岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

保阪嘉内に対する折伏

2017-11-11 10:00:00 | 理崎 啓氏より学ぶ
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
 理崎氏によれば、例えば、
 嘉内が退学した時、賢治は、「今は摂受を行ずるときではなく折伏する時ださうです」と大正7年3月の書簡<*1>で述べている。
            〈64p〉
という。そしてその後もかなり強い調子で嘉内を折伏し続けていることが当時の書簡から読み取れる。
 さらに、例えば、
 「今度私は国柱会信行部に入会いたしました。即ち最早私の身命は日蓮聖人の御物です。従って今や私は田中智学先生の御命令の中に丈あるのです 謹んで此事を御知らせ致し 恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります」
 大正9年12月2日、賢治は入会を嘉内に報告した。
            〈70p〉
という。
 そしてこの、「日蓮聖人に従うのと同じように田中智学に服従します」という意味のことに関して、理崎氏は、
 智学は…(投稿者略)…、自分はいろいろ言われる凡夫だが、ここは絶対に服従してほしい、と話している。近代は批判しながら学ぶのが普通で、服従はおかしいと思うだろうが、そうしなければ仏教の本質を把握できないのだ。批判なら学び尽くしてからすべきだ、とも述べている
             〈71p〉
と説明していた。なるほど、それもあるかもしれないと私もある程度納得できた。一方、それゆえにこそ、賢治はひるむことなく保阪を折伏し続けたのだろう、と私は理解した。そして、それは保阪のことを思ってということもあったのだろうが、先に理崎氏が
 この時の賢治は単に仏教研究がしたかったのではない、これからの生き方を真剣に模索して、法華経の信仰とは何を実践するものなのか、を追究していたのである
述べていたことを紹介したが、それに続いて、
 法華経の実践とは「受持」、日蓮と同じ心で法華経を受持すること、と智学は指摘している。「同じ心」とは命を懸けて折伏することなのだという。
             〈62p〉
と述べていたことを思い出して、私はこれまたある程度納得した。それは賢治自身の「法華経の実践」だったのだと。

<*1:投稿者註> 〔大正7年3月4日前後〕保阪嘉内あて書簡49
    今は摂受を行ずるときではなく折伏を行ずるときださうです。
             <『新校本宮澤賢治全集第十五巻 書簡 本文篇』(筑摩書房)>

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。



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