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《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
さて、賢治は大正10年1月23日に家出をして上京した。理崎氏によれば、 国柱会へ着いて、「家族を正しい信仰に導くために上京しました。ここで下足番でもビラ貼りでも何でもします」と申し入れた。高知尾智耀という幹部が対応に出て「使用人などは募集していない。まずどこかへ落ち付いてから相談に乗りましょう」と言った。
〈75p〉とやんわりと断られたという。それにしても私は思うのだが、この時賢治24歳で、今の言葉で言えばまさにニートでパラサイト状態にあったわけだから肩身が狭かったとはいえ、この家出の仕方はやはり不羈奔放な賢治の性向を如何なく発揮(?)していたと言えよう。どうも天才は熱しやすい(そして冷めやすい)と私は思っているのだがまさにそれが如実に現れていたと言えそうだ。
なおこの「断り」に対して賢治は、
「こんなことが何万遍あったって私の国柱会への感情は微塵もゆるぎはいたしません」
と記してはいるが、大いに失望したのは間違いない。
〈75p〉と記してはいるが、大いに失望したのは間違いない。
と理崎氏は感想を述べていた。そしてその後の賢治については、
賢治は、アルバイトをしながら国柱会に通い、童話を書いていった。…(投稿者略)…慌ただしい日々でも、嘉内への連絡は欠かさなかった。入会を迷っている嘉内に、1月30日の手紙で、「心はとにかく形だけでさうしてください。国柱会に入るのはまあ後にして形丈でいいのですから、仕方ないのですから」と記している。
〈77p〉ということだから、賢治は硬軟織り交ぜて嘉内を折伏していたのだろう。
そしてその後も賢治は折伏をし続け、国柱会への入会を勧めたというのだが、よく知られているように、とうとう大正10年の、
7月18日の嘉内日記には「晴/宮沢賢治/面会来」と記され、斜線で消されている。
〈82p〉ということになってしまった。そしてこれまたよく知られているように、その後の嘉内の日記は空白になっているということだから、嘉内は賢治と決別したということはもはや否定できない。
それにしても疑問に思うことは、何故折伏の相手が保阪嘉内だったのだろうかということだ。同じような立場の人物に小菅健吉や河本義行もいたはずなのに。すると考えられることは、この二人と保阪の大きな違いは退学させられなかったか、させられたかの違いだから、保阪が退学になった時の賢治の対応の仕方に賢治自身はその後ずっと負い目を引きずっていたということなのだろうか。
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なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
・「聖女の如き高瀬露」
・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。
・「聖女の如き高瀬露」
・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。
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