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《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
昨日、ユニークな観点から鋭く賢治に切りこんでおられる研究家からお電話があり、そのお話しの中で『兄のトランク』にとても重要なことが書いてありますね、というサジェスチョンを頂いた。そこで早速再読しているのだが、現時点ではその方が言いたかったところは見つけられずにいる。ただそのお蔭で、それはどこに書いていてあったんだっけとずっと見つけられずにいた言説が同書で再発見できた。それがこれだ。 「農民藝術概論」の「世界がぜんたい幸福にならないうちは……」これを「世界全体が」と言う人がおりますが、これはいけないそうです。絶対ちがうそうです。「世界が全体」これを「世界全体が」とおっしゃる方がありましたら、どうぞ直してあげて下さい。それをひじょうに気にする人がありまして「世界全体がという奴は全然、賢治を知らない奴だ」と激しくいう人がありますから、こういう人をおこらせないように、あるいは口実を与えないように「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」というふうに直してください。
〈『兄のトランク』(宮沢清六著、ちくま文庫)222p~〉奇しくも昨日の投稿〝「縁起」と「ぜんたい幸福」〟において、「ぜんたい幸福」に関して次のようなことを、
なにしろ、まず「ぜんたい幸福」という用語の意味、定義がはっきりしていないからだ。「ぜんたい幸福」等という用語は私が持っている辞典には載っていないし、その他の辞典等でも私が探した限りではなさそうだ。…(略)…
いずれこの
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
については、「ぜんたい幸福」という用語がどんな意味を持つのか、あるいはどう定義されるかによって、その解釈や結論は百人百様にならざるを得ないと私は現時点では思っている。譬えてみれば、土台がしっかりしていないのにその上に建物を建てるようなものだと、私には思えてならないのである。
と述べたばかりであり、同時に「世界が全体」と「世界全体が」を峻別していた方があったがそれは誰だったっけと思い出せず頭の中がもやもやしていたところだったが、これがそれだった(のかもしれない)。いずれこの
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
については、「ぜんたい幸福」という用語がどんな意味を持つのか、あるいはどう定義されるかによって、その解釈や結論は百人百様にならざるを得ないと私は現時点では思っている。譬えてみれば、土台がしっかりしていないのにその上に建物を建てるようなものだと、私には思えてならないのである。
これで胸のつかえが取れたのだが、さりとて、清六が述べていることを納得できたわけではない。説得力もないし論理的でもないからである。「こういう人をおこらせないように、あるいは口実を与えないように「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」というふうに直してください」ということで済む話ではない。これでは単なる権威主義だからだ。
しかも清六は続けて、
「個人が幸福になれば世界が全体幸いになるんだから、それでいいのでしょう」というのは、たいへんちがうと思います。どうしてちがうかといいますと、世界という意味の考え方がちがうのです。賢治のいっているのは地球だけのことではないのです。宇宙全部、過去、現在、未来。あの「農民藝術概論」の場合は、まちがいなく、一番広義の世界をいっているわけです。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」ということは、「地球上の人間だけが幸福になっただけで、全部が幸福になるということではないのだ」という今の宇宙時代の始まり、公害時代の始まりを、すでに四十年、五十年前に書いていたのですから、私どもは、ひじょうにいいことをかいておいてくれたんだと思います。
〈『兄のトランク』(宮沢清六著、ちくま文庫)223p〉と述べているが、これは論理の飛躍であろう。「世界という意味の考え方がちがうのです」と断定的に言われても、それ以前に一番のスタート地点、大前提となる「ぜんたい幸福」という用語の意味がはっきりしていないのだから、まずこの意味をはっきりさせねばならないはずだ。なぜなら、この用語一般に広く使われているものでもなければ、テクニカルタームでもないからだ。したがって、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」について論ずるためには、この「ぜんたい幸福」を定義してから論ずることが不可欠だということである。
言い換えれば、現時点では国民的コンセンサスのない用語「ぜんたい幸福」を自分の頭の中で捉えていても、それを読者に説明もせずに「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」を蕩々と説明されても、それぞれいろいろな受け止め方はするだろうが、殆どの方が同じ様な受け止め方ができるかというと何等その保証がないことは自明。だから改めて言えば、この清六の主張は、土台がしっかりしていないのにその上に建物を建てるようなものだ、としか私には思えてならないのである。
というわけで、今回は脇道にそれてしまったが、次回からはまた元の道に戻りますのでお許し頂きた。
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なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
・「聖女の如き高瀬露」
・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。
・「聖女の如き高瀬露」
・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。
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