翻訳者の散歩道

  ☆ 法律翻訳者の思考のあれこれ ☆
(「翻訳者になりたい人のためのブログ」を統合し「第ⅡBlog〇〇編」と表記)

大丈夫か?考古学

2010年11月19日 | 歴史
ショック!奈良県橿原市の藤原宮跡の発掘調査結果が誤認だったというニュース。夏頃だったか、この遺跡発掘の写真をニュースで見て、「うゎー、ものすごい!」と感激したものです。それが・・・。

平城宮跡の発掘成果が頭にあったのか「建物跡があるはずだ」と思いこんだかも・・・という。たしかに当事者の立場に立ってみれば「さも有りなん」と思いもしますが、やはりショックは大きいですよ。

10年くらい前だったか、数十万年前の地層に人為的に埋めた旧石器の捏造事件があり、これまでの発掘全体ひいては考古学自体の信憑性に疑問を抱いた人も多かったでしょうが、今回の事件が追い討ちをかけるおそれ有り。(>_<)

成果主義?という要請も理解できますが、やはり検証は必要でしょう。

近隣の発掘遺構は大丈夫か?とつい疑心暗鬼になってしまう(笑)

墓堀人夫

2010年07月08日 | 歴史

先日、近隣にある歴史的資料等の特別展示を見に行きました。
特別展示の最終日しかも日曜日、少し混んでいるかな?と思ったら、空いておりましたね(汗)。

昨年でしたか、近隣の遺跡発掘現場を見学しに行ったのですが、その時から疑問が沸々とわいて、頭の中にマグマのごとく固まっていました。

ちょうど、学芸員が出てきたので、思い切って質問。
適切かつ親切に回答および説明してくれました!
おぉ、素晴らしい!

心地よい会話(質疑応答とも言うが…)に時の過ぎるのを忘れ、気がつけば15分以上経過しておりました。
そこで、ひたすら謝ったところ、
G 「いいんですよ。このくらい。この前は5時間話していった人がいたし。」
R 「ご、5時間ですか?」
G 「そう。最後に『うちの娘をもらってくれ』って言われちゃいました。」 
R (@_@) (@_@) (@_@) (・o・)


子どもの頃、シュリーマンの伝記を読み胸を躍らせ、「墓堀人夫!?になりたい」と思ったこともあり、質問のついでに考古学についてチョコッと聞いたら、発掘の労働は「ハンパない」そうです(>_<)。
今さら、スコップ持って労働はきついだろうし、こりゃ無理だわ。
やはり、発掘されたものを見に行く位にとどめて置く方が無難のようで。

 (写真は記事の内容とは関係ありません)

浅間山噴火(続)

2009年02月09日 | 歴史
天明の大飢饉がもたらした損害は甚大でした。
封建制下の農民は土地に縛り付けられていたので餓死者が相当出ました。
即ち、封建時代においては、藩がひとつの独立国であり、容易に他の藩に移ることはできなかったわけです。
天明3年から4年にかけて、津軽藩で餓死81,700人、南部藩で餓死、病死64,700人、仙台藩では餓死40万人といわれています。

さて、ここでヨーロパに目を転じると、同じ年にアイスランドのラキ山が大爆発しています。この噴火は浅間山をこえるもので、灰がヨーロパを覆ったそうです。
そのラキ山から噴きあがった灰塵は浅間山の噴火による灰塵と合流!偏西風にのって地球を周回しました。
ヨーロパも農作物の不作に追い込まれ、小麦の凶作はパンの価格を高騰させ、1789年のフランス革命の引き金になったと言われています。
まことに、因果の連鎖は恐ろしいですね。

現在も、近く大地震が起こると予想されており、少しずつ準備をしておいた方がいいのでしょう。いえ、"するべき"ですか。


浅間山噴火

2009年02月05日 | 歴史
先日、浅間山が噴火しました。
長野県と群馬県との境にあって、その北側は六里ヶ原という草原になっており、火山灰の土質で大きな樹木が育たず、山裾近く奇岩の連なる奇観景勝の地「鬼押し出し」があるのはご存知かと思います。
その鬼押し出しから北に6キロほど行ったところに鎌原観音堂がありますが、この観音堂には歴史的事件(?)があるようです。

1783年(天明3年)、日本は春から夏にかけての長雨により洪水の被害が各地で起こりました。実は、これはその後の破局の始まりだったのです。
その年の6月25日、浅間山が噴火。この爆発は1707年(宝永4年)の富士山の噴火と並び日本の火山噴火史上最も激しいものとされています。
浅間山はその日から爆発を続け、その鳴動は北海道から京都、大阪に至るまで響き渡ったとされていますから驚きです。
そして、火砕流は六里ヶ原の森林を焼き尽くしながら進み、あっという間に鎌原村を襲いました。その火砕流のスピードは時速100kmとか。

さて、その鎌原村の外れに観音堂がありました。
生き残った村人は観音堂を目指して小高い丘を上ります。
最後に老女を背負った若い女性(母娘という説も)が丘の下の階段にたどり着きました。階段を上りかけたその時、火砕流が追いつき、一瞬に二人を飲み込んでしまったのです。
観音堂に続く15段の階段を残して。(この階段は2009年の噴火ニュースの映像でも紹介されておりました。)
  “天明の生死を分かつ十五段”

その後も、火砕流は多くの人の命を飲み込んでいきました。
最後に火口から溶岩を噴出し、この溶岩は鎌原の火砕流の上に30mの厚さで堆積し黒灰色にかたまり、奇奇怪怪の岩だらけ原野となったのです。これが上記でも触れた“鬼押し出し”です。

さらに、この浅間山の噴火は天明時代の悲劇の幕開けでもありました。
噴火は2ヶ月も続き、噴き上げられた灰塵などの微粒子は時には上空15,000mにまで達したといわれ、そのまま浮遊。その結果、フィルターになって太陽の恵みを遮断してしまいました。つまり、稲作を中心とした農作物に大きな損害を与え、未曾有(←読めますね?)の大凶作となり、いわゆる「天明の大飢饉」につながっていくのです。

 (この項、続く)


灰となった都市国家カルタゴ-その3

2007年07月30日 | 歴史
ハンニバルは、一般的に知られている肖像画からは憂愁を含んだ端正な顔で、百戦錬磨した名将とは思えません。

そのハンニバルがスペインの所領から強力な傭兵部隊を発進させました。
歴史上有名な戦象隊を使い、冬のアルプス越えからイタリア半島に攻め入り、いたるところで無敵ローマ軍を撃破し、ローマ市民を脅威させたのです。

しかし、第2次戦争の末期にスキピオ(大)が率いるローマ軍にスキをつかれ、北アフリカ本土を襲われ、急遽戻ったザマで対戦、そこで大敗を喫してハンニバルの運命は暗転します。この敗戦がカルタゴの運命を決めることになるのですね。

その後、二次戦争の講和条約では、海外領土の放棄、賠償金の支払、戦象隊の引渡、軍船の焼却、戦争行為の禁止などが盛り込まれました。軍役を辞したハンニバルは、請われて財政官として賠償金支払のため不公平税制の是正など財政改革にすぐれた手腕を発揮します。
しかし、特権を奪われた同国人の貴族の恨みを買い冤罪をローマに通報されて、国外に亡命、ついには自殺に追い込まれます。「ローマが私の死を知ったらどんなに喜ぶだろうか」の言葉を残して。。。

これから先、カルタゴは坂道を転げ落ちるような経緯をたどります。
 隣国からの侵略に対し、戦争を禁じられているので反撃不可。
 ⇒ローマに調停を要請するも無視され、自衛戦争を起こす。
 ⇒これがローマに大軍を送り込む口実を与える。
 ⇒ローマに講和使節を送るも功を奏せず、 カルタゴの老若男女は武器を急造し(女性は長い髪を切って弩弓のバネをつくった!)ローマに宣戦布告。

 ・・・・・ローマ軍は史上例をみない非人道的な残酷さで殺戮。「動くものは殺せ」が合言葉。

殺戮、略奪後の市街地はローマ兵の放火により灰塵に帰するのでした。火煙は10日間も続き、灰の厚さは何と2メートル近くまでいったと言われており、
さらには、農作物が育たぬよう、また、二度と人間が住めむよう呪いをこめて塩を何回もまいたというから驚きです(@_@)

焼け跡にたったローマ軍司令官のスキピオ(小)は、その悲惨な光景に思わず涙を流したと言われています。 

いつの日か、私もカルタゴのの地に立って、昔の栄華に思いを馳せ、断層の中に残っているかもしれない灰に触れてみたい・・・
   
  (参考図書:アランロイド著「カルタゴ」、森本哲郎著「ある通商国家の滅亡」)


ハンニバルについては、過去の記事「火牛の計」でも触れておりますので、よろしければご覧下さい<(_ _)>

灰となった都市国家カルタゴ-その2

2007年06月07日 | 歴史
このシチリア島の争奪戦で脱落したギリシャ王ピュロスは「我々はローマとカルタゴの間にこの美しい戦場を残して去っていく」とつぶやいたとか。

この戦争は地中海周辺諸国を巻き込む世界大戦の様を呈し、ポエニ戦争と呼ばれます。
ポエニ戦争は断続的に続きました。
 第1次ポエニ戦争:BC265-241
 第2次ポエニ戦争:BC218-201
 第3次ポエニ戦争:BC149-146
勝者となったローマは更なる覇権を求めてマケドニア、シリア・・・と戦いを続けるのですが、カルタゴは経済復興、国家再建を目指します。

カルタゴは、傭兵部隊が主力だったので自国民の犠牲は少ないのですが、対するローマの方は戦争で人口の20%に近い約30万人を失っています。
さらに、ローマは相次ぐ戦争によって国庫も相当の支出を余儀なくされ、ローマがカルタゴの経済復興に対して不安感または不快感を持ったことは容易に想像できます。

ポエニ戦争は世界史上有名であり、ご存知であろうと思いますが
カルタゴの生んだ名将ハンニバルについてチョコッと触れてみようと思います。

-------続く---------

灰となった都市国家カルタゴ

2007年05月30日 | 歴史
カルタゴの滅亡は史上空前絶後の悲劇でした。

今回は、カルタゴの歴史をチョコッとまとめてみようと思います(^_^)

まず、カルタゴ興亡の輪郭の描写を下記の本からお借りします。

 ☆ 「カルタゴ」アランロイド著(木本彰子訳)から。
今日、ハンニバル海岸に立ち、かつてカルタゴ市があったあたりを眺めてもそこには西欧世界最大の商業中心地があったとはとても信じられない。このけだるい黄褐色の海岸から、船乗りが北海の霧に閉ざされた謎の地チュールをめざして漕ぎだし、商人が黄金を求めてサハラの奥地へと赴き、武将たちが戦象隊をひきいて遥かなる戦場へと出発した光景など想像すべくもない。カルタゴほど栄えた都市が、かくも徹底的に、かくも暴力的に壊滅された例があっただろうか。遺跡すらほとんど残っていないのである。すぐれた文明を持ち、栄華をきわめた都市が忽然と地球上から姿を消し去ったのである。☆

カルタゴ―古代貿易大国の滅亡

河出書房新社

このアイテムの詳細を見る


上記の引用をお読みになればカルタゴの興亡の物語の輪郭をつかめると思いますが、歴史的あらすじをちょこっと(^_^)

カルタゴは、BC814、(現在の)レバノンからやってきたフェニキア人の殖民により建国されました。彼らは、陸上の外的の脅威を避けて、生存と繁栄を海洋進出に求めます。
イベリア半島のスペインの一帯が彼らの主な交易国で、貴金属や鉱石を安く買い入れ、東に持ち帰ってこれを売り、巨大な富を手にしたのです。
ところで、レバノンからスペインの間の航行距離は片道6000kmもあり、その間には中継基地が必要になります。⇒その1つが現在のチュニジアです。穏やかな気候と肥沃な土壌に恵まれ天然の良港があり、これが都市国家カルタゴなのです。

地図をご覧になればお分かりになると思いますが、全地中海を制圧する中央に位置しており、イタリア半島の長靴の先の方とはシチリアをはさんで対峙しています。
こう見ると、ローマとカルタゴの対立が起こらない方が不思議ですね。
争いは、ギリシャを含む3国間でシチリア島の争奪から始まります。

----続く----



続 江戸小噺考

2006年09月19日 | 歴史

(1つの記事に文字数制限があったので、2つに分けています) 

では、「小言幸兵衛」という落語はご存知でしょうか?

長屋の家主「幸兵衛」さんは、朝から小言を言わないとご飯が美味しくないという性格の持主。 

幸兵衛さんは、朝の日課として長屋を一回りして散々小言をまきちらして家に帰り、それから今度は女房に対して小言が始まります。

「どうもこの長屋の連中には困ったものだ。相変わらず人に小言ばかり言わせてやがる。あれっ?このババァ、人がしゃべっているのに、もう居眠りしてやがる! おい、ばあさん、起きろ、起きろ!」  

 「朝食の片づけがすんでいない、布巾が落ちている、猫の皿も片付けない、その猫もムダ飯ばかり食って、鼠もとらずに寝てばかりいやがる!」

噺の中でもおもしろいのは、次々にやってくる空き家の入居希望者とのやりとり。

2番目に来た仕立て屋は物腰がいんぎんで幸兵衛の気に入りかけるが、家族構成を聞くと男前の一人息子がいるという。

そこから幸兵衛得意の独壇場となって架空の話が次から次へと展開していき(長くなるので引用は省略)、結局、仕立て屋も追い返してしまいます。

このように、「風が吹けば桶屋が儲かる」のようにトントン展開されていくのですが、
聴いている側は、実現しそうもない推理の連鎖を気にもせず、テンポの速い変化を楽しんでいるようです。

でも、このストーリーの展開を支えているのは豊かな想像力ではないでしょうか。 

講釈師 見てきたような嘘を云い

江戸時代の有名な川柳です。

 


江戸小噺考

2006年09月15日 | 歴史

風が吹けば桶屋が儲かる」という江戸小噺をご存知でしょうか?
(注:原作には不適切な表現が含まれており、その表現の使用を極力避けるため修正したため、多少わかり難いかもしれません<(_ _)>)

大風が吹くとほこりがたつ
 ↓
ほこりが目に入って目を悪くする人が増える
 

三味線を弾く人が増える
 ↓
三味線の材料として猫の皮が必要
 ↓
猫が減ってネズミが増える
 ↓
ネズミが桶をかじる
 ↓
桶屋が儲かる

この小噺は、ほんの小さな事象が予想外の大きな影響をもたらすことから、経済や株式投資などにも使われ、相場の格言、お金に関する諺としても載っています。 

ところで、日本の外に目を向けてみると、これに似たものとしてバタフライ効果(butterfly effect)というのがありました。

“北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐がおこる
the notion that a butterfly stirring the air in Peking can transform storm systems next month in New York)

桶屋の話に戻って、これは因果関係の相当性の範囲内か、という論理性を求めるのはムリだと思いますね。 

当時の庶民は、人気のあった寄席の講釈のように、ダジャレやこじつけを好んで受け入れ、次から次へと論理が発展していく意外性を楽しんだのではないでしょうか。

何々とかけて、何と解く、その心は?

このなぞ解きは現在でも通用していますし、その少々強引なこじつけ、あるいは、その機知に富んだウィットで私たちの興味を大いに盛り上げていることに皆さんもお気づきでしょう(^_^)

 


法務省赤レンガ棟

2006年06月04日 | 歴史

普段は平日のみ公開の法務省赤レンガ棟が休日一般公開されます。

  2006年6月10日(土) 

  1245分(開場)~1730分(終了)

明治の雰囲気そのままの赤レンガ棟には、旧司法大臣官舎大食堂の復原室や、レンガ壁の残る部屋などがあり、

今回は、特別(メッセージギャラリー開設1周年記念)に、

法務史料展示室・メッセージギャラリー等が土曜日に開館されます。

さらには、赤レンガ棟についての講演、法務史料の説明、赤レンガ棟ツアー、フォトコンテストもあります。

 詳しくは⇒ 法務省赤レンガ棟一般公開

赤レンガ棟は、本当に歴史を感じる建物で、歴史好きのみならず、一度は見る価値があると思いますよ(^_^)

6月10日は、リーガル翻訳クラスの授業があるので、行かれないのが残念!