記憶が鮮明である。其の理由を留めておこうと思って此のスケッチを描いた。

新横から坂道迄の記憶も全く無い。其の間も恐らく真っ暗!だったからであろう。しかし此のS字カーヴの急坂に差し掛かると、先ず谷間に僅かばかりの灯火が見え始め、さらに下っていくとやがてパッと市街地の夜景が俯瞰される。其の見え方が劇的で、子供乍らにああ横浜に帰って来たんだ!と思うのだった。今だとランドマークタワーなど見えるようだが、当時はそういった高層ビルの灯は殆ど無かった筈である。

ところで此の坂道、実はつい最近までどこなのか分からずにいた。が、試しにGoogleマップで新横浜から滝之上の元自宅までのルートを検索をしてみた。すると一発で此の坂道を通るルートが出た。念のためストリートビューで確認したところ間違いはなかった。まさに此の坂道だった。ちなみに、夜の新横浜の記憶は無いと云ったが、昼の新横については忘れ難い想い出がある。其れについては稿を改める。

スケッチメモ:此のスケッチは、ストリートビューを写生したものがベースになっています。ストリートビューは昼間の映像なのと、鉛筆での夜景表現に自信がなかったので、普通のスケッチブック(白紙)に2B・4Bの鉛筆で昼間の風景をスケッチ後、フォトショップで色調補正(階調反転)、同じくフォトショップで灯火のみ描き込みました(混合ブラシツール使用)。前方を走る車の尾灯も赤のブラシで描いてます。更に其れをMacの写真アプリに読み込んで「ドラマチック(冷たい)」のフィルタをかけて仕上げています。夜景の雰囲気は出たと思いますが、スケッチが全然下手くそです。


白滝不動尊前

2020-09-12 | Memory of Yokohama life as a child

子供の頃よく遊んだお不動さん。不動坂の上り口から根岸台の急崖を直登する石段(男坂)はかなりの高度感があって、高所恐怖症の母はいつも女坂を使っていた。背後の樹林の中に、その名のとおり滝がある。水量こそ僅かだが落差はけっこうあり、樹林と相まった幽邃な趣はなかなかのものだったと記憶する。滝の落ち口に通ずる流れには至るところから湧き水が染み出し、沢蟹が潜んでいた。この白滝不動尊前の交差点に行きつけの床屋さん、産業道路(当時そう呼んでいた)を右に曲がると戸丸?商店という駄菓子屋さんがあり、メンコをよく買いに来た。後にスーパーカー消しゴムのガチャガチャとか、カード目当てのプロ野球スナックとか。。。懐かしい。

それはともかく、台上から白滝不動を通ってここまで降りてくると、遥々と別世界に来たという感じが子供ながらにしたものだった。それは、ここが学区外であるということ以外にも、街の雰囲気が台上とは全く異なるというのが大きかったように思う。かつてこの地先が海だったことは学校で習って知っていたが、そうした土地の履歴が街の相貌に影響を与えるなどということは、当時の私には知る由もなかった。。。

絵について一言。Googleマップ・ストリートビューを使って写生しました。青焼き(古い!)的な絵にしたかったので、あさぎ色の色画用紙(DAISOのパステル色画用紙)に2Bの鉛筆で下書き、プルシアンブルーの色鉛筆(三菱の2色鉛筆2667)、SAP GREEN 545の色鉛筆(三菱ユニ)、緑のダーマトグラフ(三菱)で描画、着彩してみました。ダーマトグラフは樹林の明暗を強調するために使用しています。


根岸競馬場

2020-09-11 | Memory of Yokohama life as a child

私が小学校低学年の頃,其処はまだ根岸の競馬場と呼ばれていた。横浜市営バスの「滝の上」バス停の前には高いフェンスが張られていて、そのフェンス越しに、競馬場なのにゴルフ場が広がっていた。うねる芝生のなかにバンカーなども見え隠れしていたような。。。フェンスはずいぶんとくたびれていて、芝生や砂が歩道まではみ出していた記憶がある。このバス停から、忘れもしない、103系統に乗って伊勢佐木町へ、21系統に乗って元町へよく出かけた。小学校の何年生の頃だったか、その競馬場とゴルフ場は根岸森林公園という名前の公園になった。この公園で、当時新発売されたゲイラカイトという、放っておいても勝手に上がる舶来の凧を上げ、公園の一番低いところにある池で生まれて初めて鯉を釣った。


長屋門と洋館のある原っぱ

2020-08-08 | Memory of Yokohama life as a child
ミシシッピ・ベイを見下ろす台上にその空き地はあった。長屋門が残る広大な土地で、門のそばには、後から建てたか元からあったのかよくわからない日本家屋があって、ある家族が住んでいた。その何人いるのか定かでない兄妹の幾人かと私は同じ小学校に通い、放課後よく一緒に遊んだ。あだ名で呼びあっていたので、あだ名はよく覚えているけれど、本名ははっきり覚えていない。その長兄~いやもっと上の兄妹がいたかもしれぬが~は、近所では名の通った番長で皆から恐れられていた。

その空き地には彼らの住処のほかにももう一つ別の建物があった。兄妹たちの住む民家とは対照的な、煉瓦造り(石造りだったかも知れぬ)のその洋館はしかし廃屋であった。いつか意を決して友達と中に入ってみると巨大なホールがあり、ありとあらゆるものがことごとく壊れ散乱していた。この土地はかつて幼稚園として使われていたこともあるらしいと誰かから聞いた。洋館は十分に巨大であったが、その空き地と比べれば随分ちっぽけだった。だだっ広い原っぱと化した空き地には思い出したように庭石や植木があって、子どもながらに庭園の跡ではないかと想った。

その想像が正しかったことは、約30年後に証明された。たまたま広げた旧い地図に、その空き地があった場所を発見、よくよく目を凝らすと「若尾邸」という小さな文字。それはたくさんの建物からなる大邸宅で、建物のすべてが回廊のように繋がっていた。その中で唯一離れて建てられた細長い建物があり、それこそが私が小学生の時に見た長屋門であった。当時の空中写真も見てみた。するとあの立派な洋館もどうやらその大邸宅の中の一棟のようであり、玄関ホールと思われた。長屋門の先をたどっていくとその洋館にぶつかったからである。幸いにも当時の、すなわち長屋門と洋館しか写っていない空中写真と、それ以前の全ての建物が写っている空中写真の両方が残されていて、見比べればその洋館が玄関ホールであることは容易に知れた。

洋館に比べ敷地がだだっ広く見えたのは、元々そこにたくさんの建物が建っていたからであった。庭石や植木が随分と間延びしているように見えたのも、それらの間にたくさんの建物が建っていたからであった。また空中写真を見る限り、洋館以外はすべて木造の日本家屋と思われた。どうして洋館と長屋門だけが残されたのであろうか。洋館は煉瓦造りだったからかもしれない。しかし、あの兄妹が住んでいた日本家屋はその地図にも空中写真にも載っていなかった。。。

私が横浜を去って数年の後、この土地は住宅地として分譲された。


ガラクタホウドウ

2020-08-02 | Memory of Yokohama life as a child
白滝不動尊にほど近い其の場所は、子どもらの間でガラクタホウドウと呼ばれていた。廃墟も同然の洋館の、其の名の由来を知る者はたれもいなかった。生い茂る灌木や背の高い草の叢を分けて行くと崖っぷちの露壇に出、ミシシッピ・ベイが一望できた。近所の大人の話では、車寄せの椎木に大きな青大将がよく絡み付いていたという。