岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

宗教に対する無知、無視

2017-11-05 08:00:00 | 理崎 啓氏より学ぶ
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》

 同じ序で理崎氏は次のように、
 賢治はニートのようなダメ人間で、生涯親がかりを脱することができなかった、とするのは吉田司『宮沢賢治殺人事件』である。…(投稿者略)…賢治思想はファシズムだというのは山口泉『宮沢賢治伝』である。…(投稿者略)…
 山口や吉田には、批判の背景に宗教に対する蔑視があって、それが賢治の作品や思想を見る目をゆがめている、と筆者は思う。賢治論が他の作家に比べて誤謬が多い理由は、研究者の宗教に対する無知、無視があって、見当はずれの批判がなされてきたゆえである。当初はほとんどなかった賢治の宗教研究は、かなり進んできたが、今だに見当はずれな論評もある。膨大な資料を漁って微細な部分まで丁寧に読み込ん文学研究者が、宗教に関しては何の資料にも当たらず平気である。当たっても仏教辞典くらいで済ませている。何故、文学研究者は宗教を追究しないのか。
              〈『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)9p〉
と現状を嘆いていた。

 実際私も、吉田氏の、「賢治はニート」と揶揄するような言説等にはかつてはかなりの抵抗感があった。ところが去る4月11日に、NHKEテレで、
    先人たちの底力 知恵泉「宮沢賢治 ”好き”こそ苦しみと生きる道」
という番組があったのだが、出演していた斎藤環氏(ご存じのように、彼は精神科医であり批評家でもある)が、同番組で賢治のことを、
   賢治は変わった人で、引きこもり的、コミュニケーション下手、ニートであり、パラサイトだ。
などと断定していた。おっ、なかなかはっきり言うじゃないかと私は思ったのものの、外でもない斎藤氏は「社会的引きこもり」研究の第一人者ということを仄聞していたのでその発言にはかなり説得力があった。しかも、同氏は盛岡一高卒で賢治の後輩にあたるので、当然賢治についてはよく知っているはずだから、なおさらにであった。
 一方で、『デクノボー宮澤賢治の叫び』(山折哲雄×吉田司著、朝日新聞出版)において、山折氏は直感で数値を取り扱っていたが、吉田氏は客観的なデータに基づいて数字を取り扱っていることを知り、吉田氏はしっかりと検証をしたりした上で喋ったり、物を書いたりしているんだと、と感心したこともある。
 したがって、吉田氏の、「賢治はニート」という言は揶揄というよりは、正鵠を射ているのかもしれないと思っていたところだった

 それがこの度、理崎氏の「賢治論が他の作家に比べて誤謬が多い理由は、研究者の宗教に対する無知、無視があって、見当はずれの批判がなされてきたゆえである。」という警鐘を知り、宗教に無知な私はこれではならじと恥じた。そして、そのような私にはかなり困難な命題だが、少しは宗教のこと、とりわけ「羅須地人協会時代」の賢治と法華経のことを学ばねばならないと思った次第だ。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。



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